猪娘の躍動人生

篠原皐月

4月 虎の威を借る狐

 社内便で二課宛ての郵便物が課長席に届けられると、それにざっと目を通した清人が、妙に楽しそうに由香に声をかけて呼び寄せた。彼女が無表情で課長席へ向かう中、他の面々がここ暫くの恒例行事かと戦々恐々としていると、予想に違わず清人の皮肉が炸裂する。


「渋谷さん。これがなんだか分かりますか?」
「……宛先不明の為、差出人に返却された封書です」
「この中に入っている書類と資料を送って欲しいとお願いしたのは、確かあなたにだったと思いますが?」
「はい。それで以前からの取引先なので、宛名カードなど無粋な物など使わず、手書きで表記する様に指示を受けました」
 顔を強張らせながら言葉を返す由香に向かって、ここで清人はわざとらしく溜め息を吐いた。


「残念でした。せっかく細やかな心配りを先方に示す筈が、いたずらに日数を浪費する羽目になるとは……」
「ですが! 渡された用紙に書いてあった住所は、確かにこの住所で」
「私は正しい住所が記載された物を渡しましたが」
「そんな筈は!」
「それではその用紙はどこにありますか?」
「それは……、用が済んだので廃棄しまして……」
 そう言いよどんだ由香を見て、清人は皮肉っぽく笑った。


「それではどちらの主張が正しいのか分かりませんが、そもそも二十三区内に所在している会社の住所なのに、郵便番号が1ではなく2で始まる時点でおかしいと思わなければいけないのでは? 加えて赤坂は江東区では無く港区に属しているかと思いましたが。しかも番地が1―2―3―4―5とどこまで続くやら。こんなのを平気で書いて何も感じないなんて、迂闊で注意力散漫で社会常識が欠如していますね」
 清人がそう言ってせせら笑った為、他の者は(それは確かに弁解できないな)とうなだれ、由香はさすがに怒りを露わにした。


「確かに迂闊だったかもしれないけど、何でそこまで言われなくちゃならないのよ!」
「これは、小耳に挟んだ噂ですが……。某大企業の某女性課長が平社員の頃に、愚鈍な上司にでたらめな住所が記載された紙を渡されて、『ここに郵送しておけ』と指示をされたそうです」
「…………」
 これまで、似た様な話を聞かされてきた由香は、表情を消して黙り込んだ。そんな彼女を面白そうに眺めながら、清人が淡々と話を続ける。


「もっともその女性の場合は、常に取引先の住所や連絡先を頭に叩き込んでいましたので、間違いが書かれた紙など無視して、全く問題無く郵送したそうですが。まあ、当然ですよね」
 そこで如何にも馬鹿にした感じで笑いながら、清人は由香を手で追い払う真似をして促した。


「さあ、渋谷さん。さっさとそれを郵送して下さい。それともバイク便にしましょうか? 時間を無駄にしてしまいましたしね」
「……正確な住所を調べて、早速手配します」
「宜しく。席に戻って良いですよ」
 悔しそうに一礼し、封書を手にして席に戻っていく由香を見ながら、この間の課長席でのやり取りに聞き耳を立てていた美幸は、座ったまま椅子を寄せて、隣の席の高須に囁いた。


「高須さん、さっきのあれをどう思います?」
「どうって……、課長代理がわざと渋谷さんに間違ってる資料とかを渡して色々やらせて、その結果失敗した事をネチネチ当てこすってるんだよな? これまでにも見積書の桁が間違ってたり、ファイルの分類がバラバラだったり、製造を依頼したサンプルの規格が違ってたり……。こんな露骨な嫌がらせ、いつまで続くんだろうか?」
 心底うんざりした顔で愚痴を漏らした高須だったが、美幸は納得しかねる顔付きになった。


「だけど、どうやって渋谷さんのミスを誘発できるんでしょうか? 渋谷さんがこれまでに『この通りやりました』って出した物は、正規の規格や正しい数字が記載されている物ばかりで、それを認めた後、渋谷さんが再度頭を下げる事態になってましたが。幾ら何でもこれまでの全部が、彼女のミスとも思えませんし……」
「それは分からないが、例えば消えるインクを使っていたり、予め複数の書類を用意しておいて、こっそり差し替えたりとか? あの課長代理なら、全員の机の引き出しの合鍵を作っていても、俺は驚かない」
「……凄く納得できちゃいました。したくありませんでしたが」
 高須が真顔で主張した内容について、美幸はげっそりしながら同意した。するとそこで彼が、しみじみとした口調で話題を変えてくる。


「だけど課長代理がこの前からあれこれ言ってる『呆女性課長の平社員時代の話』。あれは絶対、課長が営業三課にいた頃の話だよな?」
 それを聞いた美幸は、憤慨しながら頷いた。
「どう考えてもそうですよね!? 本当にあの万年課長係長コンビ、ろくでもないわ!」
 しかしその訴えに、高須はどこか達観した表情で続ける。


「いや……、俺はむしろ、そんなろくでもないチマチマした嫌がらせを悉く看破して、何事も無かったかの様に笑顔で仕事をこなしていたであろう課長を、改めて尊敬した。あの人の下で働けて、幸運だと思う」
「……そうですね」
「それを考えると、課長と比べて渋谷さんが小者過ぎて、気の毒なんだ」
 僅かに眉根を寄せながらの高須の台詞に、これまで清人からされてきたあれこれを思い返した美幸は、溜め息を吐いた。


「確かに……。あの課長代理を向こうに回すのは、きついですよね……。特に精神的に」
「だけど、解せないんだよな……」
「何がですか?」
「幾ら何でも、こんな理不尽な事が続いたら、係長が意見位はするかと思うんだが、この間ずっと沈黙してるだろ?」
 その指摘に、思わず美幸も首を傾げる。


「……そう言えばそうですね。らしくないと言えば、らしくないです。確かに例の談合話の時は、係長は裏が分かっていた上で黙っていましたが、それとも違う気がしますし」
「だよな……。何かすっきりしないんだよ」
 そこで話を終わらせて美幸達は中断していた仕事を再開したが、それからも美幸は仕事の合間に密かに考え込んでいた。


(係長の様子がおかしくなったのは、いつ頃からだったかしら? この一ヶ月以内だと思うんだけど……)
 しかし幾ら考えても明確な答えやその理由が分からなかった為、美幸はその日の夜、城崎に電話で尋ねてみる事にした。


「城崎さん、聞きたいことがあるんですけど」
「何かな?」
「渋谷さんに対する、あの課長代理の嫌がらせをどう思いますか?」
「どうって……」
 挨拶もそこそこに美幸がそう切り出すと、彼女からの電話を受けて嬉しそうに応答していた城崎が、途端に慎重な声音になった。美幸はその微妙な変化に気が付いたが、構わずに話を続ける。


「あれは絶対、腹いせと八つ当たりですよね? 課長が営業三課在籍中に受けてスルーした嫌がらせの数々を、今になって課長代理が渋谷さんを相手にやって、鬱憤晴らしをしてるだけじゃないですか。本っ当に課長が絡むと、ちっさい男ですよねっ!?」
 吐き捨てる様に美幸が同意を求めると、城崎が何やら色々諦めた様な声で呟く。


「そうだな……。課長が絡むと、本当に一気に心も視野も狭くなるよな、あの人は……」
「そこまで分かってるなら傍観していないで、城崎さんから課長代理にガツンと言ってやって下さいよ!」
 しかし城崎はそれにすぐには答えず、少ししてからぼそりと口にした。


「その……、美幸」
「なんでしょうか?」
「あの人のあの行為で、二課の空気がギスギスしているのは良く分かっているし、倫理上もどうかと思うんだが……」
「はい、それで?」
 再び途切れた会話に、美幸が首を傾げていると、電話越しに城崎の沈痛な声が伝わってくる。


「すまん……。ちょっと今、他人の事に関して色々配慮する精神的余裕が無い」
「はい?」
「一通りの嫌がらせが済んだら落ち着くだろうし、少なくとも課長が復帰するまで渋谷さんを辞めさせないと言っていたから、勤務に関しては問題ないと思う。もうちょっと辛抱してくれ。それじゃあ、おやすみ」
「あ、ちょっと、城崎さん!? まだ話は終わって無いんですけど!」
 言うだけ言って切る気配を察した美幸は慌てて呼びかけたが、既に城崎は通話を終わらせた後だった。


「……切れた。まさかの放置状態」
 呆然と携帯を見下ろした美幸だったが、どうせすぐにかけ直しても相手があっさり事情を吐かない事は分かっていた為、追及を諦める事にする。


「本当に、何なのよもう! 課長代理の奴、裏で何をこそこそやってるわけ!?」
 そして八つ当たり気味に携帯をホルダーに差し込んで充電を始めた美幸だったが、その翌日に誰もが予想し得なかった騒動が勃発した。




 ※※※




「……お待たせしました。柏木産業、企画推進部二課、藤宮です」
 翌朝。一番乗りでの出勤直後、課長席の電話が鳴り響いた為、慌てて駆け寄った美幸が受話器を取り上げて応答すると、幾らか安堵した様な口調で声が返ってきた。


「……藤宮さん? 渋谷ですけど」
「あ、おはようございます、渋谷さん。どうかされましたか?」
「ええ……、ちょっと風邪をひいてしまったみたいで、熱が出てるの。今日と明日は休むと伝えて貰えるかしら?」
「はい、分かりました。明日までお休みですね、他の方に伝えておきます。お大事に」
「ええ、宜しく」
 事務的に会話を終わらせた美幸は、受話器を戻すと、まっすぐ壁に掛けてあるホワイトボードに向かった。そして課員全員の名前が書いてある、各自の一日の予定や動向を記載しておくそれに、由香の欄に《有休》と、翌日の日付も併せてマジックで記入する。


「渋谷さんは有休っと。精神的に色々きてたみたいだったから、体調も崩れるわよね。気持ちは分かるわ。……あいつ、陰険だし」
「おはようございます」
「うひゃあぁぁっ! お、おはようございますっ!」
 突如として至近距離から聞こえてきた声に、美幸は悲鳴を上げながらも挨拶を返し、勢い良く百八十度回転してホワイトボードにへばり付いた。その反応を見て、清人が苦笑する。


「藤宮さんは、今日も元気ですね。ところで『陰険』と言うのは誰の事ですか?」
「そっ、それは……」
 この場をどう切り抜けようかと、ダラダラと冷や汗を流しながら考えを巡らせた美幸だったが、ホワイトボードに視線を向けた彼が、不思議そうに問いを発した。


「おや? 渋谷さんは今日お休みですか? しかも明日まで?」
「はい。先程電話で連絡を受けたのですが、風邪をひいて発熱しているそうです。予め明日も休みたいと言ってくる位ですから、すぐに下がる様な感じでは無いみたいですね」
「そうですか、分かりました。連絡ありがとうございます」
 そこであっさり清人は課長席に向かった為、美幸は胸をなで下ろした。


(話題が逸れて良かった。朝からネチネチ言われたら、たまらないもの)
 そして彼女も自分の机に向かい、早速仕事の準備や作成しておいた書類のチェックに取りかかった。それに集中していた為、清人が机に鞄を置いてすぐにどこかへと姿を消し、始業時間まで戻ってこなかった事に関して、不審にも思わなかった。
 そして十時少し前の時間帯に、騒動が勃発した。


「このろくでなし!! あたしの服はどこよっ!!」
 勢い良くドアが開けられたと思ったら、般若の形相の由香が企画推進部の部屋に乱入し、まっすぐ清人に向かって突進した為、居合わせた者達は全員驚いた。


「え? 渋谷さん?」
「今日は休みじゃ……」
「それに、何でそんな格好で出社?」
 休みの筈の彼女が出社してきた事は勿論の事、明らかにノーメイク、いつも背後で束ねている髪はバサバサ、ボーダー柄のルームウェアの上下に素足での登場ときては、異常を感じない方がおかしかったが、いきなり罵倒されたにも関わらず、清人は涼しい顔で問い返した。


「おや、渋谷さん。風邪は回復したんですね、良かったです。しかしその服装はどうかと思いますよ? 社会人の常識として、せめて靴位は履いて頂きたいのですが」
「しらばっくれないでよ! 何なの、いきなり部屋に乱入して、私をす巻きにして運び出したあの連中は! このビルの前の歩道に私を放り出しながら、あんたが私の服を持ってるって言ったのよ!?」
 盛大に両手で課長席を叩きつつ、怒声を放った由香だったが、清人は僅かに驚いた表情を見せながら、白々しく述べた。


「それはそれは……、通りすがりの無頼漢にしては、随分と物が分かっている連中ですね。確かに揃えてありますよ? 寝ぼけて部屋着のまま出勤する迂闊過ぎる部下が、万が一いた時の為に準備しておく位、有能な上司としては当然ですから」
「ふざけんじゃないわよ!! あんた、こんな事して良いと思ってるわけ!?」
「不思議な事を言いますね。私はとことん間抜けな部下の、身体に合う衣類を準備しただけですが? それが何か罪に当たるとでも?」
 薄く笑いながら、座ったまま軽く首を傾げた清人に、床は怒りで顔を赤くしながら糾弾する。


「っ!? 私の部屋の鍵を開けて押し入って、私を拉致した事に決まってるでしょう!?」
「証拠は?」
「え?」
「私は定時前に出勤してから、ずっとここで勤務していましたが?」
「あんたが誰か他の奴に指示して、やらせたに決まってるでしょう!?」
「ですから、その証拠は? 警察に知らせて、調べて貰っても構いませんよ?」
「…………」
 淡々と反論されて、由香は黙り込んだ。そして度肝を抜かれたまま事の推移を見守っていた面々が、声を潜めて囁き合う。


「あの人が、下手な証拠なんて残す筈ないよな?」
「元通り鍵も閉めて、監視カメラの映像なんかも無いだろ」
「このビルの前とかエントランスだったら監視カメラに映り込むだろうけど、歩道にって言ってたし」
「絶対カメラの死角、把握してるぞ」
「あの課長代理が、裏で糸を引いてるんだからな……」
「可哀想に渋谷さん。あの格好で一階からここまで上がって来るのに、どうしても他の社員の目に留まってる筈だし」
「昼休みには社内中に、奇行の噂が飛び交ってるな」
 周りの者達が囁いている内容については、自分でも見当が付いたらしく、黙ったままの由香の顔色が今度は青くなった。するとここで清人が、如何にも困ったものを見る様な目つきで声をかける。


「それでは無事、仮病も回復したみたいですので、仕事をお願いします。ここにあなたの貧相な体に合わせた下着から靴に至るまで一式を揃えてありますので、どうぞ使って下さい。ああ、私が勝手に準備した物なので、代金は結構ですし返却も結構ですから」
「…………」
 そう言って自分の斜め後方に、いつの間にか置いてあった小型のスーツケースを指さしながら口調だけは親切に告げた清人を、由香がプルプルと全身を震わせながら無言で睨み付ける。その光景を見た面々は、本気で頭を抱えた。


「うわぁ……、『貧相な体』とか言っちゃったよ……」
「もう、完全にセクハラだろ」
「だがそんな事、誰も課長代理に指摘できないぞ。お前、するか?」
「冗談だろ!?」
「そう言えば、あのスーツケース、何日か前から置いてあったよな?」
「ああ、何だろうとは思ったが、課長代理の私物だと思ってたから聞かなかったんだが……」
「そろそろ彼女が嫌気がさして、ズル休みするのを見越して、嫌でも出社する様に手配してたって事だよな?」
「本気で課長が復帰するまで、生かさず殺さず彼女をこき使う気だぞ」
 そんな囁き声が漏れる中、由香が地を這う様な声で呻いた。


「……使わせて頂きます」
 何とか声を絞り出した感の彼女は、軽く清人に一礼してからその机の横をすり抜け、窓際に置いてあったスーツケースのハンドルを握ると、無言でそれを引きながら部屋を出て行った。
 それを何とも言えない顔で見送った美幸が、自分の席に座ったままこの事態を静観していた様にしか見えない城崎の机に視線を向けながら、小声で悪態を吐く。


「何やってんのよ、あのど腐れ野郎……。女性の一人暮らしの部屋に押し入って拉致して放り出すって、明らかに犯罪行為でしょうが! それなのに係長は、どうして黙ってるのよ? ここは課長代理に、ビシッと言ってしかるべきじゃないの?」
「それには俺も同意見だ。だから藤宮、ここはお前に任せた」
 座ったまま椅子少し滑らせて来た高須が、真顔で自分の肩を叩いた為、美幸は顔を引き攣らせた。


「……どうして私なんですか?」
「お前だったら、虎の威を借る狐になれる。この間のあれこれから察すると、課長代理はお前の姉夫婦に対しては頭が上がらないらしい。と言うか、マジで腰が引けてる」
「確かに、それは何となく察していますが……」
「だからこの二課の中で、あの課長代理に意見できるのは、真の意味でお前だけだ。係長も含めて他の人間がやったら、返り討ちか闇討ちか配置転換か即解雇だ。大丈夫だ、お前ならできる。自分を信じろ!」
 力強く断言された美幸は、(虎の威を借る狐になれって)とちょっと遠い目をしてから、素早く文章を打ち込んでメールを一通送信してから、徐に立ち上がった。


「ちょっと行って来ます」
「頑張れ。陰から応援してるぞ」
「……本当に陰からですよね」
 課長席から直接見えない様に、上半身を伏せながら顔を上げて激励してきた高須に文句を言う気も起きず、溜め息を一つ吐いてから彼女は清人の元へと向かった。


「課長代理、少しお時間を頂いても宜しいでしょうか?」
「はい。何でしょうか、藤宮さん」
「あなたが証拠を残る様な仕事をしたりさせたりする筈は無いので、告発しても明るみに出ないでしょうが、今日渋谷さんにしたあれこれは、明らかに犯罪行為です。以後、この様な事は慎んで下さい。色々な方面に、支障が出るかと思いますので」
 何気なく顔を上げた清人に対して、美幸が真っ向から非難の声を上げた瞬間、広い企画推進部の室内全体に緊張が走り、静まり返った。しかしそれに対して、清人が微笑み返す。


「面白い事を仰いますね、藤宮さん。色々な方面とは、具体的には?」
「企画推進部二課の評判が落ちます」
「既に業績はともかく、社内評判はあまり良くないと思うのですが」
「それでも、です。それに私の家での評判ですが」
「……どういう意味でしょう?」
 ここで清人が笑みを消し、剣呑な視線を自分に向けてきたのを認めた美幸は、(ビビるな、美幸! ここで手を抜いたら、なめられっぱなしだからね!?)と自分自身を内心で鼓舞しながら、話を続けた。


「例えば、ですが……。一家揃っての家族団欒の時に、就職してからは良く会社での事を話題に出すんです。そこで『明らかな犯罪行為を目にして、出勤するのが怖いの』とかうっかり零したりしたら、一番上の姉が『まあ、大変。あなた、どうしましょう』とか義兄に相談しないかな~、とか」
「藤宮さんの義理の兄上は、お若いのに大企業で既に役職付きの立場でいらっしゃいますから、清濁併せ持つ潔さを、心得ていらっしゃると思われますよ? その様な事を口にしたら、『それ位で出社拒否してはいけないよ』と、やんわりと窘められるのではないですか?」
 余裕で言い返してきた清人に、ここで美幸は不気味な笑みを見せた。


「そうかもしれませんね。例の談合の屑仕事を任せられた時も、私が知る前に義兄は正確に裏を把握していましたが、私には黙っていましたし」
「そうだったんですか?」
「ええ。ですがあの後、『美幸ちゃんが成長する為だと思って、敢えて口にはしていなかったが、頑張ったのに残念だったね』と謝ってくれた上に、高級フレンチの一番高いフルコースを奢ってくれました。その時に言ってたんですよね……」
「何をです?」
 思わせぶりに話を途切れさせた美幸に、清人が僅かに眉を顰めると、彼女は彼から目を離さないまま淡々と言ってのけた。


「『大目に見るのは今回だけだから。今後美幸ちゃんに理不尽な仕事を強要したり、目の前で不快な事をしているのを目にしたら、いつでも俺に言うんだよ? 一か月以内に、美幸ちゃんの半径二百キロ以内に、そいつが存在しない様にしてあげるから』って。冗談だと思われるなら、実行して頂いても私は痛くも痒くもありませんが」
「…………」
 それを聞いた清人は、無言で目を細めた。その物騒な気配に周囲が戦慄する中、美幸は臆せずわざとらしく付け加える。


「ああ、そう言えば、一番上の姉もその直後に言ってたんですよね。『今回の事で、ちょっと柏木産業の仕事内容について興味が出てきたから、課長さんとお話ししてお友達になって貰ったの。私、会社勤めなんかした事ないから、色々興味深いお話が聞けて嬉しいわ』って」
「……聞いていないが」
 微妙に驚いた表情を見せながら呟いた相手に、美幸は真顔で言い返す。


「女同士の交友関係にまで、一々言わないんじゃありません? それに姉が『ご主人には内緒にしておきましょうね』って課長を丸め込んでいても、私は全然驚きません」
「…………」
「それで、どうされますか? 今後、我が家の中での企画推進部二課の評判……、というか、主に誰かさんの評価を地に落としたくなかったら、これからどうすれば良いのか、東成大卒の英邁な課長代理であれば、これ以上余計な事は言わなくてもお分かりだとは思いますが」
「…………」
 そこで無言で睨み合う事数秒。何かに気付いた清人が、上着のポケットからスマホを取り出し、そのディスプレイを見てから、僅かに眉を顰めて美幸を見返した。


「明らかな不法行為は慎む」
「ご理解頂けて嬉しいです。それでは失礼します」
 言質を取り付けた美幸はそれ以上ごり押しせず、一礼して席に戻った。と同時に清人が席を立ち、無言のまま廊下へと出て行く。それを見送ってから、美幸は緊張の糸が切れた様に自分の机に突っ伏した。


「つっかれた~」
「お疲れ! よくやったぞ、藤宮! 今日の昼飯は奢ってやる。ちょっと高い所でも良いぞ!」
「そうですか、それじゃあ遠慮なく。……あ、そうだ、蜂谷! グッジョブ!」
「ありがとうございます、藤宮先輩!」
 何かに気が付いた様にのろのろと身体を起こし、机の衝立越しに少し離れた蜂谷の席に目をやった美幸は、目が合った彼に向かって親指を立てた拳を突き上げながら、声をかけた。それに喜色満面でぶんぶんと右手を振って応えた彼を見て、高須が怪訝な顔になる。


「え? 蜂谷がどうかしたのか?」
「直談判に行く前に、蜂谷に頼んで課長に事の次第をご注進させたんですよ。最近知ったんですけど、何か課長がリアルタイムで課内の報告を受ける為に、あいつに特別なメルアドを教えてるみたいで。さっき課長代理が席を立ったのって、事実を知った課長からのお叱りメールか電話ですよ」
「おい、良いのか? 課長、そんな特殊なメルアドを蜂谷に教えて」
 思わず驚いて尋ねた高須だったが、美幸は若干遠い目をしながら淡々と述べた。


「あいつ、根っからの忠犬ですから、他に漏らしたりしませんよ。それに変に頭が切れない分、事実をそのままスパッと報告しますし。あれですよ、『馬鹿と鋏は使いよう』って言いますよね?」
「……お前も課長も、結構酷いな」
 高須が思わずうんざりした顔で囁いた時、着替えを終えた由香が強張った表情でスーツケースを引きつつ戻って来た。
 室内にいた全員が、何となく気の毒さと申し訳なさから彼女から目を逸らしていると、理彩が無言で立ち上がり由香に声をかける。そして手招きしながらロッカーに移動し、自分のロッカーを開けて何かを取り出した彼女は、由香に話しかけながら何かを手渡した。それを神妙に聞いていた由香は小さく頭を下げ、スーツケースを席近くの壁際に残してから再び廊下に出て行ったが、彼女が近くを通り抜けた時にその手にあった物を見て、理彩が何を言ったのかを悟った。


「仲原さん、流石です。あの課長代理でも、流石に化粧道具一式はすっかり忘れてたんですね」
 入室して来た由香を見ても、自分が咄嗟に気が付かなかった事に気付いて、すかさずポーチを貸した理彩に対する褒め言葉を美幸が口にすると、隣の席に戻った彼女が皮肉っぽく返した。


「寧ろ、それまで抜かりなく入っていたら、課長代理の女装癖を疑うわ。でもしっかりスーツケースに部屋の合鍵と、昼食や帰宅に必要な額の現金は入っていたそうだから、流石よね」
 それを聞いた美幸は、無言で顔を引き攣らせたが、その背後から高須が声をかける。


「藤宮、お前の所にも係長からメールが入ってる筈だ。確認しろ」
「え? あ、はい。今見ます」
 何か業務連絡かと、慌てて理彩からディスプレイに視線を戻した美幸は、忽ち胡乱な顔つきになって高須に囁いた。


「何なんですか、これ。単なる食事会のお誘いですか?」
「場所と時間を見るとそうとも思えるが、『この間の謝罪と今後の説明をしたいので、是非参加して欲しい』って書いてあるぞ? それに送信先が瀬上さん、仲原さん、俺にお前に、渋谷さんに蜂谷だし、どう考えても、ただおいしく食べて飲む会じゃ無いよな?」
「パスして良いですか?」
「お前、ちゃんと読めよ。『日程的に参加が難しいなら、個別に説明する』って書いてあるだろ。下手に断ったら、どんな面子の時にどんな話をされるか想像できないぞ?」
 それでも良いのかと暗に問いかけられた美幸は、確かにそれはちょっと嫌かもと思い直した。


「……出ますよ。でも、何でいきなり今日なんですか」
「そりゃあ、お前が捨て身の行動に出たから、流石に係長が立場無くしたからじゃないのか? 『費用は全額こちらの負担』って書いてあるし」
「責任感じるなら遅いですよ。全く。今夜はたくさん飲んで食べますからね」
「そうしろ」
「その前に、お昼も手を抜きませんから。私、ダイエットなんてした事ありませんので」
「……分かった。昼も好きなだけ食え」
 うんざり顔で頷いた高須から理彩に視線を向けた美幸は、(当然三人の様子が変だった、と言うか何となく精彩を欠いていた理由も説明して貰えるんでしょうね)と無表情で仕事をしている彼女を観察しながら、一体何を言われるのかと疑問に思いつつ業務を再開した。



「猪娘の躍動人生」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「現代ドラマ」の人気作品

コメント

コメントを書く