猪娘の躍動人生

篠原皐月

5月 初めての挫折感

 その場の雰囲気と状況と勢いで蜂谷の教育係を引き受ける事になった美幸だったが、従来の彼女らしくなく、開始三日目にして早くもそれを後悔し始めていた。


(全く、どこまで人の手を焼かせれば気が済むわけ? まだ殊勝な顔をしてれば可愛げも有るけど……、ふてぶてしい事この上ないわ)
 懇切丁寧に説明しても、わざとやっていなくても、確実に何割かは教えた内容が抜け落ちている状況に美幸は内心頭痛を覚えていたが、ここで諦めるわけにはいかないと毎回自分に言い聞かせつつ、指導役としての職務を全うしようと奮闘していた。


「蜂谷君、この会議のレジメと資料を、13枚ずつコピーしてページ順にホチキス止めして頂戴」
「分かりました」
(コピーを取って揃える位、馬鹿でもできるわよね。今のうちにこれだけでもやっちゃおう)
 大人しく原本を受け取ってコピー機に向かって歩いて行った蜂谷を見て、この隙間時間を使って資料の整理をと、美幸は早速取り掛かったが、それがちょうど終わった頃に斜め後ろから声をかけられた。


「終わりました」
 その声に(随分時間がかかったわね?)と怪訝に思いつつ椅子ごと振り返った美幸が蜂谷が手にしている物を見た瞬間、眉を寄せて問い質した。
「ああ、ご苦労様……って、何でこんなに多いのよ? 私13部作る様に言ったのよ?」
「え? 31って言ったじゃ無いですか」
 キョトンとしてから平然と言い返した蜂谷に、早くも美幸のこめかみに青筋が浮かぶ。


「言うわけ無いでしょ? あのね、大体タイトルからして、二課の会議の資料なのよ? 二課の人数が31人も居たかしら?」
「言い違えたのはそっちだろ。責任転嫁すんなよ」
 尚もふてくされながら非を認めようとしない蜂谷を美幸が怒鳴りつけようとしたが、ここで隣の席から冷静に高須が割って入った。


「確かに藤宮は13と言ったな。取り敢えずコピーした分は仕方ないから、不要な分は処理しろ。ここで言い合ってても時間の無駄だ」
 そう言われて何とか気を落ち着けた美幸は、出来るだけいつも通りの声を装いながら指示を出した。
「……そうですね。蜂谷君、13部だけ取って、後はコピー機に用紙を戻して。無駄にできないんだから。入れる時に印刷面を間違えないでよ?」
「しみったれてんな~」
 ブツブツ言いながらプリントの束を数え始めた蜂谷を見ながら、美幸は僅かに頬を引き攣らせた。それを認めた高須が、心配そうに身を乗り出して囁いてくる。


「……大丈夫か? 藤宮。顔が強張ってるぞ」
「ふっ、まだまだ大丈夫です。心配しないで下さい」
「そうか?」
 高須にしてみれば自分が匙を投げた事で美幸に迷惑をかける事になった為、蜂谷とのやり取りを見聞きするにつけかなり心配していたが、美幸にしてもそれは分かっていた為、なるべく高須に気を揉ませ無いように気合いを入れ直した。


「紙を戻しました」
「それじゃあ次は……」
 そこで外線の着信音が鳴り響いた為、美幸はその電話を指差しながら指示した。
「じゃあ、この外線を取って用件を聞き出して。初期研修でやったわよね?」
「りょ~かい」
(こんなのは初期研修と同じだけど、まず現場で慣らしていかないとね)
 軽く溜め息を吐きつつ、これなら何とか大きなミスもせずにできるだろうとタカをくくっていた美幸だったが、すぐに顔色を変える羽目になった。


「もしもし? ……どちらさん?」
「ちょっと!」
 蜂谷が電話の相手にボソッと告げた内容を聞いて、美幸は慌てて椅子から立ち上がった。その間にも蜂谷が苛立たしげな声を発する。
「は? そっちこそ何ほざいてんだよ。かけてきたのはそっちだぜ? ……おい!」
「もしもし、お電話代わりました。柏木産業企画推進部二課の藤宮と申します。どちら様でしょうか?」
 有無を言わせず蜂谷から受話器をひったくった美幸は、精一杯愛想の良い声で電話の向こうに語りかけた。そして電話の向こうの相手に、平身低頭で謝罪の言葉を繰り出す。
「……はい、大谷様にはいつもお世話になっております。先程は大変失礼致しました。……はい、新人に電話対応を任せておりまして……、はい、ええ……、ごもっともです。今後は同様の事が無いように重々注意して参りますので。……はい。只今、土岐田は外出しておりまして。至急の用件で無ければ、伝言をお預かりしておきますが……」
 受話器を持ったまま何度も頭を下げている美幸に向かって、「見えて無いのに馬っ鹿じゃねえの?」などと蜂谷が悪態を吐いていたが当人はそれどころでは無く、何とか機嫌を損ねない程度に会話を終わらせ、静かに受話器を戻してから蜂谷を振り返って盛大に叱り付けた。


「蜂谷君! 電話に出たらまずこちらの所属を名乗るのが筋でしょうが!?」
 しかし蜂谷は恐縮するどころか堂々と反論した。
「何でだよ? かける時にはまず社名や所属を名乗れって、初期研修で言われたぜ?」
「それは当然でしょう?」
「じゃあ電話の向こうとこちら側と、一斉に名乗りあう事になるぜ?」
「それはかけた相手の応答と、タイミング次第よ。相手の話を遮らず、自分の所属も告げる。臨機応変にすれば良いだけの話でしょうが!?」
「はっ、教え方が悪いんじゃねぇか」
 呆れたといった様な風情で肩を竦めた蜂谷に、美幸の柳眉が上がる。
「そっちの理解度が低すぎるのよ! それから語尾は『だぜ』じゃなく、『です』って言いなさい。普段の言葉遣いが悪過ぎるから、電話でも取り繕う事ができないのよ!」
「たかが電話一つで、何青筋立てて」
「たかが!?」
 そこで美幸が更に説教しようとした時、壁際のコピー機でエラー音が発生し、思わず口を閉ざして振り返った。すると一課の橋田がその側面を開き、中の部品を軽く引き出して驚きの声を上げる。


「うわっ! 何だこれ!」
「どうした?」
 一番近くの机に居た三課の真鍋が立ち上がって歩み寄り、橋田の手元を覗き込む様にしながら声をかけると、橋田は呆れた様な表情で問題部分を指し示した。
「コピー機の補充スペースに用紙がホチキスで止めたまま入ってて、ローラー部分に引っかかった」
「うわ、どこまで変な噛み方してるんだよ、これ」
「っていうか、どうして針を外すのを忘れるんだ」
「蜂谷! あんた失敗したコピー用紙を補充する時、ホチキスの針を外さなかったの!?」
 聞こえてきた話の内容に美幸が慌てて蜂谷を問い詰めると、室内全員の視線が蜂谷に集まった。しかし本人は当然の如く言い切る。


「だって『ホチキスの針を外せ』なんて、言わなかっただろ?」
「一々言わなくても、それ位常識よ!」
 盛大に雷を落としてから、美幸は真鍋の元に駆け寄って頭を下げた。
「すみません真鍋さん、こちらのミスです。手が汚れますから、これは蜂谷に直させますので。ついでに直したらコピーも取っておきます。何部必要ですか?」
「あ、ああ……。じゃあこれを4部ずつ頼む」
「分かりました」
 そして真鍋から書類を受け取った美幸は、何とか息を整えてから冷静に声をかけた。


「蜂谷君、来て。これを引き出して直すわよ」
「へいへい。人使いが荒い上、不親切な先輩だよな~。他に行った奴らが羨ましいぜ」
(何世迷い言ほざいてんのよ、このボケがぁっ!!)
 ブツブツ文句を言う蜂谷に指示して詰まりを直し、ついでにホチキスの針も外して補充ケースに入れ直した美幸は、次に他の面々から預かっていた書類等を、届け先ごとに纏めて蜂谷に手渡した。


「じゃあ蜂谷君。届け物をして欲しいんだけど。これを海外事業部、これを経理部、これは営業六課よ。場所は分かっているわね?」
「へ~い、じゃあ行ってきま~す」
 相変わらずやる気も誠意も見えない蜂谷の姿に、美幸は頭を抱えたくなった。
「全く……、まあ、ガキじゃないんだから、届け物位できるでしょ」
 そんな独り言を漏らしてから、この隙に自分の企画案の見直しでも……、と考えていた美幸だったが、出入り口から一課の伊東が慌てて駆け込んできた。
「おい、藤宮! すぐそこで、蜂谷が派手に総務部のワゴンと衝突してたぞ!」
「本当ですか!?」
 伊東の叫びに美幸も血相を変えて立ち上がり、慌てて廊下に走り出た。そして伊東の指差す方を見ると、確かに少し歩いた先の廊下の曲がり角で、倒れているワゴンと尻もちを付いている蜂谷を見つけて走り寄る。


「ってぇ~。ぶつかって来ないでさっさと避けろよ、このグズ女! その無駄にデカい目は飾りか?」
「何ですって!?」
 どうやら蜂谷の喚いている内容で、出会い頭に派手にぶつかったらしいと分かったが、美幸にしてみれば(全力疾走していたわけじゃあるまいし、どうしてそんなに勢いよくぶつかるのよ?)と、もう訳が分からなかった。そしてそこに近付くにつれ、ワゴンの向こう側に女性が二人座り込んでいるのが分かり、先輩と見える女性の方が蜂谷を睨み付けつつ立ち上がり、盛大に非難してくる。
「こっちは大きな荷物を押してるのよ? 常識的に考えて避けるのはそっちでしょうが! 目が見えて無い上に、頭も足りない様ね!」
「はあ? 何様だよアンタ?」
「そっちこそどこの部署よっ! 謝罪の一つもできないわけ!?」
「あ、あの、先輩っ! 私は大丈夫ですから」
 険悪な雰囲気になった二人を宥めようと、おろおろと新人らしい社員が声をかけたのとほぼ同時に、美幸が蜂谷の腕を掴みつつ叱り付けた。


「何やってるの、蜂谷!!」
「ちっ、五月蝿い奴が……」
 思わずそっぽを向いた蜂谷には構わず、美幸はまず倒れたと思われる女性に尋ねた。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
「はい、転んだ拍子にちょっと手を床とワゴンの間に挟んだ位で。擦りむいてもいません」
「壊れ物とかも無かったしね。まあ、殆ど書類の類で、重い物が無かったから倒れちゃったんだけど」
 新人は笑顔で、指導役らしい女性は嫌味たっぷりに答えてきたのに軽く頷いてから、美幸は蜂谷を促した。


「良かったです。蜂谷、二人に謝りなさい!」
「何で俺が」
「これを押して廊下を走り回れるわけは無いし、どっからどう見てもあんたの方に非が有るわよ! これは係長に報告させて貰うわね。十分評定に係わってくると思うけど?」
 半眼で美幸がそう告げると、小さな舌打ちの音が響いた。
「……虎の威を借る女狐が」
「躾のなってない駄犬よりはマシよね」
 平然と言い返した美幸に、蜂谷は取り敢えずそれ以上文句は言わず、ふてくされた態度で申し訳程度に二人に向かって頭を下げた。


「……悪かったな」
「申し訳ありませんでした。蜂谷、さっさと行ってきなさい!」
「へいへい。ヒステリー女が」
 蜂谷をこれ以上この場に居させると謝罪にも何にもならないと判断した美幸が彼を追い払うと、一緒になって頭を下げた美幸に悪態を吐きつつその場を去った。そして美幸はワゴンを元通り起こし、廊下に零れ落ちた幾つかの封筒を拾い集めた。
「大丈夫ですか? 壊れたり汚れたりした物は有りませんか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
 立ち上がった新人は愛想よく頭を下げたが、指導役の方は美幸のネームプレートを確認しながら、腹に据えかねた様に叱り付けた。


「ちょっと。さっきの無礼な奴はまだネームプレートができていなかったみたいだけど、あなたが企画推進部なら、あいつはそこの新人よね? 後輩に一体どういう教育してるわけ!? 本当に上がろくでもないと、下まで救いようがないわね!?」
「誠に申し訳ありません」
(あの馬鹿のせいで……、皆さんまで当てこすられるなんて!!)
 そうは思ったものの、下手に反論したら益々逆上させるのが分かっていた為、美幸は殊勝に頭を下げた。そして相手の悪口雑言を最後まで黙って聞く気だったのだが、ここで予想外の声が割り込む。


「田辺先輩! この方は悪くありませんから。ええ、絶対。むしろ被害者です!」
「え?」
「道原さん?」
 力一杯拳を握り締めつつ力説してきた新人に、美幸と田辺と呼ばれた女性は怪訝な顔を向けた。そんな二人の視線を集めつつ、道原と呼ばれた彼女が如何にも腹立たしげに話し出す。
「あの蜂谷って人、初期研修中も周りの皆から白眼視されてたんです。何やらせてもまともにできないのに、言葉遣いがなってなくて態度が横柄で」
「……へぇ? そうなの」
「…………」
 チラッと田辺が美幸の顔を窺い、美幸は表情を消して無言を保った。そして次に道原がしみじみと言い出す。
「研修が終わる頃、皆戦々恐々としてたんです。『どこに配属されても、あいつとだけは一緒になりたくない』って。それで企画推進部ニ課って聞いた時には、皆で万歳しました。……あ、そういえば、渡部さんは同じ企画推進部の三課勤務って聞いた時、床に崩れ落ちて涙ぐんでましたが。彼女、大丈夫でしょうか?」
 本気で心配していると分かるその表情に、美幸は何とか笑顔を作って頷いて見せた。


「……え、ええ、彼女、それなりに頑張ってるみたいよ?」
「良かった。研修中仲良くなって心配してたんです。でも企画推進部って色々怖くて、直接職場の様子を見に行けなくて……」
「…………」
 軽く自分の胸を押さえつつ安堵した様に微笑んだ道原に、美幸も田辺も何とも言えないまま彼女の様子を見守る。すると道原は真剣な顔つきで、美幸に励ましの言葉をかけてきた。


「先輩、課は違いますけど、できればこれからも渡部さんの事を気にかけてあげて下さい。それから蜂谷さんの事、本当にお気の毒ですが頑張って下さい。あんな使えなさMAXの奴、ニ課で引き受けてくれなかったら、どこでも引き受けないと思いますから。陰ながら応援してます!」
「……ありがとう」
「ほら、じゃあ行くわよ?」
「はい、失礼します」
 道原からは無邪気とも言える笑顔を、田辺からは怒るのを通り越して憐れむ視線を向けられた美幸は、その場で棒立ちになりながらこの場に居ない人物に対して、呪いの言葉を吐いた。


「あんの、馬鹿蜂谷ぁぁ~。マンホールに落ちてそのまま地獄に直行しろや!!」
 低い声でそんな悪態を吐いた時、廊下の向こうから城崎が商談先から帰って来たのが見えた。
「藤宮? こんな所に立ち尽くして、どうかしたのか?」
「あ、お戻りになったんですね、係長」
「ああ、そうだが……、どうした? 何かあったのか?」
 美幸はいつも通り会釈したつもりだったが、城崎は何が引っかかったのか不思議そうに問いかけた。すると思わず美幸の涙腺が緩む。


「か、係長ぅ~」
「……ちょっと付いて来い」
 一瞬驚いた顔を見せたものの、城崎は短く言い聞かせて踵を返した。そして鞄を手に提げたまま今来た廊下を逆行し、階段で一階分下って自販機が置いてある休憩スペースに到達する。何をするのかと美幸が戸惑っているうちに、城崎はさっさとレモンティーを1つ選択し、熱い紙コップを美幸に渡しつつ問いかけた。
「まずそこに座れ。それから、これを飲みながらで良いから、落ち着いたら何があったか話してみろ。蜂谷の事だろう。藤宮が自分の事でそうそう泣き出すとは思えないからな」
「……はぁ」
 思わず(その評価ってどうなんだろう?)と思ったものの、熱い紅茶を飲んで気分が落ち着いてきた為、美幸は先程の事を簡潔に説明した。


「蜂谷の奴が総務部のワゴンにぶつかって、派手に倒して相手と揉めまして。すぐに駆け付けて私と一緒に謝罪させましたが。あの態度だと、謝罪と受け止めて貰ったかどうか……」
「……抗議は来るかもしれんな。了解した。だが、それだけじゃ無いよな?」
 念を押す様に城崎が再度問いかけると、美幸が落ち込んだ様に小声で付け足す。
「総務の新人の子に、もの凄く同情されたんです……。あんな使えないのを引き取るのは二課位だから、頑張って下さいとも」
「…………なるほど」
 思わず遠い目をしてしまった城崎の横で、美幸はいきなり顔を上げ、城崎に向かって八つ当たり気味に叫んだ。


「なんっで、私が見ず知らずの新人に、あんなに憐れまれなきゃならないんですか!? 屈辱です! それもこれも、あのろくでなしのせいでぇぇっ!!」
「落ち着け、藤宮」
「これが落ち着いていられますか! 自分自身のせいで馬鹿にされるならともかく、何であの馬鹿のせいで」
「藤宮、口を開けろ」
「はい、……っむうっ、……ハッカ飴?」
 口の中に放り込まれた物を認識し、美幸は軽く目を見張った。そして解いた包み紙を手にしながら、城崎が笑いを堪える表情で問いを発する。


「そこで素直に口を大きく開けるのが藤宮らしいな。何か変な物でも放り込まれたらどうする気だ?」
「係長の指示だったからですよ? あ、あと課長に言われてもそうするかもしれませんが」
「なるほど。なかなか信用して貰っている様で嬉しいな。苛々する時には糖分補給が有効だから、出先で土産に買って来たんだ。さっきのはおまけに貰った試供品だ」
 真面目に答えた美幸に、城崎は苦笑しながらポケットからラッピングされた飴を取り出し、美幸の膝の上に乗せた。すると紙コップを両手で持ったまま、美幸が憮然とした表情で呟く。


「……子供じゃ無いんですから。飴で誤魔化さないで下さい」
「誤魔化すつもりじゃない。藤宮に落ち度は無いし、頑張って指導してるのは分かってる。寧ろ二年目でこういう事を任せたのを、申し訳無く思ってるんだ」
 真顔でそう述べてから、隣に座った城崎が頭を下げてきたため、美幸は慌てて宥めようとした。


「そんな事、係長が謝る事じゃ無いですよ!」
「この間見てても、目に余る事ばかりだったしな。やはり俺が付きっきりで指導した方が良いか。取り敢えず明日の白州住建との契約を纏めたら余裕ができるから、それまで」
「駄目です!」
「え?」
 勢い良く美幸が否定してきた為城崎は面食らったが、美幸は盛大にまくし立てた。


「だって! 最近、課長が産休に向けて徐々に仕事をセーブし始めている分、係長の負担が増えてるじゃないですか!? 余裕ができるって言っても、《もの凄く忙しい》が《ちょっと忙しい》位になるレベルですよね?」
「まあ、な……」
 幾らか居心地悪そうに城崎が頷くと、美幸がたたみかける。
「それに! 私、一度引き受けた仕事を放り出すなんて、死んでも御免です! こうなったら蜂谷が使える様になるまで、意地でも指導をしてみせますから!」
「……大丈夫か?」
 どうしても不安が拭えない城崎だったが、美幸は先程涙目になっていた事すら忘れて、力強く断言した。


「はい、お任せ下さい! だから係長は心置きなく、ご自分の仕事に集中して下さい」
「そこまで言うなら……。だがどうしても駄目だと思ったら、その時はすぐに俺に言う事。どうとでもするから。分かったな?」
「はい」
 真剣な顔で言い聞かせてきた城崎に、美幸も真顔で応じてから、ふと思い付いて上目遣いで言ってみた。


「その代わりと言ってはなんですが……、時々甘い物を差し入れして貰えると嬉しいです」
 含み笑いをしながら美幸が告げると、城崎も小さく吹き出して笑顔で請け負った。
「お安いご用だ」
「それから……、時々夜に電話で愚痴っても良いですか?」
 それを聞いて、城崎の笑みが深くなった。


「勿論。一晩中聞いてやるぞ?」
「一晩中って……。ストレス解消になるかもしれませんが、睡眠不足になりますよ」
「それもそうか」
 そうして目元を緩ませた城崎に軽く頭を撫でられて、美幸は完全に平常心を取り戻した。


(よし、頑張るわよ? 後輩の指導も、立派な業務の一つなんだから!)
 そして気合いも新たに紙コップの中身を飲み干し、城崎と連れ立って世間話などをしながら企画推進部に戻った美幸だったが、先に戻って所在なげに美幸を待っていた蜂谷から、皮肉をぶつけられる羽目になった。


「今までどこに行ってたんですか、藤宮せ・ん・ぱ・い。トイレで化粧直しですか? 元が元だし、時間の無駄っぽいすよね~」
「あ~ら、迷わず帰って来れたみたいで良かったわ。ひらがなで記載したビル内の地図を渡さないといけないかしらと、実はちょっと心配してたの。初めてのお使いだったしね」
 顔を合わせるなり嫌味の応酬になった二人を見て、城崎は無言で額を押さえたが、それは見なかったふりをして美幸は蜂谷に新たな指示を出した。


「ところで、去年一年間の事業実績を纏めた一覧表、できたかしら? レイアウトは任せるから、見易い様に何パターンか考えておくように言ったけど、何枚作った?」
「3パターン作ってみました。……これです」
「ありがとう。見させて貰うわね」
 自分の机の上に重ねてあった用紙を取り上げて蜂谷が差し出してきた為、美幸は一応笑顔でそれを受け取り目を通した。しかし一分もしないうちに、疑念に満ちた声を発する。


「……蜂谷君?」
「なんすか?」
「これ、どう見ても同じにしか見えないんだけど? 間違って一つの形式を、三枚プリントしたんじゃない?」
「はぁ? そんな筈無いですよ」
「じゃあ見てみなさい」
 ムッとしながら美幸が差し出した用紙を眺めた蜂谷は、勝ち誇った様に反論した。


「ほら、ちゃんと三枚とも違うじゃ無いですか。どこに目ぇ付けてんですか」
「どこが違うわけ? 分かる様に説明して」
 美幸の目には全く同一にしか見えなかった為、イラッとしながら説明を求めると、蜂谷は呆れた様に用紙の一部分を指差しつつ答えた。


「ほら、ここの表とグラフの間、空いている間隔が一行分の物と、ニ行分と三行分の物が有るでしょうが」
「……は?」
「どれが一番しっくり来るのか、判断出来なかったんすよね~。ああ、でもこんな繊細な感性、ズボラな誰かさんに理解して貰おうって方が無理か~」
「……《これ》で3パターン、だぁ?」
 一瞬何を言われたのか分からずに当惑した美幸だったが、蜂谷が続けてしたり顔で述べた為、怒り心頭に発した美幸は咄嗟に足元の長方形のゴミ箱を掴み上げ、相手に向かって振り下ろしながら絶叫した。


「ふっざけんな、この腐れ野郎!! そんなんだったら子供でも一万通り作れるわぁぁっ!!」
「うわ、暴力反対!」
「落ち着け藤宮!」
「気持ちは分かる、分かるから!」
「蜂谷、ちょっとこっちに来い!」
 周りの人間が慌てて美幸を押さえ込んだところで、頭を庇って逃げ出した蜂谷を城崎が自分の机に引きずっていく。そこで見るに見かねた城崎が蜂谷に説教しているのを眺めながら、美幸は小さく歯軋りした。


(くぅぅ~っ、駄目よ美幸、腹を立てても職場でキレちゃ。係長に心配かけるでしょうが。絶対に負けないわよ! どうにかして、あいつを使い物になる段階までにしてやるんだから!)
 まだ美幸の意欲は衰えてはいなかったが、その前途多難さも十分理解できていた為、心の中では早くも少し挫けそうになっていた。





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