ダブル・シャッフル~跳ね馬隊長の入れ替わり事件~

篠原皐月

(16)裏工作と根回し

 複数の秘書官が詰めている部屋から、複数の書類を手にして隣室の大臣執務室に向かったクリフは、控え目にドアをノックしてから落ち着き払って入室した。
「失礼します、大臣。精査と承認の書類をお持ちしました」
「またか……。随分あるな」
 歩み寄った部下が手にしている書類の分量を見た途端、内務大臣であるグラバーはうんざりした様に顔を歪めたが、クリフは申し訳無さそうに弁解した。


「申し訳ございません。この間、陛下の生誕記念式典の準備と調整で、諸々の業務が滞っておりまして……」
「仕方あるまい。まさかそんな大切な公式行事を、疎かにするわけにはいかないからな。机に置いてくれ」
「畏まりました」
 思わず文句を口にしたものの、部下に八つ当たりしても仕事が無くならない事はグラバーも理解していた為、机の空いているスペースを指で差し示した。


「それではこちらの右側が予算案や各種認定で精査して頂く物で、左側が諸経費の確認や定期報告等のまとめになります。ご確認の上、サインをお願いします」
「分かった。目を通しておこう」
 持参した書類を左右に分けて机に置いたクリフは、ここでさり気なく、溜め息混じりに言い出した。


「それにしても、王太子妃殿下のお振る舞いには、困ったものですね」
「何がだ?」
「あの様に記念式典開催直前になってから、不参加をお伝え下さらなくとも……。少々現場で混乱が生じたものですから」
 最初不思議そうに見上げてきたグラバーも、クリフが少々恨みがましく告げてきた事で、賛同する様に頷いた。


「ああ、確かにそうだな。当日の席次の入れ替えや関係各所への諸連絡など、お前達の余計な仕事が増えただろうし」
(はっ! 正直に言えば、それ位なんとも無いがな。普段のてめぇの尻拭いに比べれば)
 心の中で盛大に悪態を吐いたクリフだったが、傍目にはそんな事を微塵も感じさせず、予定通り相手が釣れた事でしおらしく話を続けた。


「私達の手間暇など、些細な事ですが……。人づてに聞いた話では体調不良と仰られても、大した事は無かったとか。それならば多少の無理を押しても、出席なさるべきでしょう。陛下の生誕記念式典だと言うのに、不遜極まりない事です」
「全く、お前の言う通りだ」
「愚考致しますに、王太子殿下は少々妃殿下を甘やかされておいでなのでは? それにやはり伯爵家出身の妃殿下では、王太子妃など荷が重すぎるのでは無いかと。これがきちんと幼い頃から王家に嫁ぐべく薫陶を受けられてお育ちになった、公爵家や侯爵家出身の方であれば、この様な事も無かったでしょうに……」
 わざと咎める口調で意見を述べたクリフに、グラバーがもっともらしく頷いてみせる。そしてクリフが如何にも残念そうに話を締めくくると、グラバーはすっかり気を良くして部下を褒め称えた。


「前々から思っていたが、やはりお前は見所があるな。実に物の分かった秘書官を持って、私は嬉しいぞ、シャトナー」
「恐れ入ります」
 手放しの賛辞に恐縮気味に微笑みながら、クリフは先程机に置いた書類について、再度声をかけた。


「私の愚痴紛いの発言で、貴重な大臣の時間を浪費させてしまって、誠に申し訳ございません。こちらを宜しくお願いします」
「ああ、分かった。それでどういう分類だったかな?」
(一回聞いたら覚えろよ! この低能野郎がっ!)
 平然と問い返されたクリフは内心で密かに罵倒したが、顔が引き攣りそうになるのを自覚しながらも、笑顔で説明を繰り返した。


「はい。右側が予算案や各種認定で精査して頂く物で、左側が諸経費の確認や定期報告等のまとめになります。左側に関しては、首席秘書官殿が既に確認済みの物ですので、大臣には軽く目を通して頂いた上で、サインをして頂ければと」
 その説明を聞いた彼は、頷いて気軽に左側の書類の束に手を伸ばした。


「こちらはもうジェファスが見ているんだな? それならわざわざ私が目を通すまでもない。今サインするから、少し待っていてくれ」
「ありがとうございます。それでは宜しくお願いします」
「うむ」
 クリフの説明を鵜呑みにしたグラバーが、早速ペンを取り上げて書類を一枚目の前に置き、その下部にサラサラとサインした。クリフはそれを回収しながら、次の書類を上司の前に置く。そしてグラバーは書類の内容をろくに確認しないまま流れ作業で八枚にサインを済ませ、もったいぶってクリフに確認を入れた。


「よし、これで良いな?」
「はい、ありがとうございます。それではそちらの方を宜しくお願いします。後程取りに参りますので」
「ああ、分かった」
 そして首尾よくサインを書かせたクリフが書類を手に秘書官室に戻ると、少し前に席を外していた直属の上司が、いつの間にか戻っていた事に気が付いた。


(ちょうど良く、戻って来やがった。抜け出してサボってやがったくせに、随分な不機嫌面だな。ちょっかい出した女官に、全く相手にされなかったとか? 笑えるな)
 そんな内心をおくびにも出さず、クリフはいつもの表情で首席秘書官の机に歩み寄った。


「ジェファス様、お戻りでしたか。今、大臣から承認の書類を頂いてきましたので、目を通して頂きたいのですが」
 すると実家の家格とコネだけで今の地位を手にした男は、書類の内容を確認しようともせずに、不愉快そうにクリフを一睨みした。


「はぁ? 大臣がサインした物を、俺が一々突っ返すわけにいかないだろうが。さっさと関係各所に届けに行かないか。同じ事を何回言わせる気だ」
「申し訳ありません、規則なもので。一応、ジェファス様の確認のサインも頂きたく」
 クリフは恭しく頭を下げて書類を差し出したが、どうあっても引かない気迫を醸し出していた為、ジェファスは忌々し気な顔付になりながら、横柄に言い放った。


「……ったく! さっさとよこせ!」
「はい。お願いします」
 相手の物言いに腹を立てた風情も見せず、クリフは淡々と彼の机の上に書類を並べ、ジェファスは先程のグラバー以上のスピードで、全ての書類にサインを済ませた。


「ほら、さっさと持って行け!」
「はい。少々席を外します」
「全く……、これだからくそ真面目な奴は……」
 一礼してその場を離れた背後から、ジェファスの悪態が小さく聞こえてきたが、クリフは気にも留めなかった。


(これだから上に担ぐのは、馬鹿に限る。法に触れない範囲で、好き勝手できるしな)
 誰にも見られない様にほくそ笑みながら秘書官室を出たクリフは、予想以上に上手く事を運べた事に気を良くしつつ、廊下を進んだ。


「さてこちらは王太子殿下の執務室に、そしてこちらは法務省だな。さっさと済ませるか。それから、後宮に直接入れないまでも、婚約者なんだから取次所では幾らでも顔を合わせる事はできるよな。今のうちに、色々方法や理由を考えておこう」
 既に出し抜いた上司達の事など頭から追い出していたクリフは、降ってわいたユーリアの婚約者と言う立場を最大限に生かすべく、その方策を考え始めていた。




 それと同じ頃。王都内でも王宮に程近い一角にある屋敷を、デニスは近衛騎士団緑騎士隊の制服姿で訪問していた。
 正直に言えば来たくは無かったのだが、騎士団長からの指名では断る訳にもいかず、ここに来るまでの仏頂面は封印して礼儀正しく取り次ぎの者に、自分の身分と来訪の目的を告げる。すると相手は傍目にも驚き、デニスを豪奢な応接間に丁重に押し込むと、転がり出る様に主を呼びに向かった。


「執事から、『急に王宮から使者がいらした』と聞いて何事かと思えば、何故か文官ではなくて近衛騎士団所属のあなたが出向いているし。これは一体、どういう事なのかしら?」
 その屋敷の今現在の主である、ケライス侯爵夫人グレイシアは、デニスから二通の封書を受け取り、無表情でそれに一通り目を通してから、笑いを堪える様な表情で彼に目を向けた。すると素知らぬ顔で出された茶を飲んでいたデニスが、カップをテーブルに戻しながら淡々と告げる。


「それは一介の騎士の私には、分かりかねます。私は騎士団長から、指示を受けただけですので。機会があれば、侯爵夫人から直に王太子殿下にお尋ね下さい」
「そうですね。機会があったらお尋ねしてみましょう。殿下が私達の事をご存知なのかどうか」
 そして含み笑いをしながら、再び手元の書類に目を落とした彼女の耳に、小さな舌打ちの音が聞こえてきた。


「……無駄な事をするのは、止めたらどうですか? あなたと私の間に、何もある訳は無いでしょう」
「そうね……。何もありはしないわね。その通りよ。だから殿下が何もご存知の筈が無いわ」
「嫌味ですか?」
 顔を上げて少々嫌味っぽく口にした彼女に、デニスが軽く眉根を寄せながら言い返すと、グレイシアは苦笑いした。


「嫌味も何も、それが真実でしょう? ……でも、正直、あなたが持って来たこれの内容には驚いたわ」
 そしてさり気なく話題を変えつつ、しみじみと語り出した彼女を見て、デニスは口を閉ざした。


「十分……。いえ、予想以上だわ。これで漸く亡き夫の希望通り、将来有望なあの子に、この家を継承させる事ができる。それに私への財産分与の指示と、前侯爵夫人の称号を名乗る許可も頂けたわ。もう何も、思い残す事などありはしない……」
「…………」
 満足そうに微笑んだ彼女がテーブルに手を伸ばし、そこに置いてあった呼び鈴を鳴らしても、デニスは無言のままだった。


「奥様、お呼びでしょうか?」
 呼び出しを受けて、老執事が恭しく応接間に姿を現すと、グレイシアは彼を手招きして呼び寄せ、封書の片方を差し出した。
「先程、王宮から届けられた物よ。目を通して頂戴」
「拝見します」
 そして受け取ったそれに目を通し始めた彼は、すぐに喜色を露わにして顔を上げた。


「奥様、これは!?」
「分かりましたね? 次の侯爵はクライスと決まりました。次期当主の彼と後見人たる彼の両親に、今月中にこの屋敷に入って貰います。この事を皆に伝えて、滞りなく準備を進める様にして下さい」
「畏まりました」
 その指示に嬉々として頷きながらも、職務に忠実な彼は、一つの懸念を口にした。


「ですが奥様は、今後はいかがなされるおつもりですか? 領地にある別宅に移られるか、王都内に別な屋敷を構えるおつもりでしょうか?」
「いいえ。もう一通のこちらの方に、王太子妃付きの上級女官への就任要請の文書が入っていました。その要請に応じて、来週中には与えられた後宮のお部屋に入ります」
「奥様!?」
 再び差し出された文書を受け取り、慌てて目を通し始めた彼に、彼女は満足げに笑った。


「私の事は大丈夫です。これまで色々、心配してくれてありがとう。これからは新しい主に仕えて、彼を支えていってあげて下さい」
「……畏まりました。皆にも、きちんと言い聞かせておきます。ご安心下さい」
「ええ、お願いね」
 色々と言いたい事はあったものの、グレイシアの決意が固い事を見て取った彼は、彼女に文書を返してから、余計な事は言わずに深々と頭を下げた。それに頷いてから、グレイシアは優雅な身のこなしで立ち上がる。


「それでは殿下へのお返事をしたためて参りますので、こちらで少々お待ち下さい」
「……はい」
「使者の方に、新しいお茶をお持ちして」
「畏まりました」
 低く応じたデニスの前から主従が姿を消した途端、彼は忌々しげな顔付きになって、自分の主に対する悪態を吐く。


「あの人のやる事は、昔から大抵予測が付かなくて、ろくでもなかったが……」
 その後、侍女がお茶のお代わりを持って来た時には笑顔で礼を述べ、それを飲んでいる間は何とか平常心を保っていたデニスだったが、それも長くは続かなかった。


「お待たせ致しました。こちらを宜しくお願いします」
「…………」
「どうかされました?」
 グレイシアが封書を手に応接間に戻り、デニスにそれを差し出したが、相手が微動だにせず、受け取る気配を見せない為、彼女は不思議そうに問いかけた。


「……止めておけ、グレイシア。厄介事に進んで首を突っ込む必要は無い。お前は無関係だ」
 低く唸る様に言い聞かせてくる相手に、彼女はわざとらしく驚いてみせる。
「まあ……、受け取り拒否? あなたのご主人に怒られてよ?」
 そう窘めてから、彼女は思い出した様に疑問を口にした。


「そう言えば……。表向きはともかく、あなたの真の主はアルティン様でしたけど、お亡くなりになってからは誰に仕えているの? グリーバス公爵の筈は無いでしょうし、やはり王太子殿下なのかしら?」
「そんな事はどうだっていい! 侯爵家の後継者問題は、元々侯爵が正式な遺言書を残していたのに、役人の怠慢で滞っていたに過ぎない! 本来の手続きを遂行しただけに過ぎないから、何も恩義に感じる必要は無いんだ!」
 思わず声を荒げて主張したデニスだったが、彼女は穏やかに微笑んでみせた。


「でもどういう事情かは分からないけど、わざわざあなたをこちらに派遣してくれたし、それであなたが私の名前を呼んでくれたわよ? 貴重な二回目だし、それには十分恩義を感じているのだけど?」
 その指摘で、無意識に彼女の名前を口にしていた事に気が付いたデニスは、盛大に舌打ちしてから、悪態を吐いた。


「……俺の様な低俗な餌に食いつくとは、悪食が過ぎるぞ」
「ごめんなさいね? お上品なものばかり食べていると、偶には下品なものも食べたくなるの」
 しかし、さらりと言い返してきた相手に、彼は深々と溜め息を吐いていつもの口調に戻す。
「やめて下さい。そういう物言いは、あなたには似合いません」
 それを内心で寂しく思いながらも、グレイシアは冷静に差し出したままの封書についての話を再開した。


「それで? これはきちんと、王太子殿下に届けて頂けるのかしら? どうしても無理だと仰るなら、使用人に届けさせますわ」
「責任を持ってお預かりします」
「宜しくお願いします」
 幾ら気に入らなくとも、一度引き受けた以上、目の前の相手がきちんとその役目を果たす事が分かっていた彼女は、安心してそれを手渡した。そして再び呼び鈴を鳴らして、執事を呼び寄せる。


「お客様がお帰りです。お見送りを」
「はい。使者殿、どうぞこちらに」
 そして笑顔の彼女に叩き出される形になったデニスだったが、不平不満を口にする筈も無く立ち上がり、来訪した時と同様、礼儀正しく挨拶した。


「それでは失礼致します」
「ご苦労様でした」
 会釈で応じた彼女に背を向けて玄関に向かい、そこで執事に見送られたデニスは、騎乗して広い侯爵邸の敷地から外に出てから、忌々しげな呟きを漏らした。


「全く……。よりによって、どうして俺にこんな役を振るんだか……」
 どう考えても陰でアルティナの意図が働いているとしか思えない事態に、デニスは王宮に向かいながら、顔を歪めつつ呻く。


「これはまさか……、シャトナー家が守銭奴一家の演技をしていた事を、アルティナ様に黙っていた事への、意趣返しとかじゃ無いだろうな?」
 それに関しては自業自得だとは思いながらも、どうしても彼は、自分の口から恨み言が出てくるのを止められなかった。


「本当にろくでもない……。無関係の事に巻き込んだ挙げ句、シアに何か有ったら恨みますよ、アルティナ様」
 そして盛大に舌打ちしたデニスは、気が乗らない仕事はさっさと済ませるに限るとばかりに、馬を勢い良く走らせて王宮へ戻って行った。


「アルティナ様、宜しいですか?」
「ええ、ユーリア。どうかしたの?」
 後宮入りが確定した為、あまり多くは無い私物を纏めている最中にかけられた声にアルティナが振り向くと、怪訝な顔で手元に視線を落としながら、ユーリアが近づいて来た。


「それが……、兄さんから連絡が来たんですが、意味が分からなくて」
「どういう事?」
「用紙一杯に、細かい文字でびっしりと、呪いの言葉が書き連ねてあるんです。何なんですか、これは?」
 ユーリアが困惑したまま差し出してきた細長い小さな用紙を見て、アルティナは苦笑いで応じた。


「ああ、これね……。うん、大丈夫。意味は分かるわ。要するに、ちょっとデニスを怒らせる様な事をしたものだから」
 そう言って指先で用紙を摘み上げたアルティナが、(良くここまで細かく書きなぐったわね。それ位激怒してるって事なんでしょうけど)と半ば感心していると、ユーリアが半眼で尋ねてくる。


「これが『ちょっと』ですか? 一体何をやったんです?」
「……秘密」
「全くもう! 兄さんには色々好き勝手されてましたから、少し怒らせる位でちょうど良いですけど、あまりろくでもない事に巻き込まないで下さいね? それでは荷物の整理に戻りますので」
「私がやることなすこと全てろくでもないって、ユーリアはとっくに認識していると思っていたけどね」
 ちょっと皮肉っぽく言ってみた台詞に、ユーリアは溜め息を一つ吐いただけで中断していた仕事に戻って行き、アルティナはデニスがこれを送ってきた理由を悟って、顔つきを改めた。


「こんなのを送って来たって事は、首尾良くグレイシア様の了承を頂けたという事だろうし、これで準備は整ったわね。ここまでやったんだから、王宮内外の害虫駆除に本気で励まないと」
 そう呟いたアルティナは、難しい顔つきで考え込みながら、自身も中断した荷造りを再開した。









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