猪娘の躍動人生

篠原皐月

10月 動揺

「おはようござい」
「藤宮、今日はお昼、付き合いなさいよ」
「……どうしてですか?」
 以前の諍いの記憶を封印し、最近では何とか同僚として違和感なく理彩に接する事ができる様になっていた美幸だったが、朝の挨拶を遮られた挙げ句、一方的に告げられた為に思わず顔を顰めた。しかし理彩はそれに構わずに話を続ける。


「あんたの訳が分からないお姉さんについて、あんたと心行くまでディスカッションしたいからよ」
 その声に、周囲の机から二人に向けて幾つかの視線が投げかけられたが、美幸はそれに気がつかないまま確認を入れてみた。


「一応、姉は四人程居ますが……」
「上から四番目」
「……分かりました。お付き合いします」
 城崎との見合い話を聞いた後でもあり、恐らく美野だろうと見当を付けていたものの、はっきりと肯定されて美幸は頭痛を覚えた。そして(文句を言われるなら係長からと思うんだけど、どうして仲原さんから?)と納得しかねる思いを抱きながらも、素直に了承の返事をしたのだった。


 朝にそんな事を考えたものの、美幸は午前中普通に仕事をこなし、十二時半位に区切りの良い所で理彩に目を向けた。すると美幸の終わるのを待っていたらしい理彩が小さく頷き、パソコンの電源を落として立ち上がる。そして残っている者達に休憩に入る事を告げながら、二人揃って廊下に出て歩き出した。
「仲原さん、美野姉さんがどうしたんですか?」
 早速並んで歩きながら美幸が尋ねると、理彩が困った様に尋ね返した。


「何も知らないわけ?」
「姉との見合いが係長に持ち上がって、それを係長が断ったと言うのは聞いていますが」
「その後の事は?」
「その後?」
 本気で首を捻った美幸に、理彩が疲れた様に溜め息を吐き出す。


「お姉さんから、聞いて無いわけか……。社内だと誰に何を聞かれるか分からないから、店に入ったら説明するわ」
「分かりました」
 そして本社ビルに程近い定食屋に移動した二人が、首尾よくテーブルに落ち着いて注文を済ませて早々に、理彩が単刀直入に切り出した。


「あんたのすぐ上のお姉さんなんだけどね、彼女ストーカー並みに係長の仕事帰りを待ち伏せて食事に誘ってるのよ。十月に入ってから週一・二回のペースで」
「何ですかそれはっ!?」
「しぃっ! 声が大きいっ!」
 思わず湯呑をテーブルに叩き付ける様に置いて叫んだ美幸を叱ってから、理彩は周囲を見回してから話を続けた。


「係長、最近は帰宅時間を不規則にしたり、裏口や非常口を使って当初より遭遇率を低くしているそうなんだけど……。それにしても、彼女の行動が変なのよね」
「待ち伏せしてる段階で、もう十分変だと思うんですが?」
 物凄く胡乱気な視線を向けた美幸に、理彩は困惑気味に手を振りながら説明を加える。


「そうじゃなくて、係長狙いなのかと思えば実際は係長を半ば放置して、一緒に行った人間に職場やあんたの話を、事細かく聞きまくっているのよ。勿論その中にはあんたと係長が、仕事中どんな様子かって事も含まれるけど」
「何ですかそれは? 益々意味が分かりません」
 思わず美幸は渋面になったが、理彩はそれ以上の仏頂面になった。


「私に言わないでよ。因みに昨日は課長と瀬上さんと高須さんと一緒に居た所に現れたから、私ががっちり嫌味に加えて説教して追い払おうとしたら、私だけ拉致されて係長達は放置して、食事に連れて行かれたのよ? ……っていうか、女を人身御供にするなんて、男のくせに何やってんだかあいつら」
「……お疲れさまでした」
 何やらそのままブツブツと呟いている理彩を刺激しては拙いと悟った美幸が、殊勝に頭を下げる。すると理彩が微妙に口調を変えてきた。


「それで……、まあ、確かに多少変わってはいるけど、妹思いの優しいお姉さんじゃない。食事しながら色々話をしたんだけど、あんたの悪口とかあんたに対する愚痴とかを一言も漏らしたりしないで、私の話を終始ニコニコして聞いてくれたわよ? それに『男性が多い職場と聞いてますので、仲原さんの様な先輩が居ると分かって安心しました。宜しくお願いします』と言って、頭を下げていたし」
 そこで美幸は、どこか探る様な視線を理彩に向けた。


「どこで食事したんですか?」
「どこって……、下目黒の《Le mieux》だけど?」
 不思議そうに(それがどうかしたのか?)とでも問う様な視線を向けた理彩に、美幸は幾分腹を立てながら怒鳴りつける。


「たかだか二万やそこらのフレンチフルコースで、買収されないで下さい!!」
「一人前三万のコースだったわよ!」
「威張って言う事ですか!?」
 揃って声を荒げてから、店内の視線を浴びた事に気付いた二人は慌てて口を押さえ、小声で囁き合った。


「とにかく、美野さんの真の目的がいまいち分からないんだけど、あんたとの絡みで皆、あの人を粗略に扱えずに困ってるのよ。あんたが何とかしなさいよ?」
「言われなくてもそうします! 全く……、どうして皆、もっと早く教えてくれないんですか。それに馬鹿正直に、そんなのに一々付き合わなくても良いでしょう!?」
「話してみたら、そんなに悪い人じゃ無いみたいだし、多少強引だけど全然悪意が感じられないんだもの。ただでさえあんた達の姉妹仲が微妙みたいなのに、余計に変な確執を生じさせたら悪いと思ったんでしょうが。大人の気配りよ。それ位察しなさい」
 呆れ気味に言い聞かされて、美幸は色々言いたい事は有ったものの、無用な反論は避けて頷いた。


「……分かりました」
「最初から喧嘩腰で、話を進めるんじゃ無いわよ?」
「はい、努力します。今夜にでも直接聞いてみますので」
 そこで一安心したらしく理彩は表情を緩め、それから二人で他愛のない世間話をしながら昼食を食べ終えた。そして比較的気分良く二課に帰ってきた二人だったが、室内の異様な雰囲気に入口で思わず足を止める。


「あら? 林さんも瀬上さんも、まだ休憩時間の筈じゃ……」
「それともまだ、お昼休憩に入っていないんでしょうか?」
 二人が休憩に入る前は、林と瀬上だけが残って静かなものだったのだが、それに休憩から戻ったらしい村上、枝野、川北が加わり、何故か机を行ったり来たりしながら、血相を変えて怒鳴り合っていた。


「おい! まだ土岐田に連絡は付かないのか!?」
「駄目です! 予定では久保製紙との商談中の時間ですし、携帯の電源を切っています!」
「それなら営業代表番号にかけて、至急だと言って呼び出して貰え!」
「分かりました!」
「係長は今日は市川まで行っているし、帰って来るまでもう少し時間がかかるぞ」
「事情説明はしたか?」
「ああ、課長から直接お詫びの電話を入れると言っていたが、先方が外出したらしくて、捕まらないとか」
「課長のメモのファイルは確認取ったか?」
「今、探してます!」
「くっそ、こんな時に係長まで外回りとは……」
「俺が係長と渋谷で合流して書類を受け取って、今日の愛宕パーソンとの商談を交代して、帰社して貰います。じゃあ、今から出ますので」
「よし、川北頼んだ」
 同じ部屋の一課や三課の残っている者達と同様、一体何事かと顔を見合わせた理彩と美幸に気付いた林が、焦った口調で矢継ぎ早に指示を出した。


「仲原さん、俺と村上さんの今日これ以降のスケジュールを空けて、その予定を二日以内に入れられそうな所を調節してみて、できたら俺に教えて。藤宮さんは川北が今日作成していたファイルB-7の文書の続きを宜しく。他にも頼みたい事があるから、できるだけ急いで」
「はい?」
「えぇ?」
「呆けてないで、さっさと取り掛かる!」
「はいっ!」
 怖い位真剣に言われた二人は、訳が分からないまま慌てて自分の席にパソコンを取り上げ、指示された内容に取り組み始めた。この降って湧いた騒動が、もうじき柏木産業内を震撼させる事になる『氷姫ご乱心事件』の序章だった。


 そしてその日の終業時刻間際、時折書類を捲ったりキーボードを叩く音すら変に響く、静まり返った室内で、瀬上と高須が珈琲を飲みに立ち上がった。それを見た美幸と理彩は無言のまま目を見合わせ、さり気なく立ち上がって自分達も壁際に移動する。
 そしてそれぞれ自分の分の珈琲を使い捨てのコップに注いでから、さり気なく男二人に小声で問いを発した。


「あの……、何がどうなったんですか? 単純な連絡ミスが重なって、今日課長と土岐田さんが商談先に出向かなかったのは分かりましたが」
「それに、そもそもそれだけでどうしてこんな騒ぎに? 確かにこちらの落ち度だけど、お詫びして解決する問題じゃ無いの?」
 美幸達が戻って少しして慌てて真澄と城崎が出先から戻って来た後、すぐにどこかへ呼び出されて姿を消し、取り敢えずの対応を終えたらしい面々も慌ただしく本来の商談先へ出向いたりして、美幸達が詳しく問い質せる相手と機会が無かった為である。この二人も三時過ぎに遅い昼休みに入り、異常を察知した一課と三課も無駄口を叩かずに仕事をこなしていた為、企画推進部内はいたたまれない空気に包まれていた。
 そんな中で問われた瀬上は、高須と顔を見合わせて幾分迷う素振りを見せてから、溜め息を吐いてまず注意事項を述べる。


「……二人とも、何を聞いても最後まで黙って聞けるか?」
「取り敢えず」
「努力します」
 真顔でかなり心許ない保証を得た瀬上は、再度溜め息を吐いてから話し出した。


「今回の《ランドル》の企画は、工業用品の試薬を日用品の消臭剤に転用する試みで、自社開発でのプライベートブランド商品の目玉商品を探してた大型チェーン店の《パルム》を引っ張り込んだデカい仕事だったんだが……、当初向こう側が、なかなか乗り気じゃ無かったらしい」
「どうしてですか?」
「企画案を出して、率先して話を進めていたのが、課長だったからだ」
「はい?」
「意味が分かりません」
 美幸と理彩が揃って首を傾げると、瀬上は如何にも言いにくそうに説明を続けた。


「その……、《パルム》の現場担当者の上役が結構な男尊女卑思考の持ち主で、『女にこんな大きな仕事が任せられるか』と言ってたらしい」
「何ですっ、ぅぐっ!」
「ふざけ、むぐぅっ!」
「ただでさえ室内の空気が沈鬱なのに、喚き立てるな!」
「商談毎にチクチク嫌味言われながら、課長は黙って話を進めてたんだぞ?」
 瀬上が理由を述べた瞬間、女二人は血相を変えて瀬上に詰め寄ったが、完全に予想範囲内の行動だった為、予め珈琲入りのカップをそこら辺の机に置いておいた瀬上と高須が、素早く二人の口を手で塞いで小声で叱責した。それで取り敢えず二人が怒りを押さえ込んだのを見て、瀬上と高須が取り敢えず手を離し、溜め息混じりに話を続ける。


「それで、今回課長達が商談の席をすっぽかしたのはとても誉められた事じゃないが、《ランドル》と《パルム》の担当者の間では『残念ですがまた日にちを改めて』と言う方向で解散しかけたんだ。そこに課長を目の敵にしている、その上役がやって来たらしくてな」
「担当者達は謝罪の一つもしてくれれば良いと思っていて、現に慌てて課長が電話で謝罪したら苦言を呈してから快く許してくれたみたいだけど、例の上役が『それ見たことか、女にこんな重大な事を任せられるか!』とかほざいた挙げ句、『柏木産業はうちの仕事を女に任せるなんて、うちを馬鹿にしてるのか!?』とうちに乗り込んで怒鳴りつけたらしい」
「最悪な事に、それに対応したのが普段課長を目の敵にしている、社長派浩一課長推進派の重役だったらしくて」
「偶々、課長、係長、土岐田さんが揃って社内に居なかった時に問題が発覚したから、対応が後手後手に回って益々騒ぎが大きくなったし。それでさっきまで課長と係長、重役連中に吊し上げ食らってたんだ」
「谷山部長が何とか二人を引き取って来たみたいだが、広瀬課長と寺本係長まで呼んで、何を話し込んでるんだろうな?」
 そこで透明な壁で囲まれた部長室のスペースに皆が目をやると、確かに谷山の他に真澄と城崎が居るのは分かるとして、一課課長と係長ペアまで揃っているのに、四人は怪訝な顔を見合わせた。しかしここで美幸が慌てて瀬上に確認を入れる。


「じゃあ、この話は無かった事になるんですか?」
 それに理彩が幾分心配そうな顔をしながらも、反論を述べる。
「幾ら何でも、会議を一回すっぽかしただけで、去年から交渉して締結間際の件が反故になったりしないでしょう?」
「確かに、それは無いとは思うが……」
 瀬上が難しい顔をしながらも一応理彩の意見を肯定した時、高須が他の面々に向かって囁いた。


「あ、部長室から皆出て来ましたよ?」
「じゃあ、俺達も戻るぞ」
「そうですね」
 そして何食わぬ顔でそそくさと四人が自分の席に戻ると、何やら小声で会話を交わしながら、真澄達四人が二課のスペースにやって来た。そして土岐田の机の並びに立った真澄が、静かに声をかける。


「土岐田さん、ちょっと良いかしら」
 それに土岐田はすぐさま立ち上がり、顔色が悪いまま口を開いた。
「はい、係長。その……、今回の件は」
「それは日程の変更の連絡を受けた私が、間違えた日付を共通スケジュールファイルに書き込んだ為に生じたミスです。土岐田さんには何の落ち度もありません。申し訳ありませんでした」
 自分の台詞を遮り頭を下げてきた真澄に、土岐田は狼狽しながらも反論しようとした。


「いえ、それは……、あの日程なら、俺が次の最終案締結まで日数が足りない事に気付けば良かっただけの話ですし」
「それで、今後はこの件は全面的に一課に引き継ぐ事になったので、今から谷本係長に資料の引き渡しと引き継ぎをお願いします」
「は?」
 真顔でのいきなりの指示に、頭が付いて行かなかったらしい土岐田は固まったまま何回かまばたきをしたが、真澄はそれには構わず広瀬を促して自分の席に戻る。


「それでは広瀬課長、すみませんがこれを。それから……、私PCに入っている情報は、今広瀬課長にお渡ししますので、確認をお願いします」
「……ああ、分かった」
 真澄が迷い無く棚から取り出したファイルを広瀬に手渡し、淡々とPCのキーボードを操作するのを見て、漸く我に返った土岐田が盛大に声を荒げた。


「ちょっと待って下さい! 何でいきなり引き継ぎなんですか? この仕事は当初から、課長と俺で進めてきた」
「『これ以上女相手に仕事ができるか』とほざく馬鹿が商談相手だから仕方ねぇだろ。黙って言われた仕事しろよ、オッサン」
 いきなり土岐田の声に重なった台詞に、そこそこの広さがある企画推進部の室内全体が凍り付いた。そして一瞬の後、何事も無かったかの様に自分の席に着いて仕事を再開した城崎の様子を盗み見ながら、周囲が押し殺した声で囁き合う。


「初めて聞いたぞ。城崎君のあんな乱暴な物言い」
「幾ら形式上は部下でも俺達は年上だからって、課長同様、これまで丁寧な口調を崩さなかったのに」
「完璧にキレてんな。何をどれだけ言われて来たんだか」
「土岐田、これ以上係長を刺激するな!」
 同僚からの切羽詰まった指示を受け、土岐田は憤懣やるかたない表情ながらも、口調はいつものそれになって、一課係長の寺本に向かって神妙に頭を下げた。


「……分かりました。寺本係長、こちらにお願いします」
「あ、ああ……」
 そして些か居心地悪そうに寺本が土岐田の席で引き継ぎを始めると、美幸と理彩は顔を寄せ、憤慨しつつも声を潜めながら文句を口にした。


「何なんですか一体! 課長が女性に生まれついたのは、課長のせいじゃ無いですよ!」
「全くだわ。清川同様、今時とんでもない時代錯誤オヤジが居たものよね。会議室に乱入して、水でもぶっかけてやれば良かったわ」
 そんな事を言い合っていると、奥の列に座っている城崎が二人の席の方を振り返り、冷たい声で指摘してくる。


「藤宮、仲原、何を喋っている。今日中に提出する書類の作成は終わったのか? 午後から色々と雑用が多かっただろうから、順当にいけば遅れているよな?」
「もっ、もう少しです!」
「何とか時間内に終わらせます!」
「そうか」
 それきり黙々と自分の仕事を片付けていく城崎に、勿論話しかける者など皆無だった。


 それからは課長の真澄を筆頭に二課の面々が黙々と仕事をこなしている為、部屋全体が重苦しい沈黙に支配されたまま、終業時刻を迎えた。しかし真澄も城崎も微動だにしない為、他の者は何となく立ち上がるタイミングを掴めないまま、時間が過ぎていく。


(うぅ……、今日出張だった清瀬さんや、出先から直帰の川北さんや加山さんが羨ましい……)
 そんな事を考えて美幸が項垂れた時、出入り口のドアを開けて現れた人物が、場違いな声を響かせた。


「やっほぅ~! 真澄、飲みに行くわよぅ~! 良いお店見つけちゃったの~。ほら、割引クーポンもゲット済み~」
 人事部係長である夏木裕子が嬉々として、ダウンロードしたスマホのクーポンの画像を見せつつ課長席に歩み寄ると、真澄は戸惑った声を上げた。


「はぁ? 今日飲む約束なんかして無いじゃない。裕子、あなた旦那さんと子供を放置して、突発的に飲みに行くなんて構わないの?」
「旦那は今夜子供を連れて、向こうの実家に行くから。毎月一回は孫の顔を見せに行かないとね~」
 裕子がにこやかにそんな事を言い返すと、その背後から現れた営業部第三課長の鹿角と経理課係長の桜庭が現れ、同期入社の広瀬と真澄を促した。


「広瀬、ほら、わざわざ迎えに来てやったんだから、ちゃっちゃと終わらせろよ?」
「分かってるから、二分待て」
「柏木も、相変わらず辛気臭ぇ顔で仕事してんなよ。花金だぞ? ほら、そっち荷物纏めてくれ」
「了解。真澄、ロッカーの鍵これだよね~」
 上機嫌の裕子が真澄の上着のポケットに手を伸ばし、スルリと中から小さな鍵を取り出した。それを見て、慌てて真澄が立ち上がる。


「ちょっと! 勝手にロッカーを開けないでよ! 第一そんな勝手に予定を決めないで!」
「うるせぇぞ柏木。お前がそんなシケた面していつまでも仕事してたら、下がいつまで経っても帰れねぇ事位気付け! さっさと行くぞ!」
 そこで鹿角に一喝された真澄は、小さく息を飲んで唇を噛んだ。そして俯き加減で応じる。


「……分かったわ」
 そこで真澄の鞄を持った裕子が、真澄の腕を取りつつ室内の人間に向かって明るく別れの挨拶をした。


「じゃあ皆さんお先に~」
「とっとと帰れよ?」
「そうそう、週末なんだし、しっかり休んで頭の中身切り換えようか」
 そうして逃がさないようにするかの如く、真澄を囲むようにして移動し始めた面々に向かって、城崎が立ち上がって頭を下げる。


「お疲れ様でした」
 それを聞いた鹿角が苦笑いして足を止め、鷹揚に頷いて応じる。
「ああ、お疲れ。お前も早く帰れよ、城崎」
「そうします」
 そうして真澄達が去って室内の空気が弛緩すると、手早く荷物を纏めた城崎が周囲に声をかけた。


「それでは俺も、お先に失礼します」
「あ、俺も帰りますので」
「そうだな……、後は来週で良いか」
「ここの所、残業が続いてたしな。早めに帰ろうか」
 城崎の退社宣言に釣られる様にして周りも次々に帰り支度を始め、自然に室内が賑やかになった。そして美幸は城崎を見送ってから慌ただしく自身も帰り支度をして、挨拶もそこそこに部屋を飛び出す。
 廊下に出ると既に城崎はエレベーターで一階に降りた事が分かり、じりじりしながら下りのエレベーターを待った美幸は、漸く来たエレベーターに飛び乗って一階まで降りると、城崎が通勤に利用している駅までの道を、一目散に駆け出した。


「あのっ! 係長!」
「何だ?」
 何とか追い付いた城崎に、乱れる息を何とか整えながら声をかけると、未だ機嫌を損ねているらしく無表情で用件を問い掛けられた。それに美幸は一瞬怯みながらも、何とか声を絞り出す。


「その……、そこまでご一緒しても構わないでしょうか?」
「ああ。好きにして構わない」
 普段のやり取りからするとかなり素っ気ない口調で応じた城崎だが、歩幅と歩く速度を美幸のそれに合わせて再び歩き出した。並んで歩きながらそれを認識した美幸は、少し安堵しながら慎重に声をかけてみる。


「あの……」
「先に言っておくが、不愉快な話題は振るなよ?」
「え?」
「少しでも気分良く、帰りたいからだ」
 先手を打たれた上、早々に釘を刺されてしまった美幸は、午後からの混乱しきっていた職場で張り詰めていた緊張の糸が、ぷっつりと切れたのを感じた。


「…………そっ」
「そ?」
「そんな事言ったって! 気になるんだからしょうがないじゃないですかぁぁ!っ」
「藤宮さん!?」
 いきなりボロボロ泣き出したかと思ったら、両手で城崎のジャケットを鷲掴みにして盛大に文句を言い始めた美幸に、城崎は目を丸くした。


「何ですか一人で課長と一緒に全部聞いて、一人でブチ切れて怒って! 私だって課長の心情を想って、所構わずブチ切れたいですよっ! 係長ったら秘密主義の上、どケチだったんですねっ!」
「いや、その、藤宮さんは、今まさに所構わずキレてる状態だから、少し落ち着こうか」
 もう八つ当たり以外の何物でも無い訴えに、逆に城崎の頭が冷えて如何に美幸を宥めるかに頭をフル回転させ始める。


「さっさと課長が上のろくでなし連中から何を言われたか教えてくれたら、幾らでも落ち着きますよ!」
「それは駄目だ。君が益々キレる。課長は終始黙って聞いてたがな。それがそのまま、今の君と課長の力量の差だ」
「そ、そんな事は分かっ……」
 そこで堪えきれずに盛大に声を上げて泣き出した美幸の手を取り、城崎は近くの喫茶店に誘導した。そして店員に頼んでなるべく人目に付かない、奥のテーブル席を使わせて貰い、手早く注文を済ませる。
 この間、美幸はハンカチを顔に当ててぐすぐすと泣いていたが、目の前に数種類がブレンドされたハーブティーが置かれた辺りで、漸く涙が引っ込んだ。


「取り敢えず少しは落ち着いたか?」
 コーヒーカップ片手に冷静に問いかけられ、美幸は軽く自己嫌悪に陥る。


「はい……。すみません、係長がお疲れの時に、ご迷惑おかけしました。係長も色々腹に据えかねる事がある筈なのに、八つ当たりじみた事を言ってしまいまして」
(本当に、ブチ切れて係長に向かって文句って……。言う相手も内容も的外れでしょうが)
 しかし城崎は、大して気にも留めていない風情で言ってのけた。


「社内に課長を敵視してる連中がはびこってるのは前からだし、嫌味を言われるのにも慣れてるから、それ程気にして無い」
「その……、係長はどうして嫌味を言われるのが確実な、二課配属になったんですか?」
 城崎の淡々とした物言いに、つい前々から不思議に思っていた事を美幸が問いただすと、城崎は若干視線を険しくして美幸を見つめた。


「それこそ、色々な噂が乱れ飛んでないかな?」
「それはまあ、色々耳にはしましたが。でも課長の愛人説とか、社長に媚び売り説とか、反社長派から送り込まれたスパイ説とか、実際に係長を見てると信じられない噂ばかりなので、口にするのもアホらしくて……」
 真顔で美幸がそう告げると、城崎が思わずと言った感じで失笑する。


「アホらしい、か。うん、そう言う事をサラッと言える藤宮さんが好きだな」
(は? 『好きだな』って……。そっちこそ何をサラッと言ってるんですか!?)
 口元を押さえてクスクスと笑っている城崎を、最初は呆然と、次に狼狽しながら美幸が眺めていると、笑いを静めた城崎が真剣な表情になって告げた。


「さっきの答えは簡単だ。『自分の下に付いてくれ』と俺に頭を下げた人が、自分より有能で人望が有る人物だったからだ。それが偶々女性で、自分と三歳しか違わない社長令嬢だったからって、騒ぎ立てる連中の気が知れない」
 端的にそう述べた城崎の台詞の背景を、美幸はちょっと考えてみて口に出した。


「そうすると係長はそれ以前に、無駄に年だけ食ってて威張り散らしてる様な、無能な人間の下で働いた経験が有るんですか?」
 美幸は何気なく質問してみたのだが、それに城崎は視線だけが険しい、不気味な笑みで応えた。


「……一度そういう人間の下で、働いてみるか?」
「滅相もありません! 最初から柏木課長の下で働けて光栄です!」
「本当にラッキーだったな」
 物騒なオーラを感じ取れない程美幸は鈍くは無く、盛大に首を振って力一杯否定した。それを見て小さく笑った城崎は、再度真顔になって美幸に言い聞かせる。


「だが、これまでもそうだったし、これからもそう言った事で難癖を付けてくる連中が、居なくなる事は無いだろうな。課長の下で働くなら、多少当て擦られた位ですぐに激高しない様に、もっと自制心を強固にしておくべきだろう」
「分かりました。努力します」
 最後はお互いにそんな神妙な会話をしてから店を出て、城崎が拾ったタクシーに乗って美幸の家に向かった。そして車内である事に気付いた美幸が、恐る恐る横に座る城崎に声をかける。


「あの、係長? 本当は課長達みたいに、帰りに飲んで帰るつもりだったんじゃ無いんですか?」
「うん? ああ、チラッと思ったけど止めた。大泣きして化粧が崩れてみっともない顔になった藤宮さんを放置して行けないし、電車で乗り合わせた人も驚くだろう」
「ええと……、すみません。じゃあ家に着いたら、心置きなく飲みに行って下さい」
 地味に(そんなに酷い顔になってるわけ?)とダメージを受けつつも、美幸が城崎を気遣う台詞を口にしたが、城崎はあっさりとそれを否定した。


「いや、やっぱりこのまま飲まないで帰る。一応気分は落ち着いたし」
「そうですか?」
(そう言われても……、何か申し訳無いわ。確かに、もう怒ったりはしていないみたいだけど)
 そんな事を考えた美幸は、思うまま口にしてみた。


「係長、課長と係長が随分精神的にお疲れの様なので、来週以降、何かお手伝い出来る事とかありませんか?」
「お手伝い?」
「はい」
 不思議そうに問い返した城崎に美幸が頷くと、城崎は少し窓の外を見てから美幸に向き直った。


「……メール」
「はい?」
「メルアドと携番、教えておいただろう」
「確かに以前一緒にリサーチに出かけていた時に教えて頂きましたね。それが何か?」
「内容は何でも良いから、偶に送ってくれたら気分転換になる」
「はぁ……、分かりました」
(何かもっと仕事に関わる事とか……。でも確かに、まだ仕事で大したお手伝いは出来ないから、更に気を遣わせてるとか?)
 唐突に言われた内容に戸惑いつつも、以前にやり取りをしていた事もあり、美幸は素直に了承した。そしてそれから大して時間を要さずに、美幸の家に到着する。


「じゃあお疲れ様。また来週」
「はい、お疲れ様でした」
 門の前で一人タクシーを降り、頭を下げてそれが走り去るのを見送ってから、美幸は溜め息を吐きつつ門をくぐって玄関に向かった。


(はぁ……、今日は昼から色々有りすぎて疲れた……。何も食べないで寝ちゃおうかな?)
 そんな事を考えながら鍵で玄関を開けて上がり込んだ時、美幸は至急自分がするべき事を思い出して渋面になった。


「あら美幸、お帰りなさい」
「美野姉さん……」
 偶々廊下の向こうを歩いていた美野が、普段と変わらない様子で声をかけながら美幸に近寄って来る。それに冷静に対応しようと考えていた美幸だったが、続く美野の台詞で早くも我慢するのを放棄した。


「仕事の方はどう? この前城崎さんが」
「気安く係長の名前を出さないで! 本当に無神経ね。それ位じゃないとストーカー紛いの事なんか出来ないでしょうけど!」
 いきなり盛大に怒鳴りつけてきた美幸を、美野は目を丸くして見やったが、美幸の勢いは止まらなかった。


「何を言ってるのよ。私は単に、あなたの職場での話を聞いているだけ」
「その職場が今ただでさえ大変なのに、無関係な人間が纏わり付いて、係長や皆の神経を逆撫でしたら、私が許さないわよ!? 姉だろうが何だろうが、殴り倒すからそのつもりでいて!!」
 ガンッと拳で壁を叩きながら美幸が恫喝すると、流石に口答えしたら拙いと思ったらしい美野は、しおらしく謝ってくる。


「分かったわ……。暫く目障りにならない様にするから」
「ありがとう。それじゃあねっ!!」
 皮肉たっぷりに礼を述べた美幸は美野の横をすり抜け、自室まで小走りで向かった。そして部屋に入ってから後ろ手にドアの鍵をかけ、深々と溜め息を吐き出す。


「……やっちゃった。仲原さんに『喧嘩腰で言わないように』って言われたのに」
 そしてひとしきり落ち込んでから、ひとりごちる。


「でも……、考えると、係長ってやっぱり紳士だよね。今日、川北さんに言った時の様な表情と口調で姉さんに『ウザい、失せろ』とか何とか言ったら、絶対姉さんなんか近寄らないわよ……」
 そして再度重い溜め息を吐いてから、美幸は携帯を取り出した。


「取り敢えず、姉さんにピシッと言っておきましたって事と、お茶を奢って貰ったのと、送って頂いてありがとうございましたって事の、メールを打とう」
 そうして律儀に打ったメールで、結構城崎が気分を良くしている事に美幸が気がつかないまま、それが徐々に習慣化していった。



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