猪娘の躍動人生

篠原皐月

11月 困惑、驚愕、納得

 真澄の進退を賭けた勝負に、二課が見事勝利した翌週。美幸は仕事を覚える為、瀬上に連れられて取引先回りをしていた。その最中、何気なく隣を歩く瀬上に、声をかける。


「瀬上さんは営業五課出身ですから、食料品やそれの原材料、農業・加工関係の仕事に詳しいんですよね?」
「ああ。だからこれから行く志野山食工も担当しているんだが。何だ、他の所が良かったか?」
「いえ、父の会社が食品会社で、そこと取引がある事は知ってますから、元々興味はありました」
「課長もそこはご存じだから、まず俺に付かせたんだろうな」
 そう言って笑った瀬上だが、そこで少し真面目な顔付きになった。


「各専門分野を固定している営業部より、企画推進部や海外事業部は仕事の幅が広いからな。例えば衣料品生活関連商品は営業三課出身の課長と係長が、工業用品・技術部品関連は村上さん、林さん、医薬品化学薬品関連は清瀬さん、金融商品やITB技術関連は枝野さん、川北さんが得意にしてるが、皆それだけを仕事にしているわけじゃない。俺も最近はエネルギー関連や工業用品の案件にも、関わってるし」
「そうですね。何人かで組んで進めている物の方が多いですよね」
「つまり、企画推進部で求められるのは《固定化してるスペシャリスト》よりも《自由なオールマイティー》という事だ。これから他の人間にも付く筈だし、まず自分の興味のある事を掘り下げてから、満遍なく仕事の仕方を覚えていけば良いだろう」
「はい、そうします」
 先輩らしく瀬上が説明し、それに美幸が素直に頷いたが、ここで彼が思い出した様に言い出した。


「課長と言えば……。先週の疲れが出たのか、昨日に引き続いて今日も休みだが、清川部長の方は、先週末から行方知れずらしいな」
「みたいですね。食堂で凄い噂になっていました。なんでも昨日部長の奥さんが『柏木課長に暴行を受けた上、脅迫された』と、弁護士同伴で会社に乗り込んで来たそうですね。大丈夫なんでしょうか?」
 美幸は些か心配そうに瀬上を見上げたが、対する瀬上はちょっと驚いた顔をした。


「何だ、知らないのか? 待ち構えていた会社の顧問弁護士に、あっけなく撃退されたそうだぞ?」
「本当ですか?」
「ああ。顧問弁護士は『偶々、柏木課長と清川部長が廊下で衝突して転倒した際、咄嗟に伸ばした手が部長の髪を掴んでしまい、その弾みで何本か抜けただけの不幸な事故だ』と主張したそうだ」
「……あれが『偶々』で、『何本か』ですか?」
 当事者の一人である美幸は物凄く疑わしげに問いかけたが、そんな美幸に同情する視線を向けながら、瀬上が説明を加えた。


「課長は包丁やナイフ、ハサミやカッターの類を部長に向けたわけじゃ無いから、傷害罪は問えないらしいな。加えて毛をむしり取られたと言っても、あの後びしょ濡れになった廊下をすぐに清掃して、毛髪なんか一本も残っていないから、当然証拠も無い」
「……好き好んで、取っておく人なんていませんしね」
「大量に抜かれたと言っても、各人の感覚の違いと言えばそれまでだし、肝心の被害者の部長が行方をくらましてるんじゃ、それ以前と比較もできない。その上『職場放棄して無断欠勤した場合の、職場に与える迷惑と損害について考えて、是非とも奥様に考えて頂きたいものですな』と顧問弁護士に凄まれて、奥さんが真っ青になって帰って行ったそうだ。勿論、課長達が部長を脅迫したなんて事を、立証出来なかっただろうし」
 そこまで聞いた美幸は、深々と溜め息を吐いた。 


「清川部長、喧嘩を売った相手が悪かったですね」
「同感だ。俺は、課長を含めたあの三人組を、今後絶対に本気で怒らせないと心に決めたぞ」
「社内で同じ事を考えた人が沢山いそうですね」
 そんな事を話しているうちにいつの間にか二人は訪問先のビル内に入っていたが、広々とした一階のエントランスを歩いていると戸惑い気味の声が伝わってきた。


「……美幸ちゃん?」
「え?」
 反射的に声のした方を振り返ると、美幸を認めた三十手前に見える優男が嬉しそうに声をかけながら、歩み寄って来る。


「やっぱり美幸ちゃんだ。奇遇だね~、こんな所で会えるなんて!」
「知り合いか?」
「去年までの義兄です」
「ああ、あの……」
 小声で瀬上が尋ねると、美幸は不愉快そうな表情で囁き返した。それで以前話に聞いた、浮気した末に美幸の姉と離婚した男である事が分かり、瀬上は無意識に顔を顰める。しかし二人ともすぐに表面上は通常の顔を取り繕い、対応する事にした。


「ここで会えたのも何かの縁。是非美幸ちゃんに、お願いしたい事があるんだ!」
 しかし挨拶もそこそこに嬉々として腕を掴んできた元義兄に、流石に美幸の顔が強張る。


「あの……、今、仕事中なんですが……」
「ああ、俺もここには商談で来ててね。明後日まで東京に居るんだよ。だから時間を取ってくれないか?」
「どうして私が」
 流石に憤然として文句を言いかけた美幸だったが、ここでいきなり相手が、美幸の足元で土下座した。


「頼む! あれは本当に誤解なんだ! ちゃんと話を聞いて貰えれば、美野やお義姉さん達も納得して貰える話だから!」
「ちょっと! こんな所で何をするんですか? 人目を考えて下さい!」
「何を考えているんですか」
 それなりに人の行き来する場所であり、何事かと周囲から視線を集めてしまった美幸達は腹を立てたが、相手は更に美幸の足首を掴んで懇願してくる。


「頼むよ。美野もお義父さんやお義兄さん達も耳を貸してくれなくて。電話も取り次いで貰えないし」
「おい、藤宮と以前姻戚関係だったかもしれんが、これ以上ふざけた真似をすると容赦しないぞ?」
「分かりました。分かりましたから、取り敢えず離して下さい!」
「本当かい、美幸ちゃん!?」
 瀬上が僅かに顔色を変えて屈み込み、美幸の足から男の手を引き剥がすのとほぼ同時に美幸が了承の返事をした為、相手が嬉しそうに立ち上がった。それに渋面になりながら、瀬上が美幸に囁く。


「おい、藤宮」
「商談先で変な騒ぎを起こすわけにいきませんよ」
「それはそうだが……」
 尚も不満そうに瀬上が警戒する視線を向けると、相手は悪びれずに名刺の裏にサラサラと携番らしき物を書いてから美幸に差し出した。


「ああ、仕事中だよね。悪いね邪魔をしちゃって。じゃあ後から都合の良い日時を教えて貰えるかな? 明後日の夜までは、東京に居るから」
「……分かりました。それでは失礼します」
「ああ、またね」
 嫌そうに名刺を受取った美幸に愛想を振りまきつつ男がビルを出て行くと、瀬上が困惑顔で美幸に確認を入れた。


「良かったのか? そんなのを受け取って。別れたお姉さんに未練があって間に立って欲しいって感じだが、お前、そんな事に首を突っ込みたく無いだろう?」
「当然ですよ。それなら最初から浮気なんかしなきゃ良いのに、何を考えているんだか。第一、別れた後実家がある大阪に戻って、一年以上経っているんですよ? 本気でよりを戻す気なら、今まで何をしてたんだか」
 そう憎々しげに吐き捨てた美幸に同意を示すように、瀬上が半ば呆れ気味に感想を漏らす。


「しかし商談先でいきなり土下座とは……。確かに見た目は良いが、何となく軽そうで、プライドも無さそうな男だな」
「姉との結婚が決まった時に、私も全く同じ事を思いました。あんなのにあっさり誑し込まれるなんて、本当に馬鹿なんだから……」
 そのまま言葉を濁した美幸だったが、すぐに気を取り直した様に瀬上を見上げた。


「取り敢えず話とやらを聞いてみて、よりを戻すのを助けろ云々の話なら、きっぱり断ってやります。今後、職場に乗り込まれたりしたら厄介ですし」
「それもそうだな。じゃあ行くぞ」
「はい、申し訳ありません。お騒がせしました」
 そうして美幸が頭を下げたのに頷いて歩き出した瀬上だったが、何となく先程の男の嫌なイメージと不吉な予感が、頭の中を離れなかった。


 ※※※


「おはよう」
「おはようございます、課長! もうお身体の調子は宜しいんですか?」
 土日を挟んで五日ぶりに出社した真澄が入室して来ると、美幸が立ち上がりながら満面の笑みで挨拶をしたが、何故か真澄は気まずそうに、微妙に視線を逸らしながら応じた。


「え、ええ。もう大丈夫だから……。ごめんなさいね、二日も休んで心配をかけてしまったみたいで」
「いえ、偶には課長もしっかりお休みを取るべきですよ。顔色も良いみたいで安心しました。今日からまた心機一転、頑張りましょうね!」
「そっ、そうね……。あの、ちょっと部長に話があるから失礼するわ」
「……はい」
 自分のロッカーに鞄を入れるのもそこそこに、何人かに挨拶を返しながらそそくさと部長室へと向かった真澄に、美幸は首を傾げた。そしてそれは周囲も同様に感じたらしく、美幸の体越しに高須と理彩が囁き合う。


「ねえ、何か課長、様子が変じゃない?」
「確かに、ちょっと落ち着きがなかったような……」
「まだお疲れ気味なのかしら?」
 美幸も真澄の態度を不思議に思いつつも椅子に座り、午前中に必要な書類を揃えて始業に備えようとしていたが、幾分緊張を含んだ声で高須が声を上げた。


「……おい、何か部長が顔色を変えて立ち上がったぞ?」
 それに美幸が反射的に振り向いて部長室に顔を向けると、透明な壁で囲まれたスペースの中で、椅子に座って真澄の話を聞いていたであろう谷山が、何故か両手を机に付いて立ち上がっていた。真剣な顔つきで美幸達に背中を向けている真澄と何やら話しているらしいが、空調同様防音機能もしっかりしている為、中の会話は漏れ聞こえてこない。


「え? まさか先週に引き続いて、また何かトラブルってわけじゃないでしょうね?」
「でも課長は一昨日に続いて昨日も休みだったんですよ? 問題の起こしようが無いじゃないですか」
「それはそうなんだがな。何なんだろうな?」
 先週の悪夢が醒めやらぬ理彩が、思わず顔を引き攣らせたが、美幸と高須がそれを否定しつつ首を傾げる。そして異常に気付いた企画推進部の殆どの者が、部長室を見やりながら不安そうな顔をしていると、始業時間間際になって話を終えたらしい谷山と真澄が、揃って部長室を出て来た。


「皆、ちょっと集まってくれ。今日の業務開始の前に、話しておく事がある」
 少し大きめの声で谷山が召集をかけた為、室内の人間は怪訝な顔をしながらも立ち上がった。


「何だ?」
「取り敢えず行ってみるぞ」
 そして部長室を半分囲む様に、机と机の隙間に企画推進部の全員が集合すると、谷山は小さく咳払いしてから隣に立つ真澄を促す。


「皆集まったな? じゃあ柏木君、報告してくれ」
「はい。あの……、私事で恐縮な上、突然の事で驚かれるかとは思いますが、昨日入籍しましたので、ご報告します」
「……………………」
 そう告げて軽く頭を下げた真澄だったが、その途端室内に沈黙が漂い、誰一人身動き一つできずに固まった。しかし頭を上げた真澄は、淡々と報告を続ける。


「ですが、主人が私の両親と養子縁組した関係で、姓は柏木のままで勤務を続けていきますので、業務上特に支障はないかと思います。今後とも宜しくお願い致します」
「……………………」
 報告を終えて再び深々と頭を下げた真澄だったが、あまりの事態にまだ静まり返っている室内を見回した谷山が、幾分困った顔をしながら口を開いた。


「あ~、皆が驚くのも無理はないが。それでだな」
「ちょっと待って下さい、課長!!」
「なっ、何かしら? 藤宮さん」
 そこで谷山の話を遮り、人混みを掻き分けて険しい表情の美幸が最前列に躍り出た。そして組み付く勢いで真澄に迫る。


「課長、ついこの前『今お付き合いしている人とかはいない』と言っていたじゃないですか! あれは嘘だったんですか!?」
「う、嘘じゃないわよ? だって夫とは付き合っていなかったし」
 美幸の剣幕に押されて真澄がじりっと一歩後退すると、美幸はその分間合いを詰めながら、尚も噛み付いた。


「はぁ!? 何寝とぼけた事を言ってるんですか!? 普通はお見合いとか合コンして、取り敢えずお友達として付き合ってみて、それから結婚を前提にお付き合いして、婚約して、結納して、挙式して、入籍って流れじゃないですか! 何、順番すっ飛ばしてるんですか!? 仕事で手順を省くのとは、訳が違うんですよ!?」
「それは私も重々承知してるし、同じ様な事を、父や祖父に散々言われたけど!」
 段々壁際に追い込まれつつ悲鳴混じりに真澄が弁解を続けたが、それを見た他の面々は漸く当初の衝撃から立ち直り、冷静に批評を始めた。


「……何か、すっごい違和感」
「ええ、普段ぶっ飛んでる藤宮が、真っ当な事を言ってますからね」
「藤宮君、やっぱり良いとこのお嬢さんらしいな」
「そうか、ああいう手順踏まないと、藤宮的には駄目なんだ」
「課長、全く反論できなくて、藤宮に追い詰められていますよ」
 そんな事を囁かれているなどとは知らず、美幸が遠慮なく追及を続ける。


「まさか課長、変な男に騙されて、デキ婚とかじゃないでしょうね!? もしそうだったら相手の男、殺してやるっ!!」
「ちっ、違うから! もともとお互い相手の事が好きだったのが分かったから、単にそのままの勢いで婚姻届出しちゃっただけで!」
 何となく腹部を手で隠しつつ涙目で真澄が弁解したが、美幸は益々気に入らない様に声を張り上げた。


「勢いってなんですか、勢いって! 課長って面倒見が良いタイプですから、まさか知り合って数日でブッサイクなバツイチのコブ付き男に同情して、うっかり入籍したとかじゃ」
「違うから! 知り合って軽く二十年は経過している、年下で独身の、美形で人気作家の義理の従兄弟だから!」
「なんですかそれ!? 自慢ですか? 職場で惚気て良いと思ってるんですか!?」
「だから惚気ているわけじゃなくて!!」
「おい、柏木。それってひょっとして……、いやひょっとしなくても」
「佐竹先輩の事ですよね?」
「え、ええ……」
 そこで唐突に強張った顔で口を挟んできた広瀬と城崎に、美幸は一瞬追及するのを忘れて振り返る。


「は? 広瀬課長、係長も、課長の結婚相手を知ってるんですか?」
「ああ……。そいつ、俺達の大学の後輩で、城崎には先輩に当たるな。そうか、やっとか……、長かったなぁ……」
「課長……、本当にあの人で良いんですか? って、もう入籍済みなんですから、今更ですよね……。ははは……」
 何故か腕を組んで感慨深く頷いている広瀬と、どこか遠くを見ながら乾いた笑いを漏らしている城崎に美幸が怪訝な顔を向けると、谷山が美幸と真澄の腕を取り、些か強引に移動を始めた。


「柏木、藤宮。二人ともちょっとこっちに来い」
「え? 部長?」
「部長! 邪魔しないで下さいよ!」
 戸惑う真澄と憤る美幸に構わず谷山は応接セットがある一角に二人を誘導し、そこのソファーを指差して指示した。


「邪魔はせん。だが、お前らが仕事の邪魔だ。ここで好きなだけ喋ってろ。城崎、柏木の今日の外出予定は?」
「十三時からです」
「そうか。それなら藤宮。午前中、好きなだけ柏木に質問しておけ。俺が許す」
「ありがとうございます!」
「ちょっと部長!」
 そして谷山は美幸に腕を掴まれた真澄を見捨て、他の部下に始業時間を過ぎた事を告げる。


「ほら、他は散った散った。もう始業時間過ぎたぞ、とっとと仕事しろ」
「はい、分かりました」
「課長、おめでとうございます」
「私も仕事……」
「大丈夫です、係長が引き受けてくれますから。それで、結婚相手が社長と養子縁組ってどういう事ですか。なんか政略結婚の臭いプンプンなんですけど!? あの社長、自分のポカを娘売り飛ばして穴埋めする気!? 一回ボコッてやる!!」
 立ち上がって自分の席に戻ろうとした真澄をしっかり捕まえたまま美幸が問い質すと、真澄が顔を引き攣らせながら弁解する。


「自社のトップを、ボコるとか言わないの! それに政略結婚とかじゃないから。彼は別に取引先とかの人間じゃないし!」
「だって幾ら親戚付き合いしてたからといって、いきなり無関係な人間を養子縁組っておかしくありません?」
「まるっきり無関係じゃなくて、実はここの外部取締役で、柏木家以外の個人株主としては、上位クラスの人間だったりするから」
「何なんですかそれは!?」
 そしてソファーに縫い付けられた様に動けなくなった真澄と、彼女をどこまでも追及する美幸を横目で見ながら、室内の人間は小さく溜め息を吐いた。


「すげえ、藤宮さん、容赦なく問い詰めてる」
「個人情報まで、粗方聞き出しそうだ」
「あの柏木課長がタジタジだぞ」
「商社じゃなくて、マスコミ関係に就職してもやっていけたな」
「暫くあれをBGMに仕事するか。俺達、どうせ昼になったら他の部署の連中に掴まって、根掘り葉掘り聞かれるぜ?」
 そんな事を囁き合った企画推進部の面々は、苦笑いしつつ二人の会話に聞き耳を立てながら仕事を開始した。


 その日、真澄を筆頭とする企画推進部の面々は、昼休み同様終業後も真澄の電撃入籍について聞き出そうとする他部署の者達に纏わり付かれたが、各自振り切って早々に職場を後にした。そんな中、ほぼ一日考え込んでいた美幸は、城崎を捕まえて一緒に食事に繰り出した。


「それで?」
「それで、って?」
 落ち着いた雰囲気の和食の店に入り、注文を済ませてから改めて美幸が切り出すと、城崎が困った様に尋ね返す。その顔を軽く睨み付けながら、美幸が確信している口調で再度問い掛けた。


「係長、絶対何か知っていますよね? 課長の結婚について、何か裏がある様な気がするのは、私の気のせいでしょうか?」
 言い逃れは許さないといった感じの鋭い視線に、城崎は早々に白旗を上げた。


「その……、結婚自体には裏は無いが、これまでの経過に裏は有る」
「やっぱり……」
 苦々しげに呟いた美幸に、城崎は宥める様に付け加える。


「そうは言っても、悪い意味じゃない。取り敢えずどこまで口外して良いか判断が付かないから、ここだけの話にしておいて貰いたいんだが」
「勿論です」
 真顔で頷いた美幸に、城崎は覚悟を決めて口を開いた。


「実は、課長の下で係長に就任した時から、業務の情報を課長が結婚した人に流していたんだ」
「はぁ!? ちょっと係長、何やってたんですか!」
 流石に声を荒げた美幸だったが、城崎は落ち着き払って宥める。


「とは言っても、それに関して有益な情報を返して貰ったり、商談先を紹介して貰ったりと、これまで色々便宜を図って貰ってたんだ。だからその人が課長に好意を持っていたのは、前々から何となく分かっていたし」
 そこまで聞いた美幸は、少しの間難しい顔で考え込んでから、再度城崎に視線を合わせて問いかけた。


「それ……、課長は知っていたんですか?」
「いや。その人に黙っていろと言われたもので、俺からは何も言わなかった」
「じゃあ養子縁組したっていうのも、改姓して課長が仕事上煩わしくならない様に、相手が気を配った結果ですか?」
「そこまでは何とも……。あの人が柏木産業の外部取締役だったのも、今日初めて知ったし。社長との絡みで、何か色々あったのかもしれないが」
 そうして再度考え込んでから、美幸は慎重に確認を入れてきた。


「じゃあ、その人は課長が働く事に関して、制限を加えたりするタイプの人じゃないんでしょうか?」
 その質問に、城崎はちょっと驚いた様な表情を見せてから、冷静に言って聞かせた。


「その類の心配はしなくて良いと思うぞ? 結婚したら家に入れというタイプの人間なら、陰からサポートなんかしない筈だし。あの人は昔から家事は完璧だった上、作家だから比較的自由に動ける人だからな」
「……それなら良いんですけど」
 ちょっと拗ねた様に美幸が口にした所で注文の料理が運ばれて来た為、取り敢えず二人はそれに箸を付けて食べ始めた。しかしすぐに城崎が笑いを含んだ声で問いかける。


「だけど、藤宮さんが今日あれこれ課長に聞いてたのは、課長の結婚自体が気に食わなくて怒ってたわけじゃなくて、結婚した事で課長の仕事に影響が出るかもしれないっていう懸念からだったか」
「当然ですよ! 何か課長って色恋沙汰の気配なんか微塵も感じさせなかったから、すっかり油断していました。男の人は単に家族が増えるってだけかもしれませんけど、女性の場合色々大変なんですよ。仕事を辞めたり配置転換になったり、出産するとなったら産休育休だって問題になってくるんですからね!」
 語気強く言い切った美幸に、城崎はここでしみじみとした口調で応じた。


「……やっぱり男女間で捉え方が違うな」
「何がです?」
「俺は今日、課長が入籍した話を聞いて、取り敢えずめでたいとしか思わなかったから」
「私だって、おめでたいとは思いましたよ!」
「悪い。祝ってないとは思ってないから」
 完全に腹を立てた風情の美幸を城崎が慌てて宥めると、美幸は溜め息を吐いて話を続けた。


「私が課長に憧れてるのって、助けて貰った時の印象が強かったのは勿論なんですが、あの後調べてみたら、課長が社長令嬢なのにバリバリ仕事をしてたって事もあるんです」
「と言うと?」
「以前、お話ししたかと思いますが、私が末っ子で父が唯一名前を付けた事もあって、父に可愛がられていたんです。良く言われていたんですよ『大きくなったらうちの会社に入って、お父さんを助けてくれ』って。それなのに中三の時に一番上の姉が結婚した秀明義兄さんが経済産業省を辞めて入社したら、お義兄さんを褒めちぎって頼りにして、私に会社に入れとは全く言わなくなったんです。あ、勿論お義兄さんは仕事はできるし、家族への気配りを欠かさない、凄く良い人なんですが」
「そう思えるなら、幸せだろうな」
「え? 今何か仰いましたか?」
「……いや、別に」
 突然ボソッと口を挟んだ城崎に、美幸は不思議そうに尋ねたが、城崎は視線を逸らしながら何でもない事を告げた。それを受けて美幸が話を続ける。


「お義兄さんが実質的なうちの会社の後継者として現れるまでは、漠然と考えていたんです。私が父の跡取りだって。それが単なる考え違いって分かって、これからどういう人間になれば良いのかなって少し悩んでいた時期に課長と出会って、課長を物凄く羨ましく思ったんです。親がトップの会社に入って、人並み以上に仕事をしてるのが凄いなって。親に期待されてて羨ましいなって。……あの人の下だったら、本当になりたい自分も見えてくるんじゃないかって思ったんです。入社してみたら現実は結構厳しかったですが」
「社内抗争はあるわ、足の引っ張り合いはあるわ、縄張り争いがあるわで幻滅したか?」
 静かに語った美幸が最後に皮肉っぽく小さく肩を竦めたのを見て、城崎が笑いながら尋ねると、美幸は不敵に笑った。


「課長がそんな事を物ともせずにやってきたのが分かって、改めて尊敬しただけですよ。そして今回は、課長が仕事をする上でのリスクと考えないで、あっさりと結婚してしまった事と、そんな理解のある都合の良い相手を捕まえた事に感心しました。流石にちょっと動揺して日中散々問い詰めてしまいましたが、課長にはこれからもずっと今まで通り働き続けて貰いたいので、良かったんじゃないでしょうか」
 神妙にそんな結論を美幸が導き出すと、城崎は安堵した様に頷いた。


「俺もそう思う。取り敢えずこの結婚は、課長の仕事上の不利益にはならない筈だ」
「だけど、ちょっと羨ましいですね。そういう自分の都合に合った結婚相手を見つけちゃうのって。流石課長って感じです」
 美幸がそんな事をしみじみと言い出した為、城崎が思わず箸を止め、再び意外そうな顔で見やった。


「藤宮さんは、そういう都合の良い相手を探す気はあるのか?」
「私、まだ入社して一年経ってないんですよ? 仕事を覚える方が先でしょう」
 真顔でそんな事を言われて、城崎は噴き出したいのを懸命に堪えた。


「……実に真っ当な意見だな」
「馬鹿にしてます?」
「してるわけないだろう」
 軽く睨んできた美幸に弁解しながら、城崎は(確かに、この年で結婚云々を考えるのは早いだろうな……)などと自身との年齢差を思わず考えた。しかしそんな事は面に出す事無く、笑顔でビールが入ったグラスを持ち上げる。


「じゃあ藤宮さんが納得してくれた所で、課長の結婚を祝して乾杯」
 そう言ってグラスを美幸に向かって差し出すと、美幸も笑顔でウーロン茶が入ったグラスを持ち上げ、それに静かに合わせる。


「乾杯。近いうちに課内か部内で祝賀会を開きましょうね?」
「そうだな。その時の幹事は、藤宮さんにやって貰おうか」
「当然です。私以外の誰がするって言うんですか」
 そう言って幹事役を譲る気など皆無だと言わんばかりに胸を張った美幸を見て、城崎は如何にも楽しげに笑った。



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