猪娘の躍動人生

篠原皐月

12月 警視総監は《おじさま》

「瀬上!」
 幹線道路とは並行して続く一つ奥の繁華街を横切り、更にもう一つ奥の通りの角を曲がってすぐ、城崎は見慣れた人物の姿を認めて駆け寄りながら大声で呼びかけた。するとそれを聞きつけた相手は、顔に幾分安堵の表情を浮かべながら、言葉を返す。


「係長、ここです!」
「瀬上さん、そこですね!」
「あの、やっぱり美野さんも一緒、ですね……」
 しかし城崎の背後から、少し遅れて血相を変えた美野が高須を引き連れて駆け寄って来た為、電話で一応話はしていたものの、瀬上は横に居る理彩と共に微妙に顔を引き攣らせた。そして到着した城崎が目の前のラブホテルの入口を睨み付けつつ何やら考え込んでいる間に、追いついた美野が瀬上達に軽く頭を下げて、忙しげに問いかける。


「瀬上さん、お知らせ頂いてありがとうございます。因みに二人がここに入ったのは、何分前でしょうか?」
「ええっと……、大体二十分から三十分位かと……」
「出来るだけ正確に」
「二十三分前です」
 美野の気迫に瀬上がたじたじとなっていると、横から理彩が腕時計で時間を確認しつつ、正確な時間を告げた。


「ありがとうございます、助かります。じゃあ行きます」
 そう言うなり、勢い良くホテルの入口に駆け込んだ美野を見て、その場の全員が仰天して後を追った。


「行きますって……、美野さん!?」
「どこの部屋か分かりませんよ?」
「分からなければ聞くまでです!」
「あのっ! でもこういう所って、直接顔を見てやり取りする事は無いですし!」
「そもそも部屋番号なんて教えて貰えませんよ!!」
「どこに行くんですか!?」
 背後の悲鳴混じりの訴えを無視し、美野は受付も素通りして迷わず奥へと進み、≪STAFF ONLY≫のプレートが取り付けられているドアを、力一杯押し開けつつ叫んだ。


「スペアキーを出しなさい!!」
「なっ、何だ?」
「誰ですか、あんた?」
 幾つか事務作業用の机が並べられた、壁に幾つかのモニターや機械が設置されている部屋の中には、二十代から三十代の男が三人存在しており、いきなり押し入った挙句絶叫した美野を呆れた表情で見やった。しかしそんな視線に頓着せず、美野は高飛車に再度要求を繰り出す。


「ネタは割れてるのよ。この人達がここの出入りを監視していて、今から二十三分……、いえ、ここに入る間に二十四分前にはなったわね。その時間に入ったカップルは、私の夫と愛人よ! あんた達、入室記録を見れば、どこが該当するのか分かるわよね。私の言う事が分かったら、これから部屋に踏み込むから、さっさとそこの鍵を渡しなさい!!」
「ちょっ……、美野さん」
「静かに。黙って話を合わせて下さい」
 とんでもない事を言い出した美野に後を追ってきた面々は絶句し、城崎は流石に美野を止めようと小さく声をかけたが、美野は鋭く小声で囁き返した。それで城崎は美野に何やら考えがあるらしい事を悟り、暫く傍観する事にする。するとその間に驚きがおさまったらしい男達は、美野に向かって薄笑いを浮かべながら、嫌味っぽく言い返した。、


「奥さん、困りますねぇ。私達は真っ当に仕事をしているだけですよ?」
「どの部屋を誰がどう使用しても、お客様の勝手ですし。家庭内の問題なら尚更の事、ご自宅でお話し合いなり、取っ組み合いなりして頂きたいものですがね?」
 しかしそんな嫌味を、美野は鼻で笑い飛ばした。


「はっ! そんな生意気な態度を取ってタダで済むと思っているなら、あなた達はホテルのランクにお似合いの、低脳揃いね」
「……何だと?」
「ふざけてんのか、てめぇ?」
 凄みを効かせながら、如何にもガラが悪そうな男二人が立ち上がって美野を恫喝したが、美野が負けじと言い放つ。


「本当の事を言って、何が悪いのよ。この人達の顔を知らないなんてそれだけ下っ端、かつ間抜けって事じゃない。警視総監のおじさまは、可愛い姪のちょっとした頼みなら、所轄署の生活安全課の刑事を何人か動かす位、どうとでもないのよ!」
「なっ……」
「刑事!?」
 そう叫ばれた男達は流石に美野の背後に立つ城崎達に目をやって動揺したが、刑事呼ばわりされた面々も同様だった。しかし美野に軽く一睨みされて、何とか無言を貫く。すると美野が冷淡な口調で城崎に告げた。


「城崎さん。遠慮は要らないわ、やって頂戴」
「……分かりました、奥様」
 事ここに至って美野の意図が読めない城崎では無く、不気味な笑みを湛えつつ、無言で男達に向かって足を進めた。そして固まっている男達が無意識に壁際に追い詰められると、何故か城崎は壁に掛けられているホワイトボードに手を伸ばし、そこに置かれていた黒の水性マジックを手に取る。そして(何をする気だ?)と訝しんでいた男達の目の前で、城崎は右手に握り込んだマジックを目にも止まらない勢いでホワイトボードに叩き付けた。


「ひっ……」
「げっ……」
「お、おいっ!」
 衝撃で本体に付けたままのプラスチック製のキャップが破裂音と共に無残に砕け散り、マジックの芯が本体にめり込んで使い物にならなくなったばかりか、本体もどこか裂けるか割れるかしたらしく、ボードに接している所から黒いインクが不自然に滲み出る。更にその衝撃を受けたホワイトボードも、マジックが接している所を中心にへこんでいるのが明らかで、男達は一気に顔色を無くした。そんな哀れなマジックを男達の足元に放り出した城崎が、わざとらしく両手を組んで盛大に指を鳴らしながら、芝居がかった地を這う如き声で恫喝する。


「俺達としても、通常業務以外でこき使われるのは、勘弁して欲しいんでな。お前達、さっさと吐いた方が身の為だぞ?」
「…………」
 しかし衝撃のあまり、まだ固まって黙り込んでいる男達に向かって、城崎は携帯電話を取り出して、どこかへ連絡する様な素振りを見せた。


「それとも、有る事無い事罪状を付けられて、しょっぴかれたいのか? どうせ上は下っぱなんぞ切り捨てるからな。そうか、そんなに寒空の下、無職で年を越したいか。それにお前は学生のバイトだろ。問答無用で退学だな」
「それはっ!」
「ちょっ、困りますよ!」
「冗談じゃねぇぞ!」
 冷たく言い切られて漸く喚き出した男達に、美野が鋭く二者択一を迫る。


「それならさっさと部屋番号を教えて、鍵を渡しなさい。そこで何があっても朝まで黙認してくれるなら、所定の宿泊料は支払うし、私に対する先程の暴言は聞かなかった事にしてあげるわ。それが嫌なら、問答無用で留置所行きよ。さあ、どうするの?」
 そこで三人は顔を見合わせたが、結論を出すのは早かった。素早く入室記録を確認し、該当する部屋のマスターキーを取り出して美野に手渡す。


「……こちらです」
 それを受け取った美野は、代わりに机に一万円札を何枚か無造作に置いた。
「ありがとう。お金はこれだけあれば十分よね」
「口止め料込みだ。いいか? そこから何が聞こえてきても、俺達の邪魔はするなよ?」
「は、はいっ!」
「分かりましたっ!」
 美野の台詞に続けた城崎の凶悪過ぎる睨みに、男達が真っ青になって頷く。それを確認した美野は、入り口付近で呆然と事の成り行きを見守っていた高須達を促して部屋を出た。


「それでは行きましょう」
 そして固い表情のままエレベーターに乗り込んだ面々だったが、五階のボタンを押して上昇を始めると、その気まずい雰囲気を幾らかでも解そうかと、理彩が美野に声をかけた。


「でも知らなかったです。美野さんは、警視総監の姪だったんですね」
「私そんな事、一言も言ってませんよ?」
「え? でもさっき……」
 素っ気なく否定されて理彩は本気で面食らったが、美野は淡々と話を続けた。


「警視総監に就任してる方って、だいたい五十代半ばから後半ですよね。その年頃の方に対する呼びかけなら、私達の世代だと『お兄さま』とか『おじいさま』とかじゃなくて、『おじさま』が妥当じゃありませんか? それに警視総監でも、可愛い姪には甘いだろうという、一般論を口にしただけです。勝手に勘違いした向こうに非があります」
「えっと……」
 咄嗟に続ける言葉を失った理彩だったが、冷静な美野の解説は続いた。


「確かに、皆さんが所轄署の刑事と紹介したのは明らかに嘘ですが、身分証を確認もせず鵜呑みにした連中が迂闊なんです。向こうがさっさと部屋番号を教えて鍵を渡せば良かっただけの話ですから、私自身にもあなた方にも非はありません。さあ、行きますよ!」
(やっぱり大人しそうに見えて、間違いなくあの藤宮と血の繋がった姉だ、この人……)
 五階に到着したエレベーターの扉がスルスルと左右に開くとほぼ同時に、美野は緊迫した表情のまま廊下に足を踏み出し、ずんずんと奥へと進んだ。そしてその背中を見ながら、他の者は全員心の中で同じ感想を覚える。そして何部屋も通り過ぎないうちに、目的の部屋に辿り着いた。


「ここですね」
「取り敢えず俺が相手を確保しますから、美野さんは下がっていて下さい」
「分かりました。お任せします」
 城崎がキーを差し込んで静かにロックを解除しながら言い聞かせると、美野は静かに頷いて了承した。それに頷き返してから城崎が乱暴にドアを押し開けつつ、室内に踏み込む。


「藤宮、居るか!?」
 怒鳴ったのはどういう状態で居るのか分からない美幸に、自分達の存在を気付かせる為だったのだが、予想に反してと言おうか予想通りと言おうか美幸からの返答は無かった。その代わりにデジカメを掴んでいた男の、狼狽した声が上がる。


「なっ、何だ貴様!? どうやって入って来た!!」
その男の向こう側、壁に一方を接する形でキングサイズのベッドが設置されており、そこに目を閉じて下着姿で横たわっている美幸の姿を認めた城崎は、あっという間に上坂の至近距離に到達し、問答無用で殴り倒した。


「それはこっちの台詞だ! 何をしてる、貴様!!」
「ぐわぁっ!」
「ここに来る途中、美野さんから話は聞いたぞ! てめぇ、どこまで腐った野郎だ!!」
「ぐほっ……」
 これ以上ベッドに近寄るなと言わんばかりに、城崎は殴り倒した上坂の腹に強烈な蹴りをお見舞いし、容赦なく転がした。そんな元夫の姿になど目もくれず、美野が真っ青になってベッド上の美幸に駆け寄る。


「美幸! ちょっと大丈夫!? しっかりして!」
「げっ! 係長!」
「藤宮、何て格好だよ……」
 涙声で両手で美幸を揺さぶる美野に、城崎の暴れっぷりとブラとショーツ姿の美幸に動揺する高須と瀬上。そんな中、理彩は美幸と同性であり、実は城崎と付き合っていた時に、今と同様に城崎がキレまくったのを目にした事があった為、比較的冷静に対処できた。


「瀬上さん、ドアを閉めて! 高須さん、藤宮とそいつの荷物を確認して! 美野さん、取り敢えず藤宮の身体にこれを掛けてかけて下さい。……服はこれですよね。良かった破れたりしてないわ」
 指示を出しながら素早く自分のコートを脱ぎ、美野がやっと思い至った様にそれを受け取り、美幸の身体にかける。そして高須と瀬上が慌てて動く中、床に落ちていた美幸の服を、理彩は素早くチェックした。その間も部屋の隅で上坂に一方的に制裁を加えていた城崎が、一番浴室のドアに近い所にいた高須に向かって吠える。


「高須! 浴室のドア開けろ!」
「は、はいっ!」
 高須によって素早くドアが開けられると、城崎が上坂の首を掴んで身体を持ち上げ、半ば引き摺る様にして浴室内にその体を放り込んだ。


「ほら、手間かけさせんな。とっとと入れ!」
「うわぁっ!」
 そしてドアの向こう側からは何やらぶつかり合う様な物音が響いてきたが、高須と瀬上は深く考える事を止めて、ベッドの方に歩み寄った。


「美幸、大丈夫!? しっかりしなさいっ!」
「美野さん、落ち着いて!」
「救急車を呼びますか!?」
 未だ意識が無いらしい美幸に、流石に周囲が焦りの色を濃くすると、美幸が理彩のコートの下で僅かに身じろぎし、目を閉じたまま小さく呻いた。


「うん~、頭痛いぃ~、気持ち悪ぅ~」
「美幸、気が付いたの?」
 パアッと表情を明るくした美野が勢い込んで声をかけたが、美幸は全く現状を理解していない台詞を口にした。


「……美野姉さん? ここ、家? 模様替えしたっけ?」
 寝ぼけ顔でそんな事を言われた美野は盛大に顔を引き攣らせ、危機感が全く感じられない妹に向かって、容赦なく往復ビンタを食らわせる。


「あんたって子はぁぁぁっ!! いつまで何を寝ぼけているのよ、この馬鹿ぁぁっ!」
「いたたたっ! ちょっと何するのよっ! 止めてったら!」
「美野さん、取り敢えずもう落ち着きましょう!」
「ほら、藤宮も大丈夫みたいですし」
 美野の怒りっぷりに恐れをなしながらも、理彩と高須が美野の腕を押さえて宥めにかかったが、ここでまだ完全に状況を把握しきれていない美幸が、頬をさすりつつベッドの上で起き上がった。


「いった~。これ、絶対腫れたわよ。あれ? どうして皆さんが家に?」
「……藤宮、取り敢えず、服を着てくれ」
 頭痛と疲労感を覚えながら瀬上がそう懇願すると、それを受けた美幸がキョトンとした顔で自分の身体を見下ろした。そして身体に掛けられていたコートが滑り落ち、自分が今身に着けている物がブラとショーツだけという状態を認識して、狼狽しきった声を上げる。


「服? って…………、えぇぇっ!? 何これっ! 何でこんな事になってるわけ!?」
「美幸があんなろくでなしに、あっさり騙されるからでしょうがっ!」
 すかさず突っ込んできた美野に、美幸はこの事態の元凶であろう男の事を思い出し、コートを胸元まで引っ張り上げながら、喧嘩腰で言い返す。


「あのろくでなしって……。そんなろくでなしと結婚してた姉さんにだけは、言われる筋合いは無いと思うんだけど!?」
「分かってるわよ、そんな事! 取り敢えずさっさと服を着なさい!」
 涙混じりの美野の絶叫に、その背後に佇む同僚達からの(同感だ)との眼差しを受けた美幸は、釈然としないながらも取り敢えず自分の服に手を伸ばした。



コメント

コメントを書く

「現代ドラマ」の人気作品

書籍化作品