猪娘の躍動人生

篠原皐月

2月 義理と感謝

 バレンタイン前日のその日、定時で仕事を終わらせた美幸は、同様に切り上げた城崎と高須と一緒に美野との待ち合わせ場所に向かった。既に帰り支度を済ませて一階ロビーで待っていた美野と合流し、駅ビルに向かって四人で歩き出したが、美幸から男二人が同行する旨をメールで連絡を受けていた美野が、歩きながら申し訳無さそうに軽く頭を下げる。


「すみません、城崎さん、高須さん。まさかこんなちょっとした買い物に、お付き合いして頂く事になるなんて……」
「いえ、お気遣いなく」
「俺達もこの駅は使ってますし、ついでですから気にしないで下さい」
 そう宥められてホッとした様な表情を見せた美野は、次に幾分心配そうな顔付きになって、美幸を振り返った。


「でも……、美幸。あなた職場で、そんなにトラブルを起こしているわけ? 同僚の人達に、こんなに心配されるなんて大丈夫なの?」
「…………」
 そんな事を真顔で心配され、男二人が無言を貫く中、カチンと来たらしい美幸が苛立たしげな声を上げた。


「あのね! 今回は半分以上は、美野姉さんのせいなのよ? そもそも姉さんがチョコを買うのに、私が付き合ってるんじゃない。何なの? その言い草!」
「あら、やっぱり美幸はチョコは配らない事にしたの?」
「そうだけど、今そんな話をして無いでしょ!? ほっといてよ!」
 放っておくと忽ちエスカレートしかねないやり取りに、ここで城崎が溜め息混じりに会話に割って入った。


「二人とも、ちょっと落ち着こうか。人目を引いているから」
「そうそう、せっかくだから楽しく買い物しよう」
「すみません……」
「分かりました……」
 高須にも宥められ、さすがに気まずくなったらしい姉妹が殊勝に頭を下げた。それからは気を取り直したのか、すぐに別な話題を持ち出して一見和やかに会話している二人の後ろ姿を見ながら、城崎が高須に囁きかける。


「……やっぱり付いて来て正解だったな」
「そうですね。美野さんに悪気は無いし、藤宮も面倒見は良い方だと思うんですが、どうしてこう揉めるかな」
「まあ、仲裁すればこじれないですぐに仲良くしてるし、良いんじゃないか?」
「そうですね。例の件で和解してからは、基本的にどちらも後を引きずってはいないみたいですし」
 城崎達はどちらからともなく苦笑いし、美幸達の後に付いて歩いて行った。そして駅ビルに到達し、赤やピンクの色調が溢れるフロアの一角に到着した所で、別行動をする事になった。


「さてと、じゃあ行きましょうか」
「藤宮、俺達はここで待っていても良いか? ここなら特設会場全体が見えるし、女性ばかりの中に分け入って行くのは、正直気が引ける」
 勢い込んで特設会場に足を踏み入れようとした時に、苦笑しながら言われた内容に、美幸は思わず会場を見回して納得した。


「……それもそうですね」
「申し訳ありませんが、少し待っていて頂けますか?」
 恐縮気味に美野も言葉を重ねてきた為、高須が笑って応じる。


「大丈夫ですよ。でも何か有ったらすぐに教えて下さい。押し売りとかスリとかが居るかもしれませんし」
「そんな大袈裟な」
 一笑に付した美幸だったが、万事慎重な美野は真顔で頷いた。


「でも、確かにどこでどんな危険があるか分からないわよ? 高須さん、その時は宜しくお願いしますね?」
「はい、気をつけて」
 そして美幸達を笑顔で見送り、その姿を視界に収めながら、男二人は苦笑いした。


「見る限り、平和そのものだな。理彩がこじつけた危険性とやらがアホらしいぞ。……さて、頃合いを見て、別れて食事にでも行くか?」
 随分気が緩んでいるのか、元カノの理彩の名前を呼び捨てにした城崎だったが、高須はわざわざそれを指摘してからかう様な真似はせず、幾分困った様な表情で応じた。


「俺的には、是非ともそうさせて貰いたい所ですが……。どういう風に別れますか?」
「それは俺がどうとでもするから、臨機応変に話を合わせてくれ。あと、連れて行く適当な店を考えておくんだな」
「ありがとうございます。お願いします」
 男二人でそんな風に話が纏まり、幾つかのやり取りを済ませた所で、会場を巡っていた二人が元の位置まで戻って来たのを認めた。


「一通り見終わったみたいだな」
「しかし、本当に各店、気合いを入れて色々出して来ますよね」
「そりゃあ、年間のチョコの売上の何割かをこの時期に売り上げるわけだからな」
 そんな軽口を叩きつつ彼女達の動きを目で追っていた二人だったが、なかなか戻って来ない理由を悟った高須が、困惑気味の表情を城崎に向けた。


「係長……、気に入った物を買いに戻ったのかと思ったら、二巡目みたいですね」
「あの美野さんなら、色々目移りして迷うだろうって事は、ある程度想像していたしな」
「そうですね」
 そこまでは余裕で静観していた二人だったが、更に時間が経過してから、高須が疲れた様に報告した。


「……係長、あの二人、三巡し終えたみたいです」
「しかも何やら揉めているな。行くぞ」
「はい」
 ガラスケースに挟まれた広いとまでは言えないスペースを塞ぐ様に立ち止まり、何やら言い合いをしている姉妹の元に城崎と高須は早足に近付き、声をかけた。


「こら、二人とも、こんな所で揉めるな。他のお客の迷惑だろう」
「それはそうですが、姉さんが」
「一体どうしたんですか?」
 弁解しかけた美幸の台詞を遮り、高須が気遣わしげに尋ねると、美野は恐縮気味に事情を説明した。


「その……、どれを買うか私がなかなか決められなくて迷っていたら、美幸が怒り出しまして」
「当然でしょう!? たかがチョコの一つや二つでそんなに迷うなんて馬鹿らしいわ。さっさと『向こうからここまで全部一つずつ下さい』って言いなさいよ!」
「美幸、幾ら何でも乱暴な。それにそんな事をしたら、お金の無駄使いじゃない」
「姉さんは時間と労力を浪費しているわよ! その挙げ句に買わないなんて事になったら、アホらしいでしょうが!」
「買うわよ。買うからこうやって悩んでいるんじゃない」
(確かに、二人の性格の違いからすると、こういう揉め方をする可能性はあったよな……)
 思わず遠い目をしながら言い合う姉妹を見やった城崎は、通行の邪魔になっている事と周囲の視線を集めている事に気付き、この場から離れる事にした。


「取り敢えず移動しよう。ここで揉めていると、他のお客の迷惑だ」
「分かりました」
 城崎がさり気なく周囲を見回しながら促すと、流石に周囲の状況に気が付いた二人は大人しく後に続いた。そして会場を出て駅構内に向かって歩きながら、美幸が不思議そうに問い掛ける。


「係長。これからどちらに?」
「電車で三駅移動する。美野さん、俺の知り合いの店に連れて行きますので、そこでチョコを選んで貰えますか? 味と品質は保証します。その分、少々値は張りますが」
「ええ、それは構いませんが……、何処でしょう?」
 歩きながら素直に了承した美野に、城崎が淡々と説明した。


「《ル・ショコラ・ドゥ・ソレイユ》と言う名前の、チョコレート専門店です。店長が俺の大学時代の先輩で、御主人と共にショコラティエなんです」
 その店名を聞いた美幸と美野が、怪訝な顔で考え込む。


「そのお店の名前って、どこかで……」
「聞いた事、あるわよね……」
 姉妹で顔を見合わせてから答えを求める様に揃って自分に顔を向けてきた為、城崎は微笑しながら付け加えた。


「五年ほど前に開店する時、大学時代に所属していたサークルのメンバーに先輩が案内状を送った筈だから、白鳥先輩も買った事があると思うんだが……」
 そこで義兄の旧姓を耳にした二人は、揃って記憶を呼び起こされたらしく、同時に手を打ち合わせた。


「思い出した! 通販とか一般的な宣伝とか、一切やってないお店ですよね?」
「包装とかにも店名とかロゴとかが入っていなくて、中に店名が記載されたカードだけ、入っていた記憶があります」
「凄くおいしかったから友達と一緒に買いに行こうと思ったけど、お義兄さんが店の場所を教えてくれなくて」
「私もよ。カードにも住所や電話番号とかの類が、一切書いて無かったのよね」
 話をしているうちにホームに降りていた一同が、目の前にやって来た電車に乗り込むと、城崎は苦笑しながら説明を続けた。


「実は、あそこは夫婦揃って変人で、客を選ぶと言うか何と言うか……。幾ら儲けが多くなっても、騒々しい客に来て欲しくないとかで、下手な人に紹介しない様に口止めして売っていてね。信用のある客の口コミだけで、徐々に客を増やしているんだ」
「よくそれで、経営が成り立ってますね」
 心底呆れた口調で口を挟んだ高須に、城崎は小さく肩を竦めて見せた。


「顧客を厳選している分、金に糸目を付けない人間が揃ってるみたいだな。勿論商品も洗練されているが、経営上は先輩が上手く差配しているらしい。昔から色々、抜け目がない人だったからな」
「どちらかと言うと、俺はチョコよりその店のコンセプトと経営に興味がありますね。間違っても実家の家業では、仕事や顧客を選べる様な贅沢な環境ではありませんから」
「それは俺も同感だな。今度先輩に、コツでも聞いてみるか」
 男二人が苦笑しながらそんな事を言い合っている間、黙って何やら考え込んでいた二人は、些か気分を害した様に口を開いた。


「……それって、要するにあれですか? 私達が騒々しいって事ですか?」
「だから秀明お義兄さんに、お店の場所を教えて貰えなかったんでしょうか?」
 そこで城崎は困った様に、言葉を選びながら話を続けた。


「一概にそうだとは言えないが、確かに若い女性は滅多に入っていないな。圧倒的に男性客が多い筈だ」
「え? どうしてですか?」
「チョコレート専門店ですよね? 普通だったら、女性客がターゲットだと思いますが」
「先輩達が……、金払いが良くて、それなりに社会的地位があって、隠れ甘党をターゲットにして積極的に営業をかけた結果だ。実際、店に行けば分かる」
「…………」
 そこで微妙に視線を逸らした城崎を(それってどうなんだろう?)と女二人は訝しげに見やり、高須は無難にコメントする事を避けた。
 それからは当たり障りの無い会話をしながら数分過ごし、最寄り駅に降りて構内を抜けて地上に出て、何分も歩かないうちに城崎が足を止めた。


「ここだ」
 周囲は落ち着いた低層マンションが並ぶ住宅地の一角であり、城崎が示したドアの場所も五階建てマンションの一階だった。敷地面積は十分広いらしく、横幅も奥行きも相当な事が見て取れるが、一般的な店舗とはかなり趣が異なるそれに、同行者は揃って疑問の声を上げた。


「あの……、見事に看板の一つも出ていませんが」
「普通外から店内が見える様にガラス張りなのに、出入口の他は一面壁だし」
「確かに、興味本位の客は入りそうにありませんね」
 そんな感想は予め予想していた城崎は、小さく笑っただけで真っ直ぐドアへと進んだ。


「じゃあ入るぞ」
 そう言って左右に開いた自動ドアを抜けて城崎が店内に足を踏み入れると、即座に落ち着いた声がかけられた。


「いらっしゃいませ。……あら、城崎、久しぶり。それに両手に花なんて隅に置けないわね」
 茶化す様にウインクして来た三十代半ばの、薄化粧ながらキリッとした顔立ちの人目を惹く女性に、城崎は苦笑いしながら挨拶を返した。


「お久しぶりです、富川先輩。今日はお客を連れて来ました」
「城崎推薦なら、変な客じゃ無いわね。大歓迎よ」
「ありがとうございます。美野さん、ここなら客でごった返す事は無いので、周囲を気にせずゆっくり選べますから」
 城崎が苦笑を深めて説明すると、美野は早速瞳を輝かせながら一口サイズのチョコやミニケーキがずらりと並ぶガラスケースの中に見入った。


「凄い……、全部で何種類有るの?」
 その呟きを耳にした店長のネームプレートを付けたその女性は、黒のブラウスとスカートの上に白のエプロンを着けた姿でケースの横を回り込み、美野に穏やかに笑いかけた。


「ようこそいらっしゃいました。お好きなだけご覧になって下さい。言って頂ければ試食の品もお出ししますので、遠慮なく声をかけて下さい」
「ありがとうございます」
 笑顔で早速順に見始めた美野から美幸に視線を移した城崎は、店の奥へと続く通路を指差しながら、提案した。


「じゃあ美野さんが選び終わるまで時間がかかりそうだから、俺達は奥のカフェで待っているか?」
「カフェが有るんですか?」
「ああ。ここの商品も食べられる」
 その説明に、美幸は笑って頷いた。


「それならカフェに行ってます。姉さん、ゆっくり選んでいて構わないから」
「分かったわ」
「あ、俺はここで見ています。こういう店に入ったのは初めてで、色々興味深いので」
「じゃあ二人で行っているから」
 美幸が素早く食べたいチョコを指定し、本当に興味深そうに店内を見回している高須に断りを入れてから、二人は奥へと進んだ。そして左右に開けた空間に足を踏み入れると、表側とは逆に一面ガラス張りになった向こうに、所々ライトアップされた日本庭園が見えた為、美幸は本気で驚いた。


「うわ……、奥は表とは随分趣が違いますね」
 静かなクラシック音楽が流れる中、間接照明でぼんやりと明るい室内をさり気なく見渡して見れば、バラバラに座っている四人の客に全員見覚えがあり、美幸は思わず目を見張った。


「どうだ、穴場だろう?」
「はい。しかも……、お客さんが全員、見覚えが有るような無いような……」
(本の著者近影でしか見た事無いけど、確かあの人、文壇の大御所だし、あの人どう見ても国会議員……。一人で、こんな所に来ちゃって良いの? それに演歌歌手に、プロ野球選手……、だよね?)
 囁いてきた城崎に美幸も声を潜めて応じると、城崎は椅子を勧めながら笑って言い聞かせた。


「こういう隠れ家的な場所では、お互いに見てみぬふりをするのが礼儀だから」
「そうします。友達に教えたいですけど……、確かに雰囲気ぶち壊しの人間が乗り込んで来たら、周りの迷惑ですよね。我慢します」
「そうしてくれ」
 その時初老の男性が飲み物の注文を取りに来た為、二人で珈琲を頼んでから、ふと気になった事を美幸が口にした。


「そう言えば……、ここに来る途中で、あの美人店長さんが係長の大学時代のサークルの先輩って言っていましたよね。でも係長って以前、大学時代は《武道愛好会》に所属していたとかなんとか言ってませんでした?」
「それで間違いじゃない」
「じゃあ店長さんって、そこのマネージャーか何かされてたんですか?」
「……まあ、そんなところだ」
 微妙に口ごもりつつ城崎が答えたが、ここでトレー片手に現れた話題の主が、城崎の台詞を一刀両断した。


「こら、城崎。何、大嘘吹き込んでるのよ。相変わらず性格と根性は悪くないけど、往生際が悪いわね」
「…………」
 最悪のタイミングでの登場に、城崎が反論を諦めて黙り込むと、彼女は美幸に「お待たせしました」と愛想を振り撒きつつ目の前にチョコが盛られた皿を置き、悪戯っぽく笑いながら事実を暴露した。


「城崎はね、大学在学中、私の下僕だったの。同好会入会直後に私の跳び蹴りを顎にまともに食らって、ぶっ倒れて脳震盪を起こしてね。その時、『人を見かけで判断しては駄目だ』と言う、ありがたい教訓を得たのよね? ねぇ、城崎?」
(跳び蹴り……、どうやったらそんな事が可能なの?)
 先ほどショーケース越しに二人が立っていた光景を思い返し、身長差20センチ強、体格は言うに及ばずのスレンダーな女性を見上げて美幸は本気で首を捻ったが、当時を思い返したのか、城崎が幾分身体を小さくしながら軽く頭を下げた。


「……その節は、色々と御教授をありがとうございました」
「あら、素直になったわね。それとも可愛い彼女の前だからかしら? はい、それじゃあいつもの奴ね」
 そして城崎の前にも皿を置いた彼女は、「どうぞごゆっくり」と言ってからコロコロと笑いながら店の方に戻って行った。その背中を見送った美幸は、城崎に視線を戻してからしみじみと呟く。


「……本当に、人は見かけによりませんね」
「ああ、それにあの人は、人使いが荒くてな」
「店長さんもそうですけど、係長もここに結構いらしてるんですよね? 係長はお店で特に注文しなかったのに、さっき店長さんが『いつもの』って言って、普通に置いて行きましたし」
 その指摘に、城崎は思わず苦笑いした。


「そっちの方か。確かに、この図体で甘い物好きと言うのは似合わないだろうな」
「そんな事ありませんよ。それに係長は何処でも食べる訳じゃなくて、こういう落ち着いた雰囲気の店限定だと思いますし。係長の雰囲気に合ってて、逆に納得できます」
「そうか。ありがとう」
 多少ムキになって反論すると、城崎が僅かに照れくさそうな表情になりながら、静かにカップを口に運ぶ。そして周りの客同様、チョコと店内の雰囲気を静かに堪能しているのを見ながら、美幸は改めて思った。


(うん、やっぱり係長に似合うよね、このお店。それにこれ、本当に美味しいし。連れて来てくれた係長に感謝しないと)
 そんな事を考えながらほぼ食べ終えた所で、漸く美野と高須が美幸達のテーブルにやって来た。


「お待たせしました」
「ああ、終わったか」
「はい、今美野さんが頼んだ物を包装して貰っていますが、俺も少し味わいたくなりまして」
「私は結構試食させて貰ったんですが、違う物をもう少し食べたくなって」
 幾分照れくさそうに述べた高須と美野に、美幸は思わず笑ってしまった。


「美野姉さんったら、結構欲張りだったのね」
「だって、本当に美味しいんだもの」
 そしてカフェには二人掛けのテーブルだけの為、美幸達の隣のテーブルに落ち着くと、入れ替わりに美幸が立ち上がった。


「すみません、電話をかける所があるのを思い出しました。ちょっと店の外で電話をかけて来ますので」
「ああ、分かった」
 そうして店舗スペースに戻った美幸だったが、そのまま表には出ずに、カウンターの内側に声をかけた。


「あの……、すみません」
「はい、何でしょうか?」
 明るい笑顔を振り撒く相手に、美幸は奥のカフェにまで声が響かない様に、小声で尋ねた。


「その……、係長はここの常連みたいですけど、好みとかはご存じですか?」
「はい。顧客データは五百人分程度は頭に入れてますから。購入履歴も把握していますし」
(五百人分……、さすが係長の先輩。それに係長が言ってた通り、ある意味変人かも)
 そんな事を事も無げに言われた美幸は、内心で舌を巻いた。


「えっと、それならお願いがあるんですが……」
 取り敢えず頭の中に浮かんだ内容は綺麗に封印し、美幸は手早く依頼内容を伝えて再びカフェへと戻った。
 そして美幸が戻るのとほぼ同時に、城崎が立ち上がった。


「それじゃあ俺達は先に出るか。高須と美野さんはまだ食べ始めたばかりだから、もう少しゆっくりしていてもいいだろう」
「あ、そうですね。そちらはもうお済みでしょうから、お引き留めするのも申し訳ありませんし。今日は素敵なお店を紹介して頂いて、ありがとうございました」
 立ち上がって頭を下げた美野に、城崎は笑って頷いた。


「いえ、納得がいく買い物が出来たなら良かったです。じゃあ藤宮、一足先に帰るか。送って行くから」
「はい。じゃあ姉さん、後でね」
 そこで二手に別れたものの、店のカウンターで会計をどうするか城崎と美幸の間で一悶着あったが、最終的に「俺がカフェの方に誘ったんだから」と城崎が押し切り、奢る事になった。


「じゃあ今のうちに、ちょっとお手洗いに言って来ます」
 そう断りを入れた美幸がカフェとは別方向の通路に入ると、会計を他の店員に任せた店長が奥から姿を現し、小さな紙袋を手渡される。


「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます」
 その場で代金を渡し、受け取った品物を鞄にしまい込んだ美幸は、何食わぬ顔で城崎の元に戻り、店を出て通りを歩き出した。


「さて、このまま帰るのもな。何か食べて行くか?」
 その問い掛けに、美幸が多少考え込む。
「そうですね……。普段歩かないエリアに来ましたから、食べて行くのも有りですかね。この近辺で、係長おすすめの店とかあります?」
「和食とイタリアンと中華だったらどこが良い?」
「チョコを食べた後なので、和食でしょうか?」
 真顔でそう告げた美幸に、城崎が小さく笑った。


「理由になっていない気がするが……、じゃあこっちだ」
「はい。じゃあ食べて帰る事を、家に連絡しますね」
(やっぱり係長って、大人で何事に関してもそつがないわよね……)
 城崎に対してそんな事を再認識しながら二人で食事を済ませ、美幸は気分良く帰宅した。


 その翌朝、始業時間間際になって、何故か企画推進部の部屋に紙袋を提げた美野が姿を現した。


「おはようございます」
「え? 姉さん、どうしたの?」
「おはようございます。美野さん、朝からどうかしましたか?」
 怪訝な顔で美幸や城崎が声をかけると、美野は清々しい笑顔で紙袋から小さな箱を取り出し、声をかけながら手早く相手の机の上にそれを乗せて歩いた。


「はい、皆さんにチョコを差し上げたくて、持参しました。どうぞお受け取り下さい、城崎さん、瀬上さん、高須さん」
「え?」
「あの……」
「これはどういう……」
 男達が戸惑った視線を向けたが、美野は悪びれない笑顔のまま説明した。


「はい。以前私が纏わり付いてご迷惑おかけした上、年の近い皆さんには、特に美幸がお世話になっていると思いましたので。仲原さんも、宜しかったら召し上がって下さい」
「……どうも」
 続けて受け取った理彩が微妙な表情で礼を述べると、そこまで傍観していた美幸が盛大に噛み付いた。


「ちょっと姉さん! 義理チョコは法務部の皆さんに配るんじゃ無かったの? 昨日どれだけ買ったのよ」
「買ったのは法務部の皆さんの分だけよ? これは手作りだもの。だって『義理チョコ』じゃなくて『感謝チョコ』だし。お父さんやお義兄さん達に渡すのと同じ、感謝の気持ちを込めて作るのが道理でしょう?」
「あのね……」
 キョトンとして見返してくる姉に、美幸はプルプルと握り拳を震わせて呻いた。そんな美幸の心情を逆撫でする如く、美野がスタスタと課長席に歩み寄り、真澄に向かって一礼してから同様の箱を差し出す。


「そう言う訳ですので、柏木課長も宜しかったらお受け取り下さい。就職の際には口を利いて頂いてありがとうございました。柏木課長の顔を潰さない様に、精一杯これからも務めますので」
「……それはどうも、ご丁寧にありがとうございます」
 ここで露骨に拒否する事もできずに真澄が受け取ると、美幸が先程以上に吠えた。


「あぁぁぁっ!! ちょっと姉さん! 何抜け駆けして課長にチョコを渡してるのよっ!?」
「別に抜け駆けしたわけじゃ無いわよ? これは義理チョコじゃないし」
「そんな理屈が通ると、本気で思ってるわけ? 私が涙を飲んで、課長に義理チョコを渡すのを諦めたって言うのにぃぃっ!!」
「ちょっと待て! 落ち着け、藤宮」
「さ、さぁ、美野さん、そろそろ法務部に戻らないと。もうすぐ始業時間ですし」
 まさに美幸が美野に掴みかかる一歩手前の状態で城崎と高須が駆け寄って二人を引き剥がし、高須が美野を法務部に送り届け、城崎は始業時間までの僅かな時間で美幸を落ち着かせる為に多大な苦労をする羽目になった。


 その日一日、不機嫌なまま過ごした美幸は、しなくても良い残業をして職場に残っていた。そして作成した書類を纏めて城崎に提出すると、ざっと目を通した城崎がそれを机に置き、立ち上がりながら有無を言わさぬ口調で美幸に告げた。


「取り敢えず、今日はもう良いだろう。帰るぞ」
「いえ、もう少し」
「急ぎの仕事は無いし、集中出来ない状態で残業しても効率が悪い」
「集中してますが」
「そういう台詞は変換ミス三カ所、書類の揃え間違い、単位の取り違えが皆無な仕事をしてから口にしろ」
「……申し訳ありません」
 提出したばかりの書類の内容を淡々と指摘された美幸は、面目なさげに俯いた。それに苦笑した城崎は他の課で残業中の人間に軽く挨拶し、美幸を伴って部屋を出る。そして廊下を進みながら、一歩後ろを歩く美幸に声をかけた。


「少し遅くなったし、夕飯でも食べて行くかと言いたい所だが……、今日はこのまま帰った方が良いだろうな」
「どうしてですか。食べていっても全然支障ありませんけど」
「ありまくりだろう。家に帰りたくないから残業するなんて、もっての外だ」
「…………」
 鋭く指摘されて黙り込んだ美幸に、城崎は溜め息を吐いてから困った様に言い聞かせた。


「美野さんだって悪気は無かっただろうし、帰りに呼びに来た時にすげなく追い返されて、気落ちして帰っただろう? 謝りたくて妹の帰りを待っているだろうから、今日は早く帰った方が良いな」
「……係長、意地悪です。私より姉さんの気持ち優先ですか?」
 幾分拗ねた様に美幸が応じたが、城崎は苦笑しながら言葉を重ねる。


「藤宮の方もちょっと冷たくし過ぎたかと、密かに反省している様に思えるんだが? こういうのは早ければ早いほど、しこりは残さないものだと思うがな。明日以降、気持ち良く過ごしたくないか?」
(確かに腹は立ったけど、これ位でいつまでも拗ねているのもね。たかがチョコだし……)
 そんな風に自分自身に言い聞かせた美幸は、顔を上げて城崎に告げた。


「分かりました。今日は帰って家で夕飯を食べます」
「その方が良いな。じゃあ駅まで一緒に行くか」
 そして再び歩き出した城崎だったが、すぐに美幸が呼び止めた。


「あの……、係長」
「どうした?」
 足を止めて振り向くと、美幸が自分の鞄から何やら取り出している所だった。そして手にしたそれを差し出された城崎は、当惑した顔を見せる。


「昨日のお店のチョコなんです。店長さんに係長の好みのチョコを選んで貰いましたので、良かったら食べて下さい」
「えっと……、どうして俺にくれるのかな?」
「係長にはいつも一番お世話になっていますし、良いお店を紹介して頂きましたし。でも係長だけに渡すのを見られたら他の皆さんにお世話になっていないみたいなので、どのみちこっそり渡そうと思っていたんです」
 冷静にそう告げた美幸に、城崎は再度確認を入れる。


「課長も貰っていないのに、俺が貰って良いのか?」
「課長には『義理チョコ』を渡そうと思って断念しましたが、元々係長には『感謝チョコ』は渡そうと思っていましたので」
 そう真顔で断言した美幸に、城崎は嬉しさ半分で考え込んだ。


(やっぱり姉妹だな。美野さんといい彼女といい、判断基準と思考回路が、今一つ理解できない……)
 しかし断る理由など存在する訳が無く、ありがたく受け取る事にする。


「分かった。味わって食べさせて貰うよ」
「本当に美味しいですよね。また今度行こうっと」
 そうして笑顔で小箱を鞄にしまい込んだ城崎と、既に機嫌が直りかけている美幸は、揃って職場を後にした。 





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