恋愛登山道一合目

篠原皐月

第16話 破滅への序章

「さて……、どうしますか?」
 わざとらしく寺島が尋ねると、小野塚が嫌そうに即答する。


「取り敢えず、こいつらの監禁とお仕置き兼尋問担当の茂野と、各種手続きと事務処理をすませるあんたと、山ほどの始末書作成に終われる菅沼は、こいつらと一緒に公社に行く必要があるだろう? 当然俺が、この馬鹿を送って行く事になると思うが。分かっているくせに、一々言わせるな」
「自主的に申し出て頂いて、ありがとうございます。こんな不愉快な人間と、一秒たりとも同じ空気を吸いたくないもので」
「本当に、いい性格をしているな」
「あなたと同類のつもりです」
「否定できんな」
 二人で薄笑いを浮かべながら、そんなやり取りを交わしてから、小野塚は冷え切った目で健介を見下ろした。


「いつまで馬鹿面晒して、そこで座り込んでいるつもりだ。明らかに飯島は手加減していたし、大した事は無いだろう。大の男が甘えるな。……ああ、来たな」
「え? 何の事ですか?」
 駐車場の出入り口の方を見ながら独り言の様に呟いた相手に、健介が思わず尋ねると、横から茂野が淡々と説明を加えた。


「敵の人数が割と多いのを確認した時点で、急遽搬送用の車両の手配を、俺達同様呼び出しを受けた事務職の人に頼んでおいたんだよ。ほら来た」
 そして目の前に停まったライトバン二台の運転席から、それぞれ男性が降り立ったが、そこに居合わせている顔ぶれを見て、どちらも盛大に顔を引き攣らせた。


「お待たせしました! げ!? 他に招集がかかったのは、寺島さんに小野塚さんですか!?」
「茂野さんだけでも、どうかと思ったのに……。菅沼さん。クジ運、最悪ですね」
「……お願い。何も言わないで」
 二人とも顔見知りの人物であった為、余計に憐憫の視線が痛かった真紀は、がっくりと肩を落とした。そんな中、小野塚の叱責の声が響く。


「ほら、さっさと積み込むぞ! 監視カメラの画像を細工する時間は、短ければ短い程良い!」
「あ、さっき奴らが言ってましたが、ここの防犯カメラに細工していると言ってました。時間が経ちましたが、奴らの話通りだとあと三十分は大丈夫な筈です」
「分かった。茂野。一応技術班に連絡して、確認させておけ」
「了解しました」
 真紀の報告を受けて小野塚が指示を出した後、他の者は無駄話などせず、手早く乗って来た車と克己が乗っていたバンに男達を詰め込み、無言のまま三台の車に分乗した。


「それでは小野塚さん。そちらは宜しく」
「分かった」
 そして真紀達の手際の良さに唖然としていた健介が、車が発車して漸く我に返り、慌てて声をかけて追いかけようとする。
「あ、ちょっと待て!」
 しかしすかさずその腕を、小野塚に掴まれて引き戻された。


「どこに行く気だ。さっさとお前の家に行くぞ」
「いや、俺は」
「ぶちのめされて気絶して、スーツケース詰めで帰りたいのか? その方が、手間はかからなさそうだな」
「…………」
 明らかに本気と分かるその物言いに、思わず健介は黙り込んだ。そのまま小野塚に先導されて地下駐車場を出て幹線道路まで歩き、タクシーを拾って健介が住所を告げた自宅へと向かう。
 しかし車内が静寂に包まれて十分程経過してから、健介が思い切った様に口を開いた。


「あの……、お聞きしたい事があるのですが」
「何だ。さっさと言え」
「さっきの茂野という人が、真紀の事をずっと『みつこちゃん』とか言ってましたが、どうしてですか?」
 しかしそれを聞いた小野塚は問いには答えず、冷え切った目を健介に向けた。


「お前……、菅沼に『自分を名前で呼んでも良い』と、許可を貰っているのか?」
「いえ、それは……」
 これまでに真紀自身に散々言われた事でもあり、健介が思わず口ごもると、小野塚は明らかに侮蔑と分かる表情になった。


「はっ! 馬鹿でナルシストの上に、恥知らずだとはな。これはさすがに、菅沼が気の毒だ。副社長に一言、意見具申してやろう」
「ですからそれは!」
「『ミツ子』と言うのは、社内での彼女の通称の一つだ。それがどうした」
「…………」
 さすがに腹を立てて声を荒げた健介だったが、小野塚にぶった切られて口を噤んだ。しかしすぐに、怒りを内包した口調で続ける。


「あなた方は……、女性にああいう危険な仕事をさせて、何も感じないんですか?」
 その非難まじりの台詞に、小野塚は不思議そうに言い返した。


「はぁ? 何を言っている。菅沼を含めてうちの防犯警備部門に所属する女性社員は全員、れっきとしたプロだ。他の素人の女性社員には、危険な事はさせていないぞ?」
「そうじゃなくて! そもそも防犯警備部門に、どうして女性が配属されているんですか!?」
「護衛対象者が女性の場合もあるから、どうしても警備する人員にも女性が必要だ。それ位、道理だろうが」
「ですが!」
「特に菅沼はああ見えて、兄同様若手の中でも指折りの実力者だからな。菅沼道場からは定期的に有望な人材を輩出して貰っているが、その中でも」
「ちょっと待って下さい。兄って誰の事ですか?」
 急に顔色を変えて自分の台詞を遮り、問い質した健介に、小野塚は不思議そうに問い返した。


「配属課は異なるが、菅沼兄妹はどちらも防犯警備部門に所属している。それがどうかしたのか?」
「それはまさか、菅沼涼さんの事ですか?」
「そうだが? どうして貴様が、兄の方の名前を知っている?」
 そこで健介は盛大に溜め息を吐いてから、先程の興奮など綺麗に消し去って静かに告げた。


「……少し前から、二人に付いて貰っています」
「そうなのか? それは知らなかったな」
 それきり黙り込んで窓の外に視線を向けた健介を、これまで涼がわざと真紀と夫婦だと誤解させる言動を繰り返していた事など知らなかった小野塚は、(急に静かになって、変な奴だ)と怪訝な顔で眺めていた。


「ここが自宅か?」
「はい、送って頂いて、ありがとうございました」
 そして自宅マンションの玄関まで小野塚に送って貰った健介は、神妙に小野塚に頭を下げて彼と別れた。そして一人で部屋に入ってから、自然に笑みを浮かべる。


「そうか……、兄妹だったのか。結婚して無かったんだ。全然似てないし、微妙な事を言っていたから、変に誤解していたじゃないか……」
 そして思わぬ所から得た情報に、彼は機嫌良く呟いていたが、事態は健介が考えている程甘くはなく、むしろ激辛だった。


「無事に送り届けたぞ」
 健介と別れた小野塚は、そのマンションから出てすぐに寺島に連絡を入れると、淡々とした声が返ってくる。


「ご苦労様です。小野塚さんは、そのまま帰って貰って結構ですから」
「それで? 当面の方針は?」
「契約終了で、議員の方も含めて派遣は今日までになります。明日の朝、説明と連中の引き渡しの為に、依頼人に出向いて貰う事にしました。もう連絡済みです」
 手際が良いなと思いながらも、小野塚はそんなつまらない誉め言葉などは口にせず、皮肉げな口調で続けた。


「それはなかなか、楽しい事になりそうだな。勿論俺達は、立ち会う事になるんだろう?」
「当然です。もう当事者ですからね」
 そうしてどちらからともなく低い笑い声が漏れ、それでこの件の関係者で、公社社員以外の者全員への容赦の無い制裁が、半ば決定する事となった。


 ※※※


「おはようございます。菅沼さん達は、もうこちらに来ていますか?」
 翌朝、いつもの時間になっても真紀と涼が玄関まで迎えに来なかった為、健介は何か予定が違ったかと不審に思いながら事務所に入った。そして重原にさり気なく尋ねたが、予想もしていなかった言葉が返ってくる。


「健介さん? 先生と健介さんの警護は昨日で終了になりましたから、菅沼さん達はもうこちらに来ませんよね? 田辺さんからそう連絡がありましたが、聞いておられませんか?」
「何だって!? どうしてそんな事になってるんだ!」
 血相を変えて健介が詰め寄ったが、重原は困惑顔のまま説明を続けた。


「どうしてと言われましても……。桜査警公社の方から田辺さんに、『一連の犯人が判明した上、一味を拘束中なので、詳細についてご説明したい』と昨夜のうちに連絡が入ったとか。それで朝から田辺さんが、桜査警公社に出向いている筈です」
「そう言えば、克己の奴が捕まっていたか……。これで丸く収められたら困るぞ。真紀との接点が、また無くなるじゃないか」
 すっかり異母弟の事を忘れ去っていた健介が呻くと、重原が怪訝な顔で尋ねてくる。


「健介さん? 今、何か仰いましたか?」
「いえ、何でもありません。部屋に行っています」
「分かりました」
 何事もない様に重原と別れて奥の部屋に向かった健介は、周囲に人影が無いのを確認してから室内に入り、中にいた宗則に勢い込んで頼んだ。


「宗則! 例の爆弾のレプリカを、大至急、もう一つ作ってくれ!」
「健介、お前、声が大きいぞ!」
「大丈夫だ。廊下に人は居ない。それより今、恐喝犯がいなくなると困るんだ! 真紀は結婚していなかったし!」
 血相を変えて訴えてきた健介に、宗則は怪訝な顔になりながら問い返した。


「はぁ? ちょっと待て。話が飛んだ上に、それならあの涼って奴は何なんだ?」
「真紀の兄だそうだ。微妙な物言いをしていたから、すっかり誤解していたが」
「本当か?」
「ああ、とにかく、もう一度頼む。実は昨夜、襲撃とかを画策していた克己が真紀達に捕まって、全てあいつのやった事として、このまま一件落着しそうなんだ」
 真剣な顔でのその訴えを聞いた宗則は、溜め息を吐いて椅子から立ち上がった。


「仕方がないな。取り敢えず材料を部屋から取って来る。ここで組み立てるから、今日の俺の分の仕事はお前がやってくれよ?」
「ああ、任せてくれ」
 二人の間でそんな交換条件が成立していた頃、前日のうちに専属警護は解消と説明を受けていた真紀は、他の者より若干遅めに出社していた。


「……おはようございます」
「よう、菅沼! お前昨日、緊急通報でとんでもない面子を呼びつけたらしいな!」
「始末書だけでも面倒なのに、災難だったな!」
「うぅ……、皆、他人事だと思って……」
 緊急通報システムを使用した件は、朝と言うか前日のうちに噂が社員の間を駆け巡っているだろうと思ってはいたが、職場に足を踏み入れると同時に予想に違わず楽しげに声をかけられ、真紀はくじけそうになった。しかしなんとか気を取り直し、飯島の元に向かう。


「あの……、飯島先輩。おはようございます」
「……ああ」
「その……、昨日、一緒に居られたと言う彼女さんとは、その後、どうなりましたでしょうか?」
 恐る恐るお伺いを立てた真紀だったが、飯島は手元のファイルから目線を外さないまま、ぼそりと答えた。


「……ちゃんとテーブルで、待っていてくれた」
「え? あ、本当ですか!? ろくな説明もなしに中座して置き去りにしたのに、なんて良い人!! 私だったら帰ってますよ!」
「おい、菅沼!」
「飯島さんを刺激するな!」
 本気で驚いた真紀が思わず声を張り上げると、周りが焦って小声で窘める。すると飯島が、ボソボソと話を続けた。


「そして……、戻ってから、急に中座した事について、しどろもどろな説明をしたら……。『これまでにも時々、ドタキャンされたりすっぽかされたりしたけど、本当に大変なお仕事なのね。これからは私が支えてあげるから』って言われて……」
 最後は涙声になって飯島が口を閉ざすと、真紀は忽ち喜色を露わにして叫んだ。


「え!? それってまさかの、逆プロポーズ!? うっわ、なんて男前の彼女さん! 惚れそう! じゃなくて飯島先輩、おめでとうございます!!」
「ありがとう、菅沼」
 そこで漸く座ったまま身体を向けてきた飯島が、目に浮かべた涙を手の甲で拭うと、真紀は益々感極まった。


「うわぁ――ん! 本当に破局にならなくて、良かったぁあ――! 昨日のお詫びも含めてご祝儀は弾みますからね!!」
「いやぁ、本当にめでたい!」
「良かったな、飯島。この果報者が!」
 様子を窺っていた周りの同僚達も、口々に祝いの言葉を述べる中、如何にも残念そうな声で空気を読まない発言をした者がいた。


「つまらないですね……。今朝はてっきり、飯島さんの破局話が聞けるかと思っていたのに」
「なんだと? お前、無神経にも程が……、て、寺島さん!?」
 防犯警備部門の一人が気色ばんで叱りつけようとしたが、勢い良く振り返った視線の先にいた人物を認めて、声を上擦らせた。忽ち祝福ムードが消し飛び、周囲の者達の間に一気に緊張が走る中、寺島がのんびりと声をかける。


「すみません、菅沼さんに用事がありますので、通して貰えますか?」
 その途端、真紀を中心にして、人垣が勢い良く左右に分かれた。そして見通しが良くなったのを幸い、寺島が一見穏やかに声をかける。


「おはようございます、菅沼さん。昨日の件について、社長室への呼び出しです。各部門の部長と部長補佐も揃っているので、私と一緒に来て下さい」
 そう告げられた瞬間、周囲の空気がざわりと動き、真紀は盛大に顔を引き攣らせた。


「社長室……。副社長室では無くて、ですか?」
「今日は偶々朝から、社長が来社しているんです。午前中にこちらで用事を済ませてから、午後から本業での出張に出られるとか」
 滅多に出社しない社長の周囲と、普段開かずの間と化している社長室は、桜査警公社一の危険地帯デンジャラス・ゾーンである事は周知の事実であり、そこへの呼び出しに真紀は涙目で項垂れた。


「社長……、いらしてたんですか……」
「菅沼……、本当に運が悪い……」
「不憫過ぎて、涙が出てきた」
「さあ、行きますよ」
「はっ、はい! 今行きます!」
 そして真紀は踵を返した寺島の後を追い、そんな彼女の背中に向かって、同僚達は憐憫の眼差しを送りつつ揃って合掌した。


「菅沼さんを連れて来ました」
「寺島、ご苦労だった」
 寺島に先導されて広い社長室に入ると、奥の机にいる社長の両側に、各部門の部長と部長補佐が全員顔を揃えていた。それに真紀が内心で動揺していると、副社長の金田が穏やかに声をかけてくる。


「やあ、菅沼君。専任から解放されて清々しい気分のところを、朝から呼び立てて悪いね」
「いえ、お構いなく」
 するとここで、真紀が顔と名前だけ覚えている社長の藤宮秀明が、真顔で寺島に確認を入れる。


「するとこの女が、『特防一のカモ女』と言うわけだ」
「はい、社長。ですので今回、彼女にその不名誉な二つ名を、自ら払拭する機会を与えようかと思いまして」
「……なるほど、そういう事か。面白い時に居合わせたものだ」
 ニヤリと笑った寺島を見て、彼と十歳も違わない様に見える藤宮は、彼以上に邪悪に見える笑みを浮かべた。それを見た真紀が(それってどういう事よ!?)と内心で動揺していると、机上の内線電話が鳴り響く。


「社長室だ。……ああ、分かった」
 すかさず受話器を取り上げた藤宮が短く通話を終わらせ、寺島に声をかける。
「受付からだ。田辺とか言うのが、下に到着したらしい」
「それではもう一人の脇役も、そろそろ呼び出しましょう。こちらをお借りします」
「ああ」
 そして寺島がどこかに内線をかけ始めたが、他の幹部達は皆薄笑いを浮かべたり、素知らぬ顔をしているのみで、全く真紀に事の仔細を説明してはくれなかった。


(あの、私がどうしてここに呼ばれたか、理由が全然分からないんですけど……。しかも誰も私に、説明して下さらないんですか!?)
 心の中でそんな泣き言を言っているうちに、北郷代議士の政策秘書を務めている田辺がやってきて、彼にとっては悲劇の、寺島達にとっては喜劇の幕が上がった。





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