猪娘の躍動人生
10月 事の後始末
「藤宮。調子はどうだ?」
「もう起き上がってて良いの? 今回は災難だったわね」
午前中の面会時間になるなり、ノックと共に瀬上と理彩が顔を見せた為、美幸はさっそくリモコンを操作してリクライニングベッドの上半身部分をゆっくりと起こし、二人を出迎えた。
「お二人とも、来て下さってありがとうございます。念の為朝一でまた検査をしましたけど、骨折と打撲の他は異常ありませんでしたし、大丈夫ですよ? 昼食は間に合いませんでしたが、夕食からは普通食にして貰えますし」
予想以上に元気な様子の美幸に、二人は揃って安堵した表情になった。
「何にせよ、それ位で済んで良かったな」
「本当に強運よね。あんたはなんとなく怪我をしてても普通に食べる気がしたから、ラルクのミニコロネとクレムシドのティーバッグを持って来たわ。好きでしょ?」
「うわぁい! ありがとうございます! 朝はお粥だけで、全然物足りなかったんです! 昼も軽めって聞いて、夕飯まで我慢できないって思ってたところで」
途端に目を輝かせた美幸に、二人は思わず顔を見合わせて笑う。
「食べても良いなら、早速出すわよ? ここに来る途中で、給湯室の場所は確認してきたし」
「お願いします。是非!」
「はいはい。あったら人数分、カップを借りたいんだけど」
「はい、そこの収納棚に、昨日美野姉さんが取り敢えず紙コップや紙皿の他、フォークやスプーンも置いて行った筈ですから」
説明を受けた理彩が扉を開け、必要な物を取り出して廊下に出て行ってから、瀬上がテーブルの上に箱を置き、中身を紙皿に移しつつ美幸に問いかけてきた。
「藤宮。昨日の話は聞いたか?」
「山崎さんの事で係長が営業一課に怒鳴り込んだ事は、美野姉さんと高須さんから。本人の知らない所で、私と係長が付き合ってる話になってる事は、係長から聞きましたが」
「それだけか?」
「……他にも何かあるんでしょうか?」
不思議そうに確認を入れてきた瀬上に、美幸も怪訝な顔になる。その表情を見た瀬上は、若干言い難そうに話を続けた。
「連絡を受けた美野さんが営業一課に駆け付けた時、ちょうど戻って来た山崎を捕まえて詳しい事情を聞こうとしていた浩一課長や柏木課長代理に突進して、火事場の馬鹿力で山崎を横取りしたんだ。挙句、こちらに引き渡せと迫った係長を『うるせえぞ、ウドの大木は引っ込んでろ!』と一喝してから、引き倒した山崎に馬乗りになって、そのまま般若の形相で罵倒しまくった事は?」
瀬上がそこで美幸の反応を待つと、病室内に静寂が満ちた。そして少ししてから、美幸が顔を引き攣らせながら口を開く。
「…………初耳です。本人も高須さんも、そんな事一言も言っていませんでしたが」
「本人が自分から言うとは思えんし、高須も口を噤んだな。一課の人間に後から聞いたら、相当凄かったらしいぞ? いつ息継ぎしてるんだって周りが疑問に思う位悪口雑言を垂れ流し、日本語で語彙が尽きたら英語、ドイツ語、フランス語、ポルトガル語に切り替えて、小一時間続けたそうだ。去年、藤宮が元旦那にホテルに連れ込まれた時に遭遇した折、切れると突拍子も無い事をする、怖い人だとは思っていたが……」
「居合わせた営業一課の皆さん、きっとドン引きしてましたよね……」
(美野姉さん……、どうしてそんなにオンとオフが極端なの? それにそれを目の当たりにしても、昨日の態度は変じゃなかったよね、高須さん。本当に寛容だわ)
内心で呻いた美幸だったが、瀬上は冷静に説明を続けた。
「それからその事件の時、ちらっと顔を合わせたお前のお義兄さんが、仕事帰りに二課にやって来たんだ。課長代理も係長も営業一課に出向いたきり戻って来ないし、俺が案内したら……」
そこで何とも言い難い顔付きで黙り込んだ瀬上を見やった美幸は、話の先を促した。
「どうかしたんですか? 秀明義兄さんが顔を出して、文句を言った事は聞きましたが」
「その藤宮さんが、『この度は、義妹がお世話になりました』と無表情で挨拶した後、『浩一、そんなに全国津々浦々武者修行に出たいなら遠慮するな。清人、お前早くも嫁に愛想が尽きたと見えるな。城崎、そんなに俺の義妹が気に入らないなら、無理に同じ職場で働かなくても良いぞ? そうだ。三人が後腐れ無く再出発できる様に、ここは一つ柏木産業を潰すか』なんて物騒な事を口走った途端、『誠に申し訳ありませんでした!』と異口同音に叫んだ浩一課長と課長代理と係長が、一斉に土下座したんだ」
「はぁ? どうしてあの三人が、お義兄さんの冗談を真に受けてそんな事をするんですか? 殴られたり蹴られたりしたわけじゃありませんよね? お義兄さんは紳士なのに……。皆誤解してるわ」
呆れ顔で評した美幸に対し、瀬上は唖然とした顔付きになって言い返した。
「紳士って、お前……。確かに表面的には控え目に抗議しただけだが、何と言っても、あの蜂谷を見事に矯正してのけた人だぞ?」
「確かに指示は出したかもしれませんけど、実際に手を下したわけじゃありませんし。単に再教育に長けた後輩さんが揃っていただけですよ」
「本当に、そう思っているのか?」
「はい。だってお義兄さん位思慮深くて思いやりがあって、気配りのできる頭が切れる人なんて、そうそういませんよ。私が怪我したって聞いて、さすがにちょっと嫌味を言いたくなっただけなのに、何を真に受けているんですか、三人とも大袈裟な」
どこまでも真顔で告げる美幸に、瀬上は少しだけ呆然としてから、憐憫の表情をその顔に浮かべた。
「藤宮……」
「何ですか? 瀬上さん」
「今の台詞をその三人、特に係長には言わないように。あんなに有形無形に脅されたのに、不憫過ぎる……」
「はぁ……」
(何か納得いかないんだけど。それにどうしてその流れで、私と係長が付き合ってるって噂を流す羽目に。なんだか理不尽だわ)
反論したかったものの、沈鬱な表情で目頭を押さえた瀬上を見て、美幸は言葉を飲み込んだ。そこでタイミング良く、片手でトレーを抱えた理彩が、ドアを開けて入ってくる。
「お待たせ。ちょっと給湯室が混んでて遅くなっちゃったわ」
「あ、ありがとうございます」
「悪い。そういえば、まだコロネを皿に出し終えてなかった」
「何をやってたのよ?」
そして話は一時中断し、テーブルを出して皿やコップを揃えていた所に、新たな見舞い客が現れた。
「おはようございます、藤宮先輩! お加減はいかがでしょうか!?」
「ああ、悪かったわね。蜂谷まで来てくれるなん……」
「ちょっ……、入院患者に何て物を!」
「何か久々に、お前の非常識さを再確認できたな……」
「あれ? 皆さん、どうかしましたか?」
元気な挨拶の言葉と共に入って来た蜂谷だったが、彼が持参した物を目にしてしまった三人は、揃ってうんざりした顔付きになって深い溜め息を吐いた。しかしその理由が分からずにキョトンとした顔になった蜂谷に、美幸が疲労感を漂わせながら解説する。
「蜂谷……。その花、花屋で用途は言わずに『一番高くて見栄えがして良い物を下さい』とか言わなかった?」
「はい! 店員の方が、一押しで勧めてくれました!」
そう言って抱えてきた立派過ぎる三本立ちの胡蝶蘭の鉢植えを、笑顔で軽く持ち上げてみせた彼に、三人は再度溜め息を吐いた。
「……そうでしょうね。確かに立派よ。気合い入れて大枚叩いて来たわね」
「『入院患者の見舞い用』に欲しいとか言ったら、間違っても店員は勧め無いよな」
ボソボソと囁き合う先輩達に、蜂谷はさすがに何か異常を感じたが、見当違いの問いを発した。
「あの、これが何か? ひょっとして、藤宮先輩は胡蝶蘭がお嫌いでしたか?」
「あのね、好きとか嫌いとか言う以前に、病人の見舞いに鉢植えって御法度だから」
「…………え?」
蜂谷が口を半開きにして絶句し、美幸はそれを見て脱力しながらも、気合いを振り絞って説明を続けた。
「鉢植えって、根が付いてるじゃない? それが転じて『寝付く』、つまりなかなか退院できないとか、症状が長引くけば良いって悪意の意味に取られ」
「ちちち違いますっ!! 誓ってその様な不埒考えは、これっぽっちもありません!」
途端に涙目になって勢い良く首を降り始めた蜂谷を見て、美幸は半ばどうでも良い様に片手を振った。
「はいはい、分かったから。あんただったら、これ位のポカはするわよね。最近は随分マシになったからすっかり油断していたけど、元が元だし、これから気を付けなさいね? ほら、取り敢えず、そこの窓際の棚の上に鉢を置いて。落とすわよ?」
美幸がそう口にした途端、蜂谷は両眼からだらだらと涙を溢れさせた。
「藤宮先輩! 何と寛大なお言葉! 不肖蜂谷隼斗、課長の次に藤宮先輩に一生付いて行きます!」
「……鬱陶しいから、付いて来ないで」
「そんな! 俺は誠心誠意、お二方にお仕えします!」
「取り敢えず涙を拭きなさいよ。私が泣かせてるみたいじゃない」
そして指示された所に鉢を置いた蜂谷が、皆に宥められながら涙を拭いていると、廊下から女性の声が響いた。
「美幸、入るわよ?」
「あ、美子姉さん。美樹ちゃんも、美久君まで来てくれたの?」
姉の背後から姿を現した甥と姪に、美幸は自然に顔を綻ばせた。
「うん、連れてきて貰っちゃった」
「ケガ、だいじょうぶ?」
「大丈夫大丈夫。暫くは歩くのには苦労するけど、元気よ?」
「良かった~」
「しんぱいしたよ?」
「ごめんね~」
子ども達とそんなほのぼのした会話を交わしてから、美幸はベッドの横に視線を向けて身内を紹介した。
「瀬上さんと仲原さんは、美野姉さんの騒動の時に、会社に一緒に謝罪に来た美子姉さんは知ってますよね? あと姪と甥になります」
「どうも」
「お久しぶりです」
「こちらこそ、美幸がいつもお世話になっております」
三人が礼儀正しく挨拶を交わしている中、蜂谷だけは「……魔王様の奥方様」と呟きながら蒼白な顔で後ずさり、窓際の壁にへばり付いた。それをチラリと横目で見てからその横の棚の上に視線を向けた美子は、一瞬眉をしかめてから、美幸に向き直って薄笑いを見せる。
「……美幸?」
「何?」
「なんだか、随分面白いお見舞いを頂いているのね? どなたから?」
「え、えっと、それは~」
「…………」
途端にピシッと固まった蜂谷と、不気味な笑みを浮かべる美子を交互に見やって、美幸は咄嗟に口ごもった。すると美子は答えを待たずに、蜂谷に向き直ってにこやかに声をかける。
「そういえば……、そちらはどなたかしら? どう見ても美幸より年下だし、ひょっとして、話に聞いていた美幸の初めての後輩の……。ああ、そうそう、ポチさんと仰ったかしら?」
(私、蜂谷の事を、家でポチ呼ばわりした憶えは無いんだけど……。ひょっとして秀明義兄さんが?)
密かに悩んでしまった美幸だったが、そこで蜂谷が弾かれた様に一礼してまくし立てた。
「は、はいぃぃっ!! 私、お妹御の不肖の後輩の、ポチでございます! この度は奥方様のご尊顔を拝し奉り、誠に恐悦しどくにごじゃりましゅっ!」
「蜂谷、噛んでる」
「せめてハチって名乗れよ」
「そうね。一応名前が残ってるし」
呆れながら三人が呟いていると、美子が問題の鉢植えを指差しながら確認を入れてきた。
「なにやら、随分傍若無人な迂闊さんだと聞いていたけれど……、これはひょっとして、ポチさんが持参したのかしら?」
「そっ、それはっ」
「……したわよね?」
「は、はひっ……」
蒼白になりつつ弁解しようとした蜂谷だったが、美子ににっこりと微笑まれて、どもりながら首を軽く上下させる。
(美子姉さん、向こうを向いていて表情が分からないんだけど、背中が怖い……)
そんな緊迫した空気の中、美子が蜂谷に向かって一歩足を踏み出したと思ったら、一瞬の間に間合いを詰め、彼の胸倉を両手で掴んで引き寄せた。と同時にフレアースカートが乱れるのも構わず、勢い良く膝蹴りを繰り出したが、彼の下腹部にめり込む寸前でその動きを止め、低い声で恫喝する。
「ざけんなよ? この穀潰し野郎。文字通り潰されたいのか?」
「ひっ……」
前かがみになった状態で、蜂谷がくぐもった悲鳴を上げたが、次の瞬間、美子は何事も無かったかの様に手を離して足をおろし、「ふふっ」と優雅に微笑みながら美幸達の方に向き直った。
「なぁんてね。私なんかがこんなセリフを口にしても、本気にする人なんかいないわよね?」
「……美子姉さん」
「何?」
「本気にして、腰抜かしてるから」
美幸のその指摘に、美子が何気なく背後を振り返ると、蜂谷は壁にもたれたままずるずると床に腰を下ろし、怯えきった小動物の様に、プルプルと全身を震わせていた。それを眺めた美子が、困った様に小さく笑う。
「あらまあ。随分繊細な方なのね?」
「たっだいま~!」
「あら、あなた達、どこに行ってたの? それに、それはどうしたの?」
いつの間にか病室を抜け出し、手荷物を持って帰って来た子供達に、美子は勿論、他の者達も困惑した顔を向けた。しかしそんな大人達には構わず、二人は早速作業を始める。
「そこのナースステーションに行って、『人一人の人生がかかっているんです』ってお願いして、借りて来たの。美久、手伝ってね?」
「うん、できるだけながくきるんだよね?」
「そうよ」
そして美樹が腰の高さの棚から鉢植えを下ろすと、美久は先端が曲がっている包帯切断用ハサミを器用に操り、胡蝶蘭の茎を次々枝から切り離し始めた。一方で美樹は洗面器に水を張ると、その縁から縁へと紙テープを、約一センチ幅の格子状になる様に貼り渡し始める。そして切った胡蝶蘭を紙テープで作った四角の空間にゆっくりと一本ずつ差し込んでいくと、忽ち銀色の洗面器に盛り上がって浮かぶ、胡蝶蘭のアレンジメントが完成した。
「さぁて、これなら鉢植えじゃなくても、花は楽しめるわよね?」
「うん、きれいだねぇ」
ニコニコと満足げな笑みを浮かべつつ、子供二人が自分を見上げてきた為、美子は小さく溜め息を吐いて頷いた。
「……見なかった事にしましょう」
「よかったね、おにいちゃん。おとうさんにはナイショにしてくれるって」
「間抜け過ぎるわよ。それでも本当に社会人なの?」
二人が対照的な表情で蜂谷の前に仁王立ちになると、彼は弾かれた様に膝を付き、歓喜の涙を流しながら勢い良く頭を下げた。
「おっ、お嬢様! お坊ちゃま! ありがとうございます! このご恩は一生忘れません!」
「じゃあちょっと馬になって」
「これくわえてね?」
「畏まりました! 犬でも馬でも、お望み通りに!」
「え? あ、あの、美樹ちゃん? 美久君?」
サラッととんでもない事を口にした美樹の隣で、どこから調達したのか美久が細い紐で作った輪を取り出す。そして美幸達が呆然としている間に蜂谷は四つん這いになり、美久が差し出した輪を咥えると、その背中に子供二人が跨いで座った。
「じゃあ、ちょっとこのフロアを一回りしてくるから」
「いってきま~す」
「職員の皆さんのお仕事の邪魔はしないのよ?」
「は~い」
そんな三人を平然と見送った美子に、(言う事が違うんじゃ……)と他の三人は思ったが、口には出さなかった。しかし今の出来事を目の当たりにした瀬上と理彩は一気に精神的に疲れたのか、そそくさと荷物を纏めて立ち上がる。
「え、ええと、藤宮。私達、帰るわ」
「お大事に。また来るから」
「……ありがとうございました」
互いに微妙な表情で別れの挨拶をしてから、美幸は一応姉に声をかけた。
「美子姉さん……」
「馬になる位、どうって事無いでしょう? 秀明さんに知られる位なら」
「そうですか」
引換条件なら頑張るしかないわねと、美幸が諦めて遠い目をしていると、ノックの音と共に今度は城崎が顔を見せた。
「藤宮、気分はどう」
「あら、こんにちは。城崎さん」
「……ご無沙汰しております」
美子の姿を見た途端、盛大に顔を引き攣らせながら頭を下げてきた城崎に、美子がにこやかに声をかけた。
「まあ、そんなに畏まらないで? 主人から聞きましたけど、今度美幸と付き合う事になったそうね」
「はい」
「主人が城崎さんの事を『物の道理を弁えた“紳士”』だと評しておりましたから、私としても安心ですわ。美幸の事を、今後とも宜しくお願いします」
「……こちらこそ、宜しくお願いします」
(美子姉さん。今『紳士』の所が微妙なアクセントだった様な……)
美子は相変わらずにこにこと、城崎も硬い表情のまま世間話に突入していると、どうやらフロアを一周したらしい三人が戻って来た。
「係長? いらしてたんですか?」
「蜂谷……、お前、何をやっているんだ?」
「うわぁ、おっきくてこわいねぇ?」
「美久、失礼よ? 美幸ちゃん曰わく、『顔は怖いけど、仕事ができて頼りになる係長さん』なんだから」
「ええと、美樹ちゃん? そんなに顔が怖いってわけじゃ無いから」
「すみません、子供達が失礼な事を」
「……いえ、お気になさらず」
その後、美子が荷物を片付け終えると、妙に子供達に気に入られてしまった蜂谷を引き連れて、美子達は帰って行った。そして二人きりになってから、城崎がぼそりと呟く。
「俺が藤宮家でどんな風に話題になっているのか、大体の所は分かったな……」
そんな事を言われてしまった為、美幸は冷や汗を流して頭を下げた。
「係長、本当にすみません!」
「いや、本当に気にするな。怪我人なんだし、勢い良く身体を動かすとまだ痛むんじゃ無いのか?」
「はぁ……」
実はちょっと今痛くなった、なんて言おうものなら盛大に心配されそうな気がして、美幸は笑顔を取り繕った。
「まあ、入院中は大人しくしてろと言っても、一向に聞かないだろうが」
「なんですか。その断言っぷり」
ちょっと拗ねつつ言い返すと、その表情が面白かったのか、城崎は笑いを堪えながら持参した紙袋の中身を、ベッドサイドのテーブルの上に乗せた。
「今日は一度出社して、これを持って来た」
「これ!?」
「藤宮の机の上から勝手に持って来たが、そこは勘弁してくれ。手がけてる仕事を放り出したく無いだろう? 課長代理もこのまま任せると言ってたし」
「いえいえ、ありがとうございます!」
見慣れたファイルに、実は朝から仕事の事を心配していた美幸は、痛みも忘れて満面の笑みで礼を述べた。するとそれに満足そうに頷いた城崎が、今度はブリーフケースの中から、ノートパソコンと充電器を取り出す。
「それから、ここの職員に確認を取った。病棟だからデータ通信は厳禁だが、内臓ソフトを使用しての作業なら構わないそうだ」
「本当ですか? 良かったぁぁっ! 時間を無駄にしなくて済む!」
「それからこれは浩一課長から」
「何ですか?」
全く予想外の人物の名前を聞いて美幸は首を傾げたが、分厚く膨れたA4判の封筒をテーブルに乗せながら、城崎が説明を加えた。
「再生エネルギー関連の資料集。『プロジェクトの席はそのままにしておくから、復帰したらまた宜しく』と言われて、見舞い代わりだと渡された。復帰したらこれまで以上にこき使うから、それまでにしっかり読み込んでおけって事だな」
その意図を完全に理解できた美幸は、素直に感謝して頭を下げる。
「なるほど……、むやみやたらに大きい花束なんかより、こっちの方が嬉しいですね。浩一課長に、退院までに頭に叩き込んでおきますって、伝えておいて下さい」
「了解。因みに山崎は昨日の段階でプロジェクトから外された」
「そうなんですか?」
唐突な話題の転換と、その内容に美幸が戸惑うと、城崎は疲れた様に溜め息を吐いてから説明を続けた。
「浩一課長なりに、部下の不始末に激怒していたからな。社で同じく後始末の為に休日出勤してた課長代理と、加害者の勤務先を訪問する相談もしていたし」
「はい? どうして加害者の勤務先に、浩一課長と課長代理が、雁首揃えて出向くんですか? 私が怪我させられた事への抗議だったら、係長が止めて下さい! そもそもの原因は山崎と私の方なんですから」
「それは二人も分かっている。だから逆に、穏便に計らって貰う為に行くんだ」
「え?」
「交通事故の加害者になって、自分も全治三ヶ月。そんな社員を、普通だったら勤務先では、どう評価すると思う?」
そう問いかけられた美幸は、戸惑いながらも自分がそうなったらと仮定して、考えてみた。そして嫌そうに顔を歪める。
「……周囲に迷惑をかけますし、休んでいる間に下手したら仕事を干されそうですね」
その意見に、城崎は小さく頷いた。
「確かにその人物が加害者ではあるが、偶発的な事故の上、そもそもの原因が自分達の部下の諍いなのが明らかなのに、傍観するほど浩一課長は薄情な人じゃないさ。勤務評定に影響が出ない様に取り計らって貰った上で、完治したら本来の職場にきちんと復帰できる様に、頭を下げに行くつもりだろう」
「頭を下げにって……、それで何とかなるんですか?」
「調べたら相手の勤務先が、柏木産業の取引先の一つだった。『大手取引先の社長令息に頭を下げさせて、依頼された些細な事を実行しなかった場合のリスク位、考えられるだろう。人一人の会社人生がかかってるんだ。社長令息の肩書きが役に立つなら、それで頭の一つや二つ下げるさ』と、浩一課長が苦笑いしていた」
それを聞いて、美幸は思わず痛くない右手をしっかりと握り締め、感嘆の声を上げた。
「浩一課長、前々から思ってましたけど本当に気配りの人ですよね! さすがあの柏木課長の弟さん。やる時はやる人です!」
「ぶはっ!」
そこで何故かいきなり噴き出した城崎に、美幸は冷たい目を向けた。
「何ですか?」
「……いや、ちょっと」
「係長?」
口と腹を押さえながら、必死に笑いを堪えているらしい城崎を美幸が軽く睨みつけていると、何とか平常心を取り戻したらしい彼が、笑顔でその理由を述べた。
「浩一課長を誉める時でも、とっさに課長を引き合いに出す辺り、さすが柏木課長フリークだなと思って。どれだけ課長の事が好きなのかと」
そこで美幸は、些か気分を害した様な表情で、まだ口元が緩んでいる城崎から視線を逸らした。
「別に良いじゃ無いですか。そんなに笑わなくても」
「すまん」
(本当に普段見られない位目元を緩ませて、そんなに爆笑しなくても……。うん、でも、そういう顔をしてると硬質な印象が随分和らいで、それはそれで結構……、って!? 人の人生がかかっている、結構深刻な話をしてた筈なのに、何考えてるのよ私!)
無意識に握った右手を開いてブンブンと上下に振り出した美幸を見て、城崎は怪訝な顔になった。
「……急に手を振って、何をやってるんだ?」
「え、いえ、ちょっと動かして、手のこわばりを取ろうかな~、なんて」
「そうか。だからまあ、そんな風に、取り敢えず藤宮も相手方の仕事に関しても、できるだけの手を打つから心配するな」
「ありがとうございます。浩一課長と課長代理にも、宜しくお伝え下さい」
「分かった。それで仕事に関する話はここまでで、これからは俺からの見舞いだ」
そう言って城崎は更に別な紙袋から包みを取り出し、美幸の膝の上に乗せた。
「何ですか?」
そしてガサガサと剥がした包装紙の中から出て来た物に、美幸は目を輝かせた。
「写真集ですか? 凄い! 綺麗!」
まずその表紙の澄み切った海の写真に声を上げ、勢い良くページを捲り始めた美幸に苦笑しながら、城崎が声をかける。
「世界各地の絶景写真集だ。こういうの好きだろう?」
「はい! 滅多に行けない所って、凄く憧れるじゃないですか。やっぱり自然が一番ですよね」 そうして美幸が上機嫌でページを捲っている間に、城崎は紙袋から新たな物を取り出した。
「それからこれもだが」
そして再度差し出されたそれを、美幸は取り敢えず写真集を横に置いて受け取り、包装を解いてみる。すると透明なプラスチックケースに入れられたセットを見た美幸は、思わず歓声を上げた。
「リードディフューザーですか? うわ、可愛い。お花まで付いてる!」
細いスティック状のリードの一端をディフューザーオイルの中に挿す事で、香りの成分を吸い上げて拡散させるそれを見て、美幸は笑顔になったが、ここで城崎が心配そうに尋ねてきた。
「一人で留守番が駄目だったのに、一人で入院なんて大丈夫か心配になったから、気分を落ち着かせる物でも有った方が良いかと思ったんだ。だが病室で火や電気を使って拡散させるタイプは駄目だろうと思ったし、これなら大丈夫かと。ところで、昨夜はここでちゃんと眠れたか?」
真顔でそんな質問をされて、夏の一騒動を思い出した美幸は、僅かに顔を赤くしながらムキになって言い返した。
「う……、そこに繋がるんですか。大丈夫です。ちゃんと眠れました!」
そんな態度にも城崎は怒るどころか、安堵した様に話を続けた。
「そうか。取り敢えずフレグランスオイルは、静穏作用のある百%天然オイルを三つ選んでみたが、希望があるなら言ってくれ。それからリードの本数を調節したり、角度を変えることで拡散量も若干調節できる筈だ」
「分かりました。今日から早速試してみます」
「そうしてくれれば嬉しい」
それから嬉しそうに幾つかの話をして帰って行った城崎だったが、美幸は一人になってから「さすが係長、こっちの好みのストライクど真ん中を突いてくるわ。いつの間に、どうやってリサーチを」と感嘆交じりの独り言を漏らした。その挙げ句、「やっぱり侮れない……。あの嬉しそうな笑顔は反則でしょ。負けないんだから!」と、何故だか変な方向に、対抗意識を燃やしてしまった。
「もう起き上がってて良いの? 今回は災難だったわね」
午前中の面会時間になるなり、ノックと共に瀬上と理彩が顔を見せた為、美幸はさっそくリモコンを操作してリクライニングベッドの上半身部分をゆっくりと起こし、二人を出迎えた。
「お二人とも、来て下さってありがとうございます。念の為朝一でまた検査をしましたけど、骨折と打撲の他は異常ありませんでしたし、大丈夫ですよ? 昼食は間に合いませんでしたが、夕食からは普通食にして貰えますし」
予想以上に元気な様子の美幸に、二人は揃って安堵した表情になった。
「何にせよ、それ位で済んで良かったな」
「本当に強運よね。あんたはなんとなく怪我をしてても普通に食べる気がしたから、ラルクのミニコロネとクレムシドのティーバッグを持って来たわ。好きでしょ?」
「うわぁい! ありがとうございます! 朝はお粥だけで、全然物足りなかったんです! 昼も軽めって聞いて、夕飯まで我慢できないって思ってたところで」
途端に目を輝かせた美幸に、二人は思わず顔を見合わせて笑う。
「食べても良いなら、早速出すわよ? ここに来る途中で、給湯室の場所は確認してきたし」
「お願いします。是非!」
「はいはい。あったら人数分、カップを借りたいんだけど」
「はい、そこの収納棚に、昨日美野姉さんが取り敢えず紙コップや紙皿の他、フォークやスプーンも置いて行った筈ですから」
説明を受けた理彩が扉を開け、必要な物を取り出して廊下に出て行ってから、瀬上がテーブルの上に箱を置き、中身を紙皿に移しつつ美幸に問いかけてきた。
「藤宮。昨日の話は聞いたか?」
「山崎さんの事で係長が営業一課に怒鳴り込んだ事は、美野姉さんと高須さんから。本人の知らない所で、私と係長が付き合ってる話になってる事は、係長から聞きましたが」
「それだけか?」
「……他にも何かあるんでしょうか?」
不思議そうに確認を入れてきた瀬上に、美幸も怪訝な顔になる。その表情を見た瀬上は、若干言い難そうに話を続けた。
「連絡を受けた美野さんが営業一課に駆け付けた時、ちょうど戻って来た山崎を捕まえて詳しい事情を聞こうとしていた浩一課長や柏木課長代理に突進して、火事場の馬鹿力で山崎を横取りしたんだ。挙句、こちらに引き渡せと迫った係長を『うるせえぞ、ウドの大木は引っ込んでろ!』と一喝してから、引き倒した山崎に馬乗りになって、そのまま般若の形相で罵倒しまくった事は?」
瀬上がそこで美幸の反応を待つと、病室内に静寂が満ちた。そして少ししてから、美幸が顔を引き攣らせながら口を開く。
「…………初耳です。本人も高須さんも、そんな事一言も言っていませんでしたが」
「本人が自分から言うとは思えんし、高須も口を噤んだな。一課の人間に後から聞いたら、相当凄かったらしいぞ? いつ息継ぎしてるんだって周りが疑問に思う位悪口雑言を垂れ流し、日本語で語彙が尽きたら英語、ドイツ語、フランス語、ポルトガル語に切り替えて、小一時間続けたそうだ。去年、藤宮が元旦那にホテルに連れ込まれた時に遭遇した折、切れると突拍子も無い事をする、怖い人だとは思っていたが……」
「居合わせた営業一課の皆さん、きっとドン引きしてましたよね……」
(美野姉さん……、どうしてそんなにオンとオフが極端なの? それにそれを目の当たりにしても、昨日の態度は変じゃなかったよね、高須さん。本当に寛容だわ)
内心で呻いた美幸だったが、瀬上は冷静に説明を続けた。
「それからその事件の時、ちらっと顔を合わせたお前のお義兄さんが、仕事帰りに二課にやって来たんだ。課長代理も係長も営業一課に出向いたきり戻って来ないし、俺が案内したら……」
そこで何とも言い難い顔付きで黙り込んだ瀬上を見やった美幸は、話の先を促した。
「どうかしたんですか? 秀明義兄さんが顔を出して、文句を言った事は聞きましたが」
「その藤宮さんが、『この度は、義妹がお世話になりました』と無表情で挨拶した後、『浩一、そんなに全国津々浦々武者修行に出たいなら遠慮するな。清人、お前早くも嫁に愛想が尽きたと見えるな。城崎、そんなに俺の義妹が気に入らないなら、無理に同じ職場で働かなくても良いぞ? そうだ。三人が後腐れ無く再出発できる様に、ここは一つ柏木産業を潰すか』なんて物騒な事を口走った途端、『誠に申し訳ありませんでした!』と異口同音に叫んだ浩一課長と課長代理と係長が、一斉に土下座したんだ」
「はぁ? どうしてあの三人が、お義兄さんの冗談を真に受けてそんな事をするんですか? 殴られたり蹴られたりしたわけじゃありませんよね? お義兄さんは紳士なのに……。皆誤解してるわ」
呆れ顔で評した美幸に対し、瀬上は唖然とした顔付きになって言い返した。
「紳士って、お前……。確かに表面的には控え目に抗議しただけだが、何と言っても、あの蜂谷を見事に矯正してのけた人だぞ?」
「確かに指示は出したかもしれませんけど、実際に手を下したわけじゃありませんし。単に再教育に長けた後輩さんが揃っていただけですよ」
「本当に、そう思っているのか?」
「はい。だってお義兄さん位思慮深くて思いやりがあって、気配りのできる頭が切れる人なんて、そうそういませんよ。私が怪我したって聞いて、さすがにちょっと嫌味を言いたくなっただけなのに、何を真に受けているんですか、三人とも大袈裟な」
どこまでも真顔で告げる美幸に、瀬上は少しだけ呆然としてから、憐憫の表情をその顔に浮かべた。
「藤宮……」
「何ですか? 瀬上さん」
「今の台詞をその三人、特に係長には言わないように。あんなに有形無形に脅されたのに、不憫過ぎる……」
「はぁ……」
(何か納得いかないんだけど。それにどうしてその流れで、私と係長が付き合ってるって噂を流す羽目に。なんだか理不尽だわ)
反論したかったものの、沈鬱な表情で目頭を押さえた瀬上を見て、美幸は言葉を飲み込んだ。そこでタイミング良く、片手でトレーを抱えた理彩が、ドアを開けて入ってくる。
「お待たせ。ちょっと給湯室が混んでて遅くなっちゃったわ」
「あ、ありがとうございます」
「悪い。そういえば、まだコロネを皿に出し終えてなかった」
「何をやってたのよ?」
そして話は一時中断し、テーブルを出して皿やコップを揃えていた所に、新たな見舞い客が現れた。
「おはようございます、藤宮先輩! お加減はいかがでしょうか!?」
「ああ、悪かったわね。蜂谷まで来てくれるなん……」
「ちょっ……、入院患者に何て物を!」
「何か久々に、お前の非常識さを再確認できたな……」
「あれ? 皆さん、どうかしましたか?」
元気な挨拶の言葉と共に入って来た蜂谷だったが、彼が持参した物を目にしてしまった三人は、揃ってうんざりした顔付きになって深い溜め息を吐いた。しかしその理由が分からずにキョトンとした顔になった蜂谷に、美幸が疲労感を漂わせながら解説する。
「蜂谷……。その花、花屋で用途は言わずに『一番高くて見栄えがして良い物を下さい』とか言わなかった?」
「はい! 店員の方が、一押しで勧めてくれました!」
そう言って抱えてきた立派過ぎる三本立ちの胡蝶蘭の鉢植えを、笑顔で軽く持ち上げてみせた彼に、三人は再度溜め息を吐いた。
「……そうでしょうね。確かに立派よ。気合い入れて大枚叩いて来たわね」
「『入院患者の見舞い用』に欲しいとか言ったら、間違っても店員は勧め無いよな」
ボソボソと囁き合う先輩達に、蜂谷はさすがに何か異常を感じたが、見当違いの問いを発した。
「あの、これが何か? ひょっとして、藤宮先輩は胡蝶蘭がお嫌いでしたか?」
「あのね、好きとか嫌いとか言う以前に、病人の見舞いに鉢植えって御法度だから」
「…………え?」
蜂谷が口を半開きにして絶句し、美幸はそれを見て脱力しながらも、気合いを振り絞って説明を続けた。
「鉢植えって、根が付いてるじゃない? それが転じて『寝付く』、つまりなかなか退院できないとか、症状が長引くけば良いって悪意の意味に取られ」
「ちちち違いますっ!! 誓ってその様な不埒考えは、これっぽっちもありません!」
途端に涙目になって勢い良く首を降り始めた蜂谷を見て、美幸は半ばどうでも良い様に片手を振った。
「はいはい、分かったから。あんただったら、これ位のポカはするわよね。最近は随分マシになったからすっかり油断していたけど、元が元だし、これから気を付けなさいね? ほら、取り敢えず、そこの窓際の棚の上に鉢を置いて。落とすわよ?」
美幸がそう口にした途端、蜂谷は両眼からだらだらと涙を溢れさせた。
「藤宮先輩! 何と寛大なお言葉! 不肖蜂谷隼斗、課長の次に藤宮先輩に一生付いて行きます!」
「……鬱陶しいから、付いて来ないで」
「そんな! 俺は誠心誠意、お二方にお仕えします!」
「取り敢えず涙を拭きなさいよ。私が泣かせてるみたいじゃない」
そして指示された所に鉢を置いた蜂谷が、皆に宥められながら涙を拭いていると、廊下から女性の声が響いた。
「美幸、入るわよ?」
「あ、美子姉さん。美樹ちゃんも、美久君まで来てくれたの?」
姉の背後から姿を現した甥と姪に、美幸は自然に顔を綻ばせた。
「うん、連れてきて貰っちゃった」
「ケガ、だいじょうぶ?」
「大丈夫大丈夫。暫くは歩くのには苦労するけど、元気よ?」
「良かった~」
「しんぱいしたよ?」
「ごめんね~」
子ども達とそんなほのぼのした会話を交わしてから、美幸はベッドの横に視線を向けて身内を紹介した。
「瀬上さんと仲原さんは、美野姉さんの騒動の時に、会社に一緒に謝罪に来た美子姉さんは知ってますよね? あと姪と甥になります」
「どうも」
「お久しぶりです」
「こちらこそ、美幸がいつもお世話になっております」
三人が礼儀正しく挨拶を交わしている中、蜂谷だけは「……魔王様の奥方様」と呟きながら蒼白な顔で後ずさり、窓際の壁にへばり付いた。それをチラリと横目で見てからその横の棚の上に視線を向けた美子は、一瞬眉をしかめてから、美幸に向き直って薄笑いを見せる。
「……美幸?」
「何?」
「なんだか、随分面白いお見舞いを頂いているのね? どなたから?」
「え、えっと、それは~」
「…………」
途端にピシッと固まった蜂谷と、不気味な笑みを浮かべる美子を交互に見やって、美幸は咄嗟に口ごもった。すると美子は答えを待たずに、蜂谷に向き直ってにこやかに声をかける。
「そういえば……、そちらはどなたかしら? どう見ても美幸より年下だし、ひょっとして、話に聞いていた美幸の初めての後輩の……。ああ、そうそう、ポチさんと仰ったかしら?」
(私、蜂谷の事を、家でポチ呼ばわりした憶えは無いんだけど……。ひょっとして秀明義兄さんが?)
密かに悩んでしまった美幸だったが、そこで蜂谷が弾かれた様に一礼してまくし立てた。
「は、はいぃぃっ!! 私、お妹御の不肖の後輩の、ポチでございます! この度は奥方様のご尊顔を拝し奉り、誠に恐悦しどくにごじゃりましゅっ!」
「蜂谷、噛んでる」
「せめてハチって名乗れよ」
「そうね。一応名前が残ってるし」
呆れながら三人が呟いていると、美子が問題の鉢植えを指差しながら確認を入れてきた。
「なにやら、随分傍若無人な迂闊さんだと聞いていたけれど……、これはひょっとして、ポチさんが持参したのかしら?」
「そっ、それはっ」
「……したわよね?」
「は、はひっ……」
蒼白になりつつ弁解しようとした蜂谷だったが、美子ににっこりと微笑まれて、どもりながら首を軽く上下させる。
(美子姉さん、向こうを向いていて表情が分からないんだけど、背中が怖い……)
そんな緊迫した空気の中、美子が蜂谷に向かって一歩足を踏み出したと思ったら、一瞬の間に間合いを詰め、彼の胸倉を両手で掴んで引き寄せた。と同時にフレアースカートが乱れるのも構わず、勢い良く膝蹴りを繰り出したが、彼の下腹部にめり込む寸前でその動きを止め、低い声で恫喝する。
「ざけんなよ? この穀潰し野郎。文字通り潰されたいのか?」
「ひっ……」
前かがみになった状態で、蜂谷がくぐもった悲鳴を上げたが、次の瞬間、美子は何事も無かったかの様に手を離して足をおろし、「ふふっ」と優雅に微笑みながら美幸達の方に向き直った。
「なぁんてね。私なんかがこんなセリフを口にしても、本気にする人なんかいないわよね?」
「……美子姉さん」
「何?」
「本気にして、腰抜かしてるから」
美幸のその指摘に、美子が何気なく背後を振り返ると、蜂谷は壁にもたれたままずるずると床に腰を下ろし、怯えきった小動物の様に、プルプルと全身を震わせていた。それを眺めた美子が、困った様に小さく笑う。
「あらまあ。随分繊細な方なのね?」
「たっだいま~!」
「あら、あなた達、どこに行ってたの? それに、それはどうしたの?」
いつの間にか病室を抜け出し、手荷物を持って帰って来た子供達に、美子は勿論、他の者達も困惑した顔を向けた。しかしそんな大人達には構わず、二人は早速作業を始める。
「そこのナースステーションに行って、『人一人の人生がかかっているんです』ってお願いして、借りて来たの。美久、手伝ってね?」
「うん、できるだけながくきるんだよね?」
「そうよ」
そして美樹が腰の高さの棚から鉢植えを下ろすと、美久は先端が曲がっている包帯切断用ハサミを器用に操り、胡蝶蘭の茎を次々枝から切り離し始めた。一方で美樹は洗面器に水を張ると、その縁から縁へと紙テープを、約一センチ幅の格子状になる様に貼り渡し始める。そして切った胡蝶蘭を紙テープで作った四角の空間にゆっくりと一本ずつ差し込んでいくと、忽ち銀色の洗面器に盛り上がって浮かぶ、胡蝶蘭のアレンジメントが完成した。
「さぁて、これなら鉢植えじゃなくても、花は楽しめるわよね?」
「うん、きれいだねぇ」
ニコニコと満足げな笑みを浮かべつつ、子供二人が自分を見上げてきた為、美子は小さく溜め息を吐いて頷いた。
「……見なかった事にしましょう」
「よかったね、おにいちゃん。おとうさんにはナイショにしてくれるって」
「間抜け過ぎるわよ。それでも本当に社会人なの?」
二人が対照的な表情で蜂谷の前に仁王立ちになると、彼は弾かれた様に膝を付き、歓喜の涙を流しながら勢い良く頭を下げた。
「おっ、お嬢様! お坊ちゃま! ありがとうございます! このご恩は一生忘れません!」
「じゃあちょっと馬になって」
「これくわえてね?」
「畏まりました! 犬でも馬でも、お望み通りに!」
「え? あ、あの、美樹ちゃん? 美久君?」
サラッととんでもない事を口にした美樹の隣で、どこから調達したのか美久が細い紐で作った輪を取り出す。そして美幸達が呆然としている間に蜂谷は四つん這いになり、美久が差し出した輪を咥えると、その背中に子供二人が跨いで座った。
「じゃあ、ちょっとこのフロアを一回りしてくるから」
「いってきま~す」
「職員の皆さんのお仕事の邪魔はしないのよ?」
「は~い」
そんな三人を平然と見送った美子に、(言う事が違うんじゃ……)と他の三人は思ったが、口には出さなかった。しかし今の出来事を目の当たりにした瀬上と理彩は一気に精神的に疲れたのか、そそくさと荷物を纏めて立ち上がる。
「え、ええと、藤宮。私達、帰るわ」
「お大事に。また来るから」
「……ありがとうございました」
互いに微妙な表情で別れの挨拶をしてから、美幸は一応姉に声をかけた。
「美子姉さん……」
「馬になる位、どうって事無いでしょう? 秀明さんに知られる位なら」
「そうですか」
引換条件なら頑張るしかないわねと、美幸が諦めて遠い目をしていると、ノックの音と共に今度は城崎が顔を見せた。
「藤宮、気分はどう」
「あら、こんにちは。城崎さん」
「……ご無沙汰しております」
美子の姿を見た途端、盛大に顔を引き攣らせながら頭を下げてきた城崎に、美子がにこやかに声をかけた。
「まあ、そんなに畏まらないで? 主人から聞きましたけど、今度美幸と付き合う事になったそうね」
「はい」
「主人が城崎さんの事を『物の道理を弁えた“紳士”』だと評しておりましたから、私としても安心ですわ。美幸の事を、今後とも宜しくお願いします」
「……こちらこそ、宜しくお願いします」
(美子姉さん。今『紳士』の所が微妙なアクセントだった様な……)
美子は相変わらずにこにこと、城崎も硬い表情のまま世間話に突入していると、どうやらフロアを一周したらしい三人が戻って来た。
「係長? いらしてたんですか?」
「蜂谷……、お前、何をやっているんだ?」
「うわぁ、おっきくてこわいねぇ?」
「美久、失礼よ? 美幸ちゃん曰わく、『顔は怖いけど、仕事ができて頼りになる係長さん』なんだから」
「ええと、美樹ちゃん? そんなに顔が怖いってわけじゃ無いから」
「すみません、子供達が失礼な事を」
「……いえ、お気になさらず」
その後、美子が荷物を片付け終えると、妙に子供達に気に入られてしまった蜂谷を引き連れて、美子達は帰って行った。そして二人きりになってから、城崎がぼそりと呟く。
「俺が藤宮家でどんな風に話題になっているのか、大体の所は分かったな……」
そんな事を言われてしまった為、美幸は冷や汗を流して頭を下げた。
「係長、本当にすみません!」
「いや、本当に気にするな。怪我人なんだし、勢い良く身体を動かすとまだ痛むんじゃ無いのか?」
「はぁ……」
実はちょっと今痛くなった、なんて言おうものなら盛大に心配されそうな気がして、美幸は笑顔を取り繕った。
「まあ、入院中は大人しくしてろと言っても、一向に聞かないだろうが」
「なんですか。その断言っぷり」
ちょっと拗ねつつ言い返すと、その表情が面白かったのか、城崎は笑いを堪えながら持参した紙袋の中身を、ベッドサイドのテーブルの上に乗せた。
「今日は一度出社して、これを持って来た」
「これ!?」
「藤宮の机の上から勝手に持って来たが、そこは勘弁してくれ。手がけてる仕事を放り出したく無いだろう? 課長代理もこのまま任せると言ってたし」
「いえいえ、ありがとうございます!」
見慣れたファイルに、実は朝から仕事の事を心配していた美幸は、痛みも忘れて満面の笑みで礼を述べた。するとそれに満足そうに頷いた城崎が、今度はブリーフケースの中から、ノートパソコンと充電器を取り出す。
「それから、ここの職員に確認を取った。病棟だからデータ通信は厳禁だが、内臓ソフトを使用しての作業なら構わないそうだ」
「本当ですか? 良かったぁぁっ! 時間を無駄にしなくて済む!」
「それからこれは浩一課長から」
「何ですか?」
全く予想外の人物の名前を聞いて美幸は首を傾げたが、分厚く膨れたA4判の封筒をテーブルに乗せながら、城崎が説明を加えた。
「再生エネルギー関連の資料集。『プロジェクトの席はそのままにしておくから、復帰したらまた宜しく』と言われて、見舞い代わりだと渡された。復帰したらこれまで以上にこき使うから、それまでにしっかり読み込んでおけって事だな」
その意図を完全に理解できた美幸は、素直に感謝して頭を下げる。
「なるほど……、むやみやたらに大きい花束なんかより、こっちの方が嬉しいですね。浩一課長に、退院までに頭に叩き込んでおきますって、伝えておいて下さい」
「了解。因みに山崎は昨日の段階でプロジェクトから外された」
「そうなんですか?」
唐突な話題の転換と、その内容に美幸が戸惑うと、城崎は疲れた様に溜め息を吐いてから説明を続けた。
「浩一課長なりに、部下の不始末に激怒していたからな。社で同じく後始末の為に休日出勤してた課長代理と、加害者の勤務先を訪問する相談もしていたし」
「はい? どうして加害者の勤務先に、浩一課長と課長代理が、雁首揃えて出向くんですか? 私が怪我させられた事への抗議だったら、係長が止めて下さい! そもそもの原因は山崎と私の方なんですから」
「それは二人も分かっている。だから逆に、穏便に計らって貰う為に行くんだ」
「え?」
「交通事故の加害者になって、自分も全治三ヶ月。そんな社員を、普通だったら勤務先では、どう評価すると思う?」
そう問いかけられた美幸は、戸惑いながらも自分がそうなったらと仮定して、考えてみた。そして嫌そうに顔を歪める。
「……周囲に迷惑をかけますし、休んでいる間に下手したら仕事を干されそうですね」
その意見に、城崎は小さく頷いた。
「確かにその人物が加害者ではあるが、偶発的な事故の上、そもそもの原因が自分達の部下の諍いなのが明らかなのに、傍観するほど浩一課長は薄情な人じゃないさ。勤務評定に影響が出ない様に取り計らって貰った上で、完治したら本来の職場にきちんと復帰できる様に、頭を下げに行くつもりだろう」
「頭を下げにって……、それで何とかなるんですか?」
「調べたら相手の勤務先が、柏木産業の取引先の一つだった。『大手取引先の社長令息に頭を下げさせて、依頼された些細な事を実行しなかった場合のリスク位、考えられるだろう。人一人の会社人生がかかってるんだ。社長令息の肩書きが役に立つなら、それで頭の一つや二つ下げるさ』と、浩一課長が苦笑いしていた」
それを聞いて、美幸は思わず痛くない右手をしっかりと握り締め、感嘆の声を上げた。
「浩一課長、前々から思ってましたけど本当に気配りの人ですよね! さすがあの柏木課長の弟さん。やる時はやる人です!」
「ぶはっ!」
そこで何故かいきなり噴き出した城崎に、美幸は冷たい目を向けた。
「何ですか?」
「……いや、ちょっと」
「係長?」
口と腹を押さえながら、必死に笑いを堪えているらしい城崎を美幸が軽く睨みつけていると、何とか平常心を取り戻したらしい彼が、笑顔でその理由を述べた。
「浩一課長を誉める時でも、とっさに課長を引き合いに出す辺り、さすが柏木課長フリークだなと思って。どれだけ課長の事が好きなのかと」
そこで美幸は、些か気分を害した様な表情で、まだ口元が緩んでいる城崎から視線を逸らした。
「別に良いじゃ無いですか。そんなに笑わなくても」
「すまん」
(本当に普段見られない位目元を緩ませて、そんなに爆笑しなくても……。うん、でも、そういう顔をしてると硬質な印象が随分和らいで、それはそれで結構……、って!? 人の人生がかかっている、結構深刻な話をしてた筈なのに、何考えてるのよ私!)
無意識に握った右手を開いてブンブンと上下に振り出した美幸を見て、城崎は怪訝な顔になった。
「……急に手を振って、何をやってるんだ?」
「え、いえ、ちょっと動かして、手のこわばりを取ろうかな~、なんて」
「そうか。だからまあ、そんな風に、取り敢えず藤宮も相手方の仕事に関しても、できるだけの手を打つから心配するな」
「ありがとうございます。浩一課長と課長代理にも、宜しくお伝え下さい」
「分かった。それで仕事に関する話はここまでで、これからは俺からの見舞いだ」
そう言って城崎は更に別な紙袋から包みを取り出し、美幸の膝の上に乗せた。
「何ですか?」
そしてガサガサと剥がした包装紙の中から出て来た物に、美幸は目を輝かせた。
「写真集ですか? 凄い! 綺麗!」
まずその表紙の澄み切った海の写真に声を上げ、勢い良くページを捲り始めた美幸に苦笑しながら、城崎が声をかける。
「世界各地の絶景写真集だ。こういうの好きだろう?」
「はい! 滅多に行けない所って、凄く憧れるじゃないですか。やっぱり自然が一番ですよね」 そうして美幸が上機嫌でページを捲っている間に、城崎は紙袋から新たな物を取り出した。
「それからこれもだが」
そして再度差し出されたそれを、美幸は取り敢えず写真集を横に置いて受け取り、包装を解いてみる。すると透明なプラスチックケースに入れられたセットを見た美幸は、思わず歓声を上げた。
「リードディフューザーですか? うわ、可愛い。お花まで付いてる!」
細いスティック状のリードの一端をディフューザーオイルの中に挿す事で、香りの成分を吸い上げて拡散させるそれを見て、美幸は笑顔になったが、ここで城崎が心配そうに尋ねてきた。
「一人で留守番が駄目だったのに、一人で入院なんて大丈夫か心配になったから、気分を落ち着かせる物でも有った方が良いかと思ったんだ。だが病室で火や電気を使って拡散させるタイプは駄目だろうと思ったし、これなら大丈夫かと。ところで、昨夜はここでちゃんと眠れたか?」
真顔でそんな質問をされて、夏の一騒動を思い出した美幸は、僅かに顔を赤くしながらムキになって言い返した。
「う……、そこに繋がるんですか。大丈夫です。ちゃんと眠れました!」
そんな態度にも城崎は怒るどころか、安堵した様に話を続けた。
「そうか。取り敢えずフレグランスオイルは、静穏作用のある百%天然オイルを三つ選んでみたが、希望があるなら言ってくれ。それからリードの本数を調節したり、角度を変えることで拡散量も若干調節できる筈だ」
「分かりました。今日から早速試してみます」
「そうしてくれれば嬉しい」
それから嬉しそうに幾つかの話をして帰って行った城崎だったが、美幸は一人になってから「さすが係長、こっちの好みのストライクど真ん中を突いてくるわ。いつの間に、どうやってリサーチを」と感嘆交じりの独り言を漏らした。その挙げ句、「やっぱり侮れない……。あの嬉しそうな笑顔は反則でしょ。負けないんだから!」と、何故だか変な方向に、対抗意識を燃やしてしまった。
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