猪娘の躍動人生

篠原皐月

8月 予想外の結末

 結論から先に言えば、ボウリング大会はある意味波乱に満ちながらも、ある意味平穏に進行していった。
「とぅりゃあぁぁっ! ………やったぁぁっ!!」
「はっ! ……よし、行った」
「それっ…………、良し。取れたな」
「よっ……、と。こんな物だろ」
 美幸を含む同一レーン使用の四人組のスコアは、開始早々からそれ以外の面々のそれを突き放し、横一線で爆走していた。そして激しい鍔迫り合いを演じているそのレーンの他では、一位から四位までの入賞を諦めた社員達の「豪華賞品なんかどうでも良いから、楽しくやろうぜ」的な空気が、そこかしこに蔓延する。


「うふふふ、絶好調。ここまで自己記録更新ペースなのに、課長代理を引き離せないのがしゃくですけど」
 連続ストライクを出して、満足げにスポーツドリンクを飲みながら笑みを漏らした美幸に、投げ終わった城崎が、横に座りながら苦笑する。
「既にあっさりターキー出しておいて、悔しがるのもな。課長代理も課長の前だからって、本気出しまくってるし」
「係長も凄かったですよ? さっきのスプリット」
「は、はは……、もう一回だって外せないからな」
「その意気です! 今日は絶対に課長代理に勝ちましょうね!?」
「……ああ」
 引き攣り気味の笑顔を見せた城崎は、真澄が座っている少し離れたベンチに視線を向け、その前でにこやかに立ち話をしている清人を見ながら深い溜め息を吐いた。


 そんな風にそのレーンではハイスピードでゲームが進んでいったが、さすがに三ゲーム目に突入すると、疲労が微妙にスコアに出てくる様になった。全員スペアを取りこぼす事は無かったが、ストライクの回数は減り、四人の順位が一投ごとに激しく入れ替わるようになる。
(ええと……、9フレームが終わった段階で、悔しいけどトップは課長代理。私と浩一課長は一点差で、係長が二点差。この状況で逆転するには、最低でもスペア。あの課長代理相手なら、連続ストライクでも不安なんだけど)
 モニターに映し出されたスコアを確認した美幸は、勝利するにはあまりにもギリギリ過ぎる状況に、溜め息を吐きながらボールを取りに行った。そして(取り敢えず三連続ストライクを取れば良いだけよ!)と気合を入れ直し、まっすぐ投球する。しかしここで美幸は、勝利の女神に完全に見放された心境に陥った。


「は? ちょっと待って! なんで倒れないの!?」
 美幸が放ったボールはベストポジションに入ったと思いきや、隣接するピンが倒れてぐらついたものの、4、7、8番ピンが残ってしまった。愕然とした美幸の後方で、何やらからかうような声と叱り付ける様な声が響いていたが、それは美幸の耳には全く伝わっていなかった。
(落ち着いて……、落ち着くのよ、美幸。まだ逆転の可能性は、ゼロじゃないんだから。ここでスペアを取って、三投目はストライクよ!!)


 ボールが戻って来るまで必死に自分に言い聞かせた美幸は、ゆっくりとボールを手にして傍目には落ち着き払って二投目を投げた。しかし一番大事な場面でしでかしたミスでの動揺は大きかったのか、いつもだったら倒せる隣接した三本のうち、7番ピンが残ってしまう。
「嘘っ!? 悔しいぃぃっ! どうして最後の最後で、続けて外すのよ!?」
 ショックのあまりその場に崩れ落ち、両手を付いて四つん這いになった美幸が項垂れていると、至近距離でカシャッという微かな電子音が生じた。それに思わず顔を向けると、自分の横でスマホを掲げている清人が目に入り、不審げに問いかける。


「……課長代理。そこで何やってるんですか。まだ投げる順番じゃないですよ?」
「いえ、あまりにも見事なorz体型だったので。直接電話がかかって来る可能性は低いと思いますが、藤宮さんの待ち受け画面はこれで登録しておきますね?」
 そんな事を言われながら、穏やかに微笑まれつつ自分の屈辱的な姿が映し出されたスマホを見せられた美幸は、当然激昂した。


「こんの腹黒似非紳士野郎っ! 今日と言う今日は絶対ぶん殴る!!」
「気持ちは分かるが、ちょっと待て、落ち着け、藤宮!」
「藤宮さん、申し訳なかった! 姉さん! 今の藤宮さんの画像、清人に消去させてくれ!」
 勢い良く立ち上がって臨戦態勢になった美幸を、すかさず駆け寄った城崎と浩一が押さえ込み、険しい顔付きの真澄に叱り付けられた清人は、苦笑いしながら美幸の画像データを消去した。
 悔しさのあまり涙目になった美幸を城崎と浩一は二人がかりで宥め、他のレーンからの視線も浴びてしまった為取り敢えず椅子に座らせたが、美幸の悔しさは消えなかった。


「くっ、悔しいぃぃっ! 係長、浩一課長、負けちゃ駄目ですよ! ここでストライクが取れなかったら、課長代理に勝てないんですから!!」
「ああ……」
「うん、分かってるから……」
 涙目で自分が訴えた事で、二人に余計なプレッシャーをかけた事には気付かないまま、美幸が椅子に座ってがっくりと項垂れていると、次に投球に入った城崎が呻き声を上げた。
「ちっ……、手が滑った。一本残すとは……」
 思わず顔を上げると、城崎が10番ピンだけが立っている状況に憮然としているのが分かり、美幸は思わず声をかける。


「係長、大丈夫ですよ! 落ち着いて投げれば倒せますから!」
「……分かった。手堅く倒していくしかないよな」
 背後を振り返った城崎が苦笑しながらそう告げると、ボールが戻って来た為、それに手を伸ばした。そして二投目は一直線に10番ピンに向かって行って、危なげなくそれを倒し、三投目は見事なストライクで投球を終了する。その落ち着き払った一連の動作に、美幸も何となく落ち着きを取り戻し、後方に戻って来た城崎を神妙に出迎えた。


「お疲れ様でした、係長」
「お疲れ。だいぶ落ち着いたみたいだな」
「やっぱり自分はまだまだ感情的だなって反省させられました。最後の最後でスペアを取りこぼすなんて、精神的に未熟です。係長はきちんと取れたのに……」
「未熟って……、たかがボウリングで大袈裟な」
 思わず苦笑した城崎に美幸がなおも言いかけたところで、一投目を投げ終えた三番手の浩一が、如何にも悔しそうな声を上げたのが聞こえた。


「しまった……」
 その声に思わず二人が前方に目を向けると、二本のピンが横並びで残っている事に気付いて愕然とする。
「うわ、7‐9のレイルロード!?」
「先輩……、どうしてこんな切羽詰った場面で、こんな酷い平行スプリットに……」
 美幸と城崎は心底浩一に同情したが、本人は見た目には平然とボールが帰って来るのを待っていた。その泰然自若ぶりに、美幸が城崎に囁く。


「なんか浩一課長、凄く落ち着いている様に見えるんですけど、勝負を投げちゃったんですか? もうどちらか一本狙いとか」
「真っ当に考えればそうなんだがな……。因みに藤宮だったらどうする?」
「そりゃあ、手堅く9番だけ狙います」
「だろうな。でもあの人はああ見えて、結構粘り強いタイプだし、本気を出したら怖い人だからな」
 そう言って含み笑いをした城崎に、美幸は疑惑の表情を向けた。
「……両方取りに行くと?」
「見ていれば分かるさ。ほら」
 城崎が指で示した先に目をやると、浩一が二投目に入ろうとしていた所だった為、美幸は大人しくそれを見守った。
 落ち着き払って投げた浩一の二投目は、緩やかな緩やかなカーブを描きなが9番ピンを掠める感じで当たり、そのピンが平行移動しながら倒れて7番ピンを巻き添えにして奥に消えたのを見て、美幸は思わず感嘆の叫びを上げた。


「凄い!! 浩一課長、スペアですっ!!」
「全く。ここ一番って所では外しませんよね?」
 感激しきりの美幸と、どこか皮肉交じりの城崎の声に、浩一が振り返って苦笑いで応えた。
「ありがとう。今回は上手く入ってラッキーだったよ」
「運も実力のうちです! ここ一番で外した私とは、比べ物になりませんよ!!」
 力説した美幸に対して曖昧に笑ってコメントを避け、浩一は三投目を投げる為、ボールを取りに行った。その背中を見ながら、美幸はしみじみと呟く。


「浩一課長って、見かけによらず神経が太いみたいですね。この場面で、あんなに落ち着き払って投球できるなんて」
「人は見かけによらないって、良い実例だな。あれで結構喧嘩っ早いし」
「は? 浩一課長がですか?」
 苦笑しながら言われた内容に流石に美幸が当惑した表情で返すと、城崎は小さく肩を竦めて補足した。
「学生時代の話だがな。それにいつも一緒に居た課長代理の方が派手に大立ち回りしてたから、相対的に目立たなかっただけだ」
「……課長代理って、どれだけ物騒な人なんですか」
 ちらりと清人に目をやった美幸だったが、対する清人は上機嫌で真澄に何やら話しかけており、美幸は思わずうんざりとしながら溜め息を吐いた。
 浩一の三投目はストライクで終わり、美幸は小さく拍手しながら出迎えつつ、スコアを確認する。


(ええと、ここまでで一位は浩一課長、二位は係長で、三位が私になっちゃったけど……、最後の課長代理のスコアで順位確定なのよね。課長代理が連続してミスして、私同様スペアを取りこぼせば……。あるわけないか、そんな事)
 清人が落ち着き払って自分のボールに手を伸ばしているのを見ながら、美幸は頭の中で計算してみたが、楽観的な予測などできずにがっくりと項垂れてしまった。しかし少し離れた所から聞こえた微かな悲鳴に、驚いて顔を上げる。


「……きゃあっ!」
「え?」
「課長!?」
「真澄、どうした!?」
 声がした方に顔を向けると、どうやら真澄が紙コップを取り落としたらしく、その足元にお茶らしい液体が広がっていた。特に外傷らしきものが無かった事が分かり美幸達は安堵したが、血相を変えて背後を振り返った清人が慌てて真澄に駆け寄る。


「……何をやっている」
 素早くタオルで真澄の足にかけていたひざ掛けや、スカートの染みを拭き取り始めていた恭子に、清人が冷え冷えとした声をかけた為、城崎と浩一は目配せしていつでも背後から清人を押さえられる位置に立った。美幸もさすがに怖気づいたが、少し離れた場所から推移を見守る。


「申し訳ありません。真澄さんに紙コップを手渡そうとして、膝に落としてしまいました」
「ちょっと膝にかかったけど、すぐ床に落ちてそっちに零れたから大丈夫。心配要らないわ」
「そうか。それなら良いが……」
 真澄が取りなし、謝罪した恭子が後始末を再開すると、多少納得しかねる声で清人が呟いた。ここですかさず浩一が、背後からその肩を叩きつつゲームの再開を促す。


「大した事が無くて良かった。ほら、清人。まだ終わってないから、気を取り直して投げてくれ」
「……ああ」
 最後に軽く恭子を睨んでから清人が戻って行くと、それ以外の人間は揃って安堵した様な表情になった。美幸もホッとして何気なくモニターを見ると、3番と6番ピンが残っているのが映し出されており、意外に思った。


(え? 課長代理、倒し損ねたの? ……あ、そうか。投球フォームに入った時に課長の声が聞こえたから、手が滑ったかもね)
 そう納得した美幸だったが、改めて倒しやすそうな位置で残っている二本のピンを眺め、残念に思った。
(どうせなら、さっきの浩一課長のスプリットみたいに、倒しにくい場所で二本残れば良かったのに……。あれじゃ楽々倒せるわよ)
 そうして美幸が俯いて溜め息を吐き、清人が再びボールを投げようとした所で、再度真澄が予想外の声を上げた。


「……っ! いたたたたっ!」
「真澄さん!? どうかしましたか?」
「……え?」
 女二人の動揺した声を耳にして、プレー中の清人は勢い良く振り返ったが、それを見守っていた三人も反射的に顔色を変えて立ち上がった。清人の意識が完全に背後に向いた為、明らかにコースがずれてしまったボールがピンをかすりもせずに真ん中の空いている空間を通って奥へと吸い込まれたが、そこのグループは誰一人としてその結果を見届けず、揃って真澄の元に駆け寄る。


「姉さん、大丈夫か!?」
「課長、救急車を呼びますか?」
「ちょっとあんた、課長に何したのよ!?」
「いえ、何もしてませんから!」
 焦って弁解してきた恭子を庇う様に、お腹を抱える様にしながら、真澄が苦笑いで告げる。
「あ~、ちょっと予定日より早いけど、一気に陣痛が来ちゃった、かも。いたたたっ!」
 それを聞いた一同は一瞬思考が停止したが、恭子だけは冷静に話しかけた。


「取り敢えず痛みは落ち着いてきました?」
「ええ、さっきよりは楽になったみたい」
 そして実際に痛みを自覚した時間を真澄から聞き出した恭子が、腕時計で時刻を確認しながら判断を下す。
「間隔はまだ十分ありますし、痛みも波がありますから暫くは大丈夫な筈です。待機している車を呼んで、今からかかりつけの病院に行きましょう。連絡をお願いします」
「分かったわ」
「俺が連れて行く。しっかり掴まれ」
 落ち着き払った二人の会話に清人が割り込み、真澄の前で膝を折った。そして横抱きで彼女を軽々と抱え上げ、美幸達に断りを入れる。


「悪いが先に帰らせて貰う。どのみちスコアがあれだからな。賞品は誰か貰ってくれ」
 そう言いながら目線で示されたモニターでは、清人が8本しか倒せないまま終了になっており、美幸は呆然となった。そして固まっている間に、清人は恭子を引き連れて会場を後にした。
 他のレーンの参加者の注目を浴びる中、浩一は幹事に清人が抜けた事を告げに行き、城崎はさくさくとゲーム終了の操作を済ませる。その間美幸は呆然としていたが、浩一が戻って来たのを機に正気を取り戻した。


「お疲れ様、藤宮さん。取り敢えず、清人には負けなくて良かったね」
 苦笑いでそう声をかけられ、美幸は半ば信じられない思いで呟く。
「ええと……、浩一課長が優勝で、係長が二位で、私と課長代理が同点で三位ですか?」
「他のレーンで、俺達以上のスコアを出している人がいたら、順位は変わってくるけどね」
 そこでカウンターに手続きに行っていた城崎が戻り、二人に一枚ずつ紙を差し出した。
「そんな事はないでしょう。スコア表を貰って来ましたから」
「はは……、自己最高だ。凄いな」
「本当に、笑うしかありませんね」
 自分の成績を確認した男二人が乾いた笑いを漏らしていると、美幸が納得しかねる顔つきでボソリと呟く。


「……何かスッキリしません。課長がここで産気づいちゃうなんて、想定外過ぎます」
「でも一応、課長は臨月だったしな」
「十分可能性はあったよ。だから万が一を考えて付添いを頼んだんだし。それに『運も実力のうち』なんだろう?」
 穏やかに宥めた浩一だったが、美幸は真顔で言い切った。
「それでも、やっぱりスッキリしないので、再挑戦します」
「またボウリングで?」
「いえ、やっぱり仕事で勝負です。絶対私の仕事を認めさせて、ギャフンと言わせてやりますので!」
「……頑張って」
「はい! ありがとうございます」
 気合十分の美幸を見て、男二人は苦笑交じりに顔を見合わせた。


(お前も苦労が多いな)
(もう色々諦めてますので)
 そんなアイコンタクトを交わしながら、城崎と浩一は美幸を促してその場の後片付けを始めたのだった。



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