猪娘の躍動人生
3月 波乱含みの一年目終了
三月に入り、年度末と言う事もあって周囲が何となく気忙しい中、美幸は久し振りに仲の良い同期四人で昼休みに社員食堂で待ち合わせ、お祭り好きの同期から持ち上がった同期会の内容や開催場所についての意見を交わし合った。そして一通りその話を済ませてから、晴香がしみじみとした口調で述べる。
「だけど本当に早いわね~、入社したばかりだと思っていたら、もう一年近く経ったなんて」
「来月には新人も入って来るしな。俺達もうかうかしていられないって事だ」
総司が苦笑いしてそれに応じたが、美幸は余裕の笑みで焼き魚をほぐしつつ答えた。
「その点、私は気が楽だわ~。まだ暫くは新人気分でいられるわよね。そうそう二課に、好き好んで新人が入って来るわけ無いもの。それに瀬上さんと仲原さんの二人が入ったのはイレギュラーだったけど、それで随分楽になったって皆が言っているから、至急で人員が補充される用件も無いし」
そう言って魚とご飯を交互に口に運び、美味しそうに食べる美幸を見て、晴香は思わず溜め息を吐いた。
「……自分の所属先が、社内で人気が無いって公言するのはどうかと思うんだけど?」
「事実だし。別に問題は無いと思うけど?」
「新人配置はともかく……、お前の所は課長の産休突入後が問題じゃないのか?」
総司がそんな懸念を口にした途端、美幸は激しく同意した。
「あ、そうそう! それは私も気になっているのよ。谷山部長が未だにはっきりした事を言わなくて!」
「ふぅん? まだ時間はあるけど、ちょっと変よね」
「晴香もそう思うよね!? 桑原君はどう思う?」
怪訝そうな晴香から視線を移した美幸は勢い込んで尋ねたが、対する総司は少し困った顔をしてから、横に座る隆に声をかけた。
「まあ、そこは俺も解せないがな。……どっちかと言うとお前の態度の方が変だぞ、隆。さっきから黙りこくってどうした?」
「あ、ああ……、悪い」
促されて短く謝罪の言葉を口にした隆に、美幸と晴香は話を止めてキョトンとした顔を向けた。そんな中、隆が思い詰めた表情で美幸に話し掛ける。
「その……、藤宮?」
「何?」
「今度の日曜空いてるか?」
唐突に隆が口にした誘いの言葉に、晴香と総司は半ば呆れた。
(おいおい……、そう言う話は二人っきりの所でしろよ。状況判断もできない位、煮詰まっているのか?)
(最近、幾ら美幸と顔を合わせる事が少なかったにしても、どうかと思うわよ?)
そして続く美幸の返答を聞いて、三人揃って見事に固まった。
「日曜は空いてないわね。係長にスイーツを奢って貰う約束だから」
何気なくそう答えて食事を続行している美幸を見て、三人は殆ど無意識に声を発した。
「……は?」
「係長って……、あの城崎さん?」
「どうしてスイーツ?」
それらの疑問に、美幸が律儀に答える。
「バレンタインにチョコをあげたら、義理堅く『お返しをするから』って言われて。気にしないで下さいって言ったんだけど」
食べる合間に何でも無い事の様に美幸が告げたが、隆は血相を変えて椅子から腰を浮かせつつ問い質した。
「おいっ! 藤宮! お前、義理チョコは配らないって言ってたのに、どうしてあの人には渡してるんだよ!?」
「どうして怒るのよ? だって係長に渡したのは義理チョコじゃなくて感謝チョコだし。別に変じゃ無いでしょ?」
隆の咎める様な口調に、些か気分を害しながら美幸が主張すると、それを聞いた晴香と総司が揃って項垂れた。
「本命チョコじゃ無い事は分かったけど……、あんたの基準ってどうなってるの?」
「最近お前と言う人間が、益々分からなくなって来たな……」
「何よ、その言い方。失礼ね」
腹を立てながら美幸は食事を続行し、総司に小声で宥められた隆も取り敢えず椅子に座り直して再度食べ始めたが、慎重に美幸の様子を窺っていた。
そんな事があった週の次の日曜日。何となく城崎に言いくるめられた感があった美幸は、何となく釈然としない気持ちを抱えながらも午後に指定された店に出向いた。
美幸の都合を考えてか、最寄り駅が自宅から電車で二駅しか離れていないその店に入ると、先に来て待ち構えていた城崎が軽く手を上げる。そこでそのテーブルに出向き、向かい合わせの席に座ると、早速城崎が申し訳無さそうに軽く頭を下げてきた。
「すまなかったな。休日に呼び出す事になって。何でも好きな物を頼んで良いから」
「こちらこそ恐縮です。家に近い所を選んで貰ったんですよね? それに大したチョコを渡した訳じゃ無いのに、ホワイトディのお返し代わりに奢って貰う事になって。いつもお世話になってるお返しに差し上げたつもりだったので、別に見返りは期待していなかったんですが……」
差し出されたメニューを受け取りつつ美幸が恐縮気味に述べると、何故か城崎が、どことなく歯切れ悪く応じる。
「それは俺も分かってはいたがな……。ちょっと折り入って、話したい事もあったから」
「そうですか。それでは今日は遠慮無くご馳走になります」
そう言って自分自身を納得させながら美幸がメニューを開くと、城崎はあからさまにホッとした表情になった。その様子をメニュー越しにチラチラと窺いながら、美幸は密かに考え込む。
(折り入っての話って何かしら? 仕事の話だったら職場でできると思うし、部下の私に込み入った相談って言うのも、有り得ないわよねぇ?)
この場に城崎の事情を把握している二課の面々、特に日頃から美幸のフォローに回っている高須がその考えを聞いたなら(お前、少しは察しろよ!)と盛大に怒鳴りつけそうだったが、周囲に見知った人間は存在せず、二人は傍目にはデート中のカップルだった。そして注文を済ませて当たり障りの無い世間話などをしているうちに、ウエイトレスによって頼んだ品物がテーブルに並べられる。
「うふふ、美味しそう。いただきま~す」
早速長いスプーンを取り上げ、上機嫌でミルクプリンイチゴパフェ攻略に取り掛かった美幸を見て、城崎が思わずと言った感じで微笑みつつ口を開いた。
「随分食べ応えがありそうだな」
「……からかってるんですか?」
ちょっとムッとしながら見返した美幸に、城崎は苦笑いしながら軽く手を振って見せた。
「いや、そうじゃない。ちょっと羨ましくてな」
「はい?」
当惑した声を上げた美幸に、城崎は苦笑いしたままクレープシュゼットにナイフを入れつつ問いを発した。
「やっぱり大の男がパフェを頼んだら引かれるだろう?」
言われた内容を頭の中で考えた美幸は、手を止めたまま怪訝な顔で正直に思うところを述べた。
「……食べたいなら注文すれば良いかと思いますが?」
「人目が気になって、落ち着いて食べられないんだ。第三者的に見ると、男でもケーキの類なら頼んでもセーフらしいが」
淡々と述べた城崎に、美幸が釈然としない顔付きで尋ねる。
「そういう物ですか?」
「どうやらそうらしい。第一、俺には似合わないだろう? 試してみる勇気も無くてな」
そこで城崎がパフェを食べている絵を想像してみた美幸は、思わず素直な感想を漏らした。
「それは確かに、似合わないかもしれませんが……」
「正直だな」
「……すみません」
「怒っているわけでは無いから」
城崎は笑いを堪える表情でクレープを食べつつ珈琲を味わっていたが、自分の失言を悟った美幸は、心の中で誰とも分からない人間に八つ当たりした。
(そんなの人の勝手だと思うんだけど。別に大の男がパフェを食べたって、構わないじゃない。周囲にどんな迷惑をかけるって言うのよ? 誰よ、そんなくだらない事係長に吹き込んだのは?)
そんな事を考えながら黙々とスプーンを動かしていた美幸だったが、三分の一程を食べた所で、同様に静かに食べていた城崎が、ナイフとフォークを置いて徐に声をかけてきた。
「それで……、話と言うのはだな……」
「はい」
思わず美幸も手の動きを止めて城崎に視線を合わせたが、何故か城崎は再び黙り込んで俯き加減になった。そして美幸が(係長、どうしたのかしら?)と不審に思って声をかけようとした所で、城崎が声を絞り出す様にして話し出す。
「……最近、考えれば考える程、嫌な予感しかしなくてな」
「はい?」
いきなり深刻そうな口調でそう告げられ、正直美幸は面食らったが、城崎は口に出し始めたら色々吹っ切れたらしく、顔を上げてサクサクと話を進めた。
「以前話しただろう? これまで俺が課長の結婚相手に、仕事上の情報を色々流していた事を」
「ええ、確かに。その方は係長の大学時代の先輩で、仕事上で色々便宜を図って貰っていたとも聞きましたが」
「それが今年に入ってから今まで以上に頻繁、且つ広範囲に根掘り葉掘り聞いてくる様になって。今ではニ課が係わっている業務の、ほぼ全ての情報や資料を渡している状態なんだ。最近では何だかんだと、連絡を取って来る日の方が多くなっていて」
真顔でそんな事を打ち明けられ、美幸は思わず顔を引き攣らせた。
「係長……、幾ら相手が課長のご主人でも、そんな事をして良いんですか?」
「俺も正直どうかとは思うが、昔も今も、俺に拒否権は一切無い」
「はぁ、そうですか。事情は分かりませんが、何だか大変そうですね」
「何で今頃になってこんなに目に。あの人が卒業して、俺の暗黒時代は三年間で終焉を迎えたと、心の底から喜んだのに……」
相槌を打った美幸の台詞を聞いているのかいないのか、いきなりテーブルに両肘を付き、両手で頭を抱えて呻いた城崎を見て、美幸は益々疑問を深めた。
(何なのかしら? 課長の結婚相手が係長のトラウマっぽいのはもの凄く良く分かったけど……、それが私と何の関係があるのかしら?)
「あの……、係長?」
このままだと話が進まないと思った美幸が控え目に声をかけてみると、城崎はすぐに気を取り直して頭を上げた。
「ああ、すまん。それで……、さっき言った様にあの人がニ課の業務内容について事細かく尋ねてくるのは、考えれば考えるほど、課長の産休中の体制について何か企んでいる様にしか思えなくなってきたんだ」
「何ですか、それは?」
「陰で動いて社内人事に首を突っ込んで、変な人間を二課に押し込んで来る様な気が」
「何ですって!?」
最初眉を寄せただけの美幸だったが、ここで思わず声を荒げた。それを慌てて城崎が宥める。
「あ、いや、すまん。言い方が悪かった。あの人が課長の職場を引っ掻き回す筈は無いから、変な人間を押し込む事は万が一にも無いと思うが……。どちらにしても来年度は荒れそうな予感がして。それで職場で波風が立つ前、落ち着いて話をするのは今のうちかと思ったから……」
そう言って溜め息を吐いた城崎だったが、それを聞いた美幸は疑わしそうに問いを発した。
「落ち着いて話を、って。あの……、じゃあひょっとして、今の話って、まだ前振りなんですか?」
「……ああ」
(前振り段階で、充分とんでもない話なんだけど)
思わず頭を抱えたくなった美幸の前で城崎は口調を改め、落ち着き払った口調で話を続けた。
「それで……、今更こういう事を言うのも気が引けるんだが……、実は俺が君と初めて顔を合わせたのは、入社してからじゃ無いんだ」
「え? 入社試験の時は別会場だし……、面接の為に来社した時に、お会いしていましたか?」
「いや、そうじゃなくて……、君が高一の時に顔を合わせたのが最初だ」
「高一の時? でも係長はその頃既に、柏木産業で働いていましたよね? どこかで接点が有りましたか?」
益々怪訝な顔になって首を傾げた美幸に、城崎は小さく溜め息を吐いて核心に触れた。
「学校からの帰り道、盗撮犯と遭遇して追いかけて、そこで課長が助けただろう?」
「はい、そうですけど」
「当時、同じ職場の先輩だった課長に同行して、俺もその場に居合わせたんだ」
「…………はい?」
言われた意味が咄嗟に理解できず、美幸は真顔で問い返した。その反応を予め予想していた城崎は、気を悪くする事無く冷静に補足説明をする。
「課長の指示で駅員を呼びに行ったから、課長が華々しく盗撮犯をぶちのめした所は目にしていないんだが。一応駅員を連れて戻って来てから、君に軽く挨拶もしたし」
「えっと……、あの、その節はどうも……」
かなり間抜けな顔で殆ど無意識に礼を述べた美幸を、城崎は困った様な表情で宥めた。
「ああ、いいから。俺の事は眼中に無かったのは分かってるし。課長にも余計な事は言わない様に、お願いしておいたから」
「……重ね重ね、申し訳ありません」
(ううう嘘っ!? なんで? どうして? こんな如何にも隠密行動に不向きな、存在感の有り過ぎる人を見逃すわけ!? 確かに課長の勇姿に感動してたけど、有りえないでしょうがっ!!)
軽く頭を下げた状態で、美幸は自分自身を心の中で叱り付けた。しかし城崎の言葉で弾かれた様に頭を上げる。
「それで、実はその時に、俺は君に一目惚れして」
「は?」
「ただ、常識的に考えて、かなり年下の女子高生の所在を調べてどうこうしようとまでは考えなかったから、それきりになってたんだが」
「そっ、そうですよね。係長、どこからどうみても常識的な方ですし」
(ちょ、ちょっと待って。なんか今、サラッと重大な事を言われた気がするんだけど)
反射的に顔を上げ、愛想笑いを浮かべながら美幸は混乱する頭の中を必死に纏めようとしたが、狼狽しまくっている美幸には構わず、城崎は冷静に話を続けた。
「それで二課に配属になった時に、一目で君があの時の子だと分かったんだが、俺の事は微塵も記憶に無かったみたいだし、加えて課長に心酔してて迂闊に声をかける気分になれなかったし。一応職場の直属の上司と部下の関係だから、下手に交際を申し込んでも仕事一直線の君からしたら迷惑千万で、ひょっとしたらセクハラパワハラモラハラ規定に抵触するんじゃないかと、色々考え始めたらキリが無くて」
「は、はぁ……、なるほど。言われてみればそうかもしれませんね……」
(そうか、社内恋愛ってそういう問題が発生する場合もあるんだ……、係長って人知れず結構悩みが多い……って、問題はそこじゃなくてねっ!!)
しみじみと納得しかけて、思わず自分自身に美幸が突っ込みを入れていると、城崎が盛大に溜め息を吐いてから心情を吐露した。
「加えて、君が入ってから、大小含めて実に色々な事が有り過ぎて。それにまさか白鳥先輩が君の義兄になっていたなんて……。落ち着いて現状をどう打破しようかと考える心のゆとりが、正直この一年近く無かったんだ」
「……ご苦労様です」
(何か物凄く、係長に心理的負担を与えてきた罪悪感がひしひしと……。流石に全部が全部、私のせいじゃないとは思うけど。なんか課長のご主人に加えて、秀明お義兄さんまで係長のトラウマっぽいけど、どうしてなの?)
混乱に拍車がかかった美幸に向かって、城崎が更にとどめを刺した。
「それで、取り敢えず、俺が君の事を以前から好きな事だけは言っておこうかと」
「えっと……」
「ああ、でも付き合ってくれどうこうは、まだ言うつもりは無いし」
「はい?」
相手の言っている内容が理解できなかった美幸は固まったが、城崎は真顔で確認を入れてきた。
「まだ仕事が楽しくて仕方が無い時期だろうし、正直まだ恋愛云々をまともに考えるつもりは無いだろう?」
「確かにそうですが……」
「だから、ここで無理強いしたりして、君が職場で変に意識して、居づらくなったりするのは避けたいから。君は立派な二課の戦力だし」
「ありがとうございます」
その評価は素直に嬉しかった為頭を下げた美幸に、城崎は軽く笑いながら話を締めくくった。
「そういうわけで、俺との事をまともに考えてくれる状況や心境になったらしいと判断したら、その時は改めて口説く事にするから。一応それだけ覚えておいてくれたら嬉しい」
「はぁ、分かりました」
「じゃあ、俺の話はこれで終了。だから明日以降も、今まで通り接してくれて構わないから。食べるのを中断させて悪かった。どんどん食べてくれ」
「そうさせて貰います」
そうして上機嫌に色々話しかけてくる城崎に殆ど無意識に言葉を返しつつ、美幸はパフェを完食し、レモンティーも飲み干した。その頃には既に城崎は食べ終えており、二人揃って立ち上がる。
「じゃあ、また明日」
「はい……、どうも御馳走様でした……」
そして支払いを終えた城崎が美幸を促して外へ出てから、あっさりと別れの言葉を口にして立ち去って行った。
(えっと……、私、所謂告白をされたとか? いやいや、そうじゃないでしょ。普通世間一般の告白って場合、『好きです、付き合って下さい』って言われて『宜しくお願いします』か『お断りします』とかのやり取りが有る筈で、今回は何か一方的に言われただけだし。『時期が来たら改めて口説く』って。意味分からないし、何、この言い逃げ状態!?)
茫然自失状態のまま城崎の背中を見送った美幸に、店から慌てて出てきた隆が顔色を変えてながら声をかけた。
「おい、藤宮! お前城崎さんと、何話してたんだよ!? まさか付き合ってくれとか何とか、交際を申し込まれてたとかじゃ無いよな!?」
どう考えても自分を尾行していただろうと分かるタイミングでの隆の登場だったが、美幸はそんな事には気にも留めないまま、殆ど無意識に言い返した。
「交際の申し込み? 申し込まれてはいないわよ……、うん、そう言う事はね」
「じゃあ、一体何を話してたんだよ? 何だか随分驚いてたみたいだったし」
「昔の、ちょっとした話……。だけど、私……、人の顔を覚える事に関しては、結構自信があったのに……」
道路の向こうを見据えながら淡々とそんな事を口にした美幸に、隆は怪訝に思いながらも同意する。
「あ、ああ、そうだよな。お前、百人から居る同期全員、初顔合わせの翌日には覚えていたみたいだし」
「何で綺麗さっぱり、視界と記憶から排除……、なんかもの凄いショック……。しかも何で一人だけすっきりした顔で、爽やかに帰っちゃうかな?」
ブツブツと美幸が小声で呟いている内容が良く分からないまでも、どうやら城崎とは単に奢って貰っただけらしいと判断した隆は密かに安堵しつつ、この機会を逃してたまるかと早速誘いの言葉を口にした。
「何だか良く分からないが……、あっさり別れていったし、本当に単にお返しに奢って貰っただけなんだよな。なあ、藤宮、これから俺とどこか行かないか? 夕飯も奢るし」
「帰る」
「え?」
ボソッと短く断られて、隆が思わず俯いていた美幸の顔を覗き込むと、美幸は勢い良く顔を上げて叫ぶように宣言した。
「頭冷やしながら帰るわ。それじゃあねっ!!」
そう叫ぶやいなや、美幸は「あ、ちょっと待て! 藤宮!?」と慌てて引き止めようとした隆には目もくれず、もの凄い勢いで歩道を駆け出した。そして地下鉄二駅分、プラス店舗と自宅、それぞれの最寄り駅への道のりを一気に走破した美幸は、玄関を上がって息を切らせてへたり込んだ所で、呆れ気味の長姉夫婦の出迎えを受けた。
「……美幸? 『係長とちょっとお茶して来る』と言って出掛けたのに、どうして全力疾走して帰って来るわけ?」
「まさかとは思うが、白昼堂々帰り道で城崎が送り狼にでもなって、逃げて来たのかい? この家に俺が居て、美幸ちゃんに下手なちょっかい出そうと考える程、命知らずな奴だとは思わなかったが」
「そうじゃ、無く……、それなら、即座に……、お断り、してる、し……」
上がり口でうずくまったまま切れ切れに否定してくる美幸に、秀明が益々怪訝な顔をする。
「それじゃあ、どうしたんだい?」
「お断り、する以前……、ちょっと、……頭、冷やそう、と、思っ……」
「それで頭は冷えたの?」
不思議そうに問い掛けた美子に、美幸は呻き声を上げた。
「余計……、訳が、分からなくなった……、かも」
「でしょうねぇ……」
「大丈夫かい? 美幸ちゃん」
「……多分」
怪訝な顔で自分を見下ろして互いの顔を見合わせた姉夫婦に、美幸は言葉少なに応じた。
そうして一晩色々考えた末、気合いを入れて出社した美幸を待っていたのは、昨日の二人で話した時の動揺など微塵も感じさせず、普段と全く変わらない様子で早々と仕事をしている城崎だった。
「おはよう、藤宮さん。今日も宜しく」
「……おはようございます」
自席で書類を捌きながら淡々と挨拶してきた城崎に、美幸の顔が傍目には分からない程度に引き攣る。
(だから! 人を動揺させるだけさせておいて、どうして自分だけ何事も無かったかの様に、朝早くから清々しく仕事をしてるんですか!?)
そう言って怒鳴りたかったのは山々だったが、前日の色々切羽詰まった様子の城崎の姿を思い返した美幸は、辛うじて押し黙った。
そんな波乱含みの美幸の入社二年目の春は、もうすぐそこまで来ていた。
「だけど本当に早いわね~、入社したばかりだと思っていたら、もう一年近く経ったなんて」
「来月には新人も入って来るしな。俺達もうかうかしていられないって事だ」
総司が苦笑いしてそれに応じたが、美幸は余裕の笑みで焼き魚をほぐしつつ答えた。
「その点、私は気が楽だわ~。まだ暫くは新人気分でいられるわよね。そうそう二課に、好き好んで新人が入って来るわけ無いもの。それに瀬上さんと仲原さんの二人が入ったのはイレギュラーだったけど、それで随分楽になったって皆が言っているから、至急で人員が補充される用件も無いし」
そう言って魚とご飯を交互に口に運び、美味しそうに食べる美幸を見て、晴香は思わず溜め息を吐いた。
「……自分の所属先が、社内で人気が無いって公言するのはどうかと思うんだけど?」
「事実だし。別に問題は無いと思うけど?」
「新人配置はともかく……、お前の所は課長の産休突入後が問題じゃないのか?」
総司がそんな懸念を口にした途端、美幸は激しく同意した。
「あ、そうそう! それは私も気になっているのよ。谷山部長が未だにはっきりした事を言わなくて!」
「ふぅん? まだ時間はあるけど、ちょっと変よね」
「晴香もそう思うよね!? 桑原君はどう思う?」
怪訝そうな晴香から視線を移した美幸は勢い込んで尋ねたが、対する総司は少し困った顔をしてから、横に座る隆に声をかけた。
「まあ、そこは俺も解せないがな。……どっちかと言うとお前の態度の方が変だぞ、隆。さっきから黙りこくってどうした?」
「あ、ああ……、悪い」
促されて短く謝罪の言葉を口にした隆に、美幸と晴香は話を止めてキョトンとした顔を向けた。そんな中、隆が思い詰めた表情で美幸に話し掛ける。
「その……、藤宮?」
「何?」
「今度の日曜空いてるか?」
唐突に隆が口にした誘いの言葉に、晴香と総司は半ば呆れた。
(おいおい……、そう言う話は二人っきりの所でしろよ。状況判断もできない位、煮詰まっているのか?)
(最近、幾ら美幸と顔を合わせる事が少なかったにしても、どうかと思うわよ?)
そして続く美幸の返答を聞いて、三人揃って見事に固まった。
「日曜は空いてないわね。係長にスイーツを奢って貰う約束だから」
何気なくそう答えて食事を続行している美幸を見て、三人は殆ど無意識に声を発した。
「……は?」
「係長って……、あの城崎さん?」
「どうしてスイーツ?」
それらの疑問に、美幸が律儀に答える。
「バレンタインにチョコをあげたら、義理堅く『お返しをするから』って言われて。気にしないで下さいって言ったんだけど」
食べる合間に何でも無い事の様に美幸が告げたが、隆は血相を変えて椅子から腰を浮かせつつ問い質した。
「おいっ! 藤宮! お前、義理チョコは配らないって言ってたのに、どうしてあの人には渡してるんだよ!?」
「どうして怒るのよ? だって係長に渡したのは義理チョコじゃなくて感謝チョコだし。別に変じゃ無いでしょ?」
隆の咎める様な口調に、些か気分を害しながら美幸が主張すると、それを聞いた晴香と総司が揃って項垂れた。
「本命チョコじゃ無い事は分かったけど……、あんたの基準ってどうなってるの?」
「最近お前と言う人間が、益々分からなくなって来たな……」
「何よ、その言い方。失礼ね」
腹を立てながら美幸は食事を続行し、総司に小声で宥められた隆も取り敢えず椅子に座り直して再度食べ始めたが、慎重に美幸の様子を窺っていた。
そんな事があった週の次の日曜日。何となく城崎に言いくるめられた感があった美幸は、何となく釈然としない気持ちを抱えながらも午後に指定された店に出向いた。
美幸の都合を考えてか、最寄り駅が自宅から電車で二駅しか離れていないその店に入ると、先に来て待ち構えていた城崎が軽く手を上げる。そこでそのテーブルに出向き、向かい合わせの席に座ると、早速城崎が申し訳無さそうに軽く頭を下げてきた。
「すまなかったな。休日に呼び出す事になって。何でも好きな物を頼んで良いから」
「こちらこそ恐縮です。家に近い所を選んで貰ったんですよね? それに大したチョコを渡した訳じゃ無いのに、ホワイトディのお返し代わりに奢って貰う事になって。いつもお世話になってるお返しに差し上げたつもりだったので、別に見返りは期待していなかったんですが……」
差し出されたメニューを受け取りつつ美幸が恐縮気味に述べると、何故か城崎が、どことなく歯切れ悪く応じる。
「それは俺も分かってはいたがな……。ちょっと折り入って、話したい事もあったから」
「そうですか。それでは今日は遠慮無くご馳走になります」
そう言って自分自身を納得させながら美幸がメニューを開くと、城崎はあからさまにホッとした表情になった。その様子をメニュー越しにチラチラと窺いながら、美幸は密かに考え込む。
(折り入っての話って何かしら? 仕事の話だったら職場でできると思うし、部下の私に込み入った相談って言うのも、有り得ないわよねぇ?)
この場に城崎の事情を把握している二課の面々、特に日頃から美幸のフォローに回っている高須がその考えを聞いたなら(お前、少しは察しろよ!)と盛大に怒鳴りつけそうだったが、周囲に見知った人間は存在せず、二人は傍目にはデート中のカップルだった。そして注文を済ませて当たり障りの無い世間話などをしているうちに、ウエイトレスによって頼んだ品物がテーブルに並べられる。
「うふふ、美味しそう。いただきま~す」
早速長いスプーンを取り上げ、上機嫌でミルクプリンイチゴパフェ攻略に取り掛かった美幸を見て、城崎が思わずと言った感じで微笑みつつ口を開いた。
「随分食べ応えがありそうだな」
「……からかってるんですか?」
ちょっとムッとしながら見返した美幸に、城崎は苦笑いしながら軽く手を振って見せた。
「いや、そうじゃない。ちょっと羨ましくてな」
「はい?」
当惑した声を上げた美幸に、城崎は苦笑いしたままクレープシュゼットにナイフを入れつつ問いを発した。
「やっぱり大の男がパフェを頼んだら引かれるだろう?」
言われた内容を頭の中で考えた美幸は、手を止めたまま怪訝な顔で正直に思うところを述べた。
「……食べたいなら注文すれば良いかと思いますが?」
「人目が気になって、落ち着いて食べられないんだ。第三者的に見ると、男でもケーキの類なら頼んでもセーフらしいが」
淡々と述べた城崎に、美幸が釈然としない顔付きで尋ねる。
「そういう物ですか?」
「どうやらそうらしい。第一、俺には似合わないだろう? 試してみる勇気も無くてな」
そこで城崎がパフェを食べている絵を想像してみた美幸は、思わず素直な感想を漏らした。
「それは確かに、似合わないかもしれませんが……」
「正直だな」
「……すみません」
「怒っているわけでは無いから」
城崎は笑いを堪える表情でクレープを食べつつ珈琲を味わっていたが、自分の失言を悟った美幸は、心の中で誰とも分からない人間に八つ当たりした。
(そんなの人の勝手だと思うんだけど。別に大の男がパフェを食べたって、構わないじゃない。周囲にどんな迷惑をかけるって言うのよ? 誰よ、そんなくだらない事係長に吹き込んだのは?)
そんな事を考えながら黙々とスプーンを動かしていた美幸だったが、三分の一程を食べた所で、同様に静かに食べていた城崎が、ナイフとフォークを置いて徐に声をかけてきた。
「それで……、話と言うのはだな……」
「はい」
思わず美幸も手の動きを止めて城崎に視線を合わせたが、何故か城崎は再び黙り込んで俯き加減になった。そして美幸が(係長、どうしたのかしら?)と不審に思って声をかけようとした所で、城崎が声を絞り出す様にして話し出す。
「……最近、考えれば考える程、嫌な予感しかしなくてな」
「はい?」
いきなり深刻そうな口調でそう告げられ、正直美幸は面食らったが、城崎は口に出し始めたら色々吹っ切れたらしく、顔を上げてサクサクと話を進めた。
「以前話しただろう? これまで俺が課長の結婚相手に、仕事上の情報を色々流していた事を」
「ええ、確かに。その方は係長の大学時代の先輩で、仕事上で色々便宜を図って貰っていたとも聞きましたが」
「それが今年に入ってから今まで以上に頻繁、且つ広範囲に根掘り葉掘り聞いてくる様になって。今ではニ課が係わっている業務の、ほぼ全ての情報や資料を渡している状態なんだ。最近では何だかんだと、連絡を取って来る日の方が多くなっていて」
真顔でそんな事を打ち明けられ、美幸は思わず顔を引き攣らせた。
「係長……、幾ら相手が課長のご主人でも、そんな事をして良いんですか?」
「俺も正直どうかとは思うが、昔も今も、俺に拒否権は一切無い」
「はぁ、そうですか。事情は分かりませんが、何だか大変そうですね」
「何で今頃になってこんなに目に。あの人が卒業して、俺の暗黒時代は三年間で終焉を迎えたと、心の底から喜んだのに……」
相槌を打った美幸の台詞を聞いているのかいないのか、いきなりテーブルに両肘を付き、両手で頭を抱えて呻いた城崎を見て、美幸は益々疑問を深めた。
(何なのかしら? 課長の結婚相手が係長のトラウマっぽいのはもの凄く良く分かったけど……、それが私と何の関係があるのかしら?)
「あの……、係長?」
このままだと話が進まないと思った美幸が控え目に声をかけてみると、城崎はすぐに気を取り直して頭を上げた。
「ああ、すまん。それで……、さっき言った様にあの人がニ課の業務内容について事細かく尋ねてくるのは、考えれば考えるほど、課長の産休中の体制について何か企んでいる様にしか思えなくなってきたんだ」
「何ですか、それは?」
「陰で動いて社内人事に首を突っ込んで、変な人間を二課に押し込んで来る様な気が」
「何ですって!?」
最初眉を寄せただけの美幸だったが、ここで思わず声を荒げた。それを慌てて城崎が宥める。
「あ、いや、すまん。言い方が悪かった。あの人が課長の職場を引っ掻き回す筈は無いから、変な人間を押し込む事は万が一にも無いと思うが……。どちらにしても来年度は荒れそうな予感がして。それで職場で波風が立つ前、落ち着いて話をするのは今のうちかと思ったから……」
そう言って溜め息を吐いた城崎だったが、それを聞いた美幸は疑わしそうに問いを発した。
「落ち着いて話を、って。あの……、じゃあひょっとして、今の話って、まだ前振りなんですか?」
「……ああ」
(前振り段階で、充分とんでもない話なんだけど)
思わず頭を抱えたくなった美幸の前で城崎は口調を改め、落ち着き払った口調で話を続けた。
「それで……、今更こういう事を言うのも気が引けるんだが……、実は俺が君と初めて顔を合わせたのは、入社してからじゃ無いんだ」
「え? 入社試験の時は別会場だし……、面接の為に来社した時に、お会いしていましたか?」
「いや、そうじゃなくて……、君が高一の時に顔を合わせたのが最初だ」
「高一の時? でも係長はその頃既に、柏木産業で働いていましたよね? どこかで接点が有りましたか?」
益々怪訝な顔になって首を傾げた美幸に、城崎は小さく溜め息を吐いて核心に触れた。
「学校からの帰り道、盗撮犯と遭遇して追いかけて、そこで課長が助けただろう?」
「はい、そうですけど」
「当時、同じ職場の先輩だった課長に同行して、俺もその場に居合わせたんだ」
「…………はい?」
言われた意味が咄嗟に理解できず、美幸は真顔で問い返した。その反応を予め予想していた城崎は、気を悪くする事無く冷静に補足説明をする。
「課長の指示で駅員を呼びに行ったから、課長が華々しく盗撮犯をぶちのめした所は目にしていないんだが。一応駅員を連れて戻って来てから、君に軽く挨拶もしたし」
「えっと……、あの、その節はどうも……」
かなり間抜けな顔で殆ど無意識に礼を述べた美幸を、城崎は困った様な表情で宥めた。
「ああ、いいから。俺の事は眼中に無かったのは分かってるし。課長にも余計な事は言わない様に、お願いしておいたから」
「……重ね重ね、申し訳ありません」
(ううう嘘っ!? なんで? どうして? こんな如何にも隠密行動に不向きな、存在感の有り過ぎる人を見逃すわけ!? 確かに課長の勇姿に感動してたけど、有りえないでしょうがっ!!)
軽く頭を下げた状態で、美幸は自分自身を心の中で叱り付けた。しかし城崎の言葉で弾かれた様に頭を上げる。
「それで、実はその時に、俺は君に一目惚れして」
「は?」
「ただ、常識的に考えて、かなり年下の女子高生の所在を調べてどうこうしようとまでは考えなかったから、それきりになってたんだが」
「そっ、そうですよね。係長、どこからどうみても常識的な方ですし」
(ちょ、ちょっと待って。なんか今、サラッと重大な事を言われた気がするんだけど)
反射的に顔を上げ、愛想笑いを浮かべながら美幸は混乱する頭の中を必死に纏めようとしたが、狼狽しまくっている美幸には構わず、城崎は冷静に話を続けた。
「それで二課に配属になった時に、一目で君があの時の子だと分かったんだが、俺の事は微塵も記憶に無かったみたいだし、加えて課長に心酔してて迂闊に声をかける気分になれなかったし。一応職場の直属の上司と部下の関係だから、下手に交際を申し込んでも仕事一直線の君からしたら迷惑千万で、ひょっとしたらセクハラパワハラモラハラ規定に抵触するんじゃないかと、色々考え始めたらキリが無くて」
「は、はぁ……、なるほど。言われてみればそうかもしれませんね……」
(そうか、社内恋愛ってそういう問題が発生する場合もあるんだ……、係長って人知れず結構悩みが多い……って、問題はそこじゃなくてねっ!!)
しみじみと納得しかけて、思わず自分自身に美幸が突っ込みを入れていると、城崎が盛大に溜め息を吐いてから心情を吐露した。
「加えて、君が入ってから、大小含めて実に色々な事が有り過ぎて。それにまさか白鳥先輩が君の義兄になっていたなんて……。落ち着いて現状をどう打破しようかと考える心のゆとりが、正直この一年近く無かったんだ」
「……ご苦労様です」
(何か物凄く、係長に心理的負担を与えてきた罪悪感がひしひしと……。流石に全部が全部、私のせいじゃないとは思うけど。なんか課長のご主人に加えて、秀明お義兄さんまで係長のトラウマっぽいけど、どうしてなの?)
混乱に拍車がかかった美幸に向かって、城崎が更にとどめを刺した。
「それで、取り敢えず、俺が君の事を以前から好きな事だけは言っておこうかと」
「えっと……」
「ああ、でも付き合ってくれどうこうは、まだ言うつもりは無いし」
「はい?」
相手の言っている内容が理解できなかった美幸は固まったが、城崎は真顔で確認を入れてきた。
「まだ仕事が楽しくて仕方が無い時期だろうし、正直まだ恋愛云々をまともに考えるつもりは無いだろう?」
「確かにそうですが……」
「だから、ここで無理強いしたりして、君が職場で変に意識して、居づらくなったりするのは避けたいから。君は立派な二課の戦力だし」
「ありがとうございます」
その評価は素直に嬉しかった為頭を下げた美幸に、城崎は軽く笑いながら話を締めくくった。
「そういうわけで、俺との事をまともに考えてくれる状況や心境になったらしいと判断したら、その時は改めて口説く事にするから。一応それだけ覚えておいてくれたら嬉しい」
「はぁ、分かりました」
「じゃあ、俺の話はこれで終了。だから明日以降も、今まで通り接してくれて構わないから。食べるのを中断させて悪かった。どんどん食べてくれ」
「そうさせて貰います」
そうして上機嫌に色々話しかけてくる城崎に殆ど無意識に言葉を返しつつ、美幸はパフェを完食し、レモンティーも飲み干した。その頃には既に城崎は食べ終えており、二人揃って立ち上がる。
「じゃあ、また明日」
「はい……、どうも御馳走様でした……」
そして支払いを終えた城崎が美幸を促して外へ出てから、あっさりと別れの言葉を口にして立ち去って行った。
(えっと……、私、所謂告白をされたとか? いやいや、そうじゃないでしょ。普通世間一般の告白って場合、『好きです、付き合って下さい』って言われて『宜しくお願いします』か『お断りします』とかのやり取りが有る筈で、今回は何か一方的に言われただけだし。『時期が来たら改めて口説く』って。意味分からないし、何、この言い逃げ状態!?)
茫然自失状態のまま城崎の背中を見送った美幸に、店から慌てて出てきた隆が顔色を変えてながら声をかけた。
「おい、藤宮! お前城崎さんと、何話してたんだよ!? まさか付き合ってくれとか何とか、交際を申し込まれてたとかじゃ無いよな!?」
どう考えても自分を尾行していただろうと分かるタイミングでの隆の登場だったが、美幸はそんな事には気にも留めないまま、殆ど無意識に言い返した。
「交際の申し込み? 申し込まれてはいないわよ……、うん、そう言う事はね」
「じゃあ、一体何を話してたんだよ? 何だか随分驚いてたみたいだったし」
「昔の、ちょっとした話……。だけど、私……、人の顔を覚える事に関しては、結構自信があったのに……」
道路の向こうを見据えながら淡々とそんな事を口にした美幸に、隆は怪訝に思いながらも同意する。
「あ、ああ、そうだよな。お前、百人から居る同期全員、初顔合わせの翌日には覚えていたみたいだし」
「何で綺麗さっぱり、視界と記憶から排除……、なんかもの凄いショック……。しかも何で一人だけすっきりした顔で、爽やかに帰っちゃうかな?」
ブツブツと美幸が小声で呟いている内容が良く分からないまでも、どうやら城崎とは単に奢って貰っただけらしいと判断した隆は密かに安堵しつつ、この機会を逃してたまるかと早速誘いの言葉を口にした。
「何だか良く分からないが……、あっさり別れていったし、本当に単にお返しに奢って貰っただけなんだよな。なあ、藤宮、これから俺とどこか行かないか? 夕飯も奢るし」
「帰る」
「え?」
ボソッと短く断られて、隆が思わず俯いていた美幸の顔を覗き込むと、美幸は勢い良く顔を上げて叫ぶように宣言した。
「頭冷やしながら帰るわ。それじゃあねっ!!」
そう叫ぶやいなや、美幸は「あ、ちょっと待て! 藤宮!?」と慌てて引き止めようとした隆には目もくれず、もの凄い勢いで歩道を駆け出した。そして地下鉄二駅分、プラス店舗と自宅、それぞれの最寄り駅への道のりを一気に走破した美幸は、玄関を上がって息を切らせてへたり込んだ所で、呆れ気味の長姉夫婦の出迎えを受けた。
「……美幸? 『係長とちょっとお茶して来る』と言って出掛けたのに、どうして全力疾走して帰って来るわけ?」
「まさかとは思うが、白昼堂々帰り道で城崎が送り狼にでもなって、逃げて来たのかい? この家に俺が居て、美幸ちゃんに下手なちょっかい出そうと考える程、命知らずな奴だとは思わなかったが」
「そうじゃ、無く……、それなら、即座に……、お断り、してる、し……」
上がり口でうずくまったまま切れ切れに否定してくる美幸に、秀明が益々怪訝な顔をする。
「それじゃあ、どうしたんだい?」
「お断り、する以前……、ちょっと、……頭、冷やそう、と、思っ……」
「それで頭は冷えたの?」
不思議そうに問い掛けた美子に、美幸は呻き声を上げた。
「余計……、訳が、分からなくなった……、かも」
「でしょうねぇ……」
「大丈夫かい? 美幸ちゃん」
「……多分」
怪訝な顔で自分を見下ろして互いの顔を見合わせた姉夫婦に、美幸は言葉少なに応じた。
そうして一晩色々考えた末、気合いを入れて出社した美幸を待っていたのは、昨日の二人で話した時の動揺など微塵も感じさせず、普段と全く変わらない様子で早々と仕事をしている城崎だった。
「おはよう、藤宮さん。今日も宜しく」
「……おはようございます」
自席で書類を捌きながら淡々と挨拶してきた城崎に、美幸の顔が傍目には分からない程度に引き攣る。
(だから! 人を動揺させるだけさせておいて、どうして自分だけ何事も無かったかの様に、朝早くから清々しく仕事をしてるんですか!?)
そう言って怒鳴りたかったのは山々だったが、前日の色々切羽詰まった様子の城崎の姿を思い返した美幸は、辛うじて押し黙った。
そんな波乱含みの美幸の入社二年目の春は、もうすぐそこまで来ていた。
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