猪娘の躍動人生

篠原皐月

9月 秋は受難の季節

 波乱含みの歓迎会も何とか終了し、店の外に出た面々は各自別れの挨拶を交わしていた。


「課長、お疲れ様でした」
「御馳走様でした」
 迎えに来た車に乗り込んだ真澄に、一同を代表して城崎と瀬上が挨拶すると、真澄が笑顔で挨拶を返す。
「お疲れ様、それじゃあ皆、気をつけて帰ってね」
 そして黒の大型車が走り去るのを見送ってから、瀬上は誰に言うともなしに呟いた。


「はぁ……、初めて実物を見たけど、自宅と職場の往復は送迎車でって本当だったんだ。殆ど意識して無かったがやっぱり課長、社長令嬢なんだな」
「でも浩一課長は電車通勤ですよね? ごく偶に駅で見かけますよ?」
 思わず理彩が口を挟むと、それに城崎が淡々と応じる。
「姉弟でも考え方は色々って事だ。それに課長は昔誘拐されかかった事があって、社長が頑として電車通勤を許さなかったらしいな。浩一課長は男だし、ああ見えて合気道の有段者だから、社長もその意味では心配していないんだろう」
「それ、本当ですか?」
「それなら社長が心配するのは当たり前ですよね」
 周囲が驚きながらも納得していると、城崎は話題に入って来なかった人物に声をかけた。


「それはそうと……。高須、どうなった?」
 すると美幸の片腕を取り、脇を支える様にして何とか立たせている高須が、苦笑いで返した。
「完璧に落ちました。半ば強引に飲ませておいて、言える立場ではありませんが……」
 そこで溜め息を吐いた高須を、周囲の者達が宥める。


「いや、高須君は頑張ったよ」
「最後はこの子、結構高須君に絡んでたし」
「本当にご苦労様」
「今夜の俺の役回りはこれですから。さて、送ってくか。こら藤宮、お前の家ってどこだっけ?」
「……ぅん、ふむぅ……、あっち~」
「全く……、この酔っ払いが~」
 律儀に最後まで自分の役割を果たそうとした高須だったが、美幸が今出て来たばかりのビルの入り口を、如何にも適当そうに指差した為、流石にこめかみに青筋を浮かべた。そこで真澄を見送った城崎がやって来て、高須に告げる。


「高須、お前はもう帰って良いぞ? 藤宮さんは俺が送って行くから」
「え? 送って行くって……、係長はこいつの住所を知ってるんですか?」
 思わず不思議そうに上司を見上げた高須に、城崎は事も無げに答えた。


「二課全員の住所と緊急連絡先位は、暗記してあるからな」
 冷静にそんな事を断言され、高須は(係長ならそれも有りか)と納得し、美幸を半ば抱えたまま軽く頭を下げた。
「すみません。それなら俺はタクシーを捕まえてきますので、藤宮をお願いします」
「分かった。頼む」
 そんなやり取りをして美幸を城崎に引き渡した高須が首尾良く流しのタクシーを捕まえると、それに城崎は昏睡寸前の美幸を乗せて自分も乗り込み、その場を去って行った。その一部始終を冷静に見やってから、些か皮肉っぽく理彩が口を開く。


「……まあ、確かに全員分の住所と連絡先は暗記してると思うけどね」
「仲原さん……」
 タクシーが走り去った方向を見ながら小さく肩を竦めた理彩に、どういった言葉をかけたものかと瀬上が微妙な口調で呼び掛けたが、対する理彩は明るい表情で背後を振り返り、さばさばと言い切った。


「じゃあ私達もさっさと帰りましょうか。皆の予定がなかなか合わなくて平日開催でしたから、明日も普通に仕事ですしね」
 そう明るく言われて、瀬上が安堵した様な表情で応じる。
「そうだな。仕事に響かない様に、酔いはしっかり醒まさないと」
「藤宮は流石に二日酔いかもしれませんがね。明日はつついてからかうチャンスですよ?」
 すかさず茶化してきた高須に、周りも笑い声を上げた。
「違いない」
「明日の出勤が楽しみだわ」
 そんな風に話のネタにされている事など美幸は知る由もなく、タクシー内ですっかり熟睡してしまっていた。
 そして三十分程タクシーが走り、城崎が乗り込んだ当初に告げた住所に辿り着く。


「お客さん、着きましたよ?」
 声を掛けられた城崎は、窓越しに大きな門と門柱の『藤宮』の表札を確認してから、運転手に申し出た。
「すみません、彼女を中に連れて行くので、ここで少し待っていて貰いますか? その後俺の家まで乗って行きたいので」
「分かりました。お待ちしております」
 そして話をつけた城崎は、まず1人で降りて門柱に取り付けてあるインターフォンのボタンを押した。


「はい、どちら様でしょうか?」
「夜分恐れ入ります。柏木産業の城崎と申します。飲み会で藤宮さんが寝込んでしまったのでお連れしました。こちらを開けて頂けますか?」
「まあ、申し訳ありません! 今開けますので、少々お待ち下さい」
「ありがとうございます」
 最初は怪訝そうな女性の声が城崎が来訪の理由を告げると慌てた物に一変し、城崎は小さく苦笑した。そして一旦タクシーに戻る。そして後部座席で熟睡中の美幸の背中と膝下に手を差し入れ、軽々と横抱きにしてタクシーから身体を抜き再び門に向かって歩き出した。
 そるとそこで門が開けられ、、三十代半ばと見られる女性が顔を出した。そして城崎の腕に抱えられている美幸を見て、狼狽気味の声を上げる。


「美幸! もう、あなたったら何をやってるの! 申し訳ありません、城崎さんと仰いましたね。私、美幸の姉の藤宮美子と申します。この度は妹がとんだご迷惑をおかけしました」
 目の前で深々と頭を下げられた城崎は、それに落ち着き払って答えた。
「いえ、これ位大した事はありませんからお気遣いなく。しかし藤宮さんは熟睡しているみたいなので、どうしましょうか? お姉さんでは抱えて行くのは無理でしょうし、差し支えなかったら俺が彼女の部屋まで運びましょうか?」
「いえ、それは」
「ご苦労だったな城崎。彼女は俺が部屋まで運ぶから、ここで帰って貰って大丈夫だ」
「え?」
 そこに唐突に会話に割り込んできた低い男の声で、城崎の全身が総毛立った。猛烈に嫌な予感を覚えつつ声のした方に顔を向けると、門構え同様、立派な屋敷の玄関から出てきたと分かる男の姿を認めて、彼は狼狽しきった声を上げた。


「しっ、白鳥先輩!? どうしてここに!?」
「どうもこうも……、ここは俺の家だからな。東成大出身の城崎という係長が居ると美幸ちゃんから聞いて、多分お前だろうと見当をつけてはいたが。卒業以来だな。また会えて嬉しいぞ、城崎」
「こちらこそ……」
 ニヤニヤとした笑みからは、どう考えても面白がっているかろくでもない事を考えているに違いなく、過去の暗黒記憶中にほぼ例外なく存在している男との再会に城崎は変な動悸を覚えたが、美幸の姉と名乗った女性は不思議そうに男を見やった。


「あら、城崎さんは秀明さんのお知り合いだったの?」
「ああ、こいつは大学時代の後輩だ。同時期に在学してはいなかったが、同じサークルに所属していた。なあ、城崎?」
「はい、私が入学した時には既に先輩は卒業されていましたが、OBとしてサークルの方に良く顔を出されていらっしゃいましたので……」
「そうだったの。凄い偶然ね」
 にこやかに笑う美子から視線を逸らし、目の前の恐怖の存在に美幸を渡しながら、城崎は確認を入れた。


「白鳥先輩は、藤宮さんのお姉さんとご結婚なさったんですか?」
「ああ。妻は五人姉妹の長女だから、ついでに婿養子にもなったからな。今は藤宮姓を名乗っている」
「そうですか。それは存じ上げませんでした……」
(勘弁してくれ。ここで白鳥先輩に変なちょっかいを出されたくないぞ)
 冷や汗を流しながら城崎が頭の中でさっさと立ち去る算段を整えていると、玄関から続く廊下の向こうに、一人の女性が佇んで居るのが目に入った。すると何気なく同じ方向に目をやった美子が、朗らかに声をかけて手招きする。


「……あら美野、居たの? こちらに来てご挨拶して頂戴。美幸の上司の城崎さんよ。美幸を送って来てくれたの」
「そうですか」
 姉に向かって小さく頷いてから、靴を履いて歩み寄ったその女性は城崎を見上げ、次いで頭を下げた。


「妹がお世話になっております。美幸の姉の藤宮美野です。この度はご面倒をおかけして、申し訳ありません」
「大した事ではありませんので。それでは門の所にタクシーを待たせているので、これで失礼します」
「ご苦労だったな」
「まあ、お茶も出さずに申し訳ありません」
「いえ、お気遣いなく」
 そうして城崎がほうほうの体で逃げ出すと、秀明は苦笑いして妻を振り返った。


「さて、美幸ちゃんを運ぶとするか」
「お願いね。だけど珍しいわね、この子がここまで飲むなんて。よっぽど楽しい職場みたいね」
「そのようだな」
 そうして玄関の戸締まりを美子に任せた秀明は、美野と共に奥に向かった。そして黙り込んでいるもう一人の義妹に声をかける。


「美野ちゃん、どうかしたのか?」
「いえ、お義兄さん。別に何も……」
「そうかな? 城崎が気になるとか?」
「そういう事ではありませんが……」
 控え目な見た目通り、自己主張が苦手な美野が口ごもっているのを見て、つい悪戯心が芽生えた秀明は、すこぶる真面目な表情で思わせぶりに言い出した。


「そうだな……、後々問題にならない様に、美野ちゃんにはこの際あいつの事を少し教えておこうかな。美子には余計な心配をかけたくないから秘密にしておくとして、美野ちゃんがさり気なく気を配ってくれたら、俺は凄く助かるんだが……」
「問題って……、お義兄さん、何ですか?」
 途端に顔付きを険しくして食い付いてきた義妹に、噴き出したいのを懸命に堪えつつ、秀明はある事を義妹に吹き込んだのだった。


 ※※※


 美幸の家で予想外の人物と予想外の再会を果たして以降も、美幸から「係長とお秀明義兄さんが同じサークル出身とは知らなかったです」と驚きの口調で言われただけで、特にちょっかいもトラブルも生じておらず、城崎は心の底から安堵していた。
 しかし十月に入ってその事をすっかり忘れた頃に、二課の内部では表面上はささやかな、しかし結構深刻な問題が発生していた。


「課長、こちらの書類に目を通して頂けますか?」
「はい、分かりました」
 二十枚程重ねた書類を城崎から渡された真澄は、何気なくそれを受け取ってから数ヶ所に貼られた付箋紙に書き込まれた内容にざっと目を通し、ハッとした様に視線を上げて城崎を見上げる。対する城崎は無言で(宜しくお願いします)とでも言う様に小さく頷くと、真澄も恐縮した様に頷き返した。
 上司がこちらの言わんとする事をきちんと察してくれた事を確認した城崎は、余計な事は言わずに部屋に備え付けてあるコーヒーメーカーに向かう。その時さり気なく席に着いていた清瀬に目配せを送ると、城崎の意図を察したらしい清瀬はさり気なく立ち上がり、休憩を取るふりをして、城崎と同様にコーヒーメーカーのある場所に向かった。
 そして企画推進部の片隅で二人でコーヒーを飲みながら、世間話をしているのを装いつつ小声で会話を交わす。


「係長、急にどうかしたのか?」
 その問いかけに城崎は一瞬躊躇してから、慎重に話し出した。
「他の方にもそれとなく伝えておいて欲しいんですが……、最近、課長の仕事に小さなミスが多いんです」
「そうなのか? 特に気がつかなかったが……」
 怪訝な顔をした清瀬に、城崎が僅かに眉間に皺を寄せる。
「俺がフォローできる所は注意していますから。ですが、いつもの課長らしくないと思いまして」
 自分でもどう説明すれば良いか分からない様子で語る城崎を眺めた清瀬は、とある懸念事項を口にした。


「……それはあれか? 社内でチラホラ噂になってる、アメリカ支社北米事業部長就任の話のせいか?」
「もう耳に入っていたんですか? まだ水面下での話の筈ですが。それにまだ課長の名前が候補に上がっただけですよ?」
 自分は直属の部下の関係上耳にしたが、まだ部課長クラスまでの話だと思っていた城崎は本気で驚いたが、清瀬は皮肉っぽく口元を歪めた。


「それでも二課にとっては一大事だろうが。ここは課長の為に存在してる様な部署だしな。それ以上に他の人間に俺達を使いこなせるとも思えん」
 それで二課の特殊性を再認識した城崎は、それ以上無駄話はせず苦笑いして話を纏めた。


「確かにそうですね。取り敢えず、そちらで何か気がついた時には、フォローをお願いします」
「おう、任せておけ。苦労性の係長さんにだけ、おっかぶせたりはしないさ。係長がこんな事をこそこそ頼む位だから、課長自身も結構気にしてるんだろう? 皆にはこっそり伝えておく」
「宜しくお願いします」
 そうして一足先にコーヒーを飲み終わった清瀬が席に戻り、傍目には従来通り落ち着き払って仕事をしている真澄を、何となく城崎が眺めていると、どこからか戻ったらしい部長の谷山が目の前を横切りながら声を掛けてきた。


「城崎君、ちょうど良かった。手が空いているならちょっと来てくれ」
「はい、今行きます」
 何だろうと思いつつ、カップの残りを急いで飲み干した城崎は、すぐに谷山の後を追って透明なアクリル壁で囲まれた部長室に入った。


「部長、何かありましたか?」
 早速子細を尋ねた城崎に、何故か谷山はいつもの闊達さが鳴りを潜めた困惑気味の表情を隠さずに、手元の風呂敷包みを解きながら説明を始める。


「それが……、実は今日、社長経由で君に縁談が来た」
「はい?」
「相手は旭日食品の藤宮社長の四女だそうだが……」
 本気で困惑した声を上げた城崎に、谷山は負けず劣らずの戸惑いを含んだ声で告げた。その内容を聞いた城崎は、慎重に確認を入れる。


「あの……、そうしますと、うちの藤宮の姉に当たる女性ですよね? 確か彼女は五女だと言ってましたし」
「そのようだな。藤宮君から何か聞いてはいないか? そもそも君は、藤宮君の家族と接点が有ったのか?」
「いえ、特に何も。先月藤宮が飲み会で泥酔した時、送って行ってご家族と顔を合わせた位です」
 反射的に、妹と比べると印象が薄い美野の顔を思い浮かべながら城崎が正直に述べると、谷山はさも有りなんと言った風情で頷いた。


「その顔だとそうだろうな。しかし社長を介して来た話だから、無碍には断れん。取り敢えずこれを受け取ってくれるか? 先方の見合い写真と釣書だ。君の分は後ほど準備してくれれば良いから」
「申し訳ありませんが、お断りします。生憎、まだ結婚は考えておりませんので」
 はっきりと受け取り拒否をした城崎に、谷山は些か唖然としてから、僅かに焦った様に言葉を継いだ。


「そうは言っても城崎君。君は結婚してもおかしくない年だし、社長の仲介の話を下手に断っては、後々面倒な事になりはしないか?」
 至極真っ当な指摘を受けた城崎だったが、元より反骨精神は人一倍で二課に異動する時も躊躇しなかった城崎は、(自分の結婚を上に決められてたまるかよ!)と腹立たしく思いながら、口に出しては幾らかしおらしい表現で断固として拒否した。


「それ位で出世に響く様なら、どの道、大して上には行けないと思います」
 落ち着き払ったその台詞を聞いて、谷山もいつもの調子を取り戻し、含み笑いで写真と釣書を元の様に風呂敷で包み始める。
「それも道理か。分かった。これは私から社長にお返ししておこう。君の意向もきちんと伝えておく」
「お手数をおかけして申し訳ありません。宜しくお願いします」
 ひょっとしたら一悶着あるかもしれない為、谷山に頭を下げてから部長室を退出した城崎は、自分の席に戻ってから他の人間には分からない様に、重い溜め息を吐いた。


(一体何なんだ? 白鳥先輩の嫌がらせか、何かの策略か? ただでさえ職場の状況が不穏な時に、勘弁してくれ)
 しかし城崎はそんな堂々巡りの思考からすぐに意識を切り替え、目の前の業務に集中していった。



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