猪娘の躍動人生

篠原皐月

9月 謎のお仕事

 課長代理である柏木清人に呼ばれた美幸は、その時、既視感を感じた。


「藤宮さんに、お願いしたい仕事があります。初めてでしょうが、今の藤宮さんでしたら、やり遂げる力量は十分に持ち合わせていると思いますので」
「……光栄です」
(何、この嘘臭い笑顔。あの接待の話を持ち出した時の笑顔と、全くの同じ代物じゃない。今度は一体、何をさせる気よ?)
 頭の中で警戒警報が最大限に鳴り響く中、美幸は何を言われても動揺しない様に、気合を入れ直して上司の次の言葉を待った。そんな美幸の緊張とは裏腹に、清人は手元にあったクリアファイルを美幸に差し出しながら、淡々と告げてくる。


「それでお願いしたいのは、ある区役所業務の共同入札への応募です」
「……はぁ?」
 思わず間抜けな声を上げてしまった美幸に、清人が不思議そうに声をかける。


「どうかしましたか?」
「すみません。何でもありませんので、話を続けて下さい」
(どんな無理難題をふっかけられるかと思えば、どう考えてもまともな仕事じゃない。身構え過ぎだったわね……)
 一安心した美幸だったが、それを見て清人は密かに笑った。しかしそんな事は他の人間には微塵も見せず、真顔で説明を続ける。


「近年の防災意識の高まりから、各自治体でも昨今では防災に関する業務が増大しています。非常時を想定した訓練然り、避難経路の確定やハザードマップの作成などが顕著ですが」
「確かに、色々騒がれていますよね」
「しかし公務員の人員は限られていますし、いつ発生するか分からない災害に、常に過剰な人数を振り分けておく事は不可能です。それで民間に任せていける所は、どんどん外部委託していこうという考えが出ています」
「外注……、アウトソーシング、ですか。因みにどの様な業務ですか?」
 咄嗟にイメージが掴めなかった美幸が思わず問いかけると、清人は怒ったりはせず美幸の手元を指差した。


「今渡した書類を確認して下さい。区内に点在している備蓄倉庫の、災害対策用備蓄用品の管理と、定期的な補充に関する業務です」
 言われて美幸はバサバサと音を立てながら書類をファイルから取り出し、ざっと必要と思われる箇所を眺めた。そしてすぐに納得して言葉を返す。


「……ああ、なるほど。それでしたら防災担当の職員の方が、何年か毎に発注を出したり搬入業者を選定したり、使用期限が切れた物のチェックとかの些末な業務に煩わされる事が無くなるわけですね?」
「はい。その分、本来の防災業務に専念できるというわけです。どうでしょう? やってみませんか?」
「はい、是非」
「課長代理! ひょっとしてその入札は!」
 変な仕事ではないし、面白そうだと思った美幸が勢い込んで承諾の返事をしようとしたが、ここで何故か二人のやり取りを聞いていたらしい城崎が、顔付きを険しくして立ち上がりつつ声を荒げた。しかし清人が最後まで言わせず、冷ややかな眼差しを向けて黙らせる。


「いきなり大声で、何ですか? 城崎係長」
「……いえ、失礼しました」
(え? 何?)
 城崎が理由も無く騒ぎ立てる人間などではないと分かっている美幸は、城崎の行動に不審な物を感じたが、目の前の清人が再び口を開いた為、そちらに意識を集中した。


「それでは来年度の予算編成前に入札するスケジュールですので、十二月中に納入可能な業者の選定と見積もりをして、五年間の計画作成まで済ませて下さい。年明けに入札の流れになります。分からない事は早めに周囲に聞いて、滞りの無い様に」
「はい、分かりました。精一杯やらせて頂きます!」
「お願いします」
 やる気に満ち溢れた笑顔で応じた美幸に、清人も穏やかな笑みで会話を終わらせた。しかし彼女が一礼して自分の机に戻ると、入れ替わる様に城崎が清人の元にやって来る。


「……課長代理」
「はい、何でしょうか?」
 そうして自分に背中を向けたまま、城崎が清人と何やらボソボソと小声で話し込んでいるのを見て、美幸は本気で首を捻った。


(何だか係長の様子が変……。でもこれってどこからどう見てもまともな仕事なのに、どうしてかしら?)
 改めて渡された資料を読み始めた美幸だったが、何度読み返してみても細かい条件等だけが記載されているだけの内容であり、(後から課長代理が居ない所で、係長に聞いてみよう)と考え、それ以上悩む事は止める事にした。それは予めその日予定されていた会議の時間が迫って来た為、清人から移動を促す声をかけられたせいでもあった。


「それでは時間になりますので、行きましょうか?」
「はい」
「分かりました」
 営業一課との合同プロジェクトの定期会議だったが、隣の席で立ち上がった高須が如何にも気が重そうな表情をしている為、美幸も手早く必要なファイルを持って他の三人の後を追った。


「高須さん、あの納涼会以降初めての合同会議ですけど、あれからまだ美野姉さんの事で、山崎さんに絡まれたりしてるんですか?」
 前を歩く清人と城崎に聞こえない様にコソコソと尋ねると、高須は頭痛を堪える様な表情で返してくる。


「いや、特にそんな事はない。だがどうせまた、因縁を付けてくるだろう。分かってても気が重いから渋い顔をしているが、会議が始まったらそこら辺は取り繕うから気にするな」
 納涼会で美野を馬鹿にされたと思い、ブチ切れて山崎を殴り倒してから彼女と二人で行方をくらました後、美野を口説き落として藤宮家公認の彼女の婚約者に収まってしまった高須は、内心(このはねっ返りが義妹になるのか……)と少々気が重くなりながら宥めた。しかしそんな心情など全く理解できなかった美幸は、真顔で決意を告げてくる。


「分かりました。高須さんが大人しくしてる分、私が纏めて二人分」
「いいから余計な真似をするな! 頼むから揉めるなよ!?」
「一応未来の義妹として、義兄の名誉を守りたいんですけど」
「お前の場合……、何もしてくれない方が、俺の名誉が保たれる気がする」
「酷い! なんですかそれはっ!!」
 そして場所を弁えずにぎゃいぎゃい言い合い始めた二人のやり取りを、聞くともなしに聞いてしまった城崎は無言で額を押さえ、清人は笑いを堪えながら指定された会議室に向かった。


「お待たせしました」
「いえ、こちらもつい先程来たばかりです。それでは早速始めましょうか」
「そうですね」
 責任者二人が笑顔で挨拶し、美幸達が揃って席に着こうとしたところで、いきなり山崎が口を開いた。


「すみません課長、柏木課長代理。少しお時間を頂きたいのですが」
「山崎さん?」
「構いません。何でしょうか?」
 課長と課長代理の二人は何か業務に係わる事かと、怪訝な顔をしながら控え目に了承したが、山崎が口にした事は完全に個人的な事だった。


「高須、俺は未だにお前から、納涼会の席上、俺を殴った事についての謝罪を受けていないんだが?」
「何?」
「はあ?」
 当事者の高須は僅かに眉を寄せ、美幸はこんな場所で何を言い出すのかと本気で呆れた。
 双方の上司達四人も呆れた表情で視線を交わし合ったが、清人が軽く首を振ったのを認めて、無言で事態の推移を見守る。


「まさか社内の人間が見てる前で起こした暴挙を、しらばっくれる様な真似はしないよな? 企画推進部ニ課の名前に傷が付くぞ? まあ確かに今更一つ位傷が増えても、どうって事無いかもしれないがな」
 誰も制止しないのを良い事に、山崎は嘲笑の口調も露わに言い放つ。その物言いを聞いた美幸は、当然ながら激昂した。


「何ですって!? 黙って聞いていれば、ふんぞり返って何様のつもりよ!!」
「藤宮、黙ってろ」
「でも!」
「いいから!」
 高須は美幸の腕を押さえつつ、小声で言い聞かせた。さすがに山崎の隣に座っていた隆が真っ青になりながら「先輩、言い過ぎです!」と窘めたが、本人はどこ吹く風で薄笑いしながら変わらず高須に視線を合わせる。その視線を真正面から見返した高須は、如何にも不満そうにしながらも黙り込んだ美幸から手を離してから、ゆっくりと口を開いた。


「山崎さん、先だっては大変失礼いたしました。一方的に暴力行為に及び、心から反省しております。加えて忙しさに紛れて謝罪が遅くなりまして、誠に申し訳ありませんでした」
 冷静にそう言い終えた高須が無言で頭を下げると、山崎が勝ち誇った様に横柄に頷く。


「ふん、そこの無神経女よりは、物事ってものを弁えているらしいな。本当だったら人目の有る所で土下座して貰いたい気分だったが、それで勘弁してやる」
「それはどうも、お気遣いありがとうございます」
「ちょっと高須さん!」
 どこまで言われっぱなしでいるのかと美幸が腹立たしく思っていると、ここで高須は丁寧な口調はそのままに、目つきを鋭くして山崎を凝視した。


「ところで、山崎さんは、法務部の藤宮さんにはきちんと謝罪をされたんでしょうか?」
「は? なんで俺が、そんな事をしなくちゃいけないんだ」
 予想外の事を言われて本気で当惑している山崎に、高須が冷静に畳み掛ける。


「未だに謝罪されていない様ですが、まさか社内の人間の前で一方的に人を揶揄する様な発言をしておいて、そ知らぬふりをするおつもりですか? 営業一課の名前に傷が付きそうですね。うちと違って、そちらは社内でも花形の部署ですから、普段から言動に気を付けられた方が良いかと思いますが」
「何だと!?」
 明らかに、先程自分が高須に向けた台詞のフレーズを引用して非難されている事が理解できた山崎は、顔色を変えて勢い良く立ち上がった。しかしここで穏やかな口調で、山崎の上司である浩一が口を挟んでくる。


「そうですね、私もそれは知りたいです。その女性への謝罪は済ませているんですか?」
「課長……、い、いえ、ですが、俺は本当の事を言ったまでです!」
「……本当の事、ですか」
「はい、ですから」
 上司から確認されて慌てて山崎が弁解すると、浩一は穏やかに微笑みつつ頷いた。それを見て山崎が安心して話を続けようとしたが、それを急に表情を変えた浩一が、冷え冷えとした口調で遮る。


「それでは君は、業績不振の会社の責任者に向かって『お宅の会社は仕事が無くて困ってるな? 仕事をさせてやるから、単価を四割安で引き受けろよ。仕事が貰えるだけ、ありがたいと思え』とか、平気で口にするわけか?」
「いえっ、課長! それとこれとは!」
 さすがに顔色を変えた山崎に対し、浩一が更に続ける。


「例え真実だからと言って、何でも口にして良いと言うわけではない。気配りは周囲とのコミュニケーションに必要な最たるものだが、これまでも君は仕事上ではともかく、社内でのプライベートな交友関係で口が過ぎると、色々と噂になっている。その納涼会での事も、同席した複数の女性社員から君を指導してくれと、後日抗議及び要請されていた」
「なっ! あいつら寄ってたかって、ある事ない事課長に吹き込んだんですよ!」
 そう言って山崎は自分には非の無い事をアピールしようとしたが、浩一は淡々と続けた。


「彼女達の話を聞いた後で、君と同じテーブルに着いていた早川と青木にも詳細を聞いたが、彼女達のそれと大差ない内容だった。まあ正直、プライベートな事に一々口を挟むのはどうかと思って、これまで敢えて苦言は差し控えていたが。彼等には君が変に委縮しない様に、俺に話した事を黙っていて欲しいと頼んだしな」
「………………」
 同僚から既に詳細を報告済みと知らされた山崎は、これ以上弁解できずに黙り込んだ。それを見て、浩一が溜め息交じりに続ける。


「まあ、いい年の大人同士のやり取りだし、とっくに大人の対応をしたと思い込んでいた、こちらのミスだった。……この会議が終わったら、その足で法務部に出向く。同行しろ」
「え? いえ、ちゃんと彼女に謝罪してきますので」
 さすがに上司同行で頭を下げに行くなど御免こうむりたい山崎は、いきなりの命令口調に動揺しつつ弁解しようとしたが、浩一の意思が変わらないどころか、醸し出す空気の冷感が一気に増加した。


「業務の邪魔をしてまで下らん揉め事を蒸し返した挙句、未だにぐだぐだぬかしている相手を信用しろと? 貴様がまともな対応をしないと、管理者の俺が恥をかくという事が、まだ分からないのか?」
「……分かりました。お願いします」
 如何にも悔しそうな顔を見せたものの、山崎は大人しく浩一に向かって頭を下げた。その一連のやり取りを傍観していた美幸は、改めて肝を冷やす。


(浩一課長、怖っ! でも田村君は顔色が悪いけど、初めて見た様には動揺してないし、鶴田係長は平然としてるし。温厚に見える浩一課長も、営業一課の中では派手に叱責する事もあるって事よね。さすがだわ)
 山崎に対する怒りなど完全に忘れて美幸が感心していると、まるで何事も無かったかのように浩一が元の笑顔になって、清人達に声をかけた。


「すみません、業務に関係の無い事でお時間を頂きました。早速始めましょう」
「分かりました。それでは前回持ち帰りとなっていた、候補企業の選定から。城崎係長」
「はい、それではこちらをご覧下さい」
 そしてテキパキと城崎が配った書類に目を落としながら、チラッと向かい側の様子を窺った美幸は、心底うんざりしてしまった。


(完全に墓穴掘り。美野姉さんに形だけでも頭を下げておくか、こんな所で高須さんに絡まなければ見逃して貰えたのに。うわ~、怨念の籠った視線が、寧ろ爽快だわね。ちょっと、どうでも良いけど、ちゃんと資料を見てないと、どこ話してるか分からなくなるわよ?)
 そこまで考えて他人事ではないと思った美幸は、それからは山崎からの視線は素知らぬふりで、議論に集中した。


 そうして何とか無事に会議を終え、終業時間まで何事も無く過ごす事ができた美幸は、気分良く家路についた。しかし自社ビルを出た所で、追いかけてきたらしい城崎が、若干息を切らしながら美幸に声をかけてくる。


「藤宮、歩きながらちょっと話があるんだが……」
「はい、構いませんけど、何でしょうか?」
 並んで最寄駅までの道を歩きながら、美幸は城崎の言葉を待ったが、何故か相手が一分程歩いても無言を保っている為、怪訝そうにその顔を見上げた。


「あの~、係長?」
「その……、昼間の入札の件なんだが、やっぱり止めないか?」
 その台詞に、美幸は無意識に顔を顰める。
「どうしてですか? 私にはあれは無理だと言うんですか?」
「いや、そうじゃない。力量は十分にあると思う。思うんだが」
 そこで困った様に尚も言い募ろうとした城崎だったが、何やらスーツのポケットからメロディーが聞こえてきた。


「ちょっと待っていてくれ」
 断りを入れてスマホを取り出した城崎を、美幸は釈然としない気持ちで眺める。
(何なんだろう……、この煮え切らなさ。全然係長らしくないんだけど?)
 ぼんやりとそんな事を考えていると、いきなり城崎が奇声を発した。


「げっ!!」
「は?」
 思わず美幸が城崎の顔を見上げると、城崎はそれで我に返った様に慌てて自分の背後にスマホを隠した。


「い、いや、何でも無い! 絶対何でも無いから!!」
「はぁ……」
 その必死過ぎる否定っぷりに、自然と美幸の視線と意識が、城崎の背後に回された両手に向かう。


(何? 課長の顔、夜目にも青を通り越して、何か白いけど……)
 そんな美幸の視線を察知した城崎は勢い良く背後を振り返り、慌ただしくスマホを何か操作してから、誰かに電話をかけ始めた。


「あんたって人はっ!! いきなり人のスマホに、何送り付けてくれてやがんですか!! …………はぁ!? あんたエスパーかよ、ふざけんな!! …………いえ、すみません、今のは動揺のあまり、つい口が滑りました。何卒、何卒平にご容赦ください……」
(係長……、思いっきり変。このままこっそり帰って構わないかしら?)
 いきなり電話の相手を怒鳴りつけたかと思ったら、次の瞬間何もない所に向かってペコペコと何度もお辞儀をしだした城崎を見て、周囲の通行人は遠巻きにしながら通り過ぎて行く。美幸も一瞬、挙動不審な城崎を放置して帰ろうかと思案したが、我慢して通話が終わるのを待った。そして何やらボソボソと話を済ませてから、傍目にもげっそりした風情で城崎が振り返る。


「ええと……、すまん、待たせて悪かった、藤宮」
「お話は終わったんですか?」
「ああ、何とか」
「それで、どうしてあのお仕事を私がしてはいけないんですか?」
 そう問いかけた美幸に対し、城崎は一瞬言葉を詰まらせてから、先程までの立場とは百八十度異なる事を口にした。


「その話なんだが……、やっぱり藤宮がやってくれ。できるだけ俺もフォローするから」
「本当ですか? 宜しくお願いします」
「いや、こちらこそ。それじゃあ……」
「はい、お疲れ様でした」
 何となく狐につままれた様な顔になりながら、美幸は城崎を見送ったが、(なんだか係長、足取りがフラフラしてるけど、大丈夫かしら?)とその後ろ姿を眺め、理由が分からない為ちょっと不安になってしまった。


 その日は珍しく早目に帰っていた秀明と、美幸と美野は食堂で一緒に夕食を食べる事になった。配膳した後は秀明の横に座ってお茶を飲み始めた美子を含め、和やかに雑談していた最中、美幸はふと昼間の不愉快な情景を思い出し、美野に洗いざらい報告する。その会議室での一悶着を高須から全く聞いていなかった美野は、すっかり驚いて聞き入った後、ゆっくりと口を開いた。


「……会議の前に、そんな事があったのね。いきなり山崎さんが課長さんと法務部に出向いて来たから、何事かと思っていたのよ。今まで全然音沙汰が無かったのにいきなり謝罪してくるから、法務部の皆さんにどういう事かと尋ねられたし。それには課長さんが丁寧に説明して、『私の指導が行き届きませんで』と頭を下げていたけど、それで余計に皆が、何とも言えない顔を山崎さんに向けていたわ」
 それを聞いた兄夫婦は、揃って苦笑の表情になった。


「あらあら、さっさと美野に頭を下げておけば良かったのにね。こちらにとっては、とっくに済んだ事だったのに。余計な恥をかいてしまって」
「そうだな。寧ろ例の件で美野ちゃんと高須君が纏まって、こちらは感謝している位だが」
「そうですよね~」
「美幸、あのね!」
 茶化す様に美幸が応じた為、美野は顔を赤くしてから妹に文句を言おうとしたが、ここである懸念を思い出し、真顔で確認を入れた。


「でも、そんな呑気な事を言っている場合なの? 美幸と優治さんは、これからも暫くは山崎さんと同じプロジェクトのメンバーでしょう? また八つ当たりされたりしないか、心配だけど」
 美野は真剣に訴えたが、美幸は食べる合間に淡々と応じた。


「仕事だし、そんな事一々気にしてないわ。それにこれに懲りて、少しは大人しくしているんじゃない?」
「そうかしら?」
「正直、そんな事より、課長代理から任された、新しい仕事の方が気になるのよね」
 そこで思わず箸を止めて眉間に皺を寄せた美幸に、美野が驚いた様に問いかける。


「何? 何か問題でもあるの?」
「ううん、そうじゃなくて……。全然問題なさそうなのに、係長が渋い顔と言うか、やって欲しく無さそうな顔をするのよね……。帰りがけにもそんな事を言われたし。だから余計にわけが分からなくて」
「城崎さんが? 陰からサポートしてくれるならともかく、意味も無く人の仕事に口出しをする様な人には見えないけど」
 美野まで怪訝な顔になって考え込んでしまったが、ここでテーブルの向かい側から秀明が声をかけてきた。


「美幸ちゃん、因みにどんな仕事?」
「区役所業務の外部委託の共同入札への参加です。あ、家で資料をもう一回見ようと思って、持って来たんだった」
 そして「食事中に行儀が悪いわよ?」と美子に叱責されつつ立ち上がった美幸は、少し離れた椅子に置いてあった鞄を開け、中からクリアファイルを取り出した。そして「これなんですけど」と秀明に差し出すと、それをパラパラと捲ってみた秀明は、一分もせずに明らかに苦笑の表情になる。


「……へえ? ああ、なるほどね。良く分かったよ」
 その反応に、美幸はすっかり困惑した。
「え? お義兄さんは、係長がどうして変な言動をしたのか、これだけで分かったんですか?」
「そうだね」
「それってどうしてですか?」
「悪いけど、城崎が口を割っていないなら、俺が教えるわけにはいかないな」
 あっさりと断られた美幸だったが、ここで食い下がろうとした所で、横から秀明の手元を覗き込んでいた美子が、会話に割って入る。


「要するに、城崎さんって、美幸には結構甘い方だって事でしょう?」
「はぁ?」
「分かるか? 美子」
 面白そうに秀明が顔を向けると、美子は夫と同じ笑顔で頷いた。


「ええ、多分あなたと同じ事を考えていると思うわよ? 察するにあなたの後輩の課長代理さんって、時間を無駄に使わないタイプの方なのね?」
「加えて人遣いが荒くて、自分に厳しい以上に他人に厳しいタイプだな」
「間に挟まれた城崎さんが、ちょっとお気の毒」
「かなり気の毒レベルだな」
 何やら夫婦で分かり合っている会話を交わされ、美幸は呆然としてから、気を取り直して再度尋ねた。


「あ、あの~、要するにどういう事?」
「さっきも言ったけど、それは自分で考えようか?」
「ヒントだけあげましょうか。俗に『名を捨てて実を取る』って言うわよね?」
「美子、お前も結構美幸ちゃんに甘いぞ?」
「そうかしら?」
 そしてこれ以上尋ねても無駄だと悟った美幸は、微笑んでいる長姉夫婦から視線を外し、隣の美野に尋ねた。


「美野姉さん、分かる?」
「全然。意味不明よ。分かったら教えて?」
 そして本気で首を捻っている美幸と美野を眺めながら、秀明と美子は暫くの間、苦笑を堪えていた。



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