猪娘の躍動人生

篠原皐月

10月 予想外の展開

 ゆっくりと目を開けた美幸は、視界一杯に見慣れない天井が広がっていた為、ぼんやりと考え込んだ。
(あれ? ここって……)
 すると何かの電子音が小さく鳴ると共に、傍らから女性の声が聞こえる。


「ああ、気が付きましたか? 藤宮さん」
「……はぁ、あの、ここは?」
 寝たまま声がした方にゆっくり顔を向けると、ツーピースタイプのナース服を着た女性が、テキパキと周囲の機器を操作しつつ、端的に状況を説明してきた。


「港南総合病院のICUです。意識が戻るまではこちらでの管理となっていましたが、CTでも脳や臓器の損傷は有りませんでしたし外傷の処置も済んでいますので、バイタルのチェックを済ませたら一般病棟に移動します。担当医を呼び出しますので、現状説明も病室で行います」
「……どうも」
 何となく余計な口を差し挟む事ができず、大人しく頷いた美幸は、ここに至った経緯を思い返してみた。


(ええと……、確か商談を終えて田所製作所から出て来た所で、山崎さんが難癖を付けて絡んできて、突き飛ばされたのよね? そうしたら車道によろけ出た途端、自転車が……。あれと衝突した?)
「それでは移動します」
 痛みは無いものの、全身が重くて動かせないのは麻酔か鎮痛薬とか使っているのかと見当を付けた所で、点滴を付けたまま美幸は寝ているベッドごと、移動を開始した。そして看護師二人でベッドを廊下に出した所で、涙声で美野が呼びかけてくる。


「美幸! 大丈夫!? 私がちゃんと分かる?」
「おい、ちょっと落ち着けって!」
「美野姉さん? それに高須さんまで、何で?」
 ベッドに突進してしがみつかんばかりの美野を、横から慌てて高須が捕まえて宥めた。それを見た美幸は、きょとんとして二人を見上げたが、途端に美野の怒声と高須の呆れた声が降って来る。


「何でじゃあ無いでしょうっ!!」
「とにかく、話は病室に移動してからだ」
(一応、交通事故って訳だし、もの凄く心配かけたのよね?)
 涙混じりに何やらブツブツと文句を言っている美野と、それを宥めつつ付いて来る二人の気配を感じながら、美幸はさすがに申し訳なく思った。そして一般病棟の美幸に用意されていたらしい個室に到着すると、既に入口に担当医らしい中年の男性が待ち構えていた。


「藤宮さん、気分はどうですか?」
「大丈夫だと思います」
 そうして所定の位置にベッドを配置した看護師達はすぐにその場を去り、早速担当医がクリップボード片手に説明を始めた。そして細かい注意事項や今後のスケジュールなども含めて十分程で話を終わらせ、静かに椅子から立ち上がる。


「……そういう事ですので、暫くは鎮静剤と鎮痛剤の効果は持続している筈ですが、痛み出したらすぐにナースコールをお願いします。その他に視界がおかしく感じたり、動悸、眩暈、吐き気等があった時も同様です。何か不明な事がありましたら、夜間も一時間おきに看護師が巡回していますので、お尋ねください」
「分かりました。宜しくお願いします」
 取り敢えず疑問に思う事は無く、取り立てて不調は感じない為、美幸は素直に頷いた。それに担当医が会釈して部屋を出て行くと、美幸が如何にも残念そうな声を上げる。


「うぅ~ん、左足首骨折に、打撲三ヶ所、擦過傷四ヶ所って……。自転車と言えども、まともに衝突するとなると、馬鹿にできないのね。スーツも駄目になっちゃったかしら?」
「スーツの心配をしている場合!?」
 能天気な台詞に、思わず声を荒げた美野だったが、高須はしみじみとした口調で感想を述べた。


「しかし取り敢えずそれだけで済んで、本当に良かったな。お前、咄嗟に身体を捻って手で頭を庇ったから、脳震盪位で済んだらしいぞ?」
「そうなんですか。自分では覚えがありませんが」
「加害者はいきなり自転車道に飛び出したお前を無理に右に避けようとして、バランスを崩して派手に背中から道路に落ちて、腰の骨を折る重傷らしい」
「本当ですか?」
 その予想外の事実に、美幸は軽く目を見張った。


「ああ。ついさっき、この病院に相手方が加入してる保険会社の人が来たんだ。事が起きてから、もう四時間近く経っているし。それで俺達が少し話をした」
「そうだったんですか。すみません高須さん。二重三重にご迷惑を」
「いや、それは良いんだが」
 そこでいきなり美野が、憤懣やるかたない表情で叫んだ。


「確かに横断歩道も無い所で、いきなり飛び出した形になった美幸に過失責任は有るわよ! だけどそれは、山崎のせいじゃない! 治療費の支給を断られたり、逆に慰謝料を請求されたりしたら、その分はあの野郎からむしり取ってやるわっ!!」
「だから、幾らここは個室とは言え、周囲の迷惑を考えてくれ!」
「大体目の前に居たのに、美幸も相手も放置してトンズラするとは何事よ!! モラルの欠片も無いのね!!」
 美野の剣幕に呆気に取られて二人の会話を傍観していた美幸だったが、ここで美野が聞き捨てならない事を喚いた為、本気で驚いて二人の会話に割り込んだ。


「なにそれ? 山崎さんが救急車を呼んだんじゃないの?」
「あいつはそんな事してないわよ!」
「そのせいで、会社で余計に大騒ぎになったんだ。お前、係長と携帯電話でで話している最中に、事故に遭っただろう? お前が急に応答しなくなったから、何かあったと思って係長が商談先に問い合わせたんだ。そこのビルを出て来た直後って、聞いていたからな」
「え? まさか田所製作所の三橋課長にですか?」
 驚きの連続で目を丸くした美幸に、高須が頷きつつ忌々しげに告げた。


「ああ。それで丁度帰り支度をしていた三橋さんが、そのまま下りて様子を見に行ったら、丁度お前が搬送される所で。慌てて救急車の隊員に搬送先を聞いて、係長に連絡してくれたんだ」
「うわ……、三橋課長、今日は奥さんと結婚記念日ディナーって言ってたのに……。とんだご迷惑、おかけしちゃったわ」
 心底申し訳なく思いながら美幸が呻くと、高須がそれを宥めて話を続けた。


「それに関しては、後から係長と俺でお礼方々お詫びに行く。それで三橋課長の知り合いの社員が商談先から帰社した時、お前が山崎に突き飛ばされた所に出くわして、警察と消防に通報してくれたそうだ。人相風体からお前を車道に突き飛ばしたのが恐らく山崎で、その挙句怪我人を放置して逃げ出したらしいと分かって、三橋課長がその旨を併せて係長に伝えたから、係長は話を聞いている最中は冷静だったのに、通話を終わらせた途端部屋を飛び出して、営業一課に凄い剣幕で怒鳴り込んで……」
(……それって、どう考えても拙くない?)
 そこで深々と溜め息を吐いて言葉を区切った高須を見て、美幸は冷や汗を流した。そして予想に違わぬ説明が、美野の口から語られる。


「私が企画推進部の人から内線で連絡を貰って、慌てて詳細を聞こうと城崎さんを探して営業一課に出向いたら、『即刻、山崎を呼び出せ! 隠し立てすると、てめえもあの世に送ってやるぞ!』と叫びながら営業一課で浩一課長に掴みかかって、柏木課長代理と鶴田係長が二人がかりで、城崎さんを引き剥がしている所だったわ」
「俺も、なかなか係長や課長代理が戻って来ないから様子を見に行ったら、本当に乱闘一歩手前だった。係長が本格的に暴れる前に、呼び出された山崎が戻って来てくれて助かったな。下手したら二課うちの評判が、更に下がる所だった」
「それで、山崎さんはどうなったんですか?」
 確かに腹は立っていたものの、どう考えても穏便には済まなさそうな話の流れに、一応心配して名前を出してみた美幸だったが、何故か高須は美幸から視線を逸らしつつ、言葉を濁した。


「その……、第8会議室で詳しい事情を聞く事になって、浩一課長と課長代理、城崎係長と鶴田係長に連行された後の事は知らない。美野と一緒に病院に来たからな」
 そこで美野が、まだ怒りが治まらない風情で叫び声を上げた。


「それにしても! ちょっと悪口雑言を言ってやった位で、腹の虫が治まらないわよ! 本当に何か格闘技を習っておくべきだったわ! そうしたらあんな屑野郎、ボコボコにしてやったのに!」
「悪口雑言って、何?」
「あのな、美野。あれはあれで結構ダメージ」
「決めたわ! 子供が生まれたら、男だろうが女だろうが何か武術を習わせて、絶対ものにさせるわよ!」
「それはちょっと」
「何か文句有るの!?」
「いえ……、何でもありません」
 素朴な疑問を丸無視され、何やら良く分からない恋人同士の会話をされた美幸は、首を傾げた。


「高須さん? 何かあったんですか?」
「……大した事じゃない、気にするな」
「はあ……」
 微妙に顔を引き攣らせながら言い聞かせてきた高須に、美幸はここは突っ込むところでは無いのだと、冷静に空気を読んだ。そこで入口のドアを軽くノックする音が聞こえる。


「はい、どうぞ」
 そして面会時間はとうに過ぎているせいか、静かに引き戸を開けて室内に体を滑り込ませてきた、今現在の話題の主に、美幸は少し驚いた声を上げた。


「係長!」
「意識は戻ったとはナースステーションで聞いてきたが、大丈夫そうだな」
「はい。ご心配おかけしました」
 ベッドに寝たまま挨拶をしてきた美幸に、安堵した様に表情を緩めた城崎だったが、横から高須が控え目に声をかけた途端、瞬時に顔が強張った。


「係長、お疲れさまです。その、会社の方は……」
「俺は、もう帰って良いと言われてな。先輩方はまだ活動中だが」
「……そうですか」
(活動中って何? それに……、顔は怒っている様に見えないけど、係長の周りの空気が、何だか変……)
 互いに何となく含む物が有る様な微妙過ぎるやり取りに、美幸は疑問を覚えたが、ここで美野が高須を促しながらそそくさと荷物を纏めて立ち上がった。


「ええと……、じゃあ美幸。状態も安定してるしここは完全看護だし、私達帰るから。明日は美子姉さんが、着替えとか必要な物を揃えて持って来るって言ってたわ。今夜はちゃんと休んでね」
「あ、うん。皆によろしく」
(って、ちょっと! こんな不気味な空気を醸し出してる係長と、二人きりにしないでよ!)
 反射的に笑顔で二人を見送ってから、室内にちょっと気まずい空気が満ちている事を認識して、美幸は僅かに狼狽した。そのまま沈黙が続いたものの、自分から何と言えば良いか分からなかった美幸は無言を貫く。するとベッドサイドの椅子に腰を下ろした後は膝に両手を載せて俯いていた城崎が、深々と溜め息を一つ吐いてから、ゆっくりと顔を上げて美幸に視線を合わせながら声をかけてきた。


「今回は、本当に災難だったな」
 しみじみと気の毒そうに言われて、美幸はできるだけ深刻にならない様に、明るい声を出してみた。


「え、ええ。山崎さんがあれほど度し難い馬鹿だとは、思いませんでしたね。あ、あはは。でも幸い命に別状はありませんでしたし」
「バイクは所持していたが、車は持っていなかったので、ここにくる途中にディーラーに寄って、契約を済ませてきた」
「はい?」
 唐突な話題の転換に、美幸は戸惑った声を上げたが、城崎は真顔のまま淡々と話を続ける。


「納車は一ヶ月先になるが、諸手続を済ませて駐車場の賃貸契約も結ぶとなると、ちょうど良いだろう。藤宮の退院まで一ヶ月はかかるという話だし」
「退院って、私の、ですよね? それと係長が車を購入する話と、何がどう繋がるんですか?」
 全く訳が分からなかった為、説明を求めた美幸だったが、城崎は目線を彼女から外しながら、ボソリと付け加えた。


「……社にやって来た白鳥先輩に、『お前が気を付けると言っても、この程度か? 退院後も暫くは不自由だろうし、通勤で不自由な思いをさせない為に、車での送迎位するよな?』と軽く嫌味を言われた」
「え? まさか係長が車を購入した理由って、その為なんですか!? すみません! 係長にまでご迷惑を。でもそんな事、気にしないで下さい」
(義兄さん! 可愛がってくれてるのは分かるけど、もう子供じゃないんだし、わざわざ職場でそんな嫌味や無理難題言わないで!)
 時々予想外の行動に出る義兄に対し、美幸は軽い頭痛を覚えたが、そこで話は終わらなかった。


「それで『お前達が揃いも揃って社内で大して抑止力を行使出来ないなら、美幸ちゃんは辞めさせて、柏木産業を潰す』と真顔で言い出したんだ」
「何ですか、その『辞めさせる』だの『柏木産業を潰す』だの! 秀明義兄さんったら何を横暴な上、荒唐無稽な事を!」
「だから浩一課長と課長代理と俺で、善後策を講じる事にした。そういう訳で俺と君は、社内的には現在進行形で付き合っている事にするから」
「……え?」
 思わず呆れた声を上げた美幸だったが、次いで淡々と口にされた報告事項らしい内容に、美幸の思考は完全に停止した。しかし真顔の城崎の説明が続く。


「以前、改めて口説くと言ったが、事情が事情だ。このままだと下手したら課長が育休から戻って復帰する前に、柏木産業が傾きかねない。先輩方も同意見で、週明けまでに社内中に噂をばらまく手筈を整えた」
「ちょっと! 何、本人の意向丸無視で話を進めてるんですか、あんた達は!?」
 驚愕から立ち直り、上司達に向かって非難の声を上げた美幸だったが、城崎の決意は固かったらしく微塵も動揺しなかった。


「俺が荒事に慣れてて腕が立つのは、社内のちょっとした事情通には知られている事だからな。だから今後は社内で、その彼女に表立って危害を加えようなんて考える馬鹿は、出てこないだろう」
「危険回避の為って事ですか? でも馬鹿っていうのは、他の人間が思う通りに動かないから馬鹿なんですよ! 第一表立ってじゃなくて、裏でコソコソといびられる可能性の方が高いじゃないですか! 去年係長と噂になった時、女子トイレで吊し上げられた事、まさか忘れたとか言いませんよね!?」
「そんな事になったら、その都度手段を選ばす各個撃破して、柏木産業から追放する。この際男だろうが女だろうが、容赦しない。先輩方も同意見だ」
「追放って……」
(さっきから淡々と話してるけど、いつもの係長と明らかに違う。何か色々振り切れた感じ? それに明らかに本気の係長に加え、社長令息の浩一課長とあの課長代理の手にかかったら……、私に手を出したその日に首を切られそう。じゃなくて、切られるわね。絶対に)
 思わず寒気を覚えて黙り込んだ美幸に、軽く息を吐いて険しい表情を緩めた城崎が問いかけた。


「一応聞いておくが、付き合う相手として、俺ではどうしても不満か?」
 幾分心配そうに顔を覗き込まれて、真正面から視線が合ってしまった美幸は、狼狽しつつ言葉を返した。


「か、係長に対して、不満とかそういう事はありませんが、その、付き合う事に至った過程が、ちょっと想定外過ぎると言いますか何と言うか」
 僅かに顔を赤くしてベッドに横になったままじたばたしている美幸を見て、城崎は微笑しながら鞄片手に腰を上げた。


「じゃあ追々慣れてくれ。明日は土曜日だし、また来る。ゆっくり休んでくれ」
「あ、はあ……。お疲れ様でした」
 そして唐突に病室に一人取り残されてから、美幸は普通に動かせる右手を口に当てて考え込んだ。


(どうして本人が知らない所で、社内でそんな噂が広がる事態に……)
 白い天井を見上げながら、城崎との会話一通り反芻してから、これ以上自分にはどうしようも無い事だと、早々に諦める。しかし、愚痴っぽい呟きが漏れるのまでは防げなかった。


「まあ……、確かに係長は仕事はできるし頼りになるし、そこら辺の軟弱男とは比べるのも申し訳ない位の人だけど……」
 そこで美幸は全く納得できないと言った口調で、義兄についての論評を口にした。


「何だか柏木産業を守る為に、なし崩しに付き合う事なったみたいで納得しかねるし、第一どうして係長達は、そんなに秀明義兄さんを怖がるのよ?」
 自分達姉妹には甘い義兄の対外的な評価を、共に生活してきても未だ知らない事がどれほど幸運な事なのかを、その時の美幸は全く理解していなかった。



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