裏腹なリアリスト

篠原皐月

第14話 彼等の憂鬱

 傍目には全く動揺を見せずに口頭弁論をこなし、閉廷後、じりじりする気持ちを抑えながら笑顔で依頼人との会話も済ませて裁判所を出た淳は、通りかかったタクシーを止めて慌ただしく乗り込んだ。そして事務所の住所を運転手に告げてから、自分自身を落ち着かせつつ、マナーモードにしておいた携帯を取り出す。


「よし、取り敢えず事務所に戻りながら、お袋と秀明に連絡を……」
 そこでディスプレイに浮かび上がった文字の羅列を見て、淳は盛大に顔を引き攣らせた。
(何なんだ、この着信履歴と留守録の数は)
 連続しての母からの着信に、淳は早くも気が重くなったが、取り敢えず業務上の連絡事項の可能性もある、事務所からの留守録を再生してみる事にした。すると受け付け業務を担当している、聞き慣れた女性の声が耳に届く。


「小早川先生、各務です。先程、事務所にご両親がお見えになりました。先生に連絡が付かないが、大至急面会したいとの事でしたので、本日は法廷に出向いている旨を説明して、応接室で待って頂いています。閉廷してお手が空きましたら、連絡をお願いします」
 端的な報告を聞き終えた淳は、空いている手で顔を覆った。


「絶対、何か揉めたよな……。勘弁してくれ」
 思わず愚痴を零したものの、淳はすぐに気を取り直して職場の代表番号に電話をかけた。
「はい、榊総合弁護士事務所です」
「各務さん、小早川です。ご迷惑おかけしています」
 神妙に謝罪の言葉を口にすると、各務は年配の女性らしい落ち着いた声で、若干意外そうに言葉を返してきた。


「小早川先生、予定より早かったですね」
「はい。順調に進みましたので。それで両親は……」
「大人しく、第三応接室でお待ちです。そろそろお茶のお代わりを持って行こうと、思っていたところです」
 どこか笑いを堪える口調を感じ取り、淳は穴があったら入りたい心境になりながら確認を入れた。


「すみません。その……、何か言っていましたか?」
 すると心得た様に、各務が落ち着き払って答える。
「何やらお母様が興奮しておられて、『下品な成金風情に手玉に取られて』とか『恥知らずの女に騙されて情けない』とか、口走っていらっしゃいましたので、『ここは一応ご子息の職場ですので、ここでのご子息の立場を悪くしたり、変な憶測を呼ぶような発言は、慎まれた方が宜しいですよ?』とやんわり忠告しましたら、それ以降はおとなしくお待ちですから大丈夫ですよ?」
「重ね重ね、申し訳ありません」
 本気で淳が頭を下げると、電話の向こうからははっきりとした笑いを含んだ声が返ってきた。


「いえ、トラブルを未然に防ぐのも、私達の仕事ですから。それでご両親には、あとどれ位で先生が到着予定だと伝えれば良いでしょうか?」
「そうですね……、三十分位で戻れそうです」
 淳が、周囲の景色から事務所までの所要時間を素早く計算して伝えると、各務もいつもの口調に戻って会話を締め括った。


「分かりました。そうお伝えしておきます。それでは失礼します」
「宜しくお願いします」
 そして通話を終わらせた淳は項垂れたが、次に目に入った秀明からの着信記録を、嫌々ながら確認する事にした。


「もう、ろくでもない予感しかしない」
 ボソボソとそんな事を呟きながら、留守録を再生すると、わざとにも思える秀明の沈痛な声が聞こえてきた。
「淳、もの凄く残念な知らせがある。つい先程、家にお前の両親が押しかけたらしい。藤宮邸を監視警護している桜査警公社の担当者から、俺の所に連絡が入った」
「だろうな」
「添付されていた動画のタイトルが『般若会長、門前で塩をぶちまけるの図』だ。笑うに笑えん」
「ブラックジョークにもなってないぞ」
 思わず自棄になりながら、秀明の台詞に独り言で返していた淳だったが、次の台詞で顔を強張らせた。


「しかもその直後、美子から電話がかかってきてな」
「美子さんが、よほど怒りまくったか。一体、何があったんだ」
 そこで急に声がしなくなったと思ったら、低い押し殺した声で秀明が告げてくる。


「淳……。お前の両親、特に母親。この際、綺麗さっぱりこの世から抹殺したい」
「おい!?」
「と言うのは、半分冗談だが」
「じゃあ半分は本気なのかよ!?」
 頭では録音だとは分かっているものの、思わず淳は盛大に突っ込みを入れた。しかし淳の反応など全く気にしない口調で、秀明が淡々と話を纏めにかかる。


「取り敢えずお前と繋がっていると、俺が美子に捨てられかねないから、暫く連絡してくるな。俺もこれ以降は、お前から受けないし返さん。それじゃあ元気でな。少々不憫だから、幸運だけは祈ってやる」
「おい、秀明!」
 しかし無情にも再生が終わったデータは無機質な電子音を伝えるのみで、淳の呼びかけに答える筈も無かった。


「は、はは……。完璧無視かよ。この調子じゃ、藤宮さんの方も駄目だろうな……」
 事ここに至って淳は昌典に連絡を取る事も、母親からの留守録を聞く事も諦め、座席の背もたれに身体を預けて、タクシーが事務所前に到着するまで短い仮眠を取った。


「各務さん、戻りました」
「お帰りなさい、小早川先生。統括部長には一仕事してから報告に伺うと話をしておきますから、まず第三応接室に」
「お手数おかけします」
 先程告げた到着予定時間通りに事務所の入り口に姿を現した淳を見て、彼が就職した時には既にベテランの域に達していた各務は、笑顔で頷いて応接スペースの方を指し示した。それを見て(この人には益々頭が上がらないな)と感謝しつつ、鞄を片手に真っ直ぐ第三応接室へと向かう。


「失礼します」
 一応ノックをしてから、四畳半程のスペースに入室すると、出入り口の向こう側に設置されたソファーに収まっていた良子が、勢い良く立ち上がりながら怒りの声を上げた。
「淳! あんた一体!」
「良子! 受付の人にも言われただろう。淳の職場で騒ぎを起こすな!」
「だけど!」
 怒りで顔を赤くしている母親と、それを押し止める父親を冷めた目で眺めながら、淳は手前のソファーに腰を下ろした。そして冷え切った声で確認を入れる。


「取り敢えずどうして何の断りも相談も無く、二人揃って東京に出て来たのか、きちんと聞かせて貰いたいんだが?」
 久しぶりに顔を合わせた息子の、その不機嫌さぶりが分かった良子は、益々気分を害した様に言い返した。


「何なの? その態度は。こっちは縁から、あんたが困ってるって聞いて」
「俺は何も頼んでないが? 大体、俺が実家を出てから、自分の手に余る事で、あんたらを頼った事が一度でもあったか?」
「それは無いな。お前は万事そつが無いし。だから逆に、結婚に関して揉めてると聞いて気になってな。それも原因の一つが、うちの事だと聞いたから尚更」
 真顔で断言した父親に、悪気が皆無なのは理解できた為、淳は思わず呻いてしまった。


「それは分かるが……、それなら尚の事、事前に俺に連絡して欲しかったぞ」
「確かにそうだな。すまん、反省している」
「いや、親父に悪気は無いのは分かってるし」
 神妙に頭を下げた父親を宥めようとした淳だったが、その空気を良子の金切り声が切り裂いた。


「なんであなたが謝るのよっ! 散々失礼な事を言われたのはこちらなのよ!? 第一、淳! あなた、あんな汚らわしい本のモデルにされて平気なの? あなたは弁護士なのよ? さっさと名誉毀損で訴えなさい!」
「……あの本の事を聞いたのか」
 思わず渋面になった淳に、潔が補足説明してくる。
「美子さんが現物を見せてくれた。この様に商業デビューしているから、美実さんと子供の生活に関しては心配要らないと」
「そうか……」
 そこで深々と溜め息を吐いた淳だったが、それを煮え切らない態度と見てとったのか、良子は更に声を荒げた。


「淳、聞いてるの? あんな恥知らずの金に汚い成金風情に良い様に利用されて、恥ずかしいと思わないわけ!?」
 それを聞いた淳は、母親に鋭い視線を向けた。
「まさか、そんな事を面と向かって言ったわけじゃないだろうな?」
「言ったわよ! だって本当の事でしょう? 向こうはこっちの事をダラダラ続いてるだけの二流旅館の女将風情とか、猿山の大将呼ばわりしたのよ!?」
 しかし憤慨しながらの良子の訴えに対して、淳は逆に怒鳴り返す。


「会う約束も取り付けずに押し掛けた挙句、喚き散らす様な真似をしたら、それ位言われて当然だろうが! 第一、藤宮家は二百年以上続いている旧家だぞ? しかも成金なんてとんでもない。現当主は戦前から幅広く事業を展開している旭日食品社長兼、旭日ホールディングス会長だし、旭日グループ内の要職は、かなりの割合で近親者が占めている位だ」
「え?」
「そうなのか? お前、そんな事全然言って無かったし」
 揃って当惑する両親に向かって、淳は盛大に舌打ちした。


「美実とは直接関係が無いし、一々言う必要は無いだろう? 第一、俺は美実が良い家のお嬢様だからって、近付いたわけでも無いからな」
 腹立たしげに告げた淳に対し、良子はまだ面白く無さそうにケチを付ける。
「……それでも、あんな本を平然と書かせているなんて、常識を疑うわ」
「約束も取り付けずに、全く面識の無い家に押し掛けるのは、常識的な行動なのか?」
「淳! あなたどっちの味方なの!?」
 冷静に指摘されて腹を立てた良子が非難の声を上げたが、淳は落ち着き払って言い返した。


「俺は社会通念上の問題を口にしているだけだ。それに留守録では『結婚を認めてあげる』とか言ってたが、そんな上から目線で言われたら、美子さんが『何様のつもりだ』とせせら笑う事確実だ。若い女にそんな扱いをされて、頭に血が上って醜態を晒したのか。確かに二流旅館の女将風情と言われても、文句は言えないな」
「淳! あんた自分の親を笑い物にする気?」
「少なくともお袋がここで喚き立てなければ、俺が若干問題のある話のモデルだと、職場で噂になる可能性は皆無だったんだがな。これ以上余計な事を喚くと、あんたを業務上妨害で訴えるぞ」
「なっ!? あんた、実の親を訴える気!?」
 息子の口から告げられたとんでもない内容を聞いて、良子は思わずソファーから立ち上がって叫んだ。しかし淳は微塵も動揺せず、淡々と最後通牒を告げる。


「これ以上考え無しな行動をすると、そうするって事だ。今回だけは大目に見てやる」
「それが親に対して言う言葉!? この親不孝者!」
「おい、良子!」
 良子が勢い良く払った右手は、かなりの勢いで淳の左頬を打つかと思われたが、慌てて潔が手を押さえるまでも無く、淳が素早く顔の横でその手を捕らえた。そして感情のこもっていない、淡々とした口調で告げる。


「悪いな。親を殴るつもりは無いが、黙って殴られる気も無いんだ。……それで? 気は済んだのか? だったら未来永劫、俺に構わないで欲しいんだが。勿論、美実や藤宮家にもだ」
 そこで良子は淳の手を振り払い、捨て台詞を吐いて足音荒くドアに向かって歩き出す。


「誰が、あんな家の人間と関わり合いになりたいものですか! あんたも野垂れ死のうが何をしようが、もう知った事じゃ無いわ!!」
「そうしてくれ」
「悪かった、淳。落ち着いたら連絡する」
「ああ」
 慌てて後を追う父親に、力無く笑ってみせた淳は、二人の姿がドアの向こうに消えると同時に、両手で顔を覆って呻き声を上げた。


「……やってくれた」
 そのまま無言で項垂れていると、軽いノックに続いて、丸盆を持った各務がドアを開けて入って来た。
「小早川先生、大丈夫ですか?」
「はい、お騒がせしました、各務さん」
 慌てて顔を上げて応じた淳だったが、そこで目の前のローテーブルに湯飲みを一つ置かれて、戸惑った顔になった。反射的に問いかける視線を向けると、先程良子達に出した茶碗を二つ回収しながら、各務が笑顔で説明する。


「これはご両親に持って来たわけでは無くて、先生の分です。これで幾らか気持ちを落ち着かせてから、統括部長に今日の首尾を報告された方が良いかと」
「ありがとうございます。頂きます」
 各務の気遣いを感じ取った淳は、素直に頭を下げて湯飲みを取り上げた。そして一気に飲めるように温めにしてあるお茶を飲み干して、自分が思っていた以上に怒り、緊張していた事に気付かされる。と同時に平常心を取り戻した淳は、心からの感謝の言葉を口にした。


「大変美味しかったです。ありがとうございます」
「どういたしまして。色々頑張って下さいね」
 そう言って小さく笑った各務を見て、淳は(美子さん並みに侮れない女性だな)などと考える余裕すら取り戻し、上司に裁判所での首尾を報告するべく、応接室を出て歩き始めたのだった。




 その日の夜、帰宅した秀明は、一階で義妹達から美子が夕食も食べずに既に休んでいる事を聞き、彼女達を心配しない様に宥めてから、様子を見る為に二階へと向かった。
 夫婦で使っている二間続きの部屋に入ると、確かに手前の部屋には人影は無く、秀明は鞄を置いて静かに奥の寝室に入ってみる。


「美子? 寝てるのか?」
 ベッドに歩み寄りながら控え目に声をかけてみると、熟睡はしていなかったのか、美子がゆっくりと起き上がった。
「お帰りなさい。出迎えなくて、ごめんなさい」
 そんな事を神妙に言われた秀明は、ベッドの端に腰かけながら笑い飛ばした。


「構わないさ。近年、稀に見るブス顔だ。お前がそんな顔で皆の前に出たら、この家の全員が動揺する」
「……酷い言われようね」
 確かに泣き腫らしたみっともない顔だとは自覚していたものの、面と向かって指摘されて面白い筈も無く、美子は顔を顰めた。しかしその反応が面白かったのか、秀明は益々楽しそうに話を続ける。


「事実だろうが。俺の奥さんは泰然自若に見えて、実は結構負けず嫌いな上、やせ我慢が好きだからな」
「分かっているなら放っておいて」
「そうはいくか。勤務中と分かってて、わざわざ電話をかけてくるなんて、何事かと思ったぞ」
 クスクスと笑いながらさり気無く自分の左手を取り、薄暗い照明の下で見下ろしてきた夫を見て、美子は憮然とした表情になった。そしていつの間にか黙り込んでいた秀明が、小さく溜め息を吐いたと思ったら、真顔で言い聞かせてくる。


「全く……。明日になっても痛む様なら、外科で診て貰えよ?」
「そうするわ。明日の朝には、普通に起きるから」
「ああ、取り敢えず、大丈夫そうだな。今夜はゆっくり休め」
 そして再び横になった美子を眺めてから、秀明はスーツから私服に着替え、夕飯を食べる為に一階へと下りて行った。そして食堂に入ると、秀明が二階に行っている間に彼の分の夕食をテーブルに揃えていてくれた美野が、心配そうに声をかけてくる。


「お義兄さん。美子姉さんの様子はどうでしたか?」
「ちょっと色々精神的に疲れただけで、今日ぐっすり休めば明日は大丈夫だろう。手の怪我も大した事は無さそうだし、心配要らないさ」
 そう断言したのを聞いて、彼女は明らかに安堵した顔付きになった。
「そうですか。じゃあ用意ができましたから、食べて下さい」
「ああ、ありがとう」
 そして秀明は広い食堂で、(本当に面倒な事になったな)と内心で愚痴りながら、一人で夕飯を食べ始めた。
 それから十分程して昌典も帰宅したが、いつも出迎える筈の美子の姿が無い事に困惑した表情になった。


「戻ったぞ。美子は?」
 居間に入ったものの、そこにも姿が無かった美子について尋ねると、食堂から戻っていた美野が、ソファーから立ち上がりながら理由を説明した。


「あ、お帰りなさい、お父さん。美子姉さんは少し体調が優れないから、お夕飯は私が作ったの。今出すから、ちょっと待ってて」
「そうなのか? 分かった。頼む」
 しかしどことなくその場を逃げ出す様な素振りの美野を見て、昌典は僅かに顔を顰め、ソファーに座って安曇を抱えてあやしていた美恵に声をかけた。


「美恵。美子は病院にでも行ったのか?」
「そういうわけじゃ無いから安心して。姉さんの事だから、明日にはいつも通りになってるわよ」
 美子以上に藤宮家の一員である事に誇りを持っている父親に対して、美実も美子も口を割らない為詳細は分からないながらも、かなりの確率でこの家の事を罵倒された事など間違っても口にできるかと、康太と妹達に口止めした美恵はしらを切ったが、その微妙な雰囲気を察せられない昌典では無く、僅かに目を細めて詰問した。


「……今日、何があった?」
「別に。何も?」
 そこで昌典は冷や汗を流しながらも辛うじて笑みを浮かべた美恵から、その隣にいた康太に視線を移した。
「谷垣君?」
 しかし探検家だけに康太の肝の据わり方は半端ではなく、平然と義父に微笑み返す。


「俺が出版社に出向いている間に、お客が来たらしいですが、これといって変わった事は無かったと思いますが?」
「ほう? そうか。客が……」
 これ以上問い質しても口を割らない事は分かり切っていた為、(この男といい秀明といい、食えん奴ばかりだ)と義理の息子達に内心で舌打ちしていると、ドアを開けて美幸に連れられた美樹が居間に入って来た。


「あ、お父さん、お帰りなさい」
「おじーちゃん、おかえり~」
「おう、美樹。良い子にしてたか?」
「うん!」
「今日来たお客様にも、きちんと挨拶したか?」
 孫娘に出迎えられて相好を崩した昌典にホッとしたのもつかの間、笑顔のまま美樹に誘導尋問を繰り出したのを見て、美恵は肝を冷やした。そんな叔母の心境など全く知らない風情で、美樹が笑顔で頷く。


「うん! こんに~ちゃ、って」
「そうかそうか。それで? どんなお客だった?」
「あのね? おきゃくで、おちゃで、さよーなら、だよ?」
 にこにこと美樹が告げた内容を聞いて、昌典は微妙に顔を歪めて再度尋ねた。


「美樹。どういうお客だったのかな?」
「おきゃくで、おちゃで、さよーなら、なの!」
「……分かった。もう良い」
 美野の完璧な指導で美樹からの情報収集を断たれた昌典は、諦めて屈めていた身体を起こした。そして会話に区切りがついたのを見た美幸が、声をかける。


「じゃあ、美樹ちゃん。おじいちゃんにご挨拶したし、お風呂に入ろうか」
「うん。おじーちゃん、おやすみです!」
「ああ、おやすみ」
 そしてドアから出て行った二人の後を追うように、昌典も食堂に向かってから、美恵は安堵して胸を撫で下ろしたのだった。


「秀明……。帰っていたか。何やら美子が、体調が良くないとか言っているようだが」
 食堂に入ると秀明が一人で夕食を食べていた為、昌典は自分の席に着きながら声をかけた。それに対し、箸の動きを止めた秀明が、笑顔で言葉を返す。


「ええ、食べ始める前に、様子を見て来ました。大した事は無さそうですので、一晩ぐっすり休めば明日は大丈夫でしょう」
「それなら良いが……」
 そして昌典の分の料理を揃えた美野が食堂から出て行くのと同時に、昌典は鋭い視線を義理の息子に向けた。


「美子の調子が悪いのは、日中来たらしい客のせいだな?」
 しかし秀明はその視線に全く動じる事無く、食べる合間に答える。
「何の事を仰っておられるのか。確かに客人は来たらしいですが」
 美恵達と意思統一をするまでも無く、美子から電話で粗方の事情を聞いていた秀明は、詳細を話した場合に激怒する事確実な義父に対して、一言たりとも真実を漏らす気は無かった。しかし昌典は益々目つきを険しくして、問い質してくる。


「誰が来て、何があった?」
「お義父さん、申し訳ありません。俺はその時、就業時間の真っ最中だったもので。家の中の事まで、知る由もありません」
 しかし一見真っ当な主張に思えるそれを、昌典は鼻で笑い飛ばした。


「まさか本気で言っているわけではないだろうな? 我が家に係わる事で、お前が把握していない事など、あるわけないだろうが」
「それは買い被り過ぎです、お義父さん」
 互いに薄ら笑いを浮かべながら、睨み合う事暫し。昌典は溜め息を吐いてから話題を変えた。


「まあ、良い。一つ、お前の意見を聞きたい事がある」
「何でしょう?」
「実は今日の日中、社長室で小早川君と会ってな」
「……え?」
 話題が変わった事で安堵したのも束の間、予想外の事を言われた秀明は、本気で一瞬固まった。そんな彼の様子を探る様に眺めつつ、昌典が意見を求めてくる。


「彼も悪意とか悪気は無かったわけだから、この際美子を説得して、きちんと二人の話し合いの場を設けようかと思うのだが」
 しかし昨日までならともかく、今の美子が素直に昌典の説得に耳を傾けるとは思えなかった秀明は、若干動揺しながら控え目に反論してみた。
「全面的に賛成ですが……、実行に移すまで少し時間を空けた方が良いかと」
「ほぅ? お前がそう言うとは思わなかったな」
 少々わざとらしく応じてから、昌典はサクッと切り込んできた。


「今日ここに出向いたのは、彼に関係する人間か?」
「さぁ……、それは存じませんが」
 表面的には淡々と、しかし内心では義父の洞察力の鋭さに感心しながら秀明が応じると、昌典はあっさりと話を終わらせた。


「分かった。今の話は当面保留だ。美子にも言わないでおく。それで構わないな?」
「はい」
 それから昌典は食べる事に集中し、食べ終えた食器を手に隣接する台所に向かった秀明は、あまりの間の悪さに頭痛を覚えたのだった。



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