猪娘の躍動人生

篠原皐月

11月 戦い済んで、日が暮れて

「失礼します。上原課長、申請書類を揃えておきましたので、ご確認下さい」
「ああ、ご苦労様」
「広瀬課長、人事部からのアンケート用紙です。無記名で各自記入を徹底させて下さい」
「分かりました」
 清川との賭の最終日である金曜日。朝から時折企画推進部の部屋を訪れる他部署の者達は、例外なくチラチラと二課のスペースに目をやり、課長席の横に置かれている殆ど書き込まれていないホワイトボードの記載内容を、さり気なく確認しては去っていくという行為を繰り返していた。


「本当にムカつくわね。朝から来る人間来る人間、全員二課の方を横目で眺めて行って。言いたい事があるなら正面から言ってけってのよ」
「気になるのは分かるんだけど……、こうあからさまだと流石にね」
 憤慨しつつも押し殺した声で美幸が悪態を吐くと、隣の席の理彩は溜め息混じりに宥めた。そこで美幸がふと気が付いた様に言い出す。


「そう言えば、昨日から聞こうと思っていたんですけど」
「何?」
「昨日から、あそこに成約社名と成約額を書いていますけど、殆ど百万前後の取引ばかりじゃないですか。どうしてもっと大きい取引を狙わないんですか? 昨日までの段階で成約数が八件、総額一千万弱だなんて、今日一日待っても三千万到達は、かなり厳しいんじゃありません?」
 ホワイトボードを指差しながらのその問い掛けに、理彩は一瞬唖然としてから小声で叱りつけた。


「藤宮……、あんた仕事はそれなりにできるのに、何でそんな肝心な事が分かって無いのよ!? 何で皆が火曜から、散々駆けずり回ってたと思ってるわけ!?」
「え、えぇぇ? 私、何か変な事言いましたか? だってチマチマ稼ぐより、大口を捕まえた方が確実じゃ無いですか?」
「そんな一千万単位の取引なら、社内で慎重に検討する時間が必要でしょうが!」
「……言われてみれば、そうですね」
 指摘されて改めて気が付いた様に、美幸は素直に頷いた。それを見た理彩は頭痛を覚えつつ、補足説明をする。


「全く……。だけど今回は金曜までって時間が区切られてるから、そんな悠長な事言っていられないの。でも百万単位の案件だったら、各部署の責任者の裁量に任せられる場合が多いから、はるかに取り易い筈なのよ。だから短期間の勝負なら三千万を一件よりも、百万を三十件の方が取れる可能性は遥かに高いわ。というか、そういう取り方をしないと、到底無理よ」
「百万を三十件、ですか……」
 そう言われて改めてホワイトボードに目をやった美幸の背中から、理彩が付け加える。


「勿論、売り込んでも成約に至らない所はあるし、それ以上の件数を皆で回っている筈よ。恐らく少なくとも、その倍の件数はね」
 そこで会話が少し途切れてから、美幸が口調を改めて再度口を開いた。


「改めて考えると、二課の皆さんって、凄い人達ばかりですよね」
「一番凄いのは課長でしょうけど」
「どうしてですか?」
 理彩が異動してきた当初真澄に反感を持っていた事を知っていた美幸は、今ではきちんと上司として認めているとは分かっていたものの、そこまで手放しで誉めるのを少し意外に思いつつ問いかけた。すると理彩は小さく肩を竦めてから、課長席を指差す。


「月曜日、課長は一日PCに張り付いていたじゃない? 多分普段から溜めていた売り込み案の中から、比較的取りやすそうな百万から二百万までの案件をピックアップした上で、簡単に素案を纏めて各自に割り振ったのよ。常にそれだけ引き出しがあって、かつ迅速に行動できるなんて、とても凄い事だと思うわ」
「そうですね。それに課長は勢いで賭けをしたわけじゃなくて、ちゃんと勝算があったって事ですよね」
「そういう事。それに大体一日二日で商談を纏めろって言う方が無茶なんだから、昨日の段階で一千万弱まで到達しているなら上出来よ。あと今日一日、あるんですからね。皆が戻るのを大人しく待っていなさい」
「分かりました。せめて事務処理は滞りなく進めておかないと、皆さんに顔向けできませんね」
「そういう事。ほら、さっさとやるわよ」
 そこで笑顔を見交わした二人は、時折無遠慮な乱入者を撃退しつつ、順調に書類を片付けていった。


 そして午後も遅い時間になってから一人、また一人と二課のメンバーが戻り、成約結果をホワイトボードに記入していった。
 通常であれば信じられないペースの成約状況に、一課と三課の者達はそれを遠目にして絶句していたが、当の本人達は若干浮かない表情をしていた。


「……ただいま」
「お疲れ様でした、加山さん」
 控え目に帰社の挨拶をしてきた加山に、挨拶をしながら美幸が勢い良く立ち上がり、珈琲を淹れる為歩き出す。その横をすり抜けて、加山はホワイトボードに歩み寄った。


「お疲れ。どうだった?」
「まあまあかな? 本当はもう少し取りたかったが……」
 背後からかかってきた声に、成果を書き終えた加山がマジックのキャップ閉めて体をずらしてみせる。そこに書かれた数字を見て、諦めと慰めが入り混じった声がかかった。


「それだけ取れれば十分だろうが」
「あまり欲張るなよ」
「そこの二つ、まるっきり新規だろうが。次に繋がるしな」
「そうは言ってもですね」
「戻りました」
 如何にも悔しそうに加山が尚も言いかけた所で、タイミング良く戻ってきた城崎に、美幸がすかさず声をかけた。


「あ、お疲れ様です、係長。今、係長の分の珈琲も淹れますね。加山さん、珈琲をどうぞ。このクッキーは浩一課長からの差し入れです。とっても美味しいんですけど、この間皆さんが味わって食べる暇なんか無かったでしょうから、仲原さんと二人で我慢して取っておいたんですよ? 味わって食べて下さいね?」
「ありがとう。早速頂くよ」
 自分の気持ちを引き立たせようとして、些かわざとらしい明るい口調で告げてきた事に気付いた加山は、素直に礼を述べて珈琲とクッキーが置かれた自分の机へと戻った。その間に城崎は自分の成果をホワイトボードに記入し終えて、歯軋りでもしそうな声音で呻く。


「……俺の分を含めて、合計で二千六百八十万ですか」
 素早く暗算したらしい城崎の言葉に、僅かに二課の空気が若干重苦しい物に変化した。そして振り向いた城崎は、一番近くの机に居た瀬上に確認を入れる。


「後は誰が残っている?」
「課長と高須です」
「あの、でも……。二人とも昼前に一度戻って、そこに記入してました。その後、食事をしてから再度出掛けて行きましたので」
「それなら、これから三百二十万は、さすがに厳しいか……」
 理彩が思わず瀬上の発言に注釈を入れると、その場に更に沈鬱な空気が漂った。しかしそれを振り払う様に、美幸が明るく声をかける。


「係長、お疲れ様でした。珈琲をどうぞ」
「ああ、ありがとう」
 そこで取り敢えず城崎が微笑んでから席に着くと、彼と背中合わせの席の清瀬が思い出した様に言い出した。


「ああ、そうだ藤宮さん。これを海外事業部二課の田所課長に渡してきてくれないか? 提携事業の合意文書を今日まで出すと言ってたんだが、後処理で手が離せないから。見れば内容は分かる筈だし」
「分かりました」
「ついでに俺のも頼むよ。これ、交通費の支給申請書」
「俺は営業五課の荏原さんに頼まれてた、取引先のリスト」
「こっちも頼む~。広報課から回ってきてたアンケート用紙をほったらかしてて、今書き終わった~」
「はいはい、纏めてお引き受けしますので。……ちょっと行って来ますね」
 思い出した様に次々と差し出される書類等を確認し、美幸が笑顔で二課を後にして数分後、終業時刻まで三十分を切ったところで、真澄が戻って来た。


「お帰りなさい、課長」
「……戻りました」
 辛うじて聞こえる程度の挨拶を返し、真澄が無表情でホワイトボードへと歩み寄る。それを見た二課の者達は、揃って肩を落として囁き合った。


「おい、課長の顔が怖いぞ」
「やっぱり、駄目だったか……」
「こんなつまらない事で、課長を辞めさせられません。いざとなったら責任を取って、俺が辞表を出します」
「城崎君、早まるな。辞めるのは年上の俺達からだろうが」
 部下達が小声でそんな事を言い合っている事など気にもせず、真澄はホワイトボードにとある社名と数字を書き込んだ。


《稲葉トイアース 三百八十万》


 それを目ざとく見つけた村上が、周囲に注意を促す。
「……おい、ちょっと待てお前ら。あれを見ろ」
 緊張した声で呼び掛けられた面々は、その数字を見た瞬間驚愕し、次いで喜びを露わにして叫びかけた。


「……え? おい、マジか?」
「信じらんねぇ」
「本当に、三千万取れちまったぞ」
「やりましたね、課長!」
「ふっ……、うふっ、ふふふふっ……、ふふふふ……」
「あの……、課長?」
 マジックを手に持ち、ホワイトボードに身体を向けたまま、常より低い声で突然笑い出した真澄に、城崎は一応声をかけてみた。しかしそれを綺麗に無視した真澄の不気味な笑い声が、企画推進部内に静かにこだまする。


「……うふふっ、ふふふふふふふふふふふ……」
「え、えっと……、俺、ちょっと煙草吸ってくるわ」
「俺はトイレに……」
「ふふぅっ、うふふふっ……、ふふふふふふ……」
「ああ、経理部に申請しないといけない事があったな……」
「……外で私用電話、かけてきます」
「ふっ、うふふふふふふふふふふふ……」
「そこの灯りちらついてるし、替えを貰ってくるかな……」
「そう言えばコピー用紙も残り少なかったですよね。纏めて庶務課から貰って来ます」
 そうして真澄以外の二課の者達は、適当な口実を口にしつつ次々立ち上がり、何処かへと姿を消して行った。そして二課に限らず、一課と三課の人間も一人二人と席を立ち、部内には数える程しか人がいなくなる。
 そして更に数分後。気が済んだのか漸く笑うのを止めた真澄が席に着くとほぼ同時に、外回りから高須が、社内のあちこちで用事を済ませた美幸が、二課に戻って来た。


「……戻りました! あれ? 人が全然居ない」
「もう終業時間近いのに、まだ皆戻って無いのか?」
「いえ、課長も帰って来てますし、後は高須さんだけでしたよ?」
「変だな。何で揃って出払ってるんだろう?」
「偶々、用事が重なったんでしょうか?」 
 人気の無い室内を見回し、美幸と高須は首を捻りつつそんな事を話していた為、その時自分の机から広瀬と上原が(お前ら、命が惜しかったら入ってくるな!)と必死で目配せを送っていた事に気付かなかった。


「さて、どれだけ取れたかのな、っと」
 そして神妙な顔付きでホワイトボードに向かった高須は《満谷電機 百二十万》と書き込んでから、それまで書かれていた項目に目を通すと、その内容に目を見開いた。


「……えっと、あれ? 俺が書く前に、既に三千万越えてるじゃないか!」
「え? って事は、課長が取り付けた商談で、目標到達だったんですね! 凄い、本当に取れるなんて!?」
 驚いて声を上げた高須に、横から覗き込んだ美幸も満面の笑みを浮かべる。


「俺だってビックリだよ! まさか本当にやれるとは思わなかった!」
「えぇ~? 高須さん、課長の事を信用しないで働いてたんですか?」
「それとこれとは別だろうが!」
 そこで二人が全身で喜びを露わにしていると、時計で時刻を確認した真澄が、静かに立ち上がって声をかけた。


「高須さん、藤宮さん。ちょっと手伝って頂戴」
「え?」
「行くわよ」
「は、はいっ!」
「今、行きます!」
 唐突な指示に戸惑った二人だったが、重ねて指示されて高須は半ば鞄を放り出し、美幸も持ち帰った書類を乱暴に机に置いて慌てて真澄の後を追った。


「……おい、目標達成したのに課長、何かテンション低くないか?」
「変ですよね? もっと喜ぶかと思ったのに」
 そんな事をコソコソと囁き合いながら二人は真澄に付き従い、エレベーターに乗り込む。そして真澄が迷わず押した目的階に到着し、ドアが左右に開いた瞬間、廊下とエレベーターの中で二種類の異なる声が上がった。


「げっ……」
「……あら、清川部長」
 呻き声を上げて一歩後ずさった清川とは逆に、真澄は愛想笑いを浮かべながら廊下へと優雅に足を踏み出す。


「まだ終業時間までは、十分程あるかと思いますが、帰り支度をしてどちらへ?」
「い、いやっ! ちょっと野暮用で……、失礼する!」
「ちょっと待て、うすらハゲ」
「うぎゃぁっ!」
 階段から逃走しようと思ったか踵を返した清川だったが、真澄がすかさず駆け寄ったかと思ったら、その膝裏に思い切り蹴りをかまし、清川を廊下に俯せに転がした。そしてその背中を容赦なく踏みつけながら、鋭い指示が飛ぶ。


「高須! 藤宮! こいつの腕を一本ずつ押さえなさい。良いって言うまで、離すんじゃないわよ!?」
「はっ、はいぃぃっ!!」
「分かりましたっ!!」
「こ、こらっ! 君達何をする!」
 清川に非難されたものの、真澄に鬼の形相で叫ばれた高須と美幸は、一も二もなくそれに従った。そして必死に首を捻って背後を見上げようとしている清川を足蹴にしたまま、真澄が冷酷そうに微笑む。


「さて、と。清川部長。実は首尾良く、今日までに二課で新規契約を三千万取れまして」
「そっ、それは何よりだな! さっ、さすがは柏木産業のホープと名高い柏木課長」
「それで清川部長に、ご褒美を頂きに参りました」
「な、何の話かね?」
 白々しい追従の言葉の後に惚けようとした清川だったが、真澄がポケットから取り出したICレコーダーが『「……何かご褒美が頂きたいところですね」「はっ! 何でもくれてやろうじゃないか。その代わり、達成できなかったら……」』と放言した清川の台詞を再生し、一気に顔を青ざめさせる。


「い、いや、柏木課長、それは言葉の綾と言うもので……。お互い社会人なわけだし、そこはそれ」
「安心して下さい。住宅ローンと子供の進学費用にひぃひぃ言ってる小市民から小金を巻き上げるつもりはありません。と言うか、むしり取るだけの金も無いでしょう」
「くっ……、それでは君は、何が欲しいと言うんだね!?」
(うわ、本当の事とは言え、容赦ねぇぇっ!!)
(課長……、冷静に言ってる分、怖さ倍増です)
 流石に清川が屈辱で顔を赤くし、美幸達が益々顔色を無くす中、その衝撃的な会話は続いた。


「その未練たらしく頭皮にまとわりついている、薄汚い髪を」
「は?」
 思わず間抜けな声を上げた清川に、真澄は優しげな口調で、噛んで含める様に説明した。


「大して数量もコシも無さそうだけど、来春まで取っておいて燕が来た時に、巣材として正面玄関にバラ撒いておくのよ。それが気に入って燕がこのビルで巣を作ってくれたら、柏木産業が儲かる験担ぎになるでしょう?」
「あの、課長……、ちょっと待って下さい」
「課長? マジですか?」
 呆然としている清川の代わりに美幸と高須が思わず突っ込みを入れたが、真澄はにっこりと愛想良く笑いかけながら、楽しげに話を続けた。


「部長はなけなしのお金を払わずに済む、柏木産業は儲かる、燕は巣作りが助かって喜ぶ。一石二鳥どころか、一石三鳥でしょう? 自分の考えに惚れ惚れするわ」
「いや、ちょっと待て、柏木課」
「うるせぇんだよ! 動くなよ? このごますり野郎がっ!!」
 清川が慌てて何か言おうとした瞬間、真澄は般若の形相で勢い良く清川の背中に馬乗りになり、その頭に手を伸ばして力一杯髪の毛を鷲掴みにし、鈍い音を立てながらその髪の毛を毟り始めた。


「ひっ、ひぎゃあぁぁぁーっ!!」
「ひっ……」
「かちょ……」
 まさしく断末魔の悲鳴を上げた清川を押さえつけながら高須と美幸が固まり、そのフロアの全てのドアから、その声を耳にした社員達が現れる。


「ちっ、安いヘアトニック使いやがって」
「いだだだだっ!!」
「下品な匂いが手に染み付いたら、どうしてくれるんだ、あぁ?」
「ぎゃあぁぁぁーっ!」
「大して量もないし、巣材にするのも燕が嫌がるかもしれないけどな」
「たっ、助けてくれぇぇっ!!」
「物好きな燕も偶には居るだろうし」
「柏木課長! 一体何をしてるんですか!?」
 そこは総務部が入っているフロアの廊下であり、この騒動を遠巻きにしている社員達から連絡が行ったのか、清川の部下の赤石が血相を変えて真澄の元にやって来たが、真澄は彼を見上げて平然と言い放った。


「何って……、清川部長から目標達成のご褒美を貰っているところですが?」
「部長に馬乗りになって、何をやってるんですか! 大体ここをどこだと」
「あら、じゃあ清川部長の代わりに、赤石課長が髪をくださいます?」
「は?」
「確かに部長より量もコシもたっぷりで、引き抜き甲斐がありそう」
「あ、赤石……、助けてくれ……」
「…………」
 ニコニコと真澄が旧知の赤石に代替案を出したが、清川の弱々しい懇願口調を耳にした赤石は、顔を強張らせて一歩後退した。


「あら、どうされました? 部長の身替わりになる気は無いんですの? …………だそうだぞ、清川。薄情な部下ばかりで、結構な事だなあぁぁっ!!」
「ぎゃあぁぁぁっ!!」
 蒼白な顔の赤石に悠然と微笑んだ真澄は、一転して清川の後頭部を親の敵の如く睨み付けつつ、再び勢い良く頭髪を毟り取った。しかし少し距離をおいて周りを囲んでいる人間は誰一人、真澄の剣幕に恐れをなして近寄ろうともしない。


(か、課長、絶対壊れてる! だっ、誰か助けてぇぇっ!!)
 未だ清川の腕を押さえつつ、涙目で美幸が心の中で悲鳴を上げた時、いきなり斜め上から水しぶきがかかった。


「きゃあっ!」
「うわっ!」
「……何?」
 どうやら至近距離から水をかけられたと分かった美幸が顔を上げると、同様に真澄も前髪からポタポタと水滴を滴らせながら、不機嫌極まりない顔を上げていた。そしていつの間にか人垣の最前列に出ていた女性が、バケツ片手に呆れた口調で真澄を窘めてくる。


「職場復帰前に書類提出に久し振りに出社してみれば、この騒ぎは何事よ。少しは頭を冷やしなさい」
「……翠、あんた私の邪魔をする気?」
「邪魔をする気は毛頭無いけど、他人の迷惑を考えろって言ってるの。わざわざ勤務中に騒ぎを起こさなくても、帰宅途中で強盗に遭遇したり、帰宅した所に自宅にダンプが突っ込んだりとか、世の中危険が一杯なのよ? お金と人脈は腐る程有るくせに。有る物は有効に使いなさいよね」
 凄んだ真澄に一歩も譲らず、平然と言い返した女性の発言内容を聞いて、美幸と高須は僅かに顔色を変えて囁き合った。


「え、えっと……、あのおんぶ紐してる人、誰ですか?」
「確か課長と同期の、秘書課の鹿角さんだ。だけど子供背負いながら、なんつう物騒な事を唆してんだよ」
「や、やっぱり『そういう話』ですよねぇ」
 頭上で交わされているそんな話を聞いて、清川の顔は真っ青になった。しかし更に清川の心臓を凍らせる様な会話が続く。


「それに……、偶々、うっかり成分多目の人事部担当者が、個人情報が書かれた紙をうっかり落とすかもしれないわね。それを利用すれば事は簡単でしょう」
「あぁっ! やだぁ~、私ったら~、うっかり某部長の住所、電話番号、通勤経路、家族構成、学校名、就職先、その他諸々の個人情報が書かれた大事な紙を、どこかで落としちゃった気がするわぁ~。どうしよう~」
 そこでいつの間にか最前列に出てきた真澄と同年輩の女性が、わざとらしく声を張り上げながら抱えたファイルの上の方から、A6程度の大きさの紙を取り落とした。そしてヒラヒラと舞い落ちたそれを、両手に纏わり付いた髪の毛を払い落とした真澄が、手を伸ばして掴み取る。そして清川の背中から立ち上がってずぶ濡れのまま携帯を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。


「もしもし? 私だけど、大至急人数を揃えて欲しいの。ええ、今夜よ……」
「あの人って……、確か人事部の……」
「課長と同期の夏木係長だな……」
 呆然と呟きつつ、真澄が離れた為高須と美幸も清川の腕を離すと、慌てて体を起こして座り込んだ体勢になった清川の左右に、真澄の同期二人がしゃがみ込んで囁いた。


「あ~ぁ、清川部長、真澄を本気で怒らせましたよね? 真澄、ムキになって三千万取っちゃいましたし」
「それで怒りがMax状態だと、分からないなんて言わないですよね? それにまさか髪を多少毟られた位で済むとは、思っていませんよね?」
「なっ、何をするとっ……」
「うっかり家に帰ったら、ご家族も巻き込まれるのは確実ですね。お気の毒に」
「私達、大学時代から真澄と付き合ってるから、彼女を本気で怒らせた連中の末路なんて知り抜いてますもの」
「「ねぇ」」
 そう言って清川の身体越しに、微笑み合いながら声を合わせた二人を交互に見つつ、清川は狼狽した声を上げた。


「どどどどうすればっ!!」
「これはやっぱり、真澄の怒りが鎮まるまで」
「身を隠しておいた方が良いですよね~」
「カードでありったけお金を引き出して、このまま逃亡するんですよ」
「家族や会社の人間に電話したりも駄目ですよ? 逆探知されますからね」
「彼女の縁戚に警察関係者がいて、裏から手を回されますから」
「部長が家を離れていれば、ご家族は無事ですよ?」
「そうよね~、幾ら真澄だって本人以外に怒りをぶつけるほど、節操無しじゃないし」
「一ヶ月もすれば真澄も落ち着きますよ。その間家族が巻き添えを食ったり、家が破壊されない様に、頑張って逃げ切るんですよ?」
「分かりましたか?」
「わ、分かっ」
 絶妙のコンビネーションで左右から言い含められた清川が頷きかけた瞬間、通話を終えたらしい真澄が冷酷非情な眼差しで清川を見下ろす。それを真正面から見てしまった清川は、盛大な悲鳴を上げて床に転がっていた鞄を手に立ち上がった。


「……うっ、うわあぁぁぁーっ!」
 そうして清川は錯乱したかの如く、周りを囲んでいた社員を突き飛ばし、まっすぐ階段へと向かうと脱兎の勢いで駆け下りて行った。


「清川部長!」
「待って下さい!」
「夏木係長! あなた、部長への襲撃に荷担するなんて、何を考えているんですか?」
 慌てて後を追った総務部の人間の中で、赤石はその場に留まって裕子を非難したが、裕子は鼻で笑い飛ばした。


「あぁら、人聞きが悪い。誰が誰の襲撃に荷担したっていうのよ」
「たった今、柏木課長の目の前で、清川課長の個人情報が書かれた紙をわざと落としたじゃないですか!」
「その紙ってこれの事?」
「ええ、そうで……、は?」
 ここで会話に割って入った真澄に差し出された紙を見て、赤石は頷きかけて怪訝な顔になった。それに裕子の茶化す様な声が重なる。
「あぁ~、さっき個人情報を落としたかもって言ったのは、間違いだったわ~、良かった~」
「私は単に廊下に落ちた紙を拾っただけよ。白紙だからメモにするつもりだけど、何か文句でも?」
 真澄に睨み付けられた赤石だったが、気力を振り絞って抵抗を試みた。


「で、ですが、何やら人を集める様な電話を」
「大きなヤマが片付いたので、仲間で飲んで騒ごうと招集かけただけよ。悪い?」
「清川部長、お疲れ気味なんじゃない? 使えない薄情な部下ばかりじゃ、神経が擦り切れてるわね」
「そうよね~、変な誤解とか妄想とかしてそうだし~。お気の毒~」
「…………っ!」
 明らかに馬鹿にした笑いを向けてくる女三人に、赤石は顔を真っ赤にして怒鳴りつけるのを堪えたが、相手はそんな事には構わずにさっさと移動し始めた。


「さて、大仕事も終わった様だし、久し振りに一緒に食事に行かない? 何食べる?」
「酒」
「真澄、酒は飲むものであって、食べるものじゃないわよ?」
「あ、そうだ。このバケツ、この階の女子トイレの物なの。ちゃんと返しておいて。それじゃあね!」
 翠が赤石に向かってバケツを放り投げ、真澄を促した裕子と共にエレベーターの中に消えて行くと、入れ替わりに騒ぎを伝え聞いた二課の面々が、血相を変えて人垣を掻き分けてやって来た。


「高須、藤宮さん、大丈夫か!?」
「課長が暴れてるって聞いたんだが!」
「あれ? 清川部長は?」
「それ以前に課長は?」
「うわっ! 二人とも何でずぶ濡れなんだ、こんな所で!」
 ショックのあまり廊下にへたり込んで茫然自失状態の二人を見て、皆口々に驚いたり不思議そうに声をかけると、それで緊張の糸が切れた様に二人が口を開く。
「……皆さん、遅いです」
「うっ、裏切り者ぉぉぉーっ!!」
 高須が小さく呟いて項垂れ、美幸が叫び声を発して廊下にうずくまり、「うわあぁぁぁん!!」と盛大に泣き始める。そんな二人を何とか宥めつつ二課の面々は部屋に引き上げ、後に残された無数の毛髪を気味悪そうに見やってから、見物していた者達も三々五々に散って行った。


 そして企画推進部に戻ってから高須と美幸の濡れた髪や服を軽く乾かし、終業時間も過ぎていた事から、若手組は会社近くの居酒屋へと繰り出した。しかし座敷に上がると早々に、美幸の泣きながらの訴えが始まる。
「……ひっ、酷いですぅぅっ、皆、……逃げてぇぇっ」
「それは本当に悪かった。藤宮さん達があのタイミングで戻って来るとは、夢にも思わず」
「かちょ……、こ……、怖かったんですからねぇぇぇっ!?」
「そうだろうな……」
「本当に分かってるんですか!? 分かってないでしょう、かかりちょうぅぅっ!!」
「……うん、分かってる。分かってるから、少し落ち着こうか?」
 途切れ途切れの状況説明を何とかし終えた美幸は、城崎の胸倉を掴んで盛大な揺さぶりつつ、泣き叫んで訴えた。それを間近で見ながら、城崎はこの状況下にあまり相応しくない事を考える。


(何か……、こういう泣き顔も結構可愛いしそそるよな……。いや、今はそんな事を言ってる場合じゃなくてだな……)
 自分自身を叱咤しつつ、もう一人の被害者に目をやると、その高須は瀬上と理彩に挟まれて、手の中のグラスを見下ろしながらボソボソと呟いている所だった。


「……それで、ブチブチブチッと。あの清川部長の頭髪が毟られる音が、耳にこびり付いて離れなくて…………。なんとなく、俺の頭も薄くなってる様な気が……」
「気を確かに持て、高須! 確かに色々衝撃的だったかもしれんが、錯乱するな!」
「そんな心配は、後三十年は大丈夫だから! しっかりしなさい!」
「はは、そうですか……。うん、それなら良かった……」
 そう言って乾いた笑いを漏らしている高須を見て、城崎は本気で頭痛を覚えた。


(駄目だ、下手したらこの二人、週明けから仕事にならないかもしれない……)
 そんな危機感を覚えた城崎は、取り敢えず二人の真澄に対する恐怖感を和らげようと、口を開いた。


「その……、藤宮さん?」
「仕事、舐めてました」
「は?」
「スキルと愛想と気力と根性があれば、何とでもなると思っていました」
 未だ涙目ながら、いつの間にか泣き止んで唐突に始まった美幸の話に、城崎は取り敢えず応じてみる。


「……それだけ揃っておれば、大抵は何とかなると思うが?」
「私には冷酷非情さが欠けてました。あそこまで完膚無きまでに清川部長を叩きのめす事は、今の私には到底無理です」
(傍若無人さは有ったがな……)
 身も蓋もない事を考えながら城崎が黙り込むと、美幸はそれには構わず顔を上げ、力強く宣言した。


「もう負けません。課長の『あれ』を間近で見させて貰った上は、どんな事があっても動じない自信があります! 今後例え何があっても、課長に食らいついて離れません!」
「えっと……、大丈夫、なのか?」
 一応確認を入れてみた城崎だったが、ここで少し離れた所に居た高須が勢い良く叫んで駆け寄り、開けたばかりのビール瓶を美幸に向かって差し出す。


「良く言った藤宮! あれを見てそんな事が言えるお前は、真の勇者だ。さあ飲め!」
「ありがとうございます。私の気持ちを本当に分かってくれるのは、もう高須さんだけですっ!!」
 そう叫びつつ涙ぐんで大ぶりのグラスを差し出す美幸を、城崎はもはや止めようとはせず、静かにその場を離れた。


「おう、俺達は二人きりの戦友だぜ。今日は飲むぞ! この店の酒、全部飲み尽くしてやる!」
「賛成です!! お姉さん! もう、ありったけ持って来て~!!」
 そう叫んで一気飲みの勢いで飲み始めた二人を見て、城崎と瀬上が深い溜め息を吐き出す。


「高須……」
「あいつも、疲れが溜まっていましたからね……」
「すみません! できるだけ静かにさせますので!」
 慌てて店員に向かって頭を下げている理彩を横目に見ながら、瀬上が城崎に囁いた。


「係長。他の皆さんは体力が尽きて帰宅されましたが、『二人だけ怖い思いをさせたのは申し訳ないから、今日の飲み代は俺達も出す』と言付かっています」
「分かった。月曜に均等割りの金額を出す。取り敢えずここは俺が全額支払っておくから、お前も飲め」
「そうさせて貰います」
 疲れた表情の瀬上のグラスにビールを注ぎ足した城崎は、変なテンションになっている高須と美幸の様子に気を配りつつ、自身も泥酔しない程度に、酒を煽る事にした。
 そして美幸が派手に飲みだして約三時間後。
 城崎は藤宮邸の玄関で、これ以上は無いと言う位、気まずい再会を果たす事になった。


「……それで? 律儀に送り届けてくれるのは感心だが、できる事なら潰れる前に美幸ちゃんを止めて欲しいものだなぁ? 城崎」
「誠に申し訳ありません」
 泥酔してしまった美幸を城崎から受け取った秀明は、笑顔のまま痛烈な皮肉を口にした。それに深々と頭を下げながら謝罪の言葉を口にした城崎を即行で追い払い、腕の中の義妹を見下ろしながら、楽しげに呟く。


「柏木産業は、なかなか楽しい職場のようだな」
 その不気味な笑みの裏側にある物を、未だ誰も気付いていなかった。





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