猪娘の躍動人生
1月 おめでたい話
仕事始めの日の朝。
出勤前に立ち寄る場所があった美幸は、いつもより遅く企画推進部の部屋に入った。その為、室内には既に主だった面々が顔を揃えていた。
「あけましておめでとうございます! 今年も宜しくお願いします!」
ドアから数歩進んでから、元気良く新年の挨拶をして頭を下げた美幸に、あちらこちらから挨拶が返される。
「やあ、おめでとう」
「今年も宜しく」
「年初めから元気が良いね」
「はい、勿論です! 皆さん、今年もバリバリ頑張りましょうねっ!?」
「はは、そうだね」
「お手柔らかに」
偶に苦笑混じりの挨拶を受けながら美幸が自分の机に着くと、隣の高須が新年の挨拶をしてから、若干声を潜めて尋ねてきた。
「そう言えば藤宮。美野さんって今日から正式に、うちの法務部勤務なんだよな?」
その問いに、美幸は頷いて答える。
「はい。それで一応心配になって、そっちまで付いて行って遅くなりました。本人は『子供じゃないし、妹の付き添いなんて聞いた事ないわ』ってブツブツ言っていましたが」
「あら、以前話を聞いた時は、美野さんを貶していたし随分苦手意識持っていたみたいだったのに、随分仲良くなった事」
高須とは反対側で机を接している理彩が、美幸の背後から茶化す様な口調で口を挟んできた為、美幸が居心地悪そうに振り向いて弁解する。
「うぅ……、そういう突っ込み方、しないで下さいよ。お互いに腹を割って話してみたら、結構誤解や行き違いがあった事が分かって、お互いこれまでの事を謝ったりしたんですから」
「蓋を開けてみれば、意外に大した事無かったって事よね」
「まあ、何にせよ、新年から気持ち良く仕事ができるって事で、良かったじゃないか」
「はい、そうですね」
最年長らしく村上が向かい側の机から穏やかに纏めに入り、美幸は本心からの笑顔で同意した。そこで真澄が入室した事に、ドアに近い何人かが気付く。
「あ、おはようございます、柏木課長」
「今年も宜しくお願いします」
「おはようございます。今年も宜しく……、というか……」
挨拶をしながら二課のスペースまで来た真澄が微妙な表情で立ち止まり、言葉を濁した為、美幸は不思議に思って問い掛けた。
「課長? どうかしましたか?」
「いえ……、ちょっと部長に話があるから、失礼するわね?」
「はあ……」
一瞬迷う素振りを見せてから、真澄は鞄を手に提げ、コート姿のまま真っ直ぐ部長室へと向かった。そして素通しの室内に入って軽く頭を下げてから、谷山の机に歩み寄り、何やら話し始める。その姿を遠目に見ながら、二課の面々は不思議そうに囁き合った。
「何だ? 何か、いつもの課長らしく無かったが」
「そうだなぁ、落ち着きが無いって言うか、挙動不審って言うか……」
「新年早々、部長に何の話だ?」
「新年の挨拶じゃないんですか?」
「それならすぐ出てくるだろ」
そんな会話を交わしているうちに、部長室内で動きがあった。
「おい……。何か、部長が血相を変えて立ち上がったぞ?」
「何か似たような光景を、以前に見た記憶があるんですが……」
言わずと知れた真澄の電撃入籍発表の日を彷彿とさせる光景に、瀬上は思わず不安そうに城崎に顔を向けたが、城崎は部長室の方向から視線を逸らしつつ、書類の整理をしていた。
「あまり深く考えるな。業務の準備でもしていろ」
「そうですね」
二課全員がそこはかとなく、嫌な予感を覚えているうちに始業時間になり、仕事始めであると言う事で、隣接する会議室で念頭の挨拶をする事になった。そして一課から三課まで、企画推進部に所属する全員が集まった事を見て取って、真澄を引き連れて会議室に入った谷山が、前に立って新年の挨拶をする。
「新年明けましておめでとう。今年も皆、頑張ってくれたまえ」
そんな言葉から始まった訓示が、滞りなく二・三分で終了したところで、谷山は軽く咳払いしてから、横に三人並んでいた課長達の中で、真澄に視線を合わせて声をかけた。
「それで、実はめでたい話が一つあってだな……。柏木課長?」
「はい」
そして神妙に頷いた真澄は、一歩前に出てから軽く頭を下げてから口を開いた。
「新年早々お騒がせして申し訳ありませんが、実は暮れに妊娠しているのが判明しました」
「…………」
室内が静まり返っているのは谷山が話していた時と変わらないにしても、微妙に空気が変化したのを察知しながら、真澄はそれを考えない事にして話を続けた。
「出産予定日は八月下旬です。通常であればその日から六週間前から産前休業に入りますが、双子の為、最大十四週前からの設定になります。しかし、その五月までの勤務だと時間に余裕が無い事、更に今年は大きな契約成立がかかっている事を踏まえ、それにめどが付く六月半ばから産休取得を考えております」
「…………」
真澄が淡々と報告を進めていく間、谷山を除く室内全員は見事に固まっており、真澄は多少居心地悪い思いをしながらも、何とか一通り話を終わらせた。
「私が産休育休中の二課の体制については、これから部長と協議の上、支障が無い様に取り計らいたいと思っていますが、周囲の皆様には色々ご面倒をおかけする事になるかと思いますので、宜しくお願いします」
「…………」
言い終えて真澄が頭を下げたのにも気付かない風情で、室内の殆どの者は呆然としていたが、ここで小さな呟きが漏れた。
「……あれ? 出産予定日が八月下旬? 課長が入籍したのは十一月下旬だったし……。って事は、課長ってやっぱりデキ婚だったのか?」
指折り数えながら高須がボソッとそんな事を呟いた瞬間、その隣に立っていた美幸が、般若の様な顔で高須の両肩を掴みつつ怒声を浴びせた。
「高須さん!!」
「はっ、はいっ!」
「何バカな事を言ってんですか!? まさか女性の妊娠期間が十月十日だとか、本気で思ってませんよね!?」
真剣な顔で美幸に念を押されてしまった高須は、迫力負けして恐る恐る尋ねてみた。
「えっと……、ち、違うとか?」
「当たり前です! 何ですか最近の男って、やり方だけ知ってて正確な妊娠期間も知らないんですか? あの話を聞いた時は、そんなバカなって笑ってたのに!」
(やり方って、おい……)
(妙齢女性が、新年早々口にする事かよ)
憤慨しまくりの美幸を見て、年配者を中心に肩を落とす者が多かったが、まだピンときていないらしい高須は更なる墓穴を掘った。
「あの話って、どんな話なんだ?」
「聞きたいですか? 相当怖い話ですよ?」
「……それならいい」
両手で高須の肩を掴みながら、底光りのする眼でおどろおどろしく囁いてきた美幸に、高須は怖じ気づいて断りの言葉を口にし、周囲は(お前の顔の方がよっぽど怖いぞ?)と心の中で密かに突っ込んだが、徐に美幸は話し始めた。
「これは、二番目の姉の友人の話なんですが……」
「だから話さなくて良いって言ってるだろ!?」
顔を引き攣らせた高須に構わず、美幸は話を続ける。
「初めての子供を妊娠して、喜んで旦那さんに報告したら、旦那さんは最初喜んでいたものの、出産予定日を告げたら激怒したんですよ」
「どうして?」
心底不思議そうに口を挟んだ高須に、美幸は肩を竦めて見せた。
「出産予定日の十ヶ月十日前まで遡った日はまだ海外出張中だったので、『間男を作っただけでは飽きたらず、その男の子供を俺の子供だと嘘を吐く気か? この性悪の女狐が!!』と罵倒したそうです。本当のところは、ご主人が帰国した直後に妊娠したんですけどね」
「あっちゃ~」
「そらまずいわ」
「全面的に旦那の方が悪いよな」
そんな呟きが既婚者男性中心に生じたが、若手の未婚者のうち高須と同様に勘違いしていた者が何人か居たらしく、多少居心地悪そうに身じろぎした。そんな微妙な雰囲気の中、美幸と高須の話が続く。
「それでどうなったんだ?」
「奥さんは号泣して実家に戻り、詳細を聞いたご両親が大激怒。旦那の勘違いを指摘した上で、離婚を申し立てて大騒動。結果、旦那さんは持っていた財産を全て分捕られて離婚させられ、生まれた子供にも会わせて貰えなくなったそうです。それから奥さんの方はその後子連れで再婚して、何不自由ない生活をしていますが、旦那の方は仕事でミスが続いたりして職場を辞める羽目になり、色々あって行方知れずの転落人生真っ逆さま。どうです? 実話ですよ? 怖いでしょう?」
「……気を付けます」
同意を求められ、肩身が狭い思いをしながら項垂れた高須に、美幸は懇切丁寧に補足説明をした。
「つまり十月十日の言い方は、昔ながらの数え月の考え方とか、太陰暦から太陽暦に切り替わる時に間違って伝えられたらしいんです。そもそも昔は排卵日の考え方とかも、確立していなかった筈ですし」
「……はぁ」
「今では最終生理初日から出産まで280日、つまり四十週周かかると計算されていますし、最終生理初日から排卵まで十四日かかりますから、課長の場合、入籍してすぐの排卵日前後にやる事やって、首尾良く妊娠したんですよ。要するに課長の旦那さんは、そっち方面ではマメな人間だったって事が分かりますね」
高須に向かって、美幸が真顔でそんな事を断言してみせた為、真澄は思わず片手で顔を覆って項垂れたが、他の企画推進部の面々も気持ちは同じだった。
「排卵日……」
「やる事やって、って……」
「頼むから、朝からそんな事を真顔で言うな、藤宮……」
周囲がそんな風にうんざりしている事など気にも留めず、ここで美幸は些か強い口調になって高須に迫った。
「ですから! 決して課長がデキ婚とか順序が逆な事をしたわけじゃありません。課長の名誉に係わりますから、さっきの発言は撤回の上、課長に謝罪して下さい!」
その主張に全く反論できなかった高須は、美幸の言う通り素直に真澄に向かって頭を下げる。
「あの……、課長、すみませんでした。勉強不足で、見当違いの上、軽率な発言を致しました」
「いえ、気にしないで頂戴。誰にでも勘違いはあるから」
そこで真澄が慌てて高須を宥め、周りの者達は(やれやれ、やっと話が終わったか)と安堵の息を吐いたが、ここで美幸が勢い良く振り返り、谷山に向き直った。
「それはそうと部長」
「……お、おう、藤宮君。どうかしたのか?」
多少動揺しながら谷山が応じる間に、美幸は素早く距離を詰めて谷山の眼前に立つ。
「課長が六月から産休を取得する予定で、その間の二課の体制は部長や上層部が協議すると伺いましたが、具体的にはどうなるんでしょうか?」
「いや、それはまだなんとも……。課長職の人間が、そんなに長期に渡って産休育休を取得した前例が無くてだね」
歯切れ悪く応じた谷山だったが、当然美幸はそんな返答に満足しなかった。
「それは、これまでに課長みたいに三十そこそこで課長就任した女性がいなかっただけで、これから課長の後に出てくる可能性だってあるんですよ? 部長が率先して、課長の立場を理解しないと駄目じゃないですか! 前例がないとか、呑気に言っている場合ですか?」
「確かにそれはそうなんだが、何しろ俺もついさっき聞いたばかりの話で」
通常より数割増しの迫力で迫る美幸に、内心たじろぎながら谷山が後ずさりした所で、一課課長の広瀬と三課課長の上原が目配せし合い、軽く手を叩きながら自分達の部下を促す。
「さあ、報告事項はこれで無事に全て終わった様だし、それでは皆解散」
「新年だし、気を引き締めていこうか。さあ、仕事仕事。さっさと取りかかるぞ」
「ちょっと待て! 広瀬! 上原! お前達で勝手に仕切るな!」
課長二人の指示に従い、皆が会議室を出ようとゾロゾロと動き出し、室内に美幸と二人で取り残されそうになった谷山が焦った声を上げたが、部下達は無情にも谷山を美幸への人身御供にして、それぞれの仕事に取りかかった。
「さあ、課長。今日は午前中にルイス・デラ日本支社との打ち合わせがありますので、そろそろ出ないと間に合いません」
「そ、そうね。それでは部長、失礼します」
「おい、柏木!?」
真顔で促してきた城崎に、一瞬迷う素振りを見せてから、真澄は美幸に捕まっている谷山に申し訳無さそうに頭を下げた。それに些か哀れっぽく谷山が声をかけたが、横から広瀬と上原が美幸に声をかける。
「藤宮、部長と話すなら防音の部長室でな」
「部長は今日は会議等も無い筈だし、色々要望とか言っておけ」
「はい、分かりました! さあ、部長、行きますよ?」
「ちょっと待て藤宮君! 君だって仕事が有るだろうが!?」
(今年も、初っ端から賑やかだな……)
嬉々として谷山の腕を取り、部長室へと引きずる様に進む美幸を見て、企画推進部の面々は黙って溜め息を吐いた。
その日の終業後。二課の若手組の面々は、社屋ビル一階のエントランスで合流した美野と共に、新年会と称して会社近くの居酒屋に繰り出した。
「明けましておめでとうございます。職場の方はどうですか?」
「今日入ったばかりですから……、でも皆さん親切な方ばかりで、ほっとしました」
「法務関係を専門にしてるから、おじさんばかりでもセクハラパワハラの心配は無さそうですしね」
「あら、皆さんに失礼ですよ? 高須さん」
「それはすみませんでした。でも同じ職場に年配者ばかりだと気詰まりじゃありませんか? 昼食の時とかは、藤宮を誘いに来たら良いですよ。もし良ければ俺もお付き合いしますし」
「そうですか? ありがとうございます」
座敷席の座卓の片隅で、美野と高須がほっこり笑顔とほのぼの会話を交わしているのとは対照的に、美幸は最初からカクテルをがぶ飲みしつつ、グラス片手に早々とやさぐれていた。
「谷山の奴……、右に左にのらりくらりと明言を避けやがってぇぇっ! 柏木課長以外の奴を、課長なんて呼んでやるもんかぁぁっ!」
そう叫んで再びグラスの中身を呷った美幸を、半ば呆れながら理彩が窘める。
「藤宮……、あんたね。部長を呼び捨てにするのは止めなさいよ。部長だってあんたに責められて、本当に困っていたでしょうが」
「部長は管理職手当を貰ってるんですよ? その分部下より苦労するのは当然です!」
「あんたに絡まれるなら、別の手当てが必要かもね」
「何ですかそれは! ちょ~っと失礼じゃないですか?」
色々諦めて酔っ払いに付き合っている理彩と、徐々に悪い酒になりつつある美幸の横で、瀬上と城崎は難しい顔付きで話し合っていた。
「でも……、実際問題どうでしょうか? 産休後、育休を出産後一年経過時まで取得となると、優に一年二ヶ月は課長職が空席になります。係長がある程度仕事を代行するにしても、色々差し障りや限界が……」
「確かにな。それは俺にも分かってる。現実的には無理だな。そうなると誰か他の人間に、二課の課長を務めて貰うしかない」
「ちょっと! それじゃあ課長が職場復帰した時、肩書きはどうなるんですか? その人がまた他の部署に移るんですか? それともやっぱり課長が平社員として戻る事になるんですか?」
憤慨した様に突然口を挟んできた美幸に、城崎が言葉を選びつつ言い聞かせた。
「そういう事にならない様に、これから部長を初め上の方で対応策を考えていくんだろう? これは下の俺達が、どうこう言う筋合いの話じゃない」
そう言われた美幸は、座卓に突っ伏しつつ如何にも悔しそうに呻く。
「うぅ……、ろくでもない奴が二課に来たら、いびって呪って叩き出してやるぅぅ……」
「呪うって……。藤宮、あんたね」
疲れた様に理彩が溜め息を吐いた所で、突然瀬上が美幸に声をかけてきた。
「じゃあ藤宮。一つ聞くが、係長が繰り上がって二課の課長に就任するって言うのはどうだ?」
「係長が?」
「おい、瀬上!?」
美幸は思わずむくりと上半身を起こし、城崎は驚いた様に瀬上を窘めようとしたが、瀬上は冷静に考えを述べた。
「可能性としては、他の部署の人間を課長職に就けるのと五分五分だと思いますが? 二課に進んで係わろうとする人間は少ない筈ですし、それを理由に、下手したら二課の人間をバラバラにさせられますよ? 二課の解散を狙ってる人間は、今でもいるでしょうし」
「確かにな」
そう言って男二人が苦々しい顔を見合わせていると、理彩が美幸をそそのかし始めた。
「ほら、藤宮。係長は『可愛い女の子』が大好きなんだから、あんたが『お願いします、係長。変なのが課長になりそうなら、身体張って二課を守って課長に就任して下さい』って可愛くお願いすれば、間違いなく変な奴を、蹴散らしてくれるわよ?」
それを耳にした城崎が(何を言っているんだか)と、本気で頭を抱える。
「……おい、仲原」
「そうなんですか?」
「そうよ?」
今一つピンと来なかったらしい美幸が、怪訝な表情で理彩に確認を入れてから、妙に納得した表情で頷いた。
「そうかぁ……、仲原さんは『可愛い女の子』じゃなくて、『とうが立ち始めた美人』になっちゃったから、係長と別れちゃったんですねぇ。時の流れって、残酷ですねぇ」
「…………」
そんな暴言を吐いてふむふむと頷いてみせた美幸に、理彩は強張った笑みでこめかみに青筋を浮かべ、それを目の当たりにした城崎と瀬上は言葉を失って固まった。そして傍観者に徹していた高須と美野が、思わず口を挟む。
「この馬鹿。酔っ払った上での暴言だとしても、もうちょっと考えろよ」
「美幸! 仲原さんに失礼でしょう! すみません、仲原さん」
美幸を叱りつけてから真顔で理彩に頭を下げてきた美野に、理彩は何とか笑顔を取り繕いつつ、鷹揚に頷いた。
「……いえ、確かに引っ掛かりが有り過ぎる台詞でしたが、一応美人と言って貰いましたし、酔っ払いの発言ですから、些細な言い回しには拘らない事にします」
そして美幸に向き直り、改めて言い聞かせる。
「さあ、藤宮。そこまで言ったんだから、係長に泣き落としをかけるのよ! 出来ないなんて言わせないから!」
「分かりました。お任せ下さい!」
そこで何やら変なテンションで自分の胸を叩いた美幸が、膝立ちで城崎の元ににじり寄った。
「係長!」
「……何だ?」
先程の美幸の暴言をしっかり耳にしていた城崎は、警戒心も露わに美幸に問い掛けると、美幸はいきなりボロボロと泣きながら、勢い良く城崎に抱き付いた。
「私、課長が居なくなった途端、変なのに二課を仕切られるのは嫌ですぅ~」
しがみつかれて咄嗟に反応出来なかった上、美幸の涙声に動揺しながら城崎は言葉を返した。
「ああ……、うん。それは俺も同じ気持ち」
「ですよね!? じゃあもし、上が変なのをねじ込んで来たら、私と一緒に嫌がらせして、呪ってくれますよね!?」
「いや、一社会人としてそれはどうかと……」
少しだけ体を離して、まだ涙ぐみながらも嬉々として同意を求めてきた美幸だったが、内容が内容だけに城崎は即答を避けた。すると美幸が忽ち不安そうな顔付きになって、念を押してくる。
「それから……、もし課長の後任として係長が昇進する事になったら、ちゃんと受けてくれますよね?」
「それは……、今の時点では何とも言えない話だし……」
「私、私……、係長以外の人の下で働くなんて、嫌ですぅぅ~。会社なんか辞めてやるうぅぅ~」
煮え切らない態度の城崎に業を煮やしたのか、美幸が両手で城崎のスーツを掴み、その胸に顔をうずめて号泣した。流石に事ここに至って、城崎は美幸の背中を軽く叩きつつ優しく宥める。
「分かった、分かったから藤宮。取り敢えず泣き止め、落ち着け。もし万が一そういう事態になったら、迷わず引き受けるから」
「……本当ですか?」
ゆっくりと顔を上げ、涙が零れ落ちそうな瞳で見上げてきた美幸と視線を合わせつつ、城崎が力強く頷いて見せる。
「ああ、ちゃんと二課の体制は課長不在の場合でも、きちんと保持する。約束する」
それを聞いた瞬間、美幸は城崎のスーツから両手を離し、勢い良く理彩の方に向き直って、これ以上は無い位の良い笑顔で報告した。
「やったー! 仲原さん、泣き落とし成功しました~!」
「あ~、よしよし。エライエライ」
「…………」
まるで「誉めて誉めて」と言わんばかりににじり寄って来た美幸の頭を、理彩は棒読み口調で労いつつ頭を撫でる。一方で放置された状態の城崎は憮然として黙り込んだが、横から瀬上がフォローを試みた。
「取り敢えず、年明け早々色々ありましたが、今年も頑張りましょう、係長」
「……そうだな。今まで以上に気合いを入れてかかるとするか」
差し出されたビール瓶に向けて城崎はグラスを差し出し、少しの間だけ現実逃避する事を選択した。
出勤前に立ち寄る場所があった美幸は、いつもより遅く企画推進部の部屋に入った。その為、室内には既に主だった面々が顔を揃えていた。
「あけましておめでとうございます! 今年も宜しくお願いします!」
ドアから数歩進んでから、元気良く新年の挨拶をして頭を下げた美幸に、あちらこちらから挨拶が返される。
「やあ、おめでとう」
「今年も宜しく」
「年初めから元気が良いね」
「はい、勿論です! 皆さん、今年もバリバリ頑張りましょうねっ!?」
「はは、そうだね」
「お手柔らかに」
偶に苦笑混じりの挨拶を受けながら美幸が自分の机に着くと、隣の高須が新年の挨拶をしてから、若干声を潜めて尋ねてきた。
「そう言えば藤宮。美野さんって今日から正式に、うちの法務部勤務なんだよな?」
その問いに、美幸は頷いて答える。
「はい。それで一応心配になって、そっちまで付いて行って遅くなりました。本人は『子供じゃないし、妹の付き添いなんて聞いた事ないわ』ってブツブツ言っていましたが」
「あら、以前話を聞いた時は、美野さんを貶していたし随分苦手意識持っていたみたいだったのに、随分仲良くなった事」
高須とは反対側で机を接している理彩が、美幸の背後から茶化す様な口調で口を挟んできた為、美幸が居心地悪そうに振り向いて弁解する。
「うぅ……、そういう突っ込み方、しないで下さいよ。お互いに腹を割って話してみたら、結構誤解や行き違いがあった事が分かって、お互いこれまでの事を謝ったりしたんですから」
「蓋を開けてみれば、意外に大した事無かったって事よね」
「まあ、何にせよ、新年から気持ち良く仕事ができるって事で、良かったじゃないか」
「はい、そうですね」
最年長らしく村上が向かい側の机から穏やかに纏めに入り、美幸は本心からの笑顔で同意した。そこで真澄が入室した事に、ドアに近い何人かが気付く。
「あ、おはようございます、柏木課長」
「今年も宜しくお願いします」
「おはようございます。今年も宜しく……、というか……」
挨拶をしながら二課のスペースまで来た真澄が微妙な表情で立ち止まり、言葉を濁した為、美幸は不思議に思って問い掛けた。
「課長? どうかしましたか?」
「いえ……、ちょっと部長に話があるから、失礼するわね?」
「はあ……」
一瞬迷う素振りを見せてから、真澄は鞄を手に提げ、コート姿のまま真っ直ぐ部長室へと向かった。そして素通しの室内に入って軽く頭を下げてから、谷山の机に歩み寄り、何やら話し始める。その姿を遠目に見ながら、二課の面々は不思議そうに囁き合った。
「何だ? 何か、いつもの課長らしく無かったが」
「そうだなぁ、落ち着きが無いって言うか、挙動不審って言うか……」
「新年早々、部長に何の話だ?」
「新年の挨拶じゃないんですか?」
「それならすぐ出てくるだろ」
そんな会話を交わしているうちに、部長室内で動きがあった。
「おい……。何か、部長が血相を変えて立ち上がったぞ?」
「何か似たような光景を、以前に見た記憶があるんですが……」
言わずと知れた真澄の電撃入籍発表の日を彷彿とさせる光景に、瀬上は思わず不安そうに城崎に顔を向けたが、城崎は部長室の方向から視線を逸らしつつ、書類の整理をしていた。
「あまり深く考えるな。業務の準備でもしていろ」
「そうですね」
二課全員がそこはかとなく、嫌な予感を覚えているうちに始業時間になり、仕事始めであると言う事で、隣接する会議室で念頭の挨拶をする事になった。そして一課から三課まで、企画推進部に所属する全員が集まった事を見て取って、真澄を引き連れて会議室に入った谷山が、前に立って新年の挨拶をする。
「新年明けましておめでとう。今年も皆、頑張ってくれたまえ」
そんな言葉から始まった訓示が、滞りなく二・三分で終了したところで、谷山は軽く咳払いしてから、横に三人並んでいた課長達の中で、真澄に視線を合わせて声をかけた。
「それで、実はめでたい話が一つあってだな……。柏木課長?」
「はい」
そして神妙に頷いた真澄は、一歩前に出てから軽く頭を下げてから口を開いた。
「新年早々お騒がせして申し訳ありませんが、実は暮れに妊娠しているのが判明しました」
「…………」
室内が静まり返っているのは谷山が話していた時と変わらないにしても、微妙に空気が変化したのを察知しながら、真澄はそれを考えない事にして話を続けた。
「出産予定日は八月下旬です。通常であればその日から六週間前から産前休業に入りますが、双子の為、最大十四週前からの設定になります。しかし、その五月までの勤務だと時間に余裕が無い事、更に今年は大きな契約成立がかかっている事を踏まえ、それにめどが付く六月半ばから産休取得を考えております」
「…………」
真澄が淡々と報告を進めていく間、谷山を除く室内全員は見事に固まっており、真澄は多少居心地悪い思いをしながらも、何とか一通り話を終わらせた。
「私が産休育休中の二課の体制については、これから部長と協議の上、支障が無い様に取り計らいたいと思っていますが、周囲の皆様には色々ご面倒をおかけする事になるかと思いますので、宜しくお願いします」
「…………」
言い終えて真澄が頭を下げたのにも気付かない風情で、室内の殆どの者は呆然としていたが、ここで小さな呟きが漏れた。
「……あれ? 出産予定日が八月下旬? 課長が入籍したのは十一月下旬だったし……。って事は、課長ってやっぱりデキ婚だったのか?」
指折り数えながら高須がボソッとそんな事を呟いた瞬間、その隣に立っていた美幸が、般若の様な顔で高須の両肩を掴みつつ怒声を浴びせた。
「高須さん!!」
「はっ、はいっ!」
「何バカな事を言ってんですか!? まさか女性の妊娠期間が十月十日だとか、本気で思ってませんよね!?」
真剣な顔で美幸に念を押されてしまった高須は、迫力負けして恐る恐る尋ねてみた。
「えっと……、ち、違うとか?」
「当たり前です! 何ですか最近の男って、やり方だけ知ってて正確な妊娠期間も知らないんですか? あの話を聞いた時は、そんなバカなって笑ってたのに!」
(やり方って、おい……)
(妙齢女性が、新年早々口にする事かよ)
憤慨しまくりの美幸を見て、年配者を中心に肩を落とす者が多かったが、まだピンときていないらしい高須は更なる墓穴を掘った。
「あの話って、どんな話なんだ?」
「聞きたいですか? 相当怖い話ですよ?」
「……それならいい」
両手で高須の肩を掴みながら、底光りのする眼でおどろおどろしく囁いてきた美幸に、高須は怖じ気づいて断りの言葉を口にし、周囲は(お前の顔の方がよっぽど怖いぞ?)と心の中で密かに突っ込んだが、徐に美幸は話し始めた。
「これは、二番目の姉の友人の話なんですが……」
「だから話さなくて良いって言ってるだろ!?」
顔を引き攣らせた高須に構わず、美幸は話を続ける。
「初めての子供を妊娠して、喜んで旦那さんに報告したら、旦那さんは最初喜んでいたものの、出産予定日を告げたら激怒したんですよ」
「どうして?」
心底不思議そうに口を挟んだ高須に、美幸は肩を竦めて見せた。
「出産予定日の十ヶ月十日前まで遡った日はまだ海外出張中だったので、『間男を作っただけでは飽きたらず、その男の子供を俺の子供だと嘘を吐く気か? この性悪の女狐が!!』と罵倒したそうです。本当のところは、ご主人が帰国した直後に妊娠したんですけどね」
「あっちゃ~」
「そらまずいわ」
「全面的に旦那の方が悪いよな」
そんな呟きが既婚者男性中心に生じたが、若手の未婚者のうち高須と同様に勘違いしていた者が何人か居たらしく、多少居心地悪そうに身じろぎした。そんな微妙な雰囲気の中、美幸と高須の話が続く。
「それでどうなったんだ?」
「奥さんは号泣して実家に戻り、詳細を聞いたご両親が大激怒。旦那の勘違いを指摘した上で、離婚を申し立てて大騒動。結果、旦那さんは持っていた財産を全て分捕られて離婚させられ、生まれた子供にも会わせて貰えなくなったそうです。それから奥さんの方はその後子連れで再婚して、何不自由ない生活をしていますが、旦那の方は仕事でミスが続いたりして職場を辞める羽目になり、色々あって行方知れずの転落人生真っ逆さま。どうです? 実話ですよ? 怖いでしょう?」
「……気を付けます」
同意を求められ、肩身が狭い思いをしながら項垂れた高須に、美幸は懇切丁寧に補足説明をした。
「つまり十月十日の言い方は、昔ながらの数え月の考え方とか、太陰暦から太陽暦に切り替わる時に間違って伝えられたらしいんです。そもそも昔は排卵日の考え方とかも、確立していなかった筈ですし」
「……はぁ」
「今では最終生理初日から出産まで280日、つまり四十週周かかると計算されていますし、最終生理初日から排卵まで十四日かかりますから、課長の場合、入籍してすぐの排卵日前後にやる事やって、首尾良く妊娠したんですよ。要するに課長の旦那さんは、そっち方面ではマメな人間だったって事が分かりますね」
高須に向かって、美幸が真顔でそんな事を断言してみせた為、真澄は思わず片手で顔を覆って項垂れたが、他の企画推進部の面々も気持ちは同じだった。
「排卵日……」
「やる事やって、って……」
「頼むから、朝からそんな事を真顔で言うな、藤宮……」
周囲がそんな風にうんざりしている事など気にも留めず、ここで美幸は些か強い口調になって高須に迫った。
「ですから! 決して課長がデキ婚とか順序が逆な事をしたわけじゃありません。課長の名誉に係わりますから、さっきの発言は撤回の上、課長に謝罪して下さい!」
その主張に全く反論できなかった高須は、美幸の言う通り素直に真澄に向かって頭を下げる。
「あの……、課長、すみませんでした。勉強不足で、見当違いの上、軽率な発言を致しました」
「いえ、気にしないで頂戴。誰にでも勘違いはあるから」
そこで真澄が慌てて高須を宥め、周りの者達は(やれやれ、やっと話が終わったか)と安堵の息を吐いたが、ここで美幸が勢い良く振り返り、谷山に向き直った。
「それはそうと部長」
「……お、おう、藤宮君。どうかしたのか?」
多少動揺しながら谷山が応じる間に、美幸は素早く距離を詰めて谷山の眼前に立つ。
「課長が六月から産休を取得する予定で、その間の二課の体制は部長や上層部が協議すると伺いましたが、具体的にはどうなるんでしょうか?」
「いや、それはまだなんとも……。課長職の人間が、そんなに長期に渡って産休育休を取得した前例が無くてだね」
歯切れ悪く応じた谷山だったが、当然美幸はそんな返答に満足しなかった。
「それは、これまでに課長みたいに三十そこそこで課長就任した女性がいなかっただけで、これから課長の後に出てくる可能性だってあるんですよ? 部長が率先して、課長の立場を理解しないと駄目じゃないですか! 前例がないとか、呑気に言っている場合ですか?」
「確かにそれはそうなんだが、何しろ俺もついさっき聞いたばかりの話で」
通常より数割増しの迫力で迫る美幸に、内心たじろぎながら谷山が後ずさりした所で、一課課長の広瀬と三課課長の上原が目配せし合い、軽く手を叩きながら自分達の部下を促す。
「さあ、報告事項はこれで無事に全て終わった様だし、それでは皆解散」
「新年だし、気を引き締めていこうか。さあ、仕事仕事。さっさと取りかかるぞ」
「ちょっと待て! 広瀬! 上原! お前達で勝手に仕切るな!」
課長二人の指示に従い、皆が会議室を出ようとゾロゾロと動き出し、室内に美幸と二人で取り残されそうになった谷山が焦った声を上げたが、部下達は無情にも谷山を美幸への人身御供にして、それぞれの仕事に取りかかった。
「さあ、課長。今日は午前中にルイス・デラ日本支社との打ち合わせがありますので、そろそろ出ないと間に合いません」
「そ、そうね。それでは部長、失礼します」
「おい、柏木!?」
真顔で促してきた城崎に、一瞬迷う素振りを見せてから、真澄は美幸に捕まっている谷山に申し訳無さそうに頭を下げた。それに些か哀れっぽく谷山が声をかけたが、横から広瀬と上原が美幸に声をかける。
「藤宮、部長と話すなら防音の部長室でな」
「部長は今日は会議等も無い筈だし、色々要望とか言っておけ」
「はい、分かりました! さあ、部長、行きますよ?」
「ちょっと待て藤宮君! 君だって仕事が有るだろうが!?」
(今年も、初っ端から賑やかだな……)
嬉々として谷山の腕を取り、部長室へと引きずる様に進む美幸を見て、企画推進部の面々は黙って溜め息を吐いた。
その日の終業後。二課の若手組の面々は、社屋ビル一階のエントランスで合流した美野と共に、新年会と称して会社近くの居酒屋に繰り出した。
「明けましておめでとうございます。職場の方はどうですか?」
「今日入ったばかりですから……、でも皆さん親切な方ばかりで、ほっとしました」
「法務関係を専門にしてるから、おじさんばかりでもセクハラパワハラの心配は無さそうですしね」
「あら、皆さんに失礼ですよ? 高須さん」
「それはすみませんでした。でも同じ職場に年配者ばかりだと気詰まりじゃありませんか? 昼食の時とかは、藤宮を誘いに来たら良いですよ。もし良ければ俺もお付き合いしますし」
「そうですか? ありがとうございます」
座敷席の座卓の片隅で、美野と高須がほっこり笑顔とほのぼの会話を交わしているのとは対照的に、美幸は最初からカクテルをがぶ飲みしつつ、グラス片手に早々とやさぐれていた。
「谷山の奴……、右に左にのらりくらりと明言を避けやがってぇぇっ! 柏木課長以外の奴を、課長なんて呼んでやるもんかぁぁっ!」
そう叫んで再びグラスの中身を呷った美幸を、半ば呆れながら理彩が窘める。
「藤宮……、あんたね。部長を呼び捨てにするのは止めなさいよ。部長だってあんたに責められて、本当に困っていたでしょうが」
「部長は管理職手当を貰ってるんですよ? その分部下より苦労するのは当然です!」
「あんたに絡まれるなら、別の手当てが必要かもね」
「何ですかそれは! ちょ~っと失礼じゃないですか?」
色々諦めて酔っ払いに付き合っている理彩と、徐々に悪い酒になりつつある美幸の横で、瀬上と城崎は難しい顔付きで話し合っていた。
「でも……、実際問題どうでしょうか? 産休後、育休を出産後一年経過時まで取得となると、優に一年二ヶ月は課長職が空席になります。係長がある程度仕事を代行するにしても、色々差し障りや限界が……」
「確かにな。それは俺にも分かってる。現実的には無理だな。そうなると誰か他の人間に、二課の課長を務めて貰うしかない」
「ちょっと! それじゃあ課長が職場復帰した時、肩書きはどうなるんですか? その人がまた他の部署に移るんですか? それともやっぱり課長が平社員として戻る事になるんですか?」
憤慨した様に突然口を挟んできた美幸に、城崎が言葉を選びつつ言い聞かせた。
「そういう事にならない様に、これから部長を初め上の方で対応策を考えていくんだろう? これは下の俺達が、どうこう言う筋合いの話じゃない」
そう言われた美幸は、座卓に突っ伏しつつ如何にも悔しそうに呻く。
「うぅ……、ろくでもない奴が二課に来たら、いびって呪って叩き出してやるぅぅ……」
「呪うって……。藤宮、あんたね」
疲れた様に理彩が溜め息を吐いた所で、突然瀬上が美幸に声をかけてきた。
「じゃあ藤宮。一つ聞くが、係長が繰り上がって二課の課長に就任するって言うのはどうだ?」
「係長が?」
「おい、瀬上!?」
美幸は思わずむくりと上半身を起こし、城崎は驚いた様に瀬上を窘めようとしたが、瀬上は冷静に考えを述べた。
「可能性としては、他の部署の人間を課長職に就けるのと五分五分だと思いますが? 二課に進んで係わろうとする人間は少ない筈ですし、それを理由に、下手したら二課の人間をバラバラにさせられますよ? 二課の解散を狙ってる人間は、今でもいるでしょうし」
「確かにな」
そう言って男二人が苦々しい顔を見合わせていると、理彩が美幸をそそのかし始めた。
「ほら、藤宮。係長は『可愛い女の子』が大好きなんだから、あんたが『お願いします、係長。変なのが課長になりそうなら、身体張って二課を守って課長に就任して下さい』って可愛くお願いすれば、間違いなく変な奴を、蹴散らしてくれるわよ?」
それを耳にした城崎が(何を言っているんだか)と、本気で頭を抱える。
「……おい、仲原」
「そうなんですか?」
「そうよ?」
今一つピンと来なかったらしい美幸が、怪訝な表情で理彩に確認を入れてから、妙に納得した表情で頷いた。
「そうかぁ……、仲原さんは『可愛い女の子』じゃなくて、『とうが立ち始めた美人』になっちゃったから、係長と別れちゃったんですねぇ。時の流れって、残酷ですねぇ」
「…………」
そんな暴言を吐いてふむふむと頷いてみせた美幸に、理彩は強張った笑みでこめかみに青筋を浮かべ、それを目の当たりにした城崎と瀬上は言葉を失って固まった。そして傍観者に徹していた高須と美野が、思わず口を挟む。
「この馬鹿。酔っ払った上での暴言だとしても、もうちょっと考えろよ」
「美幸! 仲原さんに失礼でしょう! すみません、仲原さん」
美幸を叱りつけてから真顔で理彩に頭を下げてきた美野に、理彩は何とか笑顔を取り繕いつつ、鷹揚に頷いた。
「……いえ、確かに引っ掛かりが有り過ぎる台詞でしたが、一応美人と言って貰いましたし、酔っ払いの発言ですから、些細な言い回しには拘らない事にします」
そして美幸に向き直り、改めて言い聞かせる。
「さあ、藤宮。そこまで言ったんだから、係長に泣き落としをかけるのよ! 出来ないなんて言わせないから!」
「分かりました。お任せ下さい!」
そこで何やら変なテンションで自分の胸を叩いた美幸が、膝立ちで城崎の元ににじり寄った。
「係長!」
「……何だ?」
先程の美幸の暴言をしっかり耳にしていた城崎は、警戒心も露わに美幸に問い掛けると、美幸はいきなりボロボロと泣きながら、勢い良く城崎に抱き付いた。
「私、課長が居なくなった途端、変なのに二課を仕切られるのは嫌ですぅ~」
しがみつかれて咄嗟に反応出来なかった上、美幸の涙声に動揺しながら城崎は言葉を返した。
「ああ……、うん。それは俺も同じ気持ち」
「ですよね!? じゃあもし、上が変なのをねじ込んで来たら、私と一緒に嫌がらせして、呪ってくれますよね!?」
「いや、一社会人としてそれはどうかと……」
少しだけ体を離して、まだ涙ぐみながらも嬉々として同意を求めてきた美幸だったが、内容が内容だけに城崎は即答を避けた。すると美幸が忽ち不安そうな顔付きになって、念を押してくる。
「それから……、もし課長の後任として係長が昇進する事になったら、ちゃんと受けてくれますよね?」
「それは……、今の時点では何とも言えない話だし……」
「私、私……、係長以外の人の下で働くなんて、嫌ですぅぅ~。会社なんか辞めてやるうぅぅ~」
煮え切らない態度の城崎に業を煮やしたのか、美幸が両手で城崎のスーツを掴み、その胸に顔をうずめて号泣した。流石に事ここに至って、城崎は美幸の背中を軽く叩きつつ優しく宥める。
「分かった、分かったから藤宮。取り敢えず泣き止め、落ち着け。もし万が一そういう事態になったら、迷わず引き受けるから」
「……本当ですか?」
ゆっくりと顔を上げ、涙が零れ落ちそうな瞳で見上げてきた美幸と視線を合わせつつ、城崎が力強く頷いて見せる。
「ああ、ちゃんと二課の体制は課長不在の場合でも、きちんと保持する。約束する」
それを聞いた瞬間、美幸は城崎のスーツから両手を離し、勢い良く理彩の方に向き直って、これ以上は無い位の良い笑顔で報告した。
「やったー! 仲原さん、泣き落とし成功しました~!」
「あ~、よしよし。エライエライ」
「…………」
まるで「誉めて誉めて」と言わんばかりににじり寄って来た美幸の頭を、理彩は棒読み口調で労いつつ頭を撫でる。一方で放置された状態の城崎は憮然として黙り込んだが、横から瀬上がフォローを試みた。
「取り敢えず、年明け早々色々ありましたが、今年も頑張りましょう、係長」
「……そうだな。今まで以上に気合いを入れてかかるとするか」
差し出されたビール瓶に向けて城崎はグラスを差し出し、少しの間だけ現実逃避する事を選択した。
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