猪娘の躍動人生

篠原皐月

5月 裏を感じる課内コンペ

 その話は唐突に、前触れも無く始まった。


「あなた達に集まって貰ったのは、課内コンペに参加する意志があるかを確認したかったからです。これはあくまで社内コンペに向けての、補助的な意味合いで開催する物ですが」
 清人に呼ばれて、課長席の前に横一列に並んだ高須、蜂谷、由香、美幸は、揃って怪訝な顔になったが、一同を代表して高須が問いを発した。


「それでは、その課内コンペで認められた者だけが、社内コンペに進めるのですか?」
「そうなります」
(なるほど。課内コンペは第一次予選って感じか。だけどこの面子……、若手にチャンスを与えるって事?)
 他に経験豊富な年長者がゴロゴロしている中で、敢えて若手四人を指名してきた上司に、美幸は何となく釈然としない物を感じていたが、彼はそんな戸惑いには構わずに話を続けた。


「今回、プレゼンテーションして貰うブランドはオプレフトです」
「オプレフト?」
 そこで由香が怪訝そうに呟くと、清人はさもありなんと言う感じで、説明を続ける。


「皆さんはこれまで耳にした事は無いと思いますが、ベルギー北部のアントウェルペン近郊で創設された、バッグ発祥のファクトリーブランドです。自社工場における伝統的な職人技と最新IT技術の融合により、こだわり抜いた繊細なデザインと確かな高品質の皮革製品を、主にEU圏内に送り出しています。製品のラインナップとしては、主力のバッグの他にベルト、手袋等の小物でしょうか。創設されてから三十年程と歴史は浅いですが、欧州ではそれなりに販売高と知名度を上げています」
(ベルギー……。正直、チョコしか思い浮かばないわ)
 美幸がそんな埒もない事を考えている間に、高須が詳細について尋ねた。


「そのブランドは、今回が日本初上陸でしょうか?」
「いえ、実はこれまでは、東海地方の某百貨店とのみ取引がありました。何でも創業家の人間と、そこの百貨店の上層部の人間が留学先で懇意にしていて、日本での独占販売権を獲得していたとか」
「はぁ、なるほど」
「しかし一地方の系列百貨店だけでは、全く無名のブランドを売り込む事は難しかった上、マーケティングの面でも成果を上げられなかったらしく、十年の契約期間満了を持って契約継続を見直し、日本での独占販売権を与える社を公募する形になりました」
 一気に核心に触れてきた話に、美幸が勢い込んで尋ねる。


「公募となると、他の総合商社は勿論、大手百貨店等も参入する可能性はありますね」
「ええ。因みに社内ではうちの他に、海外ブランドとの取引を主にする海外事業部第ニ課と、生活関連商品・雑貨を取り扱う営業第三課も手を挙げています。それで同じ社内の複数部署で手を挙げるよりは、社内で選抜して専任させようと言う話になりました」
「まずは海外ニ課と営業第三との、プレゼン対決ですか……」
「その前の課内コンペです。あなた達四人の中で一番良いと思った人に、社内コンペに参加して貰います」
 色々な意味で因縁が有りすぎる部署名を耳にして、四人は全員無言になった。対する清人だけは、上機嫌に促してくる。


「どうでしょう。やってみませんか? 通常業務外で準備を進めて貰いますから、結構負担になるとは思いますし、通常の業務が疎かになる位なら、辞退して貰って一向に構いません。先方から渡された資料は全て英文ですから、余計に手間がかかるでしょうし」
「英文ですか……」
 由香が無意識に呟いたらしい言葉に、清人が笑って返す。


「本社がベルギー北部のオランダ語圏に位置しているので、オランダ語と英語のニ言語で資料が届いています。オランダ語の方が良ければ、そちらをお渡ししますが」
「……英語で結構です」
 ヒクッと口元を引き攣らせる由香を横目で見ながら、美幸は密かに考え込んだ。


(確かに大変そうだけど、結構大きなチャンスっぽいし、それより何より社内コンペでの競合相手に、因縁ありまくりのあの営業三課! 普段そんなに業務内容が重なる事なんて無いし、直接叩きのめす絶好のチャンス!)
 そこまで考えたところで、美幸は殆ど無意識に声を出していた。


「課長代理! 是非ともやらせて下さい!」
「そうですか。藤宮さんなら、引き受けると思っていました」
 しかし即座に胡散臭い笑みを向けてきた相手を見て、美幸の笑顔が強張る。
(うっ、何か微妙に早まった感じが……。何だろう、あの不気味な笑顔)
 早くもちょっとだけ後悔し始めた彼女の隣で、蜂谷が元気良く腕と声を上げた。


「はいっ! 私にもやらせて下さい!」
「ちょっと蜂谷、資料が全文英文なのよ? あんた大丈夫なの?」
 清人が何か言う前に、思わず美幸が突っ込みを入れたが、蜂谷はそれに堂々と答えた。


「はい。世の中には自動翻訳ソフトと言う、大変便利な物がありますから」
「そんな事を嬉々として、恥ずかしげも無く言うんじゃないわよ!」
「え、えぇ!? 駄目ですか?」
 蜂谷のジャケットに組み付いて叱りつけている美幸を見て、清人は苦笑しながら宥めてきた。


「駄目ではありませんし確かに便利なツールですが、とかく長文や専門用語となると、とんでもない誤訳や意味が通じない日本語訳が生じる事があります。今回蜂谷さんには、その辺りを実感して貰いつつ、実地でプレゼンテーションの何たるかを学んで頂く程度で良いかと。蜂谷さんは頭ではなく、体で覚えるタイプですし」
 そんな事を薄笑いで言ってのけた清人に、周りの者達は(それで良いのか)と心の中で突っ込んだが、蜂谷だけは嬉々として応じた。


「はいっ! 私は必ずご主人様の期待に応えてみせます!」
「全く期待していませんから、気楽にやって下さい」
「ご主人様……、変に緊張させまいとする、そのお心遣い……。感動しました! 不肖蜂谷、この身を粉にして頑張ります!」
「……ああ、宜しく」
 素っ気なく切り捨てたのにも関わらず、感極まった感じで蜂谷が笑顔を振り撒いてきた為、清人の表情が若干嫌そうに歪んだ。


(蜂谷が、とうとう課長代理をうんざりさせた……。こいつ、変な方向でレベルアップしてるわ)
 そんな風に美幸が戦慄していると、高須が険しい表情ながらもはっきりとした口調で申し出てくる。


「課長代理。やらせて頂いても宜しいでしょうか?」
「勿論、構いません。渋谷さんはどうしますか? やはり異動したばかりで、通常業務を完全にこなす方に専念したいですか?」
「……やらせて貰います」
「そうですか」
 渋面になりながら由香も応じた為、清人は満足そうに頷いて話を締めくくった。


「それでは資料を四人分コピーして、更に後ほどオプレフトの商品サンプルを付けてお渡しします。それでは席に戻って下さい」
「失礼します」
 そして四人は一礼してから各自の席に戻り、美幸はやる気を漲らせながら中断していた仕事を再開した。
(うっふっふ~、またと無いチャンス到来! 未だに何かと突っかかってくる渋谷さんを撃退して、営業三課も叩き潰してやる!)
 そんな風に上機嫌に仕事を進めていく合間に、メールのチェックをしていた美幸は、珍しい差出人からのメールを見つけた。


(あれ? 矢木さんからメールが来てる)
 それを開いてみると、色々あって同じ課内の人間が清香と同時に休憩に上がれないので、今日彼女と一緒に昼食を食べてくれないかと言った内容だった。


(そうか。清香さん、相変わらず周りから遠巻きにされちゃってるのね……。今日は時間が決まって無いし、合わせても支障は無いわよね)
 即決した美幸はすぐに了承のメールを送り、昼に清香と待ち合わせる事にした。


「清香さん、お待たせ」
「すみません、藤宮さん。お手数おかけします」
「良いのよ。一人で食べるだけじゃなくて、変に視線を集めていたら、美味しく食べられないでしょうし」
 無事に社員食堂前で合流した二人は、連れ立って食堂内に入り、券売機に並んだ。


「それに矢木さんからのメールだと、最近では外で買い込んだ物を職場で食べていても、変な男が押しかけてきて絡まれるんですって?」
「そうなんです。それで伯父や祖父に、自分を紹介して欲しいとか言って。それで他の仕事中の方の、ご迷惑になったりした事もあって。私が仕事中の時は、課長がしっかり撃退してくれるんですが」
 如何にもうんざりとした口調で訴えた清香に、美幸は呆れ果てた口調で感想を述べた。


「そんな馬鹿が、社内に何人もいるの? 第一、そいつらは課長代理の妹にちょっかいを出して、無事で済むと思ってるわけ?」
「どうやら先行した噂だけ耳にして、私と兄との事は知らない人達ばかりみたいです。その事を周りの人が教えてあげると、途端に皆、真っ青になって帰って行くんですが」
 軽く首を傾げながら清香が説明した内容を聞いて、美幸の声が冷め切った代物に変化した。


「さっき『馬鹿』って言ったけど、それは訂正するわ。そいつら、『残念過ぎる馬鹿』ね」
「同感です。ですから兄との関係がそういう人達の耳にもれなく入ったら、煩わしく無くなる筈だからと、矢木先輩も仰ってました」
「確かにね。じゃあ、あともう少しの辛抱か」
「はい」
 そこで顔を見合わせて笑い合った二人は、配膳台に移動して料理を受け取り、空いているテーブルに着いた。


「ところで、仕事の方はどう? 幾らかは慣れてきた?」
 食べながら先輩風を吹かせて尋ねてみると、清香が明るく答える。


「はい、何とか。上からあれこれ指示されるんじゃなくて、自主的自発的に情報収集をして、必要な形での分析をしないといけないので、ありとあらゆる手段と媒介を駆使できる様に、悪戦苦闘している段階ですが」
「そうか……、そういうのはマーケティングにも繋がるよね。オプレフトなんて名前も知らなかったから、やっぱり渡された資料だけじゃなくて、一からきちんと調べてみないとなぁ」
 思わず箸の動きを止めて、考え込んでしまった美幸を見て、清香が不思議そうに尋ねた。


「何ですか? 今の名前。社名かブランド名ですか?」
「うん。日本ではこれまで殆ど知名度が無かったベルギーのブランドなんだけど、今度日本での独占契約権を獲得する為に、柏木産業がコンペに参加するの。その前に社内コンペを開催して、参加部署を一つに絞るそうよ」
 それを聞いた清香が、目を丸くした。


「え? じゃあ複数の部署から、コンペ参加希望者を募るんですか?」
「そう。うちも参加予定だから、その前に課内で選抜される事になったの。まずそこで認められないとね」
「大変そうですね……。頑張って下さい」
「ありがとう。絶対に、課内も社内も通ってみせるから!」
 力強く頷いてみせた美幸だったが、そこに冷や水を浴びせる様な声がかけられた。


「あらあら、凄い自信。さすがに有能な恋人がいらっしゃる方は、取って当然な余裕の発言をされること」
「何ですって?」
 いつの間にか両手でトレーを持ちながら、テーブルの横に立って自分を見下ろしていた由香を認めて、向かっ腹を立てた美幸が盛大に言い返そうとした。しかしテーブルの向こう側から、清香が不思議そうな口調で二人の会話に割り込んでくる。


「あの……、どうして城崎さんが藤宮さんとお付き合いしていると、コンペで有利なんですか? 先程の発言は、そう取れる内容でしたが」
「……あなた誰?」
「あ、ご挨拶が遅れました」
 軽く睨んできた相手に臆する事無く、清香が静かに立ち上がって一礼した。


「今年入社しました、生活環境ビジネス部所属の佐竹清香と申します。以後、お見知り置き下さい。ところであなたのお名前は、何と仰いますか?」
「……企画推進部第ニ課の渋谷由佳よ」
「ああ、藤宮さんと同じ職場の方なんですね。宜しくお願いします」
 非礼にならない挨拶をしてから(こちらが名乗ったのに、そちらが名乗らないなんてふざけた事は仰いませんよね?)と無言の圧力をかけて微笑んだ清香を見て、美幸は密かに感心した。


(さすがに清香さんの名前は知ってたみたいで、顔が引き攣ってるわね。それに清香さんも、私達が同じ職場だと察しが付きそうなのに、わざわざ丁寧に自己紹介して、しっかり相手からも名乗らせる様に持ち込むなんて、さすが課長の従妹で課長代理の妹)
 そして傍観者に徹する事に決めた美幸の前で、清香が素朴な問いを再度口にした。


「ところで先ほどの質問ですが、どうして藤宮さんが城崎さんと付き合ってると、仕事に有利なんですか?」
 その問いかけに、由香が幾分たじろぎながら答える。


「それは……、やっぱり色々と教えて貰えるじゃない」
「仕事の事をですか?」
「そうよ。当然じゃない」
「企画推進部のお仕事って、かつてそこに在籍していたとしても、今現在部外者の方が本来の仕事の片手間にプライベートでお付き合いしている人に多少指導した位で、簡単に取れる様なお仕事をしている部署なんですか?」
「……え?」
「おかしいなぁ……。真澄さんも兄も、そんな緩い事を言ってた記憶は無いんですが。相手の弱点を容赦なくつつく弱肉強食の世界で、立ち塞がる物は確固撃破で、利用できる物は骨の髄まで利用する部署って聞いてたのに……」
「…………」
 心底不思議そうに首を傾げてみせた清香に由香は勿論、美幸も固まって無言になった。その様子を眺めてから、清香が何気なく尋ねてくる。


「あ、因みに、渋谷さんは、その課内コンペとやらに参加するんですか?」
「それが何?」
「それなら城崎さんの些細なアドバイスを受けた藤宮さんに渋谷さんが遅れを取ったりしたら、藤宮さん以上にチョロい仕事しかできないって事になってしまいますね。頑張って下さい」
(うっわ、凄い皮肉。それに笑顔付きなんて)
 にっこりと微笑んで、形ばかりの激励をしてきた清香に美幸は戦慄し、由香は顔色を変えた。


「あなた、幾ら何でも失礼でしょう!?」
「え? 私は激励したつもりだったんですが……。何分にも新人なもので、勝手が分かりませんで。お気に触ったのなら、申し訳ありません」
「……っ!」
 困った顔をしてから殊勝に頭を下げた清香を、更に怒鳴りつける訳にもいかず、その上周囲から「柏木課長代理の妹に頭を下げさせてるぞ」「あいつ、何やってんだ?」などの囁き声が聞こえてきた為、由香は怒りに顔を歪ませながらも踵を返してその場から遠ざかって行った。


「清香さん、今のはわざと?」
 清香が再び椅子に座ってから美幸が尋ねてみると、彼女は悪びれずに答えた。
「はい。『論争時には、時として笑顔は最大の凶器足り得る』と真澄さんから伝授されました」
「課長、何を教えてるんですか……」
 他に幾らでも教える事があるんじゃないでしょうかと、美幸が頭を抱えていると、清香が真顔で言い出す。


「でも同じ課内ならともかく、普通に考えたら本社内にも居ない人にそんなに有効なアドバイスができたり、後押しして貰えたりはできないと思いますが」
 その指摘に、美幸は肩を竦めた。
「まあね。要は彼女、何でも難癖付けたいのよ。上手くいかないのは全部他人のせいってしておきたい、中途半端なプライドの持ち主って事ね。全く、なんだって課長代理は、あんなのを引っ張ったんだか」
 それを聞いた清香が、驚いた様に口を挟んできた。


「あの人、兄が引き抜いたんですか?」
「そう。営業三課から」
「……あの『柏木産業の穀潰しの墓場』からですか?」
「知ってるんだ。その二つ名」
 それに無言で頷いてから、更に清香が尋ねる。


「そういう人は、兄が嫌いなタイプなんですが……。どうしてなのか理由を知ってますか?」
「私にもさっぱり。確かに一緒に仕事を引き受けた利益はあったと言えばあったけど、それだけだとは到底思えないのよね」
「そうですか……」
 そこで難しい顔になった二人だったが、悩んでも仕方がない事で食事を不味くする事はないと気持ちを切り替え、それなりに楽しく会話をしながら食べ終えたのだった。




 その日の夜、美幸はまず城崎にメール都合を尋ねてみたが、すぐに電話がかかってきた為、挨拶もそこそこに日中持ち上がった件についてまくしたてた。その話を相槌を打ちながら一通り聞いた後、城崎が困惑気味に呟く。


「……それは珍しいな。社内コンペならぬ課内コンペか。あの人は、一体何を考えてるんだ?」
「全くです。営業三課を直に叩き潰すチャンスを貰えた事には、感謝していますが」
 多少苛立たし気に美幸が口にすると、城崎も若干口調を険しくしながら釘を刺してくる。


「コンペでは確かに勝ち負けが生じるが、対象のブランドの魅力を最大限に引き出すマーケティングと、販売網をどう確立して提案できるかが一番の焦点になる。ライバルを打ち負かすのは二の次なんだから、意識し過ぎて本質を外さない様にしろよ?」
「分かりました」
 ここで冷静に指摘されて、美幸の頭は幾分冷えた。そんな彼女に、城崎が少々残念そうに言ってくる。


「しかし美幸は、コンペの参加経験は無いだろう? 俺が居る間に、何らかの形で参加したりできれば良かったな。そうしたら段取りとかコツとかも教えられたんだが」
「いえいえ、大丈夫ですよ。自力で頑張ります。それにそういう事があったら、昼に渋谷さんが絡んできたような内容を、堂々と公言すると思いますし」
 力強く美幸が断言した内容を聞いて、城崎が溜め息を吐いた気配が伝わってきた。


「……彼女は相変わらずのようだな。悪辣とか質の悪い人間ではないと思うんだが」
「あれを質が悪くないなんて評価するなんて、城崎さんは許容範囲が広過ぎます」
「そりゃあ美幸より長く生きてるし、結構悪辣で質の悪い人間と、これまで数ダース単位で付き合いがあったからな。かなり慣れた」
「えぇ? うちの会社って、そんなに性格が悪い人がいるんですか?」
「いや……、半分はプライベートで。と言うか、もっと正確に言うと学生時代に……」
「ああ、そう言えばそんな話を、聞いた事がありましたね……」
 沈痛な声で告げてきた内容を聞いて、美幸は思わず遠い目をしてしまった。しかし暗い話で終わらせるわけにはいかないと、何とか他の話題を出してみる。


「ええと……。私の話ばかり、しかも最後は愚痴っぽくなってしまってすみません。城崎さんの方で、何か話したい事とかは無いんですか?」
「俺が話したい事?」
 その申し出に、城崎は少し戸惑った様子をみせたものの、すぐに言葉を返した。


「いや、取り立てて話す様な事はないと思うが。むしろ本社内の動向とかを、聞かせて貰った方が嬉しいな。焦っているつもりは無いが、どうしても本社内の様子が気になるし。戻った時に戸惑う様な事は、できるだけ少なくしたいんだ」
「それはそうですね。じゃあ課内の話の他に、本社内で何か変わった事があったら、その都度お知らせします」
「ああ、宜しく頼む」
「それから、何か困ってる事で、こちらでどうにかできる事ってありませんか?」
「うん? そうだな……」
 そこで何やら思い当たった事があったのか、城崎は少しの間考え込んでから答えた。


「そういえば、服かな」
「服、ですか?」
 意外な単語を聞いて美幸は困惑したが、彼はその事情を説明してきた。


「実はこっちで住む所は東北支社で準備してくれて、家賃以外にも、引っ越し費用や敷金礼金は全額経費で落ちてるんだ」
「全部会社持ちですか? 凄い太っ腹ですね」
「ああ。それで今まで借りていたマンションはそのままにして、当面必要の無い物はそのままにしているから」
 それを聞いた美幸は、すぐに合点がいった。


「そうか。夏服が今までの所で、保管したままなんですね」
「そうなんだ。つい、当座必要な物だけを送ったから。やはりこっちは東京より涼しいから、6月に入ってすぐ夏物が必要になるとは思えないんだが」
 そこまで聞いた美幸は、即座に申し出た。


「それなら私が城崎さんのマンションに出向いて、必要な物を纏めてそっちに送りますから」
「構わないのか?」
「勿論ですよ! 衣替えの為だけに戻って来るのも大変ですし、まだまだ仕事が忙しいでしょうから、休日はしっかり仙台で休んでいて下さい。気候も違うんだし、無理しちゃ駄目ですからね」
 明るい口調で美幸が言い聞かせると、城崎が安堵したような声で礼を述べてきた。


「ありがとう、助かる。じゃあ近いうちに合鍵を作って、そっちに郵送するから。あと夏服が欲しい頃合いになったら、何が欲しくて、それがどこに収納されてるかとか、詳細を書いて送るから」
「分かりました。それじゃあ必要のない物は、逆にこちらに送り付けて貰えば、クリーニングに出してしまっておきますから。遠慮しないで下さいね?」
「ああ、宜しく頼むよ」
 それから幾つかの話題を出して通話を終わらせた美幸が、喉の渇きを覚えてお茶でも飲むかと台所に行くと、そこにいた絶讃出戻り中の姉が、声をかけてきた。


「あ、美幸、これからお茶を淹れるけど、あんたも飲む?」
「うん、欲しい。お願い」
「分かったわ。あんたの分も持って行くから、居間で待ってて」
 その申し出に素直に頷き、美幸が居間に向かうと、美子一人だけだった為首を捻った。


「あれ? 美子姉さんだけ? 美樹ちゃん達は?」
 子供達の姿が見えない理由を聞いてみると、美子が事も無げに答える。
「美野が全員纏めて、お風呂に入れてくれてるわ。本当にあの子はマメね」
 姪と甥が総勢四人で、大騒ぎして遊んでいるであろう風呂場を想像して、美幸は正直うんざりした。


「美野姉さんが面倒見が良いのはともかく、美実姉さんったらすっかり居着いちゃって……。もう1ヶ月過ぎたんだけど、帰る気配は無いの?」
「小早川さんの事が、微妙に気になっているみたいではあるけどね。自分から折れるつもりは無いみたいよ?」
「もう! 本当に面倒臭くて傍迷惑よね!?」
 美子はクスクス笑ったが、美幸はとても笑って済ます心境では無かった。しかしそこで「お待たせ」と、三人分のお茶を持って美実がやって来た為、口を噤んだ。


「そう言えば美幸。あんたの彼氏、飛ばされたんだって? さっき美野に、チラッと聞いたんだけど」
 しかしそんな事をサラッと言われた為、美幸は盛大に美実に噛み付いた。
「人聞き悪いわね! 城崎さんは飛ばされたんじゃなくて、請われて派遣されたのよ!」
「まあ、細かい所はどうでも良いけど。要するに遠距離恋愛なのよね? 何でそんな面白いネタを隠してるのよ?」
 途端に興味津々の表情で迫ってきた姉に、美幸の顔が微妙に引き攣る。


「ネタって……、隠してもいないし。城崎さんの異動以外にも色々あってバタバタしてて、一々家で話題に出して無かっただけで」
「参考までに、ちょっと取材を」
「却下!」
 完全に面白がっていると分かる顔付きだった為、美幸は即座に拒否したが、ここで美子がやんわりと宥めてきた。


「美幸、そう怒らないで。世間話の一つとして、ここ暫く会社で起こった事で私達にまだ話していない内容を言ってみなさい」
「美子姉さん……」
 一瞬、恨めしげな視線を向けたものの、長姉に逆らえる筈もなく美幸は観念し、城崎が昇進異動するに至った事情とその前後で生じた出来事を、できるだけ簡単に説明した。


「なるほど、そういう事情だったのね。だけど親の介護で、離職の危機かぁ……。そんな事、全然考えた事も無かったなぁ」
 一通り聞き終えてから、しみじみと感想を述べた美実に、美子は苦笑してみせた。


「あなたは自由業だから、保証が無い分、縛りも無いものね」
「それ以前に、家の事は美子姉さんに任せておけば安心だしね。ありがたや~」
「拝んでも何も出ないわよ?」
 わざとらしく両手を合わせて自分を拝みだした妹を見て、美子が苦笑を深めた。そして美幸に向き直って、同情する様に話を続ける。


「でも城崎さんは、本当に大変そうね」
「うん、そうなの。だから今度、荷物をそのままにしてあるマンションの合鍵を貰ったら、衣替えの時期に合わせて、夏服を整えて送ってあげる約束をしたんだけど」
「…………」
 何気なく美幸がそう口にした途端、姉二人は微妙な顔付きになって、互いの顔を見合わせた。その反応を不思議に思いながら、美幸が声をかける。


「二人とも、急に黙ってどうしたの?」
 すると美子が溜め息を吐いてから、美実に言い聞かせた。
「今回は、ちょっと大目にみましょうか。美実、分かってるわね?」
「勿論、聞かなかった事にするわ。美幸、あんたもお父さんやお義兄さんの前で、今の話をするんじゃないわよ?」
「え? どうして?」
「『美幸を家政婦代わりに使う気か!』って、怒るからに決まってるからじゃない」
 そう断言した美実に、美幸が怪訝な顔になりながら反論する。


「美実姉さんったら……。二人ともそんなに心が狭くないわよ」
「結構狭いわね」
「それに執念深いし」
「…………」
 真顔で姉二人が断言した為、美幸は何も言えずに黙り込んだ。それを見た美子は、苦笑しながら美幸を宥める。


「だから、お父さん達には黙っていてあげるから、城崎さんのお世話をしてあげなさい」
「うん、分かった。ありがとう、美子姉さん。あ、それから美実姉さんに頼みたい事があったの」
「何?」
 そこで気持ちを切り替えると同時に、美幸が話題を変えた。


「さっきチラッと話をしたでしょ? 私の後輩が身元を暴露しちゃって、肩身の狭い思いをさせちゃった新入社員の話。そのとばっちりで迷惑をかけたその子の先輩達に、合コンをセッティングする約束をしちゃったの。だから男性陣を小早川さんに紹介して貰う様に、美実姉さんから頼んで欲しいのよ」
 そう美幸が口にした途端、美実は嫌そうな顔になった。


「えぇ? 何で淳に頼まなきゃいけないのよ?」
「だって小早川さんの紹介なら身元は確かだし、弁護士とか司法書士とか税理士とかって、固い職業の人はいつの時代も人気なんだもの。お願い、この通り!」
 そうして両手を合わせて頭を下げた妹を見て、美実は嫌々ながら引き受ける事にした。


「……しょうがないわね。あんたがそこまで言うなら、頼んであげる。確かに淳は、結構顔が広いしね」
「うん、ありがとう。私から後で改めてお礼はするけど、小早川さんにお礼を言っておいてね?」
「分かった分かった。その代わり、一つ貸しよ? 今度じっくりその彼氏とのあれこれを、リサーチさせて貰うから」
「……了解」
「じゃあ、部屋に行くわね」
 それほど機嫌は悪くない様子で立ち上がった美実は、そのまま居間を出て行った。そして一体何を根掘り葉掘り聞かれる事になるやらと、美幸がうんざりしていると、美子が笑いを堪える表情で言ってくる。


「早速、小早川さんに電話してくれる気じゃない? 良い口実ができて良かったわ」
 それに美幸が、少々呆れ気味に応じる。
「全く、素直じゃ無いんだから。そうなると来週には帰るかしら?」
「そうかもね。漸く静かになるわ」
 そこで顔を見合わせた二人は、どちらからともなく笑い出し、藤宮家の夜は平穏無事に更けていった。





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