猪娘の躍動人生

篠原皐月

6月 二兎を追うなら…

 その日、瀬上が出勤すると、彼の職場では部下が異様な行動をしていた。
「ええと、次はNだから……。こうだな!」
 何故か蜂谷が、机の列の間に敷いたヨガマットの上に両手両膝を付き、更に膝から下を嬉々として天井に向かって上げると言う、訳の分からない姿を目にしてしまった瀬上は、すぐ側の机にいた高須に尋ねた。


「おはよう。蜂谷君が朝から何をやっているのか、高須君は分かるかな?」
 その問いに、高須は挨拶をしてから真面目に答えた。
「おはようございます。係長は昨日は商談先から直帰でしたから、ご存知なかったんですね。昨日、藤宮が余計な事を言いまして」
「だってあんな話を真に受けるだなんて、普通思わないじゃ無いですか! 嫌みのつもりだったのに!」
「何があったんだ?」
 淡々としている彼の隣から、美幸が心外そうに声を上げた為、瀬上は益々要領を得ない顔つきになった。すると高須が、詳細について触れる。


「例のコンペ資料ですが、蜂谷が課長代理に宣言した通り、無造作に全文を翻訳ソフトに入力して、試してみたそうです」
「でもどうしても、日本語の言い回しとしては変だったり、意味が通じない誤訳があちこちに出たらしくて」
「それはそうだろうな。無謀過ぎる」
 思わず頷いた瀬上だったが、話は予想外の方向に転がった。


「その結果の用紙を見ながら、『この機会にしっかり英語を覚えたいから、英会話スクールにでも通おうか』と真顔で呟いていた蜂谷に向かって、藤宮が『あんたがスクール通いなんて、お金と時間の無駄よ。あんたは頭じゃなくて身体で覚えるタイプだって、この前、課長代理も言ってたじゃない。変に考えるより、人文字でアルファベットを作りながら単語を覚えてみたら? 意外に一発で頭に入るかもよ?』とか無責任で適当な事を……」
「『expansion』は……、拡張。よし、覚えた」
 呆れ顔で解説した高須から蜂谷に視線を移した瀬上は、そこで満足げに電子辞書で確認している彼の姿を認めた。すると背後から、押し殺した呻き声が聞こえる。


「そうしたら……。昨日からあんな調子で、奴は三十個以上の単語を、確実に覚えてきてるんです」
「……本当に?」
 もの凄く懐疑的な表情で瀬上が振り返ると、真剣極まりない顔の美幸と目が合った。
「冗談でこんな事、言えませんから。本当に底無しの馬鹿って、底が知れなくて怖い……。このままだと、いつかあいつに追い越される……。そっ、そんなの嫌あぁぁっ!!」
「藤宮さん!?」
 急にテンパったらしい美幸が瀬上にいきなり組み付いて訴えたが、動揺する瀬上とは対照的に、高須がすこぶる冷静に彼女を引き剥がして言い聞かせた。


「落ち着け。錯乱するな、藤宮」
「でっ、でもっ!」
「お前には奴に勝るスキルを、幾つも持っているだろうが。一朝一夕に追い越される筈は無いだろう。仮に、奴がこれから実力をつけていくにしても、それまでにお前が奴とは比べ物にならない位の、実績を上げておけば良いだけの話だ」
「は、はい……。分かりました。……そうですよね。動揺しちゃだめよ、美幸。冷静に、冷静に……」
 そして美幸が自分自身に言い聞かせながら、元通り自分の椅子に座ってから、高須は瀬上に詫びを入れた。


「朝からお騒がせしてすみません」
「うん、それは良いんだが……。高須君は随分、落ち着いているね」
「俺はもう、ここに配属になって四年目になってますから。強烈過ぎる上司や先輩方に囲まれて、色々な意味で慣れました」
「……そうか」
 妙に達観した表情の彼に、瀬上は咄嗟にかける言葉が思い付かずに、曖昧に頷く。すると高須が平然と、少し離れた所に居る蜂谷に声をかけた。


「蜂谷。そろそろ始業時間になるから、そのヨガマットを片付けろ。他の人の通行の邪魔だ。後は帰宅してからやれ」
「はい、高須先輩! 今すぐ片付けます!」
 すかさず笑顔でヨガマットを丸め始めた蜂谷を見て、瀬上は思わず「俺は本当に、二課ここでやっていけるんだろうか……」と、額を押さえながら真剣に悩んでしまった。




「久しぶり。ここ、良いかしら?」
「仲原さん! どうぞ、誰も来ませんから、ご遠慮なく」
「ありがとう」
 異動してから暫くぶりに社員食堂で顔を合わせた理彩に、美幸は笑顔で頷いた。そして美幸の正面の席に座ると、理彩が食べ始めながら、さり気なく話題を出してくる。


「孝太郎から聞いたわよ、課内コンペの話。どう? 準備は進んでる?」
「それなりに。期限迄には仕上がりますから」
「そう。頑張ってね」
「ところで仲原さんの方はどうなんですか? 古巣に戻った形になりますから、それほど戸惑う事は無いかとは思いますが」
 昇進して係長待遇になっているとは言え、かつて理彩が所属していた部署であり、美幸は城崎程は心配はしていなかったものの、一応尋ねてみた。するとやはり、彼女は明るく笑って答える。


「まあね、業務内容は一通り把握しているし、それにこっちの方が、しょうに合っていると思うから」
 それを聞いた美幸は、若干引っかかりを覚えた。
「でも仲原さんは、二課に移ってきた時、入社当時から営業系の仕事をやってみたかったって言ってませんでした?」
「そうよ。だからやりたいと思っていた仕事が加算系の仕事で、自分に向いていると思った仕事が減点系の仕事だったわけ」
「どういう意味ですか?」
 益々話が逸れた上に分からなくなってきた様に感じた美幸は、首をひねったが、理彩は苦笑いの表情になって続けた。


「極端な例えになると思うけど、社内で営業とか研究開発とかの部署は、目に見える成果を出せなければいけないでしょう? その反面成功すれば、それまでの失敗も帳消しになるじゃない?」
「それはそうですよね」
「だけど例えば経理とか人事とかの部署では、ミスをせずに完璧に仕事をこなして当たり前。それができなかったら、評価が下がるじゃない?」
「ああ、なるほど。それで営業や研究を加算系と考えると、経理や人事が減点系の仕事になるわけですね」
「そうね。業種で言うと生産や販売とかは加算系で、医療や公務員とかは減点系とも言えるかもしれないけど。だからやりたいと思っていた営業系に携わらせて貰ったんだから、また一度総務の仕事に取り組む事に、それほど拒否感は無いのよ。どんなに辛くてもやりたい仕事だったり、どんなにつまらなくても自分に向いている仕事だと思えば、それなりに続けられるものじゃない?」
 そこで美幸は、微妙に眉根を寄せながら応じた。


「……逆に言えば、嫌いで自分に向かない仕事は、するものじゃないって事でしょうか」
「同感。その他に、実は異動の話が持ち上がった時、課長代理からついでのように、言われた事があるのよ」
「何を言われたんですか……」
 はっきり渋面になった美幸を見て、理彩は苦笑いの表情になりながら説明した。


「総務から各部署に、事務処理専門の人員として、かなりの人数を配置しているのよ。だから総務は、社内全体の動向を把握し易いって利点が有るの。やり取りもそれなりに多いから、顔見知りになりやすいし」
「そう言えば、私に最初に絡んだ時に、お友達が他部署に渡ってましたね。仲原さんの付き合いが広いんだなあと、その時思いましたが」
「あの時の事を、蒸し返さないで貰える? 自分でも大人げなかったと反省してるし」
「失礼しました」
 そこでほんの少しだけ、理彩が嫌そうな顔になったものの、冷静に話を進めた。


「とにかく、そんな部署だから『社内での情報網をもう一度しっかり構築して、有益な人材と判断されたら、何年か後にはまた真澄が引っ張る予定だからな』と、薄笑いで言われたわ」
「……課長だったら、そうしますよね」
 完全に納得して美幸が力強く頷くと、理彩が急に真顔になって訴えてくる。


「それで話を戻すけど、そんな抜け目がない柏木課長が、今回の課内コンペに関わっていない筈が無いと思うの。それなのに孝太郎から聞いた限りでも、ちょっと変じゃないかしら? 社内コンペで確実に勝ちに行くなら、普通は若手じゃなくてベテランの人達に任せるわよね?」
 その疑問は当初から自分も抱えていたものだった為、返す美幸の口調も戸惑いながらの物になった。


「それは……、確かに私もそう思いましたが。若手にチャンスを与えるとか言ってましたし……」
「やっぱり、そうなのかしら。でも、なんとなく引っかかるのよね」
(うん、確かにそうなのよ。この前から、なんかモヤモヤしてて。課長がそうそう、課長代理の好き勝手にさせないと思うのに)
 すっきりしない表情で理彩が食事を再開するのを見ながら、美幸も密かに考え込んだ。しかしすぐに、理彩が明るく励ましてくる。


「まあ、とにかく初コンペ頑張って。少なくとも、蜂谷君に劣る評価だったら、目も当てられ無いわよ?」
「ちょっと仲原さん! それ侮辱ですから!」
「あら、だって『蜂谷に追い越される!』って喚いてたんでしょう?」
「あれは一時の気の迷いです! 絶対に負けたりしません!」
 くすくす笑いながら指摘してくる理彩に憤慨してみせながらも、食べ終わった時に美幸は、妙にすっきりした気分で理彩と別れて、職場に戻る事ができた。




「お先に失礼します」
「お疲れ様」
 終業時間を若干過ぎてから、腰を上げた由香を見送った美幸は、訝しげな表情で隣の高須に囁いた。


「渋谷さん、今日は随分早く上がりましたね。ここ暫くは、残業続きだったのに」
「お前だって、他人の事は言えないだろう? 通常業務を終わらせてから、例のコンペの資料作りをしてるじゃないか」
 あっさりと言い返された美幸だったが、なんとなく釈然としない物を感じて食い下がる。


「それは確かにそうですが……。でも彼女、今日は何だか、朝から様子が変じゃありませんでした?」
「変ってどこが」
「いえ、何となくですが……」
「仕事が溜まって疲れてるんだろう? お前も偶には、早く帰った方が良いぞ」
「はぁ……」
 確かにここ暫くコンペの準備で残業続きだった美幸は、曖昧に頷いたが、(でも、仲原さんの言葉じゃないけど、何か妙に引っかかるのよね……)と疑問に思いながら、由香が出て行ったドアをぼんやりと眺めた。


 一方、美幸から不審がられていた由香は、職場を出てから真っ直ぐ帰宅はせず、自社ビルから程近くのカフェに向かった。予め打ち合わせしていた時間から二分程が経過しており、相手が既に来店していたのを認めて、頭を下げる。


「お待たせしました」
「お疲れ様。大して待ってはいないから、気にしないで。きちんと定時に上がれる方が少ない事は分かっているわ」
 待ち構えていた彼女の名目上の上司である真澄は、嫣然と微笑みながら手振りで自分の向かい側の椅子を勧めた。由香は当然の如くそこに座り、やってきた店員に注文を伝えてから、真澄に向き直って尋ねる。


「それで、今日私を呼び出した理由を、お伺いしたいのですが」
「そうね。私も子供達を母に預けてきているから、そんなにのんびりできないし、さっさと話を進めましょう。これよ」
 そこで傍らに置いてあったビジネスバッグの中から、真澄はA4サイズの封筒を取り出して、由香に向かって差し出した。微妙に厚さがあるそれを、一応受け取った由香が、訝し気に問いを重ねる。
「何ですか?」
「中を確認してくれる?」
 相変わらずにこやかに笑っている真澄を見て、由香は微妙に嫌そうな顔つきになったものの、黙ってその指示に従った。そして封筒を引き寄せて中から書類の束を半分程引き出し、パラパラと内容を確認し始めた由香だったが、すぐに驚愕の表情になる。


「……これは!? どういう事ですか? まさか、中に入っているUSBメモリーも!?」
「あら。まさか見ても分からないなんて、面白い事を言わないわよね?」
「分かったから、聞いているんです。一体、何のつもりですか?」
 血相を変えて問い質した由香だったが、真澄は笑みを消さないまま、事も無げに話を進めた。


「『何のつもり』って……、あなたに好きに使って貰おうと思って、持って来たのよ。お気に召さなかったかしら?」
「ふざけているんですか? それとも、夫婦揃って私をからかう気ですか?」
「別に、私には部下をからかって楽しむ趣味は無いわ。巷にはそういう人間が、いるのかもしれないけどね」
「…………」
 皮肉っぽく応じた真澄に、何やら思い当たる筋があるのか、由香は黙り込んだ。ここで漸く笑みを消した真澄が、淡々と事務的に伝える。


「因みに、この事は清人も承知の上だし、二課の他の人達には漏らさない事は確認済みよ」
「意味が分かりません。こんな事をして、あなたと課長代理にどんなメリットがあるって言うんですか」
 封筒の中に元通り書類をしまい込みながら、本気で困惑している由香に、真澄はわざとらしく首を傾げてみせた。
「メリット? 十分有るけど、分からない? それならおまけに教えてあげましょうか? 渋谷さんは二課に移ってまだ日が浅いから、色々分からない事も多いでしょうし」
「結構です!」
 反射的に声を荒げて断った由香に、真澄が素っ気なく答える。


「あら、そう。私としては、あなたがそれを使っても使わなくても、どちらでも構わないのよ。どちらにしても、それぞれ違ったメリットが生じますからね。私のモットーは『二兎を追うなら、三兎を穫る』なの」
「何なんですか、それは……」
「とにかく、そういう事だから。話は終わったから、失礼させて貰うわ」
「え? ちょっと待って下さい、これはどうするんですか!?」
 ここで真澄がビジネスバッグを手に提げて立ち上がった為、半ば茫然としていた由香は慌てて引き止めようとした。しかし真澄はそんな相手の様子など全く気にせずに、さっさと歩き出す。


「だから好きにしなさい。有効利用するも良し、ゴミ箱に直行させるも良し。私がそれをあなたに渡した事は清人以外に誰も知らないし、漏らすつもりも無いわ。私の分は、これで払って頂戴。それじゃあ、頑張ってね」
「柏木課長!」
「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」
 テーブルに千円札を一枚置きながら歩き出した彼女と入れ違いに、店員が由香の注文品を運んで来て伝票を置いていった為、由香はその場を動く事が出来ずに、真澄をそのまま見送ってしまった。


「何なの? 一体私に、どうしろって言うのよ……。夫婦揃って、全然意味が分からないわ……」
 取り敢えず椅子に座って、先程渡された封筒を暫く凝視しながら、暫く困惑していた由香は、結果として冷め切った珈琲を飲む羽目になった。




「どうだ? 例のコンペの準備の方は進んでいるか?」
 世間話もそこそこに、電話越しに城崎から心配そうに問われた美幸は、明るい口調で答えた。
「はい、それなりに。分からない所は土岐田さんや清瀬さんにも聞いています。やっぱり場慣れしている方じゃないと、気がつかない点も多いですから」
「そうか。今回は競合する相手が相手だからな。どう転ぶか、却って予測が付かないし」
「ええ。今回、初めて蜂谷に対して恐怖を覚えました。追われる立場って、なかなかプレッシャーがありますね」
「蜂谷がどうかしたのか?」
 忽ち怪訝な口調で尋ねてきた城崎に、美幸はついからかうつもりで口にした内容と、結果について語った。それを聞き終えた城崎から、呆れとも感嘆とも判別できない声が返ってくる。


「……確かにあいつは、頭より体で覚えるタイプかもな」
「それを自覚させてしまっただなんて……、何か悔しい……」
 美幸が思わず愚痴っぽく呟くと、城崎が苦笑交じりに宥めてきた。


「後輩が伸びるのは、良い事だと思うぞ? それにさっき言っていたプレッシャー云々に関して言えば、渋谷さんの方が確実に大きいだろうし」
「え? どうしてですか?」
「今回課長代理に指名された四人の中では一番年長だが、これまでにそれほど実績を上げていないだろうし、二課に移ってきたばかりだし。ここで下手なコンペはできないだろう?」
 そう指摘されて、美幸は納得しながら頷いた。


「そう言われてみれば……。最近仕事中、結構険しい顔をしてるかも」
「そうだろうな。因みに彼女は、二課の他の人達に意見を聞いているかどうか分かるか?」
「それは……、残業時間を含めて、例のコンペに関して誰かに助言を求めている気配は、分かる範囲では皆無なんですが……」
 念の為思い返してみた美幸だったが、そんな姿は見てはいないし、他の人間もそんな事は言ってなかった事を再確認していると、電話越しに城崎が溜め息を吐いた気配が伝わってきた。


「そうか。ひょっとしたら課長代理は、彼女と他のベテランの課員達との間で、自然に交流を増やす為に、今回の事を計画したのかとも考えていたんだが……」
 少々残念そうに言われた為、美幸は素直に頷いてから、全面的に否定した。


「なるほど。そういう考え方もあったんですね。でも、あの中途半端にプライドを持っている人が、素直に他人に頭を下げて教えを請うとは思えませんが。特に内心で馬鹿にしている、二課の人間に向かって」
「それができたら、少しは成長できると思うんだが。美幸から見て、それは難しいか」
「難しいと言うか、ありえません!」
「そこまで断言するな」
 きっぱりと言い切った彼女に、城崎が苦笑する。ここで美幸は、以前に頼まれていた事を思い出した。


「あ、そう言えば六月に入りましたし、暑くなる前にそろそろ夏物をそっちに送りますか?」
「ああ、そうしてくれたらありがたいな。じゃあ送って欲しい物と、それがどこにしまってあるかを詳細に書いて鍵と一緒に送るから、時間のある時に送ってくれないか?」
「分かりました、任せて下さい」
 それから幾つかの話をして、終始楽しく会話を終わらせた美幸は、不敵に笑いながら決意を新たにした。


「よし! 絶対に今度の課内コンペと社内コンペを勝ち残って、オプレフトの国内独占販売権をゲットしてやるわ!」
 そう叫んでから気分良く寝る支度を始めた美幸だったが、事態は予想外の方向に進んでいった。



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