猪娘の躍動人生
5月 奮闘する人々
仕事の区切りの良い所で休憩に入り、混み合う前の社員食堂で食べ始めた美幸は、半分ほど食べたところで声をかけられた。
「藤宮さん、ここは空いているかしら?」
その声に顔を上げた彼女は、暫く顔を合わせていなかった同期の矢木鈴音と、以前一度会った事がある人物を認めて、少々驚きながら席を勧めた。
「矢木さん、久しぶり。空いてるから大丈夫よ。清香さんは柏木産業に入社したの?」
「はい、藤宮さん、お久しぶりです。初期研修終了後に、生活環境ビジネス部に配属になりました」
そんな二人のやり取りを聞いて、鈴音が意外そうな顔になった。
「何? 二人は知り合いだったの?」
「去年兄と一緒に街を歩いていた時に、偶然藤宮さんとお会いしまして」
「お兄さんが藤宮さんの知り合い?」
「知り合いも何も……。清香さんはうちの課長代理の妹さんだし」
「そうだったの!?」
何気なく口を挟んだ美幸の台詞を聞いて、鈴音が焦った様子で振り返り、その視線の先で清香が困った様に頷いた。
「はい。言ってませんでしたっけ?」
「聞いてないから……。会長と社長の事で散々噂になってたから、敢えて親兄弟について聞こうとは思わなかったもの。ご両親はもうお亡くなりになってるって話だったし」
「色々、すみません」
「やだ、佐竹さんが謝る事じゃ無いから。さあ、座って食べましょう。空いてる所が見つかって良かったわ」
その場に漂いかけた微妙に気まずい空気を払拭しながら、鈴音が清香を促して美幸の正面に座った。美幸も(何だか訳ありっぽいわね)とは思いながらも、深く突っ込む事はせずに、世間話を始める。
「清香さんが入社していたのは知らなかったわ。課長代理は何も言ってなかったし。でも以前会った時には、うちを希望しているとか言ってなかったわよね?」
「はい。元々は司書勤務希望だったんですが、どこも採用枠が少なくて落ちまくったんです。そんな時に真澄さんから、柏木産業に入る気は無いかと言われて」
「課長が? まさかそっちの部で、図書館を運営する話があるの?」
思わず問いかけた美幸だったが、鈴音は笑って手を振った。
「さすがにそれは無いわ。確かに図書館業務の民間委託が広がっていて、うちが業務務内容を広げていると言っても」
「『通信教育や人材派遣、フランチャイズビジネス等の情報収集や分析を手掛けている部署があるけど、そういう所に興味は無い?』と言って、業務内容を細かく教えてくれたんです。総合商社って言うと、漠然と物を売る会社だと思ってましたから、ちょっと驚きました。それで興味を持って、応募してみたんです。かなりギリギリでしたが」
そう説明した清香の後を引き取って、鈴音が感心した様に話を続けた。
「でもさすが柏木課長よね。『入社できても初期研修で好成績を残さないと希望部署に配属されないし、遅かれ早かれ創業者一族って周りに分かるだろうから、コネ入社って陰口叩かれない様に気合い入れて頑張りなさい』って、入社前から個別に課題を出していたそうよ」
「本当?」
「はい。生活環境ビジネス部の関連企業や取引先の名前と住所と電話番号五十件分の暗記とか、タッチタイピングのマスターとか、それから」
「タッチタイピング、できるの?」
「……頑張りました」
驚いて問いかけた美幸に、清香がどこか遠い目をしながら答える。そんな彼女に同情する視線を向けながら、鈴音がしみじみと語った。
「本当に鬼よね、柏木課長。私だって直接関係がある所、十件位しか暗記してないわよ?」
「課長、三桁暗記してるらしいわ」
「……もはや化け物」
「さすが真澄さん」
ぼそりと呟いた美幸の言葉に鈴音は戦慄し、清香が感嘆の声を漏らす。そこで美幸は、先程気になった内容について尋ねてみた。
「さっき矢木さんは『会長と社長の事だけで散々噂に』とか言ってたけど、まだ配属されたばかりなのに、清香さんが会長の孫で社長の姪って周囲に知られるのが早くない? 清香さんは佐竹姓の筈だし」
素朴な疑問を口にすると、鈴音は同感と言わんばかりに深く頷いた。
「そうなのよ。普通なら早々にバレる筈ないんだけど、配属直後からうちの部署を連日こっそり覗きに来る人が居てね。……本人達がそう思ってるだけで、全然こっそりじゃ無かったけど」
「なるほどね。とんだ祖父馬鹿と伯父馬鹿だったわけだ」
呆れ気味に頷いた美幸の斜め向かいで、清香ががっくりと項垂れる。それを気の毒そうに眺めながら、鈴音が話を続けた。
「初期研修中は大勢の前で姿を見せると噂になるからって、控えたらしいんだけど。それで佐竹さんが会長と社長の身内って判明した途端、同期の子達は恐れをなして近付いて来ないし、勘違いした馬鹿な野郎が言い寄って来るしで」
そこで溜め息を吐いた鈴音を見て、美幸は正確に事情を悟った。
(それで職場で孤立しちゃった清香さんを、食事に誘ってあげてるわけだ。初期研修中も、矢木さんは姉御肌で面倒見が良かったものね)
清香と同じ部署の先輩に彼女が居て良かったと思いながら、美幸はなるべく明るい口調で言ってみた。
「まあ、そんなに気にする事もないんじゃない? しばらくすれば噂も無くなるだろうし。現に去年三課に配属された渡部さんも、二課と同じ企画推進部配属って事で、同期の人達から一時期遠巻きににされてたけど、最近では結構頻繁に、一緒に食事や飲みに行ったりしてるみたいよ?」
それを聞いた鈴音が、なんとも言えない表情になる。
「ああ……、企画推進部二課は悪名高いものねぇ……」
「私も初期研修長中にそれを聞いて、本当にびっくりしました。真澄さんは、そんな事一言も言ってなかったので」
「だけど藤宮さんは、そこを最初から第一希望にしてたから、どういう人なんだろうと思ってたわよ」
「生憎、鉄の心臓なもので」
すました顔で言い切った美幸を見て、鈴音と清香が笑い、二人も和やかに食ベ進めた。そして少しした所で、鈴音が思い出した様に言い出す。
「そう言えば、そっちは新年度早々大変だったんじゃない? 係長が課長に昇進して、東北支社に飛ばされたんでしょう?」
「人聞き悪いわよ。『飛ばされた』なんて」
「確かにそうね。ごめんなさい。でも派遣期間もはっきりして無いって聞いたけど?」
軽く顔を顰めた美幸を見て鈴音は素直に謝罪したが、不思議そうに確認を入れてきた。それに美幸が、溜め息交じりに答える。
「確かにそうなのよね……。東北支社の三田村課長が、復帰できる状況が整うまでって事だから。本人は勿論、東北支社で支社長を初め上司や同僚の人達が、課長のご両親が入所できる施設を探してくれているみたいだけど」
その説明を聞いた鈴音が、しみじみとした口調で応じる。
「そうかあ……。一頃は出産離職が問題になったけど、今は介護離職が問題になってるものね……」
「寧ろこっちの方が深刻じゃない? 出産育児は復帰できる目処がある程度立つけど、介護の場合はいつまで続くか分からないし」
「それにその問題に直面するのは、ある程度年齢と経験を重ねた中堅以上になってから、か。確かに企業としても、その年代の優秀な人材に抜けられるのは痛いわよね」
「城崎係長も『今後の柏木産業の方針と企業姿勢を決める試金石的な部署と事業だから、ここで躓くわけにはいかない』って険しい表情で言ってたわ」
そこで鈴音が、笑いながら指摘してきた。
「藤宮さん、『城崎係長』じゃなくて『城崎課長』でしょう?」
「そうだったわ。気を付けないと。昇進辞令が出てから異動と派遣まで、ひと月無かったのよ? 辛うじて送別会はできたけど、もう本当に無茶苦茶よ!」
軽く怒りを露わにした美幸を、鈴音が苦笑いしながら宥める。
「でもそれだけ東北支社内で、その課長さんの人望が厚くて惜しまれてるって事でしょう? 凄いわよね」
「それはうちの課の皆も言ってたわ。『社員冥利に尽きるだろうな』って」
「皆さんって……、ああ、二課の年配の方達の事ね。本来の部署を離れる時は、相当冷遇されていた筈だし」
「そう。何と言っても、うちって『柏木産業の産業廃棄物処理場』だし」
「そこ、笑って言う所じゃないから」
堂々と言い切った美幸を見て、思わず鈴音は噴き出し、大人しく二人の会話に耳を傾けていた清香も笑ってしまった。そして真顔に戻った瞬間、鈴音が新しい話題を出す。
「ところで藤宮さんと城崎課長って、付き合ってなかった? そんな噂を、以前耳にしたんだけど」
(うっ……、聞かれるとは思ったけど)
おせっかいや悪気があって聞いてきたわけではないと分かる鈴音に、どう返せば良いか一瞬悩んだものの、美幸は正直に言葉を返した。
「え、ええと……、その、一応お付き合いしていると言えば言えるかも……」
「じゃあ遠距離恋愛になるの?」
「え、遠距離って言っても、東京から仙台までは新幹線で最短一時間半で、日帰りも十分できる所だし」
「それもそうね」
そこでその話は終わった為、鈴音がどうやら興味本位で尋ねたわけでは無く、本当に話題の一つとして口にしたらしい事が分かって、美幸は内心で安堵した。
(矢木さんが、あまり他人の色恋沙汰に首を突っ込んでくタイプの人じゃなくて良かった。本当によるとさわると親切ごかして『大変ね』とか『別れたの?』とか『向こうで浮気されない様に気を付けなさいね』とか五月蠅いのよ!)
この間、色々と外野から言われていた美幸は、少々イラつきながら残り少ない定食を食べ進めたが、ここで聞き慣れた声がかけられた。
「藤宮先輩、こちらは宜しいですか?」
その声に斜め上に顔を上げた美幸は、トレーを手にした蜂谷を見てから、テーブルの向かい側の二人に声をかける。
「え? ああ、蜂谷。構わないけど……、矢木さん、清香さん、同席させても構わない?」
「構わないわよ?」
「どうぞ」
「ありがとうございます。失礼します」
そして礼儀正しく会釈してから、隣の席に座った彼に向かって、美幸は呆れた様に声をかけた。
「しかしあんたも相当よね。女ばかりの所に堂々と入って来るなんて」
「すみません。今日はちょっと混んでいるみたいで」
それを聞いた美幸が周囲を見回し、いつの間にか食堂内が満席に近い状態になっているのを認めて、納得した顔つきになった。
「確かにそうね。雨でも降り出した?」
「窓から見た感じでは、まだ降り出してはいないと思いましたが」
そんな会話をしてから黙々と食べ始めた蜂谷を見て、鈴音が軽く身を乗り出しながら、美幸に囁いてきた。
「藤宮さん。そちらの方、蜂谷さんって言った? そして、去年入社して配属された人?」
「そう。うちの部署の後輩」
どうやら去年の彼にまつわる噂を耳にしていたらしい鈴音は、注意深く蜂谷の様子を観察してから、再度美幸に囁いてくる。
「……普通の人ね」
「一応、見た目はね」
そんな事をこそこそと言い合っていると、箸を止めた蜂谷が美幸達に向かって微笑みながら軽く頭を下げた。
「藤宮先輩。そちらの方々はお知り合いの方ですよね? ご歓談中、お邪魔してしまってすみません」
「いえ、構わないから」
「こちらこそ、いつも企画推進部二課で、兄がお世話になっています」
鈴音と同様に清香も笑顔で返したが、その台詞を聞いて蜂谷が怪訝な顔になった。
「兄? ええと、瀬上係長か高須さんの妹さんですか?」
「いえ、柏木清人の事です。私は妹の佐竹清香です。今後とも宜しくお願い」
「ごっ、ご主人様の妹姫様ぁぁ――っ!?」
本当に何気なく清香が口にした台詞を耳にした途端、瞬時に顔色を変えた蜂谷が、絶叫しながら箸を放り出して凄い勢いで立ち上がった。
「……え?」
「ちょっと、何!?」
「蜂谷!」
そして鈴音と清香が当惑し、食堂中の視線を一身に浴びる中、蜂谷は泣き叫びながらその場で土下座した。
「すみません! ごめんなさい! ご主人様のお妹君様と同じテーブルに着くなど、身の程知らずにも程がある無礼な振る舞いを! 何卒何卒、お許し下さいませ!!」
「ちょっと蜂谷! 何やってるの、止めなさい!!」
驚いて言葉も無い鈴音達に代わって、美幸は慌ててしゃがみ込み、蜂谷を叱り付けた。しかし狼狽しきっている彼は、全く聞く耳持たなかった。
「平に、平にご容赦をぅぅっ!」
「ボケ蜂谷! ちょっと来い!! ごめん、矢木さん! そのトレー二つ片付けてくれる?」
「……うん、分かったわ」
「ご苦労様です……」
そして言い聞かせても無駄だと悟った美幸は、唖然としている二人に食器の後始末を頼んだ直後、蜂谷の左腕を掴んで強引に引き上げ、火事場の馬鹿力で引きずりながら食堂からの脱出を図った。
「お姫様ぁぁっ! 哀れな下僕を、お許し下さいませぇぇっ!!」
「もう黙んなさい! 一切口を開くな!!」
(あぁぁっ! もうこの後、食堂内がどうなってるか、想像したくない! 本当にごめんなさい、矢木さん、清香さん!)
そして食堂から蜂谷を引きずり出し、二課に戻ってから休憩時間の残り全てを使って蜂谷に説教した美幸は、鈴音達に対して罪悪感を覚えた。その後恐る恐る社内メールで鈴音に連絡してみると、「ちょっと驚いたけど大丈夫。後片付けもしておいたから」との返信がきて、美幸は安堵しながら改めてメールで礼を述べた。
しかし残念な事にこの騒動はこれで終わりにはならず、翌日になって企画推進部二課に、台風が襲来した。
「たのも――っ!!」
終業時間を過ぎても殆どの者が残業している中、企画推進部のドアが些か乱暴に開けられたと思ったら、スーツ姿の女性が勢い良く飛び込んで来た。そして一瞬足を止めて室内を見回してから、二課課長席に向かって突進する。
「何だ?」
「誰だよ、あの子?」
「清香さん!?」
「何だ、藤宮。知り合いか?」
前日に再会したばかりの清香を見て、美幸は目を見張ったが、不思議そうに尋ねてきた高須に答える前に、課長席で兄妹の会話が始まった。
「やあ、清香。久し振りだな。入社しても顔を見る機会が無かったから嬉しいな」
「お兄ちゃん! 一体社内で、何やらかしてんのよ!?」
「何の事だ?」
親し気に声をかける清人に、憤怒の形相で迫る清香。そんな二人を見た企画推進部の面々は、不思議そうに囁き合った。
「え? 課長代理の妹!?」
「そんな子が入社してたのか?」
しかしそんな疑問の声を切り裂く様に、清香の怒声が室内に響き渡る。
「惚けるんじゃないわよっ!! 『会長の孫』で『社長の姪』で『柏木課長の従妹』だって事で、これまで同期とか同年輩の人達に遠巻きにされてたけど、昨日のお昼に『柏木課長代理の妹』って周囲に知られてからは、廊下を歩いてると明らかに役付きの偉そうなおじさん達が、私と顔を合わせた瞬間、廊下の壁にへばり付いて道を譲ってくるのよ! 一体どういう事!?」
「歩きやすくて結構じゃないか」
「……やっぱり、そうなったか」
「おい、藤宮。どうした?」
しかし妹の剣幕に清人は全く動じずに飄々と言い返し、美幸は自分の机で頭を抱え、それを見た高須が不思議そうな目で見やった。
「それにさっき部長にこっそり呼ばれて、『うちの部は本当に後ろ暗い所は無いから。何か誤解がある様なら、是非君からお兄さんに口添えしてくれないか?』って、涙目で懇願されたんだけど! どうして私が、スパイとか監査役みたいな言われ方をしなくちゃいけないわけ!?」
「本当に後ろ暗い所が無いなら、そんな事は口にしないんじゃないのか? 怪しいな」
「問題はそこじゃないでしょ!? 本当に一体、何やってるの!?」
ここで勢い良く机を叩きながら糾弾してきた妹を見上げ、清人が営業スマイルを振り撒く。
「私は日々、真面目に真っ当に業務をこなしているだけですが。それに定時は過ぎましたがまだ業務中ですので、申し訳ありませんがお引き取り願えませんか?」
その白々しすぎる物言いに、清香はプルプルと全身を震わせてから踵を返し、絶叫しながら勢い良く駆け出した。
「まっ、真澄さんに言い付けてやるぅぅっ!! お兄ちゃんの馬鹿ぁぁ――っ!!」
「あ、おい、ちょっと待て、清香!?」
さすがに拙い事を悟った清人が、慌てて腰を浮かせて引き止めようとしたが、ここで急にジャケットのポケットを押さえて動きを止めた。
「…………っ」
その動作を見た高須は、マナーモードにしてあるスマホが震えて着信を知らせたのだろうと見当を付け、美幸に囁く。
「多分来たな、課長から」
「ですよね。蜂谷発課長宛てホットラインは、しっかり起動しているみたいです」
「しかし、あの妹さんも気の毒に……」
「激しく同感です」
そして机の仕切りに隠れている蜂谷と、何やらボソボソと話しながら廊下に出て行った清人を眺めながら、高須と美幸は心底清香に同情する顔つきになった。
それから少しして、仕事の区切りも良く、先程の騒動でこれ以上の残業をする気になれなかった美幸は、潔く仕事を切り上げて職場を後にした。そしてエレベーターで一階まで下りた彼女は、何か話しながら前方を歩いている女性二人に目を留める。
(ええと、多分あれは……)
そして急いで駆け出し、その二人組に追いついた美幸は、背後から控えめに声をかけてみた。
「矢木さん、清香さん、お疲れ様」
すると二人は振り返り、挨拶を返してくる。
「ああ、藤宮さん」
「お疲れ様です。先程はそちらでお騒がせして、すみませんでした」
「ううん、良いのよ。定時過ぎてたし、皆殆ど仕事の後始末をしていた所だったし」
清香の謝罪に軽く首を振ってから、美幸は恐る恐る二人に尋ねた。
「ところで、その……。昨日、うちの馬鹿蜂谷が食堂で騒いだせいで、色々迷惑をかけたんじゃないかと思って、気になってたんだけど……」
それを聞いた鈴音が、少々やさぐれた口調で応じる。
「迷惑? うん……、迷惑って言えば、迷惑かけられたかなぁ……。ちょっと職場全体の、心労が増えたって感じはするけどね……」
「すみません! 本当に申し訳ありません!」
「良いのよ。佐竹さんが悪いんじゃないんだし。だけどね……」
恐縮しきって頭を下げる清香を宥めてから、鈴音は空いている右手で美幸の肩をガシッと掴み、至近距離で凄んでくる。
「後輩の不手際をフォローするのは、先輩の役目だと思うの。この考え、何か間違ってる?」
常には見られないその迫力に押され、美幸は素直に頷く。
「……いえ。ごもっともです」
「そういう訳だから、この際柏木産業随一と名高い合コンプランナーの手腕を、是非とも発揮して頂きたいわ」
「好条件の男性を選りすぐって、生活環境ビジネス部のフリー女性社員の皆様に、ご紹介させて頂きます」
美幸が真顔で申し出た内容に、鈴音は満足そうに彼女の肩から手を離し、清香に向かってにっこり微笑んだ。
「期待してるわ。……さあ、明日からイケメンゲットを糧にして、仕事を頑張るわよ!? じゃあ佐竹さん、また明日!」
「……はい、お疲れさまでした」
どこか茫然としながら頭を下げた清香に背を向け、鈴音は機嫌よく去って行った。その背中を見送りながら、美幸が思わず遠い目をする。
「矢木さん……。去年までは、あんな事を公言するタイプじゃ無かったのに……」
「同感です。本当に申し訳なくて。それに他部署の藤宮さんにまでご迷惑を……」
「それは構わないから。うちの蜂谷が考え無しな事をしたせいで、大事になっちゃったしね。じゃあ帰りましょうか。清香さんも地下鉄なら、駅まで一緒に行きましょう」
「はい」
明らかに気落ちしている清香を宥めながら、美幸が社屋ビルを出て地下鉄の駅に向かうと、少し躊躇する素振りを見せてから、清香が話しかけてきた。
「あの、藤宮さん。昨日の話なんですけど」
「昨日の話? どの事かしら?」
「その……、藤宮さんがお付き合いしてる課長さんが転勤になって、遠距離恋愛してるって話なんですが」
「ああ……、あの事ね」
よりによってそれの事かと、美幸は内心で何を言われるのかと警戒したが、清香は予想外の方向に話を進めた。
「昨日、その事について矢木先輩と話している藤宮さんを見て、凄いと思ったんです。話を聞く限りでは、全然動じていない様に見えましたし」
「そ、そう?」
「はい。なんかもうお互いの事を分かり切ってるとか、とことん信じ合ってるとか、如何にも年季が違う雰囲気が漂ってていまして」
「……そんな風に見えてたんだ」
内心では(それ、どう見ても誤解だから!)と否定したかった美幸だったが、先輩としての立場と、微塵も疑っていないであろう清香のキラキラした笑顔を見て、曖昧に笑ってみせた。
「はい! さすがにお二人とも真澄さんの部下の方だけあって、急にそんな事態になっても笑って送り出してあげるなんて凄いなぁって、感心してました!」
「いえ、そんなに感心する様な事じゃ……」
(言えない……。便宜上付き合い始めたのが年末からで、ろくに自覚も無いまま城崎さんを送り出しちゃったなんて)
引き攣り気味の笑顔を見せながら、美幸が冷や汗を流していると、ここで急に清香が真顔になって打ち明けてくる。
「実は、私には在学中から付き合ってる人がいるんですけど、その人が一月に急に社内で配置転換になったと思ったら、その直後に香港支社に半年間の出張を命じられたんです」
それを聞いた美幸は、同情しながら問い返した。
「それは大変ね。でもそれなら六月か七月には戻って来るのよね?」
「それが……、当初はそういう話だった筈なのに、何故かそのまま香港支社勤務になってしまいまして。最低一年間は、本社に戻って来れないそうです」
そんな普通だったら有り得ない話を聞いて、さすがに美幸も目を丸くする。
「何それ? 随分無茶苦茶な話ね。彼氏さんの勤め先って、どこのブラック企業なの?」
「小笠原物産です」
「……最近はどこも世知辛いわね」
業界では柏木産業と一・ニを争う優良企業の名前が出てきた為、美幸は思わず清香から視線を外しながら溜め息を吐いた。しかし更に清香の打ち明け話が続く。
「これに関しては、そこはかとなく兄の嫉妬と悪意を感じていまして。聡さんが不憫な上に、申し訳なくて」
「聡さんって言うんだ……。でも幾らあの課長代理でも、柏木産業内の事ならともかく、他社の人事に口出しできないでしょう?」
「そう信じたいです」
「…………」
どことなく諦めた様な口調で語る清香を見て、美幸は思わず清人の顔を脳裏に浮かべた。
(確かにあいつなら、裏で何かやってるかも)
そんな不吉な事を考えてから、それを打ち消す様に美幸が軽く首を振ると、清香は真顔のまま美幸に訴えてきた。
「それで聡さんが大変なのは分かっていたのに、卒業と入社に備えてバタバタしていて、そんな彼を全然気遣ってあげられなかったり、初期研修中にろくに連絡を取らなかったり、友達や真澄さんに聡さんとの事で愚痴ばっかり零してたりしてまして。昨日冷静沈着な藤宮さんを見て、そんな自分の事ばかりにかまけていた我が身を振り返って、心底情けなく思いました」
そんな事を思い詰めた口調で言われた美幸は、少々焦りながら反論した。
「ええと……、やっぱり入社前後は心身ともに忙しないと思うし、彼氏の事が後回しになっても仕方がないと思うわよ? 寧ろ、それで愛想を尽かす様な彼氏だったら、別れた方が良いと思うわ」
「やっぱり藤宮さんは、恋愛面でも私なんかより大人ですよね」
「……どうして?」
急ににこにこしながら言ってきた清香に美幸が戸惑っていると、彼女が落ち着き払って話を続ける。
「昨日の夜電話して、この事を聡さんに謝ったんです。そうしたら『清香が大変なのは分かってるから、別に気にしてなかったが? 寧ろ色々事情がありすぎる柏木産業に入社が決まって大変な時期に、身近にいて気軽に相談に乗ったりできなくて悪いと思ってる』と言われまして」
「あら、なかなか物の道理を分かってる彼氏さんみたいで、良かったわね。さっきは別れた方が良いなんて言ってしまってごめんなさい」
「いえ、藤宮さんの主張は尤もですから。それで私、藤宮さんには、優秀な先達として色々教えを乞いたいと思いまして」
「え? 先達って、何の?」
「何って、恋愛面でですけど?」
咄嗟に意味が分からなかった美幸だったが、清香から当然の如く言われた内容を聞いた瞬間、激しく狼狽した。
「いやいやいや、それって買いかぶりすぎだから! 優秀な先達って言葉は、課長みたいな人に贈られるべき言葉で」
「真澄さんと兄の恋愛話なんて、参考にも何にもなりません」
「……確実に実情を知ってる実の妹に、そこまで言われるって相当よね」
やけにきっぱり清香が断言した為、(本当に課長と課長代理の組み合わせって謎だわ)と再確認しながら、美幸は呆れて溜め息を吐いた。
「それに友人とか知り合いに相談しても、『面倒くさそうだし、この機会に別れたら?』とか『他のいい男を紹介するから』とか、まともに取り合ってくれなくて」
「それはちょっと、人間関係に問題があるかも……」
「そういう訳ですので、藤宮さんが宜しければ、これから時々相談に乗って頂きたくて。信頼関係の構築とか、依存し過ぎない適度な距離感とか、遠距離恋愛ならではの問題について、話し相手になって頂けないでしょうか? 身近に遠距離恋愛をしている人がいないもので。お願いします!」
そんな事を一気に。しかも縋る様な顔付きで言われてしまった為、美幸は少しだけ逡巡してから、了承の返事をした。
「ええと、その……。参考になるかどうかは分からないけど、話し相手位だったら幾らでもなってあげるから、遠慮しないで?」
「ありがとうございます! じゃあ早速、連絡先を交換させて貰って良いですか?」
「ええ」
そして駅に続く地下道の端で連絡先を交換した二人は、改札口の手前で別れた。それから美幸は、(偉そうに云々言える立場じゃないけど、話を聞いたり相談に乗る位ならできるわよね?)と自分自身を宥めながら、使っている路線の改札口へと向かった。
その日、美幸は帰宅して夕飯を済ませて落ち着いてから、城崎に電話をかけた。
「ええと、城崎さん、今はお時間は大丈夫ですか?」
「ああ、構わないが。何かあったのか?」
「なんか予想外の方向に、話が流れました……。ちょっとした同盟発足と言いますか」
疲労感満載の声で美幸が口にした台詞に、素で困惑した城崎の声が帰ってくる。
「え? わざわざ美幸から電話をかけてきたのに、仕事の話じゃないのか?」
それを聞いた美幸は、本気で床にうずくまりたくなった。
(私って、仕事絡みでしか電話しないイメージなんでしょうか!? 恋人としては、完全に清香さん以下じゃ無いですか……)
思わず我が身を振り返り、確かに殆ど仕事絡みが多かったかもと更にへこみながらも、美幸は気合いを振り絞って会話を続行した。
「会社はちょっとだけ関係ありますが、目一杯プライベートです」
「取り敢えず、聞かせて貰おうか」
不思議そうに促されて、美幸は前日の食堂での騒動から、清香と連絡先を交換した事まで、順を追って説明した。それに城崎は時折相槌を打ちながら聞いていたが、美幸の話が一通り終わった所で、しみじみとした口調で感想を述べる。
「……気の毒に」
その台詞に、美幸は全く同感と言わんばかりに語気を強めた。
「ですよね!? 全く、蜂谷の奴!」
「妹さんも災難だろうが、その彼氏の方が不憫だ」
「でも仕事ですから、ある意味仕方がないですよね?」
「いや、多分あのシスコンが、裏で手を回していると思う」
妙に確信した口調で言われた美幸は、去年出会った時にいい年をして手を繋いで歩いていた兄妹の姿を思い返して、思わず声を潜めながら確認を入れた。
「……私もチラッと思いましたが、やっぱりそうでしょうか?」
「十中八九」
「…………」
咄嗟にコメントに困って黙り込んだ美幸だったが、そんな重苦しい空気を払拭する様に、城崎が明るい口調で言い出した。
「うん、まあ……、それを考えたら国内、しかも移動時間が三時間程度で行き来できる所だからな。俺の方がまだまだマシか。確かに上を見るとキリが無いが、下を見てもキリが無いな」
「一人で何を納得してるんですか?」
自分に言い聞かせる様に語られた言葉に、美幸が怪訝そうに問いかけた。それに城崎が気負い無く答える。
「こっちに来て、色々考える事もあったからな。正直『どうして俺がこんな苦労をしなくちゃならないんだ』と悪態を吐きたくなった事もあるし」
「それはそうですよね……」
「だが、自分自身で決めた事だからな。否応無しに社命で海外に出されたり、身内に足を引っ張られている訳でもない。慣れない介護や家事で奮闘しているであろう三田村さんの苦労に比べたら、内容の違いはどうあれ同様の仕事をしている俺の苦労なんて、物の数に入らないさ」
「確かに、そうかもしれません」
「柏木課長が産休に入る時に、課長代理が課長の椅子は自分が守ると言ったそうだが、俺も三田村さんが戻るまで全力で課長の椅子を守って、必ず無事に引き渡してみせるからな」
「…………」
そこで無言になった美幸に、城崎が訝しげに声をかけた。
「どうかしたのか? 急に黙り込んで」
「城崎さん……」
「何だ?」
「格好良いです」
「…………」
無意識に美幸が感想を漏らすと、今度は電話の向こうが無言になった為、不思議に思って呼びかけてみた。
「あれ? もしもし? 電波が切れちゃったかな?」
「……頼むから」
「あ、繋がってた」
「不意打ちで、そう言う事を言うな」
微妙に懇願口調で言われて、美幸は事も無げに言葉を返した。
「はい? 格好良いとかですか? でも『格好良いって言いますよ?』って宣言してから言う物でも無いと思うんですけど」
「……分かった。それに関してはもう良いから」
「それと、さっき『悪態を吐きたくなった』云々と言ってたじゃないですか。愚痴位幾らでも聞きますから、遠慮無く電話してきて下さいね? 年下にそんな事言うなんて格好悪いとか思うかもしれませんが、城崎さんが格好良いのはこれまでのあれこれで知り尽くしてますから、ちょっとやそっと聞かされても、幻滅なんかしませんから!」
笑顔で美幸が宣言すると、電話越しに苦笑する気配が伝わってきた。
「そうか……。うん、元気が出てきた」
「そうですか? それなら良かったです」
「ついでに、もう少し元気が出そうな事を頼んで良いか?」
「何ですか?」
それから城崎は美幸と幾つかの話をしてから、断りを入れてきた。
「じゃあちょっと明日の準備をするから、そろそろ切らせて貰うが」
「そうですね。お仕事頑張って下さい」
「ああ、おやすみ」
そして通話を終わらせた美幸は、忘れないうちにと先程言われた内容をメモし、それを再確認しながら力強く頷いた。
「これでよし。これからちゃんと、こっちから城崎さんを支えてあげないと。私は同じ職場で勤務できて、順風満帆なんだものね」
そう決意も新たに一人頷いた美幸だったが、実はその職場では新たな企みが静かに進行中だった。
「藤宮さん、ここは空いているかしら?」
その声に顔を上げた彼女は、暫く顔を合わせていなかった同期の矢木鈴音と、以前一度会った事がある人物を認めて、少々驚きながら席を勧めた。
「矢木さん、久しぶり。空いてるから大丈夫よ。清香さんは柏木産業に入社したの?」
「はい、藤宮さん、お久しぶりです。初期研修終了後に、生活環境ビジネス部に配属になりました」
そんな二人のやり取りを聞いて、鈴音が意外そうな顔になった。
「何? 二人は知り合いだったの?」
「去年兄と一緒に街を歩いていた時に、偶然藤宮さんとお会いしまして」
「お兄さんが藤宮さんの知り合い?」
「知り合いも何も……。清香さんはうちの課長代理の妹さんだし」
「そうだったの!?」
何気なく口を挟んだ美幸の台詞を聞いて、鈴音が焦った様子で振り返り、その視線の先で清香が困った様に頷いた。
「はい。言ってませんでしたっけ?」
「聞いてないから……。会長と社長の事で散々噂になってたから、敢えて親兄弟について聞こうとは思わなかったもの。ご両親はもうお亡くなりになってるって話だったし」
「色々、すみません」
「やだ、佐竹さんが謝る事じゃ無いから。さあ、座って食べましょう。空いてる所が見つかって良かったわ」
その場に漂いかけた微妙に気まずい空気を払拭しながら、鈴音が清香を促して美幸の正面に座った。美幸も(何だか訳ありっぽいわね)とは思いながらも、深く突っ込む事はせずに、世間話を始める。
「清香さんが入社していたのは知らなかったわ。課長代理は何も言ってなかったし。でも以前会った時には、うちを希望しているとか言ってなかったわよね?」
「はい。元々は司書勤務希望だったんですが、どこも採用枠が少なくて落ちまくったんです。そんな時に真澄さんから、柏木産業に入る気は無いかと言われて」
「課長が? まさかそっちの部で、図書館を運営する話があるの?」
思わず問いかけた美幸だったが、鈴音は笑って手を振った。
「さすがにそれは無いわ。確かに図書館業務の民間委託が広がっていて、うちが業務務内容を広げていると言っても」
「『通信教育や人材派遣、フランチャイズビジネス等の情報収集や分析を手掛けている部署があるけど、そういう所に興味は無い?』と言って、業務内容を細かく教えてくれたんです。総合商社って言うと、漠然と物を売る会社だと思ってましたから、ちょっと驚きました。それで興味を持って、応募してみたんです。かなりギリギリでしたが」
そう説明した清香の後を引き取って、鈴音が感心した様に話を続けた。
「でもさすが柏木課長よね。『入社できても初期研修で好成績を残さないと希望部署に配属されないし、遅かれ早かれ創業者一族って周りに分かるだろうから、コネ入社って陰口叩かれない様に気合い入れて頑張りなさい』って、入社前から個別に課題を出していたそうよ」
「本当?」
「はい。生活環境ビジネス部の関連企業や取引先の名前と住所と電話番号五十件分の暗記とか、タッチタイピングのマスターとか、それから」
「タッチタイピング、できるの?」
「……頑張りました」
驚いて問いかけた美幸に、清香がどこか遠い目をしながら答える。そんな彼女に同情する視線を向けながら、鈴音がしみじみと語った。
「本当に鬼よね、柏木課長。私だって直接関係がある所、十件位しか暗記してないわよ?」
「課長、三桁暗記してるらしいわ」
「……もはや化け物」
「さすが真澄さん」
ぼそりと呟いた美幸の言葉に鈴音は戦慄し、清香が感嘆の声を漏らす。そこで美幸は、先程気になった内容について尋ねてみた。
「さっき矢木さんは『会長と社長の事だけで散々噂に』とか言ってたけど、まだ配属されたばかりなのに、清香さんが会長の孫で社長の姪って周囲に知られるのが早くない? 清香さんは佐竹姓の筈だし」
素朴な疑問を口にすると、鈴音は同感と言わんばかりに深く頷いた。
「そうなのよ。普通なら早々にバレる筈ないんだけど、配属直後からうちの部署を連日こっそり覗きに来る人が居てね。……本人達がそう思ってるだけで、全然こっそりじゃ無かったけど」
「なるほどね。とんだ祖父馬鹿と伯父馬鹿だったわけだ」
呆れ気味に頷いた美幸の斜め向かいで、清香ががっくりと項垂れる。それを気の毒そうに眺めながら、鈴音が話を続けた。
「初期研修中は大勢の前で姿を見せると噂になるからって、控えたらしいんだけど。それで佐竹さんが会長と社長の身内って判明した途端、同期の子達は恐れをなして近付いて来ないし、勘違いした馬鹿な野郎が言い寄って来るしで」
そこで溜め息を吐いた鈴音を見て、美幸は正確に事情を悟った。
(それで職場で孤立しちゃった清香さんを、食事に誘ってあげてるわけだ。初期研修中も、矢木さんは姉御肌で面倒見が良かったものね)
清香と同じ部署の先輩に彼女が居て良かったと思いながら、美幸はなるべく明るい口調で言ってみた。
「まあ、そんなに気にする事もないんじゃない? しばらくすれば噂も無くなるだろうし。現に去年三課に配属された渡部さんも、二課と同じ企画推進部配属って事で、同期の人達から一時期遠巻きににされてたけど、最近では結構頻繁に、一緒に食事や飲みに行ったりしてるみたいよ?」
それを聞いた鈴音が、なんとも言えない表情になる。
「ああ……、企画推進部二課は悪名高いものねぇ……」
「私も初期研修長中にそれを聞いて、本当にびっくりしました。真澄さんは、そんな事一言も言ってなかったので」
「だけど藤宮さんは、そこを最初から第一希望にしてたから、どういう人なんだろうと思ってたわよ」
「生憎、鉄の心臓なもので」
すました顔で言い切った美幸を見て、鈴音と清香が笑い、二人も和やかに食ベ進めた。そして少しした所で、鈴音が思い出した様に言い出す。
「そう言えば、そっちは新年度早々大変だったんじゃない? 係長が課長に昇進して、東北支社に飛ばされたんでしょう?」
「人聞き悪いわよ。『飛ばされた』なんて」
「確かにそうね。ごめんなさい。でも派遣期間もはっきりして無いって聞いたけど?」
軽く顔を顰めた美幸を見て鈴音は素直に謝罪したが、不思議そうに確認を入れてきた。それに美幸が、溜め息交じりに答える。
「確かにそうなのよね……。東北支社の三田村課長が、復帰できる状況が整うまでって事だから。本人は勿論、東北支社で支社長を初め上司や同僚の人達が、課長のご両親が入所できる施設を探してくれているみたいだけど」
その説明を聞いた鈴音が、しみじみとした口調で応じる。
「そうかあ……。一頃は出産離職が問題になったけど、今は介護離職が問題になってるものね……」
「寧ろこっちの方が深刻じゃない? 出産育児は復帰できる目処がある程度立つけど、介護の場合はいつまで続くか分からないし」
「それにその問題に直面するのは、ある程度年齢と経験を重ねた中堅以上になってから、か。確かに企業としても、その年代の優秀な人材に抜けられるのは痛いわよね」
「城崎係長も『今後の柏木産業の方針と企業姿勢を決める試金石的な部署と事業だから、ここで躓くわけにはいかない』って険しい表情で言ってたわ」
そこで鈴音が、笑いながら指摘してきた。
「藤宮さん、『城崎係長』じゃなくて『城崎課長』でしょう?」
「そうだったわ。気を付けないと。昇進辞令が出てから異動と派遣まで、ひと月無かったのよ? 辛うじて送別会はできたけど、もう本当に無茶苦茶よ!」
軽く怒りを露わにした美幸を、鈴音が苦笑いしながら宥める。
「でもそれだけ東北支社内で、その課長さんの人望が厚くて惜しまれてるって事でしょう? 凄いわよね」
「それはうちの課の皆も言ってたわ。『社員冥利に尽きるだろうな』って」
「皆さんって……、ああ、二課の年配の方達の事ね。本来の部署を離れる時は、相当冷遇されていた筈だし」
「そう。何と言っても、うちって『柏木産業の産業廃棄物処理場』だし」
「そこ、笑って言う所じゃないから」
堂々と言い切った美幸を見て、思わず鈴音は噴き出し、大人しく二人の会話に耳を傾けていた清香も笑ってしまった。そして真顔に戻った瞬間、鈴音が新しい話題を出す。
「ところで藤宮さんと城崎課長って、付き合ってなかった? そんな噂を、以前耳にしたんだけど」
(うっ……、聞かれるとは思ったけど)
おせっかいや悪気があって聞いてきたわけではないと分かる鈴音に、どう返せば良いか一瞬悩んだものの、美幸は正直に言葉を返した。
「え、ええと……、その、一応お付き合いしていると言えば言えるかも……」
「じゃあ遠距離恋愛になるの?」
「え、遠距離って言っても、東京から仙台までは新幹線で最短一時間半で、日帰りも十分できる所だし」
「それもそうね」
そこでその話は終わった為、鈴音がどうやら興味本位で尋ねたわけでは無く、本当に話題の一つとして口にしたらしい事が分かって、美幸は内心で安堵した。
(矢木さんが、あまり他人の色恋沙汰に首を突っ込んでくタイプの人じゃなくて良かった。本当によるとさわると親切ごかして『大変ね』とか『別れたの?』とか『向こうで浮気されない様に気を付けなさいね』とか五月蠅いのよ!)
この間、色々と外野から言われていた美幸は、少々イラつきながら残り少ない定食を食べ進めたが、ここで聞き慣れた声がかけられた。
「藤宮先輩、こちらは宜しいですか?」
その声に斜め上に顔を上げた美幸は、トレーを手にした蜂谷を見てから、テーブルの向かい側の二人に声をかける。
「え? ああ、蜂谷。構わないけど……、矢木さん、清香さん、同席させても構わない?」
「構わないわよ?」
「どうぞ」
「ありがとうございます。失礼します」
そして礼儀正しく会釈してから、隣の席に座った彼に向かって、美幸は呆れた様に声をかけた。
「しかしあんたも相当よね。女ばかりの所に堂々と入って来るなんて」
「すみません。今日はちょっと混んでいるみたいで」
それを聞いた美幸が周囲を見回し、いつの間にか食堂内が満席に近い状態になっているのを認めて、納得した顔つきになった。
「確かにそうね。雨でも降り出した?」
「窓から見た感じでは、まだ降り出してはいないと思いましたが」
そんな会話をしてから黙々と食べ始めた蜂谷を見て、鈴音が軽く身を乗り出しながら、美幸に囁いてきた。
「藤宮さん。そちらの方、蜂谷さんって言った? そして、去年入社して配属された人?」
「そう。うちの部署の後輩」
どうやら去年の彼にまつわる噂を耳にしていたらしい鈴音は、注意深く蜂谷の様子を観察してから、再度美幸に囁いてくる。
「……普通の人ね」
「一応、見た目はね」
そんな事をこそこそと言い合っていると、箸を止めた蜂谷が美幸達に向かって微笑みながら軽く頭を下げた。
「藤宮先輩。そちらの方々はお知り合いの方ですよね? ご歓談中、お邪魔してしまってすみません」
「いえ、構わないから」
「こちらこそ、いつも企画推進部二課で、兄がお世話になっています」
鈴音と同様に清香も笑顔で返したが、その台詞を聞いて蜂谷が怪訝な顔になった。
「兄? ええと、瀬上係長か高須さんの妹さんですか?」
「いえ、柏木清人の事です。私は妹の佐竹清香です。今後とも宜しくお願い」
「ごっ、ご主人様の妹姫様ぁぁ――っ!?」
本当に何気なく清香が口にした台詞を耳にした途端、瞬時に顔色を変えた蜂谷が、絶叫しながら箸を放り出して凄い勢いで立ち上がった。
「……え?」
「ちょっと、何!?」
「蜂谷!」
そして鈴音と清香が当惑し、食堂中の視線を一身に浴びる中、蜂谷は泣き叫びながらその場で土下座した。
「すみません! ごめんなさい! ご主人様のお妹君様と同じテーブルに着くなど、身の程知らずにも程がある無礼な振る舞いを! 何卒何卒、お許し下さいませ!!」
「ちょっと蜂谷! 何やってるの、止めなさい!!」
驚いて言葉も無い鈴音達に代わって、美幸は慌ててしゃがみ込み、蜂谷を叱り付けた。しかし狼狽しきっている彼は、全く聞く耳持たなかった。
「平に、平にご容赦をぅぅっ!」
「ボケ蜂谷! ちょっと来い!! ごめん、矢木さん! そのトレー二つ片付けてくれる?」
「……うん、分かったわ」
「ご苦労様です……」
そして言い聞かせても無駄だと悟った美幸は、唖然としている二人に食器の後始末を頼んだ直後、蜂谷の左腕を掴んで強引に引き上げ、火事場の馬鹿力で引きずりながら食堂からの脱出を図った。
「お姫様ぁぁっ! 哀れな下僕を、お許し下さいませぇぇっ!!」
「もう黙んなさい! 一切口を開くな!!」
(あぁぁっ! もうこの後、食堂内がどうなってるか、想像したくない! 本当にごめんなさい、矢木さん、清香さん!)
そして食堂から蜂谷を引きずり出し、二課に戻ってから休憩時間の残り全てを使って蜂谷に説教した美幸は、鈴音達に対して罪悪感を覚えた。その後恐る恐る社内メールで鈴音に連絡してみると、「ちょっと驚いたけど大丈夫。後片付けもしておいたから」との返信がきて、美幸は安堵しながら改めてメールで礼を述べた。
しかし残念な事にこの騒動はこれで終わりにはならず、翌日になって企画推進部二課に、台風が襲来した。
「たのも――っ!!」
終業時間を過ぎても殆どの者が残業している中、企画推進部のドアが些か乱暴に開けられたと思ったら、スーツ姿の女性が勢い良く飛び込んで来た。そして一瞬足を止めて室内を見回してから、二課課長席に向かって突進する。
「何だ?」
「誰だよ、あの子?」
「清香さん!?」
「何だ、藤宮。知り合いか?」
前日に再会したばかりの清香を見て、美幸は目を見張ったが、不思議そうに尋ねてきた高須に答える前に、課長席で兄妹の会話が始まった。
「やあ、清香。久し振りだな。入社しても顔を見る機会が無かったから嬉しいな」
「お兄ちゃん! 一体社内で、何やらかしてんのよ!?」
「何の事だ?」
親し気に声をかける清人に、憤怒の形相で迫る清香。そんな二人を見た企画推進部の面々は、不思議そうに囁き合った。
「え? 課長代理の妹!?」
「そんな子が入社してたのか?」
しかしそんな疑問の声を切り裂く様に、清香の怒声が室内に響き渡る。
「惚けるんじゃないわよっ!! 『会長の孫』で『社長の姪』で『柏木課長の従妹』だって事で、これまで同期とか同年輩の人達に遠巻きにされてたけど、昨日のお昼に『柏木課長代理の妹』って周囲に知られてからは、廊下を歩いてると明らかに役付きの偉そうなおじさん達が、私と顔を合わせた瞬間、廊下の壁にへばり付いて道を譲ってくるのよ! 一体どういう事!?」
「歩きやすくて結構じゃないか」
「……やっぱり、そうなったか」
「おい、藤宮。どうした?」
しかし妹の剣幕に清人は全く動じずに飄々と言い返し、美幸は自分の机で頭を抱え、それを見た高須が不思議そうな目で見やった。
「それにさっき部長にこっそり呼ばれて、『うちの部は本当に後ろ暗い所は無いから。何か誤解がある様なら、是非君からお兄さんに口添えしてくれないか?』って、涙目で懇願されたんだけど! どうして私が、スパイとか監査役みたいな言われ方をしなくちゃいけないわけ!?」
「本当に後ろ暗い所が無いなら、そんな事は口にしないんじゃないのか? 怪しいな」
「問題はそこじゃないでしょ!? 本当に一体、何やってるの!?」
ここで勢い良く机を叩きながら糾弾してきた妹を見上げ、清人が営業スマイルを振り撒く。
「私は日々、真面目に真っ当に業務をこなしているだけですが。それに定時は過ぎましたがまだ業務中ですので、申し訳ありませんがお引き取り願えませんか?」
その白々しすぎる物言いに、清香はプルプルと全身を震わせてから踵を返し、絶叫しながら勢い良く駆け出した。
「まっ、真澄さんに言い付けてやるぅぅっ!! お兄ちゃんの馬鹿ぁぁ――っ!!」
「あ、おい、ちょっと待て、清香!?」
さすがに拙い事を悟った清人が、慌てて腰を浮かせて引き止めようとしたが、ここで急にジャケットのポケットを押さえて動きを止めた。
「…………っ」
その動作を見た高須は、マナーモードにしてあるスマホが震えて着信を知らせたのだろうと見当を付け、美幸に囁く。
「多分来たな、課長から」
「ですよね。蜂谷発課長宛てホットラインは、しっかり起動しているみたいです」
「しかし、あの妹さんも気の毒に……」
「激しく同感です」
そして机の仕切りに隠れている蜂谷と、何やらボソボソと話しながら廊下に出て行った清人を眺めながら、高須と美幸は心底清香に同情する顔つきになった。
それから少しして、仕事の区切りも良く、先程の騒動でこれ以上の残業をする気になれなかった美幸は、潔く仕事を切り上げて職場を後にした。そしてエレベーターで一階まで下りた彼女は、何か話しながら前方を歩いている女性二人に目を留める。
(ええと、多分あれは……)
そして急いで駆け出し、その二人組に追いついた美幸は、背後から控えめに声をかけてみた。
「矢木さん、清香さん、お疲れ様」
すると二人は振り返り、挨拶を返してくる。
「ああ、藤宮さん」
「お疲れ様です。先程はそちらでお騒がせして、すみませんでした」
「ううん、良いのよ。定時過ぎてたし、皆殆ど仕事の後始末をしていた所だったし」
清香の謝罪に軽く首を振ってから、美幸は恐る恐る二人に尋ねた。
「ところで、その……。昨日、うちの馬鹿蜂谷が食堂で騒いだせいで、色々迷惑をかけたんじゃないかと思って、気になってたんだけど……」
それを聞いた鈴音が、少々やさぐれた口調で応じる。
「迷惑? うん……、迷惑って言えば、迷惑かけられたかなぁ……。ちょっと職場全体の、心労が増えたって感じはするけどね……」
「すみません! 本当に申し訳ありません!」
「良いのよ。佐竹さんが悪いんじゃないんだし。だけどね……」
恐縮しきって頭を下げる清香を宥めてから、鈴音は空いている右手で美幸の肩をガシッと掴み、至近距離で凄んでくる。
「後輩の不手際をフォローするのは、先輩の役目だと思うの。この考え、何か間違ってる?」
常には見られないその迫力に押され、美幸は素直に頷く。
「……いえ。ごもっともです」
「そういう訳だから、この際柏木産業随一と名高い合コンプランナーの手腕を、是非とも発揮して頂きたいわ」
「好条件の男性を選りすぐって、生活環境ビジネス部のフリー女性社員の皆様に、ご紹介させて頂きます」
美幸が真顔で申し出た内容に、鈴音は満足そうに彼女の肩から手を離し、清香に向かってにっこり微笑んだ。
「期待してるわ。……さあ、明日からイケメンゲットを糧にして、仕事を頑張るわよ!? じゃあ佐竹さん、また明日!」
「……はい、お疲れさまでした」
どこか茫然としながら頭を下げた清香に背を向け、鈴音は機嫌よく去って行った。その背中を見送りながら、美幸が思わず遠い目をする。
「矢木さん……。去年までは、あんな事を公言するタイプじゃ無かったのに……」
「同感です。本当に申し訳なくて。それに他部署の藤宮さんにまでご迷惑を……」
「それは構わないから。うちの蜂谷が考え無しな事をしたせいで、大事になっちゃったしね。じゃあ帰りましょうか。清香さんも地下鉄なら、駅まで一緒に行きましょう」
「はい」
明らかに気落ちしている清香を宥めながら、美幸が社屋ビルを出て地下鉄の駅に向かうと、少し躊躇する素振りを見せてから、清香が話しかけてきた。
「あの、藤宮さん。昨日の話なんですけど」
「昨日の話? どの事かしら?」
「その……、藤宮さんがお付き合いしてる課長さんが転勤になって、遠距離恋愛してるって話なんですが」
「ああ……、あの事ね」
よりによってそれの事かと、美幸は内心で何を言われるのかと警戒したが、清香は予想外の方向に話を進めた。
「昨日、その事について矢木先輩と話している藤宮さんを見て、凄いと思ったんです。話を聞く限りでは、全然動じていない様に見えましたし」
「そ、そう?」
「はい。なんかもうお互いの事を分かり切ってるとか、とことん信じ合ってるとか、如何にも年季が違う雰囲気が漂ってていまして」
「……そんな風に見えてたんだ」
内心では(それ、どう見ても誤解だから!)と否定したかった美幸だったが、先輩としての立場と、微塵も疑っていないであろう清香のキラキラした笑顔を見て、曖昧に笑ってみせた。
「はい! さすがにお二人とも真澄さんの部下の方だけあって、急にそんな事態になっても笑って送り出してあげるなんて凄いなぁって、感心してました!」
「いえ、そんなに感心する様な事じゃ……」
(言えない……。便宜上付き合い始めたのが年末からで、ろくに自覚も無いまま城崎さんを送り出しちゃったなんて)
引き攣り気味の笑顔を見せながら、美幸が冷や汗を流していると、ここで急に清香が真顔になって打ち明けてくる。
「実は、私には在学中から付き合ってる人がいるんですけど、その人が一月に急に社内で配置転換になったと思ったら、その直後に香港支社に半年間の出張を命じられたんです」
それを聞いた美幸は、同情しながら問い返した。
「それは大変ね。でもそれなら六月か七月には戻って来るのよね?」
「それが……、当初はそういう話だった筈なのに、何故かそのまま香港支社勤務になってしまいまして。最低一年間は、本社に戻って来れないそうです」
そんな普通だったら有り得ない話を聞いて、さすがに美幸も目を丸くする。
「何それ? 随分無茶苦茶な話ね。彼氏さんの勤め先って、どこのブラック企業なの?」
「小笠原物産です」
「……最近はどこも世知辛いわね」
業界では柏木産業と一・ニを争う優良企業の名前が出てきた為、美幸は思わず清香から視線を外しながら溜め息を吐いた。しかし更に清香の打ち明け話が続く。
「これに関しては、そこはかとなく兄の嫉妬と悪意を感じていまして。聡さんが不憫な上に、申し訳なくて」
「聡さんって言うんだ……。でも幾らあの課長代理でも、柏木産業内の事ならともかく、他社の人事に口出しできないでしょう?」
「そう信じたいです」
「…………」
どことなく諦めた様な口調で語る清香を見て、美幸は思わず清人の顔を脳裏に浮かべた。
(確かにあいつなら、裏で何かやってるかも)
そんな不吉な事を考えてから、それを打ち消す様に美幸が軽く首を振ると、清香は真顔のまま美幸に訴えてきた。
「それで聡さんが大変なのは分かっていたのに、卒業と入社に備えてバタバタしていて、そんな彼を全然気遣ってあげられなかったり、初期研修中にろくに連絡を取らなかったり、友達や真澄さんに聡さんとの事で愚痴ばっかり零してたりしてまして。昨日冷静沈着な藤宮さんを見て、そんな自分の事ばかりにかまけていた我が身を振り返って、心底情けなく思いました」
そんな事を思い詰めた口調で言われた美幸は、少々焦りながら反論した。
「ええと……、やっぱり入社前後は心身ともに忙しないと思うし、彼氏の事が後回しになっても仕方がないと思うわよ? 寧ろ、それで愛想を尽かす様な彼氏だったら、別れた方が良いと思うわ」
「やっぱり藤宮さんは、恋愛面でも私なんかより大人ですよね」
「……どうして?」
急ににこにこしながら言ってきた清香に美幸が戸惑っていると、彼女が落ち着き払って話を続ける。
「昨日の夜電話して、この事を聡さんに謝ったんです。そうしたら『清香が大変なのは分かってるから、別に気にしてなかったが? 寧ろ色々事情がありすぎる柏木産業に入社が決まって大変な時期に、身近にいて気軽に相談に乗ったりできなくて悪いと思ってる』と言われまして」
「あら、なかなか物の道理を分かってる彼氏さんみたいで、良かったわね。さっきは別れた方が良いなんて言ってしまってごめんなさい」
「いえ、藤宮さんの主張は尤もですから。それで私、藤宮さんには、優秀な先達として色々教えを乞いたいと思いまして」
「え? 先達って、何の?」
「何って、恋愛面でですけど?」
咄嗟に意味が分からなかった美幸だったが、清香から当然の如く言われた内容を聞いた瞬間、激しく狼狽した。
「いやいやいや、それって買いかぶりすぎだから! 優秀な先達って言葉は、課長みたいな人に贈られるべき言葉で」
「真澄さんと兄の恋愛話なんて、参考にも何にもなりません」
「……確実に実情を知ってる実の妹に、そこまで言われるって相当よね」
やけにきっぱり清香が断言した為、(本当に課長と課長代理の組み合わせって謎だわ)と再確認しながら、美幸は呆れて溜め息を吐いた。
「それに友人とか知り合いに相談しても、『面倒くさそうだし、この機会に別れたら?』とか『他のいい男を紹介するから』とか、まともに取り合ってくれなくて」
「それはちょっと、人間関係に問題があるかも……」
「そういう訳ですので、藤宮さんが宜しければ、これから時々相談に乗って頂きたくて。信頼関係の構築とか、依存し過ぎない適度な距離感とか、遠距離恋愛ならではの問題について、話し相手になって頂けないでしょうか? 身近に遠距離恋愛をしている人がいないもので。お願いします!」
そんな事を一気に。しかも縋る様な顔付きで言われてしまった為、美幸は少しだけ逡巡してから、了承の返事をした。
「ええと、その……。参考になるかどうかは分からないけど、話し相手位だったら幾らでもなってあげるから、遠慮しないで?」
「ありがとうございます! じゃあ早速、連絡先を交換させて貰って良いですか?」
「ええ」
そして駅に続く地下道の端で連絡先を交換した二人は、改札口の手前で別れた。それから美幸は、(偉そうに云々言える立場じゃないけど、話を聞いたり相談に乗る位ならできるわよね?)と自分自身を宥めながら、使っている路線の改札口へと向かった。
その日、美幸は帰宅して夕飯を済ませて落ち着いてから、城崎に電話をかけた。
「ええと、城崎さん、今はお時間は大丈夫ですか?」
「ああ、構わないが。何かあったのか?」
「なんか予想外の方向に、話が流れました……。ちょっとした同盟発足と言いますか」
疲労感満載の声で美幸が口にした台詞に、素で困惑した城崎の声が帰ってくる。
「え? わざわざ美幸から電話をかけてきたのに、仕事の話じゃないのか?」
それを聞いた美幸は、本気で床にうずくまりたくなった。
(私って、仕事絡みでしか電話しないイメージなんでしょうか!? 恋人としては、完全に清香さん以下じゃ無いですか……)
思わず我が身を振り返り、確かに殆ど仕事絡みが多かったかもと更にへこみながらも、美幸は気合いを振り絞って会話を続行した。
「会社はちょっとだけ関係ありますが、目一杯プライベートです」
「取り敢えず、聞かせて貰おうか」
不思議そうに促されて、美幸は前日の食堂での騒動から、清香と連絡先を交換した事まで、順を追って説明した。それに城崎は時折相槌を打ちながら聞いていたが、美幸の話が一通り終わった所で、しみじみとした口調で感想を述べる。
「……気の毒に」
その台詞に、美幸は全く同感と言わんばかりに語気を強めた。
「ですよね!? 全く、蜂谷の奴!」
「妹さんも災難だろうが、その彼氏の方が不憫だ」
「でも仕事ですから、ある意味仕方がないですよね?」
「いや、多分あのシスコンが、裏で手を回していると思う」
妙に確信した口調で言われた美幸は、去年出会った時にいい年をして手を繋いで歩いていた兄妹の姿を思い返して、思わず声を潜めながら確認を入れた。
「……私もチラッと思いましたが、やっぱりそうでしょうか?」
「十中八九」
「…………」
咄嗟にコメントに困って黙り込んだ美幸だったが、そんな重苦しい空気を払拭する様に、城崎が明るい口調で言い出した。
「うん、まあ……、それを考えたら国内、しかも移動時間が三時間程度で行き来できる所だからな。俺の方がまだまだマシか。確かに上を見るとキリが無いが、下を見てもキリが無いな」
「一人で何を納得してるんですか?」
自分に言い聞かせる様に語られた言葉に、美幸が怪訝そうに問いかけた。それに城崎が気負い無く答える。
「こっちに来て、色々考える事もあったからな。正直『どうして俺がこんな苦労をしなくちゃならないんだ』と悪態を吐きたくなった事もあるし」
「それはそうですよね……」
「だが、自分自身で決めた事だからな。否応無しに社命で海外に出されたり、身内に足を引っ張られている訳でもない。慣れない介護や家事で奮闘しているであろう三田村さんの苦労に比べたら、内容の違いはどうあれ同様の仕事をしている俺の苦労なんて、物の数に入らないさ」
「確かに、そうかもしれません」
「柏木課長が産休に入る時に、課長代理が課長の椅子は自分が守ると言ったそうだが、俺も三田村さんが戻るまで全力で課長の椅子を守って、必ず無事に引き渡してみせるからな」
「…………」
そこで無言になった美幸に、城崎が訝しげに声をかけた。
「どうかしたのか? 急に黙り込んで」
「城崎さん……」
「何だ?」
「格好良いです」
「…………」
無意識に美幸が感想を漏らすと、今度は電話の向こうが無言になった為、不思議に思って呼びかけてみた。
「あれ? もしもし? 電波が切れちゃったかな?」
「……頼むから」
「あ、繋がってた」
「不意打ちで、そう言う事を言うな」
微妙に懇願口調で言われて、美幸は事も無げに言葉を返した。
「はい? 格好良いとかですか? でも『格好良いって言いますよ?』って宣言してから言う物でも無いと思うんですけど」
「……分かった。それに関してはもう良いから」
「それと、さっき『悪態を吐きたくなった』云々と言ってたじゃないですか。愚痴位幾らでも聞きますから、遠慮無く電話してきて下さいね? 年下にそんな事言うなんて格好悪いとか思うかもしれませんが、城崎さんが格好良いのはこれまでのあれこれで知り尽くしてますから、ちょっとやそっと聞かされても、幻滅なんかしませんから!」
笑顔で美幸が宣言すると、電話越しに苦笑する気配が伝わってきた。
「そうか……。うん、元気が出てきた」
「そうですか? それなら良かったです」
「ついでに、もう少し元気が出そうな事を頼んで良いか?」
「何ですか?」
それから城崎は美幸と幾つかの話をしてから、断りを入れてきた。
「じゃあちょっと明日の準備をするから、そろそろ切らせて貰うが」
「そうですね。お仕事頑張って下さい」
「ああ、おやすみ」
そして通話を終わらせた美幸は、忘れないうちにと先程言われた内容をメモし、それを再確認しながら力強く頷いた。
「これでよし。これからちゃんと、こっちから城崎さんを支えてあげないと。私は同じ職場で勤務できて、順風満帆なんだものね」
そう決意も新たに一人頷いた美幸だったが、実はその職場では新たな企みが静かに進行中だった。
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