猪娘の躍動人生
6月 劇的交代劇
大体の者が午後の業務に入った辺りの時間帯。企画推進部の部屋のドアが乱暴に押し開けられ、白髪混じりの痩せぎすの男が飛び込んで来たと思ったら、その男が息を切らし気味に叫んだ。
「失礼、蜂谷君は居るか!」
その叫びで室内の殆どの者が、やって来た人物とその来訪目的を悟る。
「あ、鍋島常務だ」
「相変わらず、他人の迷惑を考えない奴だな」
「漸く社内の噂が耳に入って、彼の様子を見に来たってか?」
「だが今頃か? 蜂谷君が人格改造されてから、もう一週間は過ぎているぞ?」
「想像以上に、情報収集能力が欠如しているらしいな」
そんな事を好き勝手に囁き合っていると、蜂谷の姿を認めた鍋島は目を丸くし、次いで足早に彼の元に歩み寄った。そして顔色を変えてその変貌ぶりを問い質す。
「隼斗君! 一体どうしたんだね、その有様は!? ちょっと前とはだいぶ様子が違うじゃないか!!」
「お言葉ですが、鍋島常務。俺は見た目を変えただけではなく、魂を入れ替えて生まれ変わりました。今後はその様に御認識下さい」
座ったまま鍋島を見上げて淡々と説明した蜂谷は、それがすむと再びパソコンのディスプレイに視線を戻して仕事を続行させた。しかし鍋島は(信じられないものを見た)というが如く険しい顔付きになり、蜂谷の両肩を掴んで半ば強引に自分の方に体を向けさせて、盛大に揺さぶりつつ追及を続ける。
「あっ、ありえないだろう!! あのぐうたらで怠け者で物覚えが悪くて性格も可愛げがなくて、何をやらせても何一つ長続きしなかった隼斗君が! 何か毒でも飲まされたのか? それとも催眠術にでもかかっているのか? まさか何か弱みを握られて、えげつない脅しをかけられているのかっ!? 心配するな、伯父さんが付いてるぞ!」
「常務、できれば業務の邪魔をしないで頂きたいのですが……」
心底嫌そうに蜂谷が鍋島に応じるのを見た面々は、その二人に生温かい視線を送った。
(うわぁ、義理の甥っ子をそこまで貶しますか……)
(グダグダっぷりは、きちんと認識してたわけですね)
(信じられないのは無理もないですが)
そして蜂谷自身から控え目に拒絶されてしまった鍋島は、益々顔付きを険しくして周囲を見回し、真澄の姿が無い為この場の責任者の城崎に向かって吠えた。
「きっ、貴様ら~、隼斗君に一体何をした!? 城崎係長、正直に吐け!!」
「何を、と言われましても……。私どもは普通に指導をしていただけですが」
(確かに、物騒過ぎる所に放り込まれた時、傍観していたがな)
若干遠い目をしつつしらばっくれた城崎だったが、相手は当然納得しなかった。
「そんなわけあるか!! あの女狐に揃いも揃って誑かされおって!!」
鍋島が怒鳴りつけたとほぼ同時に、勢い良く机を叩く音と美幸の怒声が重なった。
「あぁあ、さっきからゴチャゴチャ五月蠅いのよ! 蜂谷!」
「はいっ! 何でしょうか、藤宮先輩」
先程の鍋島に対する態度とは一変させ、勢い良く立ち上がりつつ力強く返事をしてきた蜂谷に、美幸は鍋島に向かって手を払いのける様に振りながら言いつけた。
「その五月蠅いボケ親父のせいで打ち間違ったわ! それ、どっかに持ってって。仕事の邪魔よ!」
「はいっ! よろこんでっ!!」
(おいおい、ここはどこぞの居酒屋か?)
美幸の指示にすかさず応じた蜂谷の叫びを聞いて、周囲の者達は呆れて脱力したが、蜂谷は即座に行動に移った。
「土岐田さん、ちょっとこれをお借りします」
「あ、ああ、構わないけど……」
偶々机の上に有ったガムテープを取り上げた蜂谷が断りを入れてきた為、土岐田は何をする気かと思いながらも了承の返事を返したが、それを手にした蜂谷は誰もが予想外の行動に出た。
「……天誅」
「おうっ!?」
ボソッと呟きつつ鍋島の脛を蹴りつけた蜂谷は、鍋島が思わずしゃがみ込んだ所を肩を掴んで強引に床に転がし、素早く引き伸ばしたガムテープで両足首をぐるぐる巻きにして動きを封じた。
「こ、こらっ!! 隼斗君何を……、むごがぁっ!! うぐぅっ」
流石に鍋島は非難の声を上げたが、蜂谷は一向に構わずに鍋島の両手を背中に回して足と同様に手首にもガムテープを巻き付け、更に口にも貼り付けて沈黙させた。そしてジタバタもがいている鍋島の足を持ち上げつつ、爽やかな笑顔で周囲に断りを入れてくる。
「少しだけ抜けさせて頂きます」
「いってらっしゃい」
「……ふぐっ、……むぅっ、うぐぅ……」
大多数の者は蜂谷が問答無用で鍋島を引きずって行くのを唖然として見送ったが、美幸だけは軽く手を振ってから再びディスプレイに視線を戻して仕事を再開させた。すると隣から、幾分疲れた様に理彩が声をかけてくる。
「……あのね、藤宮」
「だって、五月蠅かったじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどね。……もういいわ。鍋島常務もこれに懲りて、もう顔を出さないでしょうし」
画面を凝視しながら淡々と言ってのけた美幸に、何を言っても無駄だと悟った理彩は、それ以上言うのを諦めた。そうこうしているうちに、出て行った時以上の爽やかな笑顔で、蜂谷が戻ってくる。
「戻りました。土岐田さん、ありがとうございました」
「うん、それは良いんだが……。因みに鍋島常務をどちらにお連れしたんだ?」
額にキラリと汗を光らせ、(良い仕事をした)と全身から達成感を漂わせている蜂谷に思わず土岐田が尋ねると、彼はにこやかに言ってのけた。
「はい、このフロアの男性用トイレの用具入れスペースに、ガムテープでぐるぐる巻きにして身動き取れない様にして、まかり間違っても自力で脱出出来ない様に、色々な物と一緒にぎゅうぎゅう詰めにして押し込んで来ました! これで業務を邪魔しようにもできません。ご安心ください、藤宮先輩!!」
それを聞くと同時に顔色を変えて瀬上と高須が立ち上がり、城崎とアイコンタクトを交わして無言で廊下へと走り出て行った。それを見なかったかの様にして、美幸が笑顔で応じる。
「良くできました。じゃあ仕事を続けてね」
「はいっ!」
そうして嬉しそうに自分の席で仕事を再開した蜂谷を眺めて、他の者達は半ば頭を抱えてしまった。
「……なんだかなぁ」
「あの二週間で、フェミニスト精神を叩き込まれたらしくて、女性の指示にはより服従傾向が強いんだよな」
「でも無茶振りする様な女性は、企画推進部の中では藤宮君位しか居ないし」
「結果的に蜂谷君の立ち位置が《課長のペットで藤宮君の下僕》って所に、この一週間強で確定したな」
「……本人は嬉々として働いてるんですから、良いんじゃないですか?」
「課長が会議中で良かったですね。これを目の当たりにしたら、また頭痛の種が増えます」
「全くだ」
そんな風に会話を終わらせた二課の面々は、半ばうんざりした顔を見合わせた。
その後、清瀬に同行して商談先に出向いた美幸は、帰社すると二課の雰囲気が何となく重苦しい状態なのを察して怪訝な顔になった。
「戻りました」
「……ああ、お帰り、藤宮」
「どうかしたんですか? 何かちょっと雰囲気暗くありません?」
「それが……、あんたが外に出てる間に広瀬課長と上原課長が課長会議から戻ったんだけど、課長が会議終了直後に倒れて、医務室に運ばれたそうよ」
「何ですって!? 倒れたって、それで課長は大丈夫なんですか!?」
反射的に掴みかかってきた美幸を宥めつつ、理彩が説明を続ける。
「ちょっと落ち着きなさい、藤宮! 倒れたって言っても、立ちくらみを起こしたみたいですぐに意識は戻ったし、念の為に弟の浩一課長が医務室で付いてくれているそうよ。ご主人も呼んだそうだし」
「そうですか」
それで一応納得したような素振りを見せた美幸だったが、机に鞄を置いて再び部屋を出て行こうとする素振りを見せた。
「それでは、ちょっと課長の様子を見に行ってきま」
「止めておきなさい。今お休み中かもしれないし、浩一課長やご主人もいらっしゃるんだから、医務室に何人も押し掛けたら迷惑よ。浩一課長からは『先生から過労だから安静にしていれば大丈夫だと言われた』と内線で連絡が来たし、おとなしくしていなさい」
「……分かりました」
しっかりと手首を掴まれ、真顔で理彩に諭された美幸は、それ以上口答えせずに大人しく席に着いた。すると美幸達のやり取りで不安が触発されたのか、二課の中で小声で深刻な会話が交わされる。
「しかし課長も妊娠後期に入っているし。随分仕事量を減らしているとは言っても、そろそろ休んで貰った方が良くはないか?」
「元々再来週には、産休に入る予定だったしな。だが一向に課長の産休中の体制について、公になっていないんだが。係長は聞いているか?」
「それが全く。部長にも人事部の方にも再三再四尋ねてみたのですが……」
「本当にどうなってるんだ? 訳が分からんな」
普段は滅多に動じない村上まで苛ついているのか吐き捨てる様に呟いていると、何やら話し合いながら室内に入ってきた人影を認めた美幸が、喜色満面で立ち上がった。
「お帰りなさい課長、体調の方は大丈夫ですか?」
その明るい声に室内の全員がドアに視線を向けると、真澄は部長である谷山と、写真で目にした事がある彼女の夫に付き添われて戻って来た所だった。それを認めた蜂谷は「ひいっ!」と短い悲鳴を上げて意識を失い、椅子に座ったまま後方に倒れて動かなくなる。
「蜂谷! 大丈夫か!? しっかりしろ!」
「今、まともに後頭部を打たなかったか?」
「脳震盪だよな? 変な打ち方はしてなかったよな!?」
二課の一角でそんな騒ぎが勃発していたが、谷山達は三人固まって二課のスペースまで歩き、徐に周囲に声をかけた。
「あ~、皆、座ったままで構わないから聞いてくれ。柏木課長が産休取得後の二課の体制について、この間全く報告できていなかったが、今日正式に決定がなされたので報告する」
その途端室内が静まり返り、皆真剣な表情になる。美幸も(幾ら何でもちょっと遅すぎるんじゃ無いの!?)などの文句はぐっと飲み込み、黙って谷山の説明を待った。そして室内中の視線を集めた谷山が、軽く咳払いをして話し出した。
「柏木君は課長職であり、短期の病休、出張であれば係長の城崎君が職務代行、私が権限を管轄する所だが、産休に続き育休取得で一年超の期間となると差し障りがある。更に城崎君の課長昇格も考えたが、本人が時期尚早と固辞した上、柏木君の復帰後のポストの問題もあり、柏木君の復帰までの期間限定で、課長代理を立てる事になった」
谷山がそこまで説明した所で、怪訝な顔をしていた二課のメンバーを代表して、村上が疑わしそうに問いを発した。
「部長、そんな期間限定で課長職が務まる人材を、確保できたんですか?」
「ああ、まあ、な……。本人が希望して申し出て来たもので……」
「それはまた随分変わっ……、いえ、奇特な方が社内にいらっしゃいましたね」
「……まあな」
村上の問いに何故か谷山は微妙に口ごもりながら応じ、何とか気を取り直しながら話を続けた。
「それで、予定では柏木君の産休は再来週からの予定だったが、体調面で不安もある事から、急遽明日から産休に入って貰う事になった。それで今日これから、必要な引き継ぎ等をやって貰うのでそのつもりで」
「えぇ? 明日からですか!? そんな急すぎます!」
今度も皆が密かに動揺する中、美幸が動転した声を上げると、真澄が一歩前に進み出て落ち着いた口調で話し出した。
「今部長から説明があった通り、そういうわけで不本意ではありますが、体調を鑑みて急遽明日から産休を取得する事になりました。皆さんにご迷惑をお掛けする事になって、申し訳ありません」
そうして頭を下げる真澄を呆然と眺めながら、ふと美幸は真澄の横で佇んでいる男性について疑問を覚えた。
(どうして課長のご主人が、仕事向きの話の時に一緒にいるのかしら? そりゃあ、課長の体調が心配かもしれないけど、応接スペースのソファーで待ってても支障は無いでしょうに……)
当然の様に真澄の隣に立つ彼女の夫に、美幸は密かに首を捻った。しかし次に真澄が若干引き攣り気味の笑顔で夫を紹介した台詞で、その理由が明らかになる。
「それで、こちらが私が産休及び育休を取得中、課長職を代行して頂く、柏木清人さんです」
「はあぁ!?」
静まり返った室内で、美幸の素っ頓狂な叫び声が妙に響いたが、谷山が特に美幸に言い聞かせる様に、真剣な表情で訴えた。
「皆が戸惑う気持ちは分かるが、彼は今日付けで柏木産業に採用された、れっきとした社員だ。色々制度運用として手探りの部分もあるので、皆宜しく頼む」
「私からもお願いします」
そこで当事者が二課の面々をゆっくりと見回しながら、余裕の笑みを浮かべながら挨拶してきた。
「本日付けで柏木産業人事部、環境調整支援課課長に任命されました柏木清人です。柏木課長の復帰まで、企画推進部第二課課長代理として務めさせて頂きますので、宜しくお願いします」
そう言って神妙に頭を下げた清人が再び周囲を見回し、目が合ったらしい城崎に親しげに声をかけた。
「やあ、久し振りだね、城崎君。ここに君が居てくれて心強いよ」
それを聞いた城崎はピクリと顔を引き攣らせたが、表面上は平静を装って頭を下げる。
「……お久しぶりです、佐竹先輩。こちらこそ宜しくお願いします」
「城崎、悪いが今は《柏木》だからそのつもりで」
「……失礼しました、柏木さん」
呼びかけの言葉が微妙に気に障ったらしく、清人は笑顔のまま鋭い眼光を城崎に向け、それを受けた城崎は無表情で謝罪の言葉を口にしつつ再度頭を下げた。そのやり取りを見て、他の面々が肝を冷やす。
(やっぱり見た目通りの優男じゃないな)
(あの蜂谷君を変貌させるのに一役買った事といい、ただ者じゃ無いか)
(あの城崎君が萎縮する相手……、タチが悪すぎる)
(これからニ課はどうなるんだ?)
各自重苦しい雰囲気の中で、悲観的な考えに陥っていると、その場の微妙な空気を美幸の叫び声が切り裂いた。
「ちょっとふざけんじゃ無いわよ!? 何で課長の夫で社長の婿ってだけで、課長代理として得体の知れない人間が二課に乗り込んで来るわけ!?」
「藤宮さん、落ち着いて!」
城崎は慌てて少し離れた所にいた美幸に駆け寄り制止したが、自称課長代理は皮肉っぽく尋ね返してきた。
「理由は先程柏木課長と谷山部長から話があったと思うが、聞いていなかったのかな?」
「何ですってぇぇ!!」
一応丁寧なものの、明らかに揶揄と分かる口調に美幸が激昂しつつ一歩足を踏み出した為、城崎は本気で狼狽した。
(拙い! この人に下手に逆らって機嫌を損ねたら、彼女がどんな報復行為を受けるか、想像できない!)
そこで殆ど反射的に、城崎は美幸に向かって声を張り上げた。
「藤宮さん、これは管理部及び人事部での決定事項だ! 既に部長も課長も承認している以上、これに文句を付けるのはお二人の意志に異を唱える事にもなるぞ! 加えてこれから二課を支えて頂く柏木課長代理に失礼だろう。口を慎め!!」
「……っ!」
盛大に怒鳴りつけられた美幸は、納得できないと言わんばかりに城崎を睨み付けてから、いきなり無言のまま駆け出して部屋を出て行った。他の者達が呆気に取られて見送る中、城崎が目の前に並んでいる三人に目を向けると、谷山は疲れた様に溜め息を吐き出し、真澄は無言で額を押さえ、清人は楽しそうに含み笑いを見せる。
「ちょっと失礼します」
寝耳に水だった今回の課長代理人事に、(本当に勘弁してくれ)と項垂れながら城崎は美幸の後を追った。しかし五分めしないうちに戻って来て、面目なさげに真澄に報告する。
「課長、申し訳ありません」
「どうしたの? 城崎さん」
「その……、藤宮が、女性用トイレで籠城していまして」
谷山を交えて早速今後の体制などについて話を始めていた真澄は軽く溜め息を吐き、清人は皮肉っぽく口元を歪めた。
「城崎係長? 部下の指導力に問題があると言われた事は?」
「……言われない様に努力してきたつもりですが、色々と力不足な面があったかもしれません」
「清人。こんな事で嫌味を言わないで。分かりました、城崎さん。彼女は私が連れ戻してきますから、業務に戻って下さい」
「宜しくお願いします」
夫を窘めつつ立ち上がった真澄は、城崎を宥めつつ廊下に向かって歩き出した。そして廊下を進んでトイレに辿り着くと、中から個室のドアを開け放ち、便座の蓋に突っ伏してむせび泣いている美幸の姿が目に入る。
「うっ……、ふぇぇっ、なっ、何でやっと一緒に、お仕事……、出来るように、ひくっ……、なっ、たの、にっ……、うぇっ……」
泣いている美幸の後ろ姿に真澄は胸が痛んだが、気を取り直して美幸の後方に座り込んで声をかけた。
「藤宮さん、ちょっと良いかしら?」
「課長? ……って! 何されてるんですかっ!?」
「え? な、何かまずいの?」
振り返ったと思ったら目を丸くした美幸に叱りつけられ、真澄は動揺した。すると美幸は顔をジャケットの袖でゴシゴシと乱暴に拭ってから、素早くそれを脱いで真澄の目の前の床に広げて指し示す。
「課長はもうお腹が大きいですし、冷たい床に直接座ったりしたら駄目です! さあ、こちらにどうぞ!」
「あの……、良いわよ? そこまでしなくても」
「いえ、絶対駄目です! どうぞ!」
「……それじゃあ遠慮無く」
美幸に気迫負けした真澄は、タイルの床に敷かれたジャケットの上に躊躇いながら正座した。そして徐に口を開く。
「藤宮さん」
しかし真澄が何か言う前に、美幸が勢い良く頭を下げて謝罪してきた。
「課長。取り乱してすみませんでした! 課長が近々産休に入られるのは勿論分かってました。分かっていたつもりなんですが……、前倒しで休まれる事になって、実はあまり納得できていなかった事と相まって、部外者が二課に乗り込んで来た事に動揺してしまった様です」
その素直な謝罪に、真澄の顔も自然に緩む。
「あなたの反応は極端かもしれないけど、動揺するのは当然よ。私だって夫が代理を務めるのを、ついさっき医務室のベッドで聞いたのよ? 父とグルになって今まで隠してて酷いと思わない?」
「本当ですか? 当事者にギリギリまで秘密にしてるなんて、呆れて物がいえませんよ」
「そうよねぇ」
そこで顔を見合わせて小さく噴き出してから、真澄は顔付きを改めて話を続けた。
「藤宮さん、私、本当の事を言うと、去年まで結婚も出産も諦めてたわ。相手がいないし、仕事上でもマイナスにしかならないって考えて」
「確かに色々難しいですよね」
「でも幸運な事に結婚できたら、是非子供も欲しいと思ったの。大変なのは分かっているけど、その分人間的に一回り成長して、視野を広げられると思ったから」
「そうですか」
美幸が(課長らしい考え方だな)としみじみ思っていると、真澄が苦笑いしながら話を続ける。
「それと……、もう課長職に就いていたからって事もあるんだけど」
「どういう意味ですか?」
今度は意味を捉え損ねて不思議そうな顔を向けると、真澄はそれについての説明を加えた。
「課長職のまま産休育休で一年以上職場から離れるのは、今まで本社内では前例が無いの。以前課長が妊娠したケースでは、職場に穴を開けない様に辞職して、子供の手がかからない時期になったら平社員として再就職したり、割と余裕のある職場や子会社に配置転換されたりしてから、元の職場に戻っていたのよ」
「何なんですかそれは!」
さすがに憤慨した美幸が叫ぶと、真澄は幾分困った様に話を続けた。
「勿論私も、現場の大変さは分かっているから、去年までは出産の事は意識的に考えない様にしていたんだけど、せっかく力量十分のサポートしてくれる人材がいるんだから、それに甘えて後進の為に前例を作ってしまおうと開き直ったの。そもそも二課の皆を全国からかき集めた時に、社長令嬢権限で色々無茶をやったから、もう上層部も私に絡む事では諦めているのよね」
最後は茶目っ気たっぷりに言い切った真澄に、美幸は思わず笑いを誘われた。
「課長、ご主人の事、そんなに信頼してるんですね……」
「全く心配していないと言えば嘘になるけど、今回の私のケースがうまくいくかどうか、父と夫が自分の首を賭けているそうよ。それなのに信用してあげなかったら、可哀想じゃない?」
「そうですね」
そこで苦笑いで応じた美幸に、真澄は更にたたみかける。
「それに夫から、『真澄の椅子は俺が守る』と言われて、凄く嬉しかったの。だから藤宮さんには、そんな夫を支えて貰ったら嬉しいわ。お願いできないかしら?」
そんな事を軽く首を傾げながら言われてしまった美幸は、ちょっと泣き笑いの表情になった。
「もう……、真面目な話をした後で、のろけないで下さい、課長」
「ごめんなさい」
そこで美幸はもう一度両目を擦り、真顔になって力強く頷いた。
「分かりました。色々不安はありますが、課長が居られない間、ご主人を全力でサポートする事を誓います。ご主人がとんでもないヘマをして課長の名前に泥を塗ったりしない様に様、目を光らせておきますから。ご主人が課長の椅子を守ると言うなら、私はそうやって課長の名誉を守ります! ご安心下さい!」
「あ、ありがとう……。心強いわ……」
力一杯宣言した美幸の前で、何故か真澄の顔が引き攣る。しかしそれに気付かないまま、美幸はすぐに顔を歪めた。
「だからっ、その代わり……、元気で可愛い赤ちゃんを産んで下さいね? そして……、そして、職場復帰なさる日を、一日千秋の思いでお待ちしてます!! かちょうぅぅ~っ!!」
そこでとうとう我慢できなくなった美幸は、真澄に抱きつきながら盛大に泣き叫んだ。その背中を撫でながら、真澄が宥める。
「ありがとう。心強いわ。二課の事を宜しくね」
「おっ、おばかぜぐださいぃぃ~っ!」
そして殆ど涙声で、何を言っているのか聞き取りにくい内容を延々と喋り続ける美幸に適当に相槌を打ちながら、真澄は密かに溜め息を吐いた。
(絶対、今のやりとりを外で聞いて居たわよね……。後から清人に釘を刺しておかないと)
そんな真澄の懸念通り、トイレの出入り口横の壁に背中を預けて女二人のやり取りに耳を澄ませていた清人は、おかしそうな笑みを浮かべながら組んでいた腕をほどいて廊下を歩き出した。
「……俺がヘマしない様に見張って『課長の名誉は私が守る』か。随分な大言壮語を吐く部下がいたものだな? 城崎。なかなか楽しめそうだ」
どう見ても獲物をいたぶる肉食獣の笑みにしか見えない表情に、清人と同様にトイレの前で一部始終を聞いていた城崎が、追いすがりながら必死で取りなそうとする。
「佐竹先輩! その! 彼女は今日はちょっと取り乱していまして! いつもそんな傍若無人な発言をしているわけでは!」
「『柏木課長代理』だ。一週間だけは大目にみてやる。さっさと呼称は直しておけ」
ざっくりと切り捨てられて顔を強張らせたものの、城崎はここで奥の手を出した。
「柏木課長代理。彼女は白鳥先輩の義妹でもありますので……」
暗に(あまり無茶な事はしてくれるな)と訴えたものの、相手は笑いながら何でもない事の様に頷く。
「……ああ、そう言えばそんな話も聞いていたな。早速今日のうちに、白鳥先輩に許可を貰っておこう」
「許可って……、一体何の許可ですか!? ちょっと待って下さい、柏木課長代理!!」
明らかに狼狽して問い詰める城崎に、清人は得体の知れない笑みで応じ、企画推進部二課の未来は、益々混沌としたものになっていくのだった。
「失礼、蜂谷君は居るか!」
その叫びで室内の殆どの者が、やって来た人物とその来訪目的を悟る。
「あ、鍋島常務だ」
「相変わらず、他人の迷惑を考えない奴だな」
「漸く社内の噂が耳に入って、彼の様子を見に来たってか?」
「だが今頃か? 蜂谷君が人格改造されてから、もう一週間は過ぎているぞ?」
「想像以上に、情報収集能力が欠如しているらしいな」
そんな事を好き勝手に囁き合っていると、蜂谷の姿を認めた鍋島は目を丸くし、次いで足早に彼の元に歩み寄った。そして顔色を変えてその変貌ぶりを問い質す。
「隼斗君! 一体どうしたんだね、その有様は!? ちょっと前とはだいぶ様子が違うじゃないか!!」
「お言葉ですが、鍋島常務。俺は見た目を変えただけではなく、魂を入れ替えて生まれ変わりました。今後はその様に御認識下さい」
座ったまま鍋島を見上げて淡々と説明した蜂谷は、それがすむと再びパソコンのディスプレイに視線を戻して仕事を続行させた。しかし鍋島は(信じられないものを見た)というが如く険しい顔付きになり、蜂谷の両肩を掴んで半ば強引に自分の方に体を向けさせて、盛大に揺さぶりつつ追及を続ける。
「あっ、ありえないだろう!! あのぐうたらで怠け者で物覚えが悪くて性格も可愛げがなくて、何をやらせても何一つ長続きしなかった隼斗君が! 何か毒でも飲まされたのか? それとも催眠術にでもかかっているのか? まさか何か弱みを握られて、えげつない脅しをかけられているのかっ!? 心配するな、伯父さんが付いてるぞ!」
「常務、できれば業務の邪魔をしないで頂きたいのですが……」
心底嫌そうに蜂谷が鍋島に応じるのを見た面々は、その二人に生温かい視線を送った。
(うわぁ、義理の甥っ子をそこまで貶しますか……)
(グダグダっぷりは、きちんと認識してたわけですね)
(信じられないのは無理もないですが)
そして蜂谷自身から控え目に拒絶されてしまった鍋島は、益々顔付きを険しくして周囲を見回し、真澄の姿が無い為この場の責任者の城崎に向かって吠えた。
「きっ、貴様ら~、隼斗君に一体何をした!? 城崎係長、正直に吐け!!」
「何を、と言われましても……。私どもは普通に指導をしていただけですが」
(確かに、物騒過ぎる所に放り込まれた時、傍観していたがな)
若干遠い目をしつつしらばっくれた城崎だったが、相手は当然納得しなかった。
「そんなわけあるか!! あの女狐に揃いも揃って誑かされおって!!」
鍋島が怒鳴りつけたとほぼ同時に、勢い良く机を叩く音と美幸の怒声が重なった。
「あぁあ、さっきからゴチャゴチャ五月蠅いのよ! 蜂谷!」
「はいっ! 何でしょうか、藤宮先輩」
先程の鍋島に対する態度とは一変させ、勢い良く立ち上がりつつ力強く返事をしてきた蜂谷に、美幸は鍋島に向かって手を払いのける様に振りながら言いつけた。
「その五月蠅いボケ親父のせいで打ち間違ったわ! それ、どっかに持ってって。仕事の邪魔よ!」
「はいっ! よろこんでっ!!」
(おいおい、ここはどこぞの居酒屋か?)
美幸の指示にすかさず応じた蜂谷の叫びを聞いて、周囲の者達は呆れて脱力したが、蜂谷は即座に行動に移った。
「土岐田さん、ちょっとこれをお借りします」
「あ、ああ、構わないけど……」
偶々机の上に有ったガムテープを取り上げた蜂谷が断りを入れてきた為、土岐田は何をする気かと思いながらも了承の返事を返したが、それを手にした蜂谷は誰もが予想外の行動に出た。
「……天誅」
「おうっ!?」
ボソッと呟きつつ鍋島の脛を蹴りつけた蜂谷は、鍋島が思わずしゃがみ込んだ所を肩を掴んで強引に床に転がし、素早く引き伸ばしたガムテープで両足首をぐるぐる巻きにして動きを封じた。
「こ、こらっ!! 隼斗君何を……、むごがぁっ!! うぐぅっ」
流石に鍋島は非難の声を上げたが、蜂谷は一向に構わずに鍋島の両手を背中に回して足と同様に手首にもガムテープを巻き付け、更に口にも貼り付けて沈黙させた。そしてジタバタもがいている鍋島の足を持ち上げつつ、爽やかな笑顔で周囲に断りを入れてくる。
「少しだけ抜けさせて頂きます」
「いってらっしゃい」
「……ふぐっ、……むぅっ、うぐぅ……」
大多数の者は蜂谷が問答無用で鍋島を引きずって行くのを唖然として見送ったが、美幸だけは軽く手を振ってから再びディスプレイに視線を戻して仕事を再開させた。すると隣から、幾分疲れた様に理彩が声をかけてくる。
「……あのね、藤宮」
「だって、五月蠅かったじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどね。……もういいわ。鍋島常務もこれに懲りて、もう顔を出さないでしょうし」
画面を凝視しながら淡々と言ってのけた美幸に、何を言っても無駄だと悟った理彩は、それ以上言うのを諦めた。そうこうしているうちに、出て行った時以上の爽やかな笑顔で、蜂谷が戻ってくる。
「戻りました。土岐田さん、ありがとうございました」
「うん、それは良いんだが……。因みに鍋島常務をどちらにお連れしたんだ?」
額にキラリと汗を光らせ、(良い仕事をした)と全身から達成感を漂わせている蜂谷に思わず土岐田が尋ねると、彼はにこやかに言ってのけた。
「はい、このフロアの男性用トイレの用具入れスペースに、ガムテープでぐるぐる巻きにして身動き取れない様にして、まかり間違っても自力で脱出出来ない様に、色々な物と一緒にぎゅうぎゅう詰めにして押し込んで来ました! これで業務を邪魔しようにもできません。ご安心ください、藤宮先輩!!」
それを聞くと同時に顔色を変えて瀬上と高須が立ち上がり、城崎とアイコンタクトを交わして無言で廊下へと走り出て行った。それを見なかったかの様にして、美幸が笑顔で応じる。
「良くできました。じゃあ仕事を続けてね」
「はいっ!」
そうして嬉しそうに自分の席で仕事を再開した蜂谷を眺めて、他の者達は半ば頭を抱えてしまった。
「……なんだかなぁ」
「あの二週間で、フェミニスト精神を叩き込まれたらしくて、女性の指示にはより服従傾向が強いんだよな」
「でも無茶振りする様な女性は、企画推進部の中では藤宮君位しか居ないし」
「結果的に蜂谷君の立ち位置が《課長のペットで藤宮君の下僕》って所に、この一週間強で確定したな」
「……本人は嬉々として働いてるんですから、良いんじゃないですか?」
「課長が会議中で良かったですね。これを目の当たりにしたら、また頭痛の種が増えます」
「全くだ」
そんな風に会話を終わらせた二課の面々は、半ばうんざりした顔を見合わせた。
その後、清瀬に同行して商談先に出向いた美幸は、帰社すると二課の雰囲気が何となく重苦しい状態なのを察して怪訝な顔になった。
「戻りました」
「……ああ、お帰り、藤宮」
「どうかしたんですか? 何かちょっと雰囲気暗くありません?」
「それが……、あんたが外に出てる間に広瀬課長と上原課長が課長会議から戻ったんだけど、課長が会議終了直後に倒れて、医務室に運ばれたそうよ」
「何ですって!? 倒れたって、それで課長は大丈夫なんですか!?」
反射的に掴みかかってきた美幸を宥めつつ、理彩が説明を続ける。
「ちょっと落ち着きなさい、藤宮! 倒れたって言っても、立ちくらみを起こしたみたいですぐに意識は戻ったし、念の為に弟の浩一課長が医務室で付いてくれているそうよ。ご主人も呼んだそうだし」
「そうですか」
それで一応納得したような素振りを見せた美幸だったが、机に鞄を置いて再び部屋を出て行こうとする素振りを見せた。
「それでは、ちょっと課長の様子を見に行ってきま」
「止めておきなさい。今お休み中かもしれないし、浩一課長やご主人もいらっしゃるんだから、医務室に何人も押し掛けたら迷惑よ。浩一課長からは『先生から過労だから安静にしていれば大丈夫だと言われた』と内線で連絡が来たし、おとなしくしていなさい」
「……分かりました」
しっかりと手首を掴まれ、真顔で理彩に諭された美幸は、それ以上口答えせずに大人しく席に着いた。すると美幸達のやり取りで不安が触発されたのか、二課の中で小声で深刻な会話が交わされる。
「しかし課長も妊娠後期に入っているし。随分仕事量を減らしているとは言っても、そろそろ休んで貰った方が良くはないか?」
「元々再来週には、産休に入る予定だったしな。だが一向に課長の産休中の体制について、公になっていないんだが。係長は聞いているか?」
「それが全く。部長にも人事部の方にも再三再四尋ねてみたのですが……」
「本当にどうなってるんだ? 訳が分からんな」
普段は滅多に動じない村上まで苛ついているのか吐き捨てる様に呟いていると、何やら話し合いながら室内に入ってきた人影を認めた美幸が、喜色満面で立ち上がった。
「お帰りなさい課長、体調の方は大丈夫ですか?」
その明るい声に室内の全員がドアに視線を向けると、真澄は部長である谷山と、写真で目にした事がある彼女の夫に付き添われて戻って来た所だった。それを認めた蜂谷は「ひいっ!」と短い悲鳴を上げて意識を失い、椅子に座ったまま後方に倒れて動かなくなる。
「蜂谷! 大丈夫か!? しっかりしろ!」
「今、まともに後頭部を打たなかったか?」
「脳震盪だよな? 変な打ち方はしてなかったよな!?」
二課の一角でそんな騒ぎが勃発していたが、谷山達は三人固まって二課のスペースまで歩き、徐に周囲に声をかけた。
「あ~、皆、座ったままで構わないから聞いてくれ。柏木課長が産休取得後の二課の体制について、この間全く報告できていなかったが、今日正式に決定がなされたので報告する」
その途端室内が静まり返り、皆真剣な表情になる。美幸も(幾ら何でもちょっと遅すぎるんじゃ無いの!?)などの文句はぐっと飲み込み、黙って谷山の説明を待った。そして室内中の視線を集めた谷山が、軽く咳払いをして話し出した。
「柏木君は課長職であり、短期の病休、出張であれば係長の城崎君が職務代行、私が権限を管轄する所だが、産休に続き育休取得で一年超の期間となると差し障りがある。更に城崎君の課長昇格も考えたが、本人が時期尚早と固辞した上、柏木君の復帰後のポストの問題もあり、柏木君の復帰までの期間限定で、課長代理を立てる事になった」
谷山がそこまで説明した所で、怪訝な顔をしていた二課のメンバーを代表して、村上が疑わしそうに問いを発した。
「部長、そんな期間限定で課長職が務まる人材を、確保できたんですか?」
「ああ、まあ、な……。本人が希望して申し出て来たもので……」
「それはまた随分変わっ……、いえ、奇特な方が社内にいらっしゃいましたね」
「……まあな」
村上の問いに何故か谷山は微妙に口ごもりながら応じ、何とか気を取り直しながら話を続けた。
「それで、予定では柏木君の産休は再来週からの予定だったが、体調面で不安もある事から、急遽明日から産休に入って貰う事になった。それで今日これから、必要な引き継ぎ等をやって貰うのでそのつもりで」
「えぇ? 明日からですか!? そんな急すぎます!」
今度も皆が密かに動揺する中、美幸が動転した声を上げると、真澄が一歩前に進み出て落ち着いた口調で話し出した。
「今部長から説明があった通り、そういうわけで不本意ではありますが、体調を鑑みて急遽明日から産休を取得する事になりました。皆さんにご迷惑をお掛けする事になって、申し訳ありません」
そうして頭を下げる真澄を呆然と眺めながら、ふと美幸は真澄の横で佇んでいる男性について疑問を覚えた。
(どうして課長のご主人が、仕事向きの話の時に一緒にいるのかしら? そりゃあ、課長の体調が心配かもしれないけど、応接スペースのソファーで待ってても支障は無いでしょうに……)
当然の様に真澄の隣に立つ彼女の夫に、美幸は密かに首を捻った。しかし次に真澄が若干引き攣り気味の笑顔で夫を紹介した台詞で、その理由が明らかになる。
「それで、こちらが私が産休及び育休を取得中、課長職を代行して頂く、柏木清人さんです」
「はあぁ!?」
静まり返った室内で、美幸の素っ頓狂な叫び声が妙に響いたが、谷山が特に美幸に言い聞かせる様に、真剣な表情で訴えた。
「皆が戸惑う気持ちは分かるが、彼は今日付けで柏木産業に採用された、れっきとした社員だ。色々制度運用として手探りの部分もあるので、皆宜しく頼む」
「私からもお願いします」
そこで当事者が二課の面々をゆっくりと見回しながら、余裕の笑みを浮かべながら挨拶してきた。
「本日付けで柏木産業人事部、環境調整支援課課長に任命されました柏木清人です。柏木課長の復帰まで、企画推進部第二課課長代理として務めさせて頂きますので、宜しくお願いします」
そう言って神妙に頭を下げた清人が再び周囲を見回し、目が合ったらしい城崎に親しげに声をかけた。
「やあ、久し振りだね、城崎君。ここに君が居てくれて心強いよ」
それを聞いた城崎はピクリと顔を引き攣らせたが、表面上は平静を装って頭を下げる。
「……お久しぶりです、佐竹先輩。こちらこそ宜しくお願いします」
「城崎、悪いが今は《柏木》だからそのつもりで」
「……失礼しました、柏木さん」
呼びかけの言葉が微妙に気に障ったらしく、清人は笑顔のまま鋭い眼光を城崎に向け、それを受けた城崎は無表情で謝罪の言葉を口にしつつ再度頭を下げた。そのやり取りを見て、他の面々が肝を冷やす。
(やっぱり見た目通りの優男じゃないな)
(あの蜂谷君を変貌させるのに一役買った事といい、ただ者じゃ無いか)
(あの城崎君が萎縮する相手……、タチが悪すぎる)
(これからニ課はどうなるんだ?)
各自重苦しい雰囲気の中で、悲観的な考えに陥っていると、その場の微妙な空気を美幸の叫び声が切り裂いた。
「ちょっとふざけんじゃ無いわよ!? 何で課長の夫で社長の婿ってだけで、課長代理として得体の知れない人間が二課に乗り込んで来るわけ!?」
「藤宮さん、落ち着いて!」
城崎は慌てて少し離れた所にいた美幸に駆け寄り制止したが、自称課長代理は皮肉っぽく尋ね返してきた。
「理由は先程柏木課長と谷山部長から話があったと思うが、聞いていなかったのかな?」
「何ですってぇぇ!!」
一応丁寧なものの、明らかに揶揄と分かる口調に美幸が激昂しつつ一歩足を踏み出した為、城崎は本気で狼狽した。
(拙い! この人に下手に逆らって機嫌を損ねたら、彼女がどんな報復行為を受けるか、想像できない!)
そこで殆ど反射的に、城崎は美幸に向かって声を張り上げた。
「藤宮さん、これは管理部及び人事部での決定事項だ! 既に部長も課長も承認している以上、これに文句を付けるのはお二人の意志に異を唱える事にもなるぞ! 加えてこれから二課を支えて頂く柏木課長代理に失礼だろう。口を慎め!!」
「……っ!」
盛大に怒鳴りつけられた美幸は、納得できないと言わんばかりに城崎を睨み付けてから、いきなり無言のまま駆け出して部屋を出て行った。他の者達が呆気に取られて見送る中、城崎が目の前に並んでいる三人に目を向けると、谷山は疲れた様に溜め息を吐き出し、真澄は無言で額を押さえ、清人は楽しそうに含み笑いを見せる。
「ちょっと失礼します」
寝耳に水だった今回の課長代理人事に、(本当に勘弁してくれ)と項垂れながら城崎は美幸の後を追った。しかし五分めしないうちに戻って来て、面目なさげに真澄に報告する。
「課長、申し訳ありません」
「どうしたの? 城崎さん」
「その……、藤宮が、女性用トイレで籠城していまして」
谷山を交えて早速今後の体制などについて話を始めていた真澄は軽く溜め息を吐き、清人は皮肉っぽく口元を歪めた。
「城崎係長? 部下の指導力に問題があると言われた事は?」
「……言われない様に努力してきたつもりですが、色々と力不足な面があったかもしれません」
「清人。こんな事で嫌味を言わないで。分かりました、城崎さん。彼女は私が連れ戻してきますから、業務に戻って下さい」
「宜しくお願いします」
夫を窘めつつ立ち上がった真澄は、城崎を宥めつつ廊下に向かって歩き出した。そして廊下を進んでトイレに辿り着くと、中から個室のドアを開け放ち、便座の蓋に突っ伏してむせび泣いている美幸の姿が目に入る。
「うっ……、ふぇぇっ、なっ、何でやっと一緒に、お仕事……、出来るように、ひくっ……、なっ、たの、にっ……、うぇっ……」
泣いている美幸の後ろ姿に真澄は胸が痛んだが、気を取り直して美幸の後方に座り込んで声をかけた。
「藤宮さん、ちょっと良いかしら?」
「課長? ……って! 何されてるんですかっ!?」
「え? な、何かまずいの?」
振り返ったと思ったら目を丸くした美幸に叱りつけられ、真澄は動揺した。すると美幸は顔をジャケットの袖でゴシゴシと乱暴に拭ってから、素早くそれを脱いで真澄の目の前の床に広げて指し示す。
「課長はもうお腹が大きいですし、冷たい床に直接座ったりしたら駄目です! さあ、こちらにどうぞ!」
「あの……、良いわよ? そこまでしなくても」
「いえ、絶対駄目です! どうぞ!」
「……それじゃあ遠慮無く」
美幸に気迫負けした真澄は、タイルの床に敷かれたジャケットの上に躊躇いながら正座した。そして徐に口を開く。
「藤宮さん」
しかし真澄が何か言う前に、美幸が勢い良く頭を下げて謝罪してきた。
「課長。取り乱してすみませんでした! 課長が近々産休に入られるのは勿論分かってました。分かっていたつもりなんですが……、前倒しで休まれる事になって、実はあまり納得できていなかった事と相まって、部外者が二課に乗り込んで来た事に動揺してしまった様です」
その素直な謝罪に、真澄の顔も自然に緩む。
「あなたの反応は極端かもしれないけど、動揺するのは当然よ。私だって夫が代理を務めるのを、ついさっき医務室のベッドで聞いたのよ? 父とグルになって今まで隠してて酷いと思わない?」
「本当ですか? 当事者にギリギリまで秘密にしてるなんて、呆れて物がいえませんよ」
「そうよねぇ」
そこで顔を見合わせて小さく噴き出してから、真澄は顔付きを改めて話を続けた。
「藤宮さん、私、本当の事を言うと、去年まで結婚も出産も諦めてたわ。相手がいないし、仕事上でもマイナスにしかならないって考えて」
「確かに色々難しいですよね」
「でも幸運な事に結婚できたら、是非子供も欲しいと思ったの。大変なのは分かっているけど、その分人間的に一回り成長して、視野を広げられると思ったから」
「そうですか」
美幸が(課長らしい考え方だな)としみじみ思っていると、真澄が苦笑いしながら話を続ける。
「それと……、もう課長職に就いていたからって事もあるんだけど」
「どういう意味ですか?」
今度は意味を捉え損ねて不思議そうな顔を向けると、真澄はそれについての説明を加えた。
「課長職のまま産休育休で一年以上職場から離れるのは、今まで本社内では前例が無いの。以前課長が妊娠したケースでは、職場に穴を開けない様に辞職して、子供の手がかからない時期になったら平社員として再就職したり、割と余裕のある職場や子会社に配置転換されたりしてから、元の職場に戻っていたのよ」
「何なんですかそれは!」
さすがに憤慨した美幸が叫ぶと、真澄は幾分困った様に話を続けた。
「勿論私も、現場の大変さは分かっているから、去年までは出産の事は意識的に考えない様にしていたんだけど、せっかく力量十分のサポートしてくれる人材がいるんだから、それに甘えて後進の為に前例を作ってしまおうと開き直ったの。そもそも二課の皆を全国からかき集めた時に、社長令嬢権限で色々無茶をやったから、もう上層部も私に絡む事では諦めているのよね」
最後は茶目っ気たっぷりに言い切った真澄に、美幸は思わず笑いを誘われた。
「課長、ご主人の事、そんなに信頼してるんですね……」
「全く心配していないと言えば嘘になるけど、今回の私のケースがうまくいくかどうか、父と夫が自分の首を賭けているそうよ。それなのに信用してあげなかったら、可哀想じゃない?」
「そうですね」
そこで苦笑いで応じた美幸に、真澄は更にたたみかける。
「それに夫から、『真澄の椅子は俺が守る』と言われて、凄く嬉しかったの。だから藤宮さんには、そんな夫を支えて貰ったら嬉しいわ。お願いできないかしら?」
そんな事を軽く首を傾げながら言われてしまった美幸は、ちょっと泣き笑いの表情になった。
「もう……、真面目な話をした後で、のろけないで下さい、課長」
「ごめんなさい」
そこで美幸はもう一度両目を擦り、真顔になって力強く頷いた。
「分かりました。色々不安はありますが、課長が居られない間、ご主人を全力でサポートする事を誓います。ご主人がとんでもないヘマをして課長の名前に泥を塗ったりしない様に様、目を光らせておきますから。ご主人が課長の椅子を守ると言うなら、私はそうやって課長の名誉を守ります! ご安心下さい!」
「あ、ありがとう……。心強いわ……」
力一杯宣言した美幸の前で、何故か真澄の顔が引き攣る。しかしそれに気付かないまま、美幸はすぐに顔を歪めた。
「だからっ、その代わり……、元気で可愛い赤ちゃんを産んで下さいね? そして……、そして、職場復帰なさる日を、一日千秋の思いでお待ちしてます!! かちょうぅぅ~っ!!」
そこでとうとう我慢できなくなった美幸は、真澄に抱きつきながら盛大に泣き叫んだ。その背中を撫でながら、真澄が宥める。
「ありがとう。心強いわ。二課の事を宜しくね」
「おっ、おばかぜぐださいぃぃ~っ!」
そして殆ど涙声で、何を言っているのか聞き取りにくい内容を延々と喋り続ける美幸に適当に相槌を打ちながら、真澄は密かに溜め息を吐いた。
(絶対、今のやりとりを外で聞いて居たわよね……。後から清人に釘を刺しておかないと)
そんな真澄の懸念通り、トイレの出入り口横の壁に背中を預けて女二人のやり取りに耳を澄ませていた清人は、おかしそうな笑みを浮かべながら組んでいた腕をほどいて廊下を歩き出した。
「……俺がヘマしない様に見張って『課長の名誉は私が守る』か。随分な大言壮語を吐く部下がいたものだな? 城崎。なかなか楽しめそうだ」
どう見ても獲物をいたぶる肉食獣の笑みにしか見えない表情に、清人と同様にトイレの前で一部始終を聞いていた城崎が、追いすがりながら必死で取りなそうとする。
「佐竹先輩! その! 彼女は今日はちょっと取り乱していまして! いつもそんな傍若無人な発言をしているわけでは!」
「『柏木課長代理』だ。一週間だけは大目にみてやる。さっさと呼称は直しておけ」
ざっくりと切り捨てられて顔を強張らせたものの、城崎はここで奥の手を出した。
「柏木課長代理。彼女は白鳥先輩の義妹でもありますので……」
暗に(あまり無茶な事はしてくれるな)と訴えたものの、相手は笑いながら何でもない事の様に頷く。
「……ああ、そう言えばそんな話も聞いていたな。早速今日のうちに、白鳥先輩に許可を貰っておこう」
「許可って……、一体何の許可ですか!? ちょっと待って下さい、柏木課長代理!!」
明らかに狼狽して問い詰める城崎に、清人は得体の知れない笑みで応じ、企画推進部二課の未来は、益々混沌としたものになっていくのだった。
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