恋愛登山道一合目

篠原皐月

第8話 裏事情

主任チーフ、戻りました」
 その声に、自分の机で書類を捌いていた阿南は振り返り、真紀に向かって頷きながら指示を出した。


「ああ菅沼、御苦労。例の不審車の解析結果だが、特に秘匿する内容でも無いので、二課の菅沼に持って帰らせた。あいつが飯を作って待っているそうだから、食いながら説明を受けて確認してくれ」
「了解しました。それでは本日の報告だけ作成して上がります」
「ああ」
 そうして自分の机で素早く報告内容を打ち込んだ真紀は、ものの十分もせずに職場を後にした。すると彼女と入れ替わる様に、仕事を済ませた裕美が戻って来る。


「お疲れ様です。阿南主任」
 所属班は違えど同じ特務一課所属の為、人影がまばらな室内で挨拶すると、阿南は苦笑いで返した。


「遅くまで御苦労だな、岸田。休日には旦那と子供にサービスしろよ?」
「この勤務は明日までなので、明後日からはそうするつもりです」
「そうだな。ところで支障が無ければ教えて貰いたいんだが、例の北郷議員の息子にはお前の名前と、菅沼がお前の後輩だという事はバレているんだよな? どうしてそうなったのか、詳しい情報が上から下りてこないんだが?」
 不思議そうな顔でのその問いに、今度は裕美が苦笑いの表情になった。


「例の事件の後、彼女は当時住んでいたマンションを引き払いましたが、その少し後に奴が連絡を取ろうとしたみたいです。ですが電話番号もメルアドも変更して、繋がる筈もなし。それで彼女から聞いていた勤務先を、興信所に調べさせたそうです」
 それを聞いた阿南は、少し驚いた様に応じた。


「神林総合システムズにか? 確かにあそこには今も『佐藤真紀』の名前で、菅沼は登録されている筈だが、実在しない社員の事など他の社員に聞き込んでも無駄だし、出入りを張っても現れる筈が無いだろう?」
「ええ。あそこはうちの完全子会社ですから、どうとでも名簿、所属、その他諸々の記録をでっち上げられますからね。そもそもそこに探りを入れ始めた段階で、そこからうちの上層部に連絡が入って、北郷氏の事は把握していたそうです」
「そうだったのか?」
 そこで素で驚いた表情になった阿南に、裕美は重々しく頷いてみせた。


「はい。それで如何にも今でも勤務している様な中途半端な情報を、わざと漏洩させたとか。今回の事を上に報告した時に、そう説明されました」
 そこまで聞いて、阿南は深い溜め息を吐いた。
「それを菅沼自身に全く教えていなかった辺り、上層部の底意地の悪さと本格的な悪意を感じるぞ」
「その感想、今更ですよね?」
 裕美は小さく笑ってから、平然と説明を続けた。


「それで幾ら調べても実際の所が分からなかった北郷氏は、違う方向から当たってみたんです」
「違う方向とは?」
「彼女がマンションを引き払った時の引っ越し業者を調べて、転居先を知ろうとしたわけですね」
 それを聞いた阿南は、難しい顔になって考え込んだ。


「目の付け所は良いと思うが……、その時点で結構な時間が経過していたと思うし、どこの業者を頼んだかを調べるのも大変だったんじゃないか? それにこのご時世、どこの業者もそうそう顧客情報を外部に流さないだろうし」
「確かにそうでしょうね。それについては奴は逐一説明などはしませんでしたか、片端から当たって結構な時間と費用がかかった筈ですよ? しかもそれで分かった結果が……」
 そこで裕美が含み笑いで言葉を途切れさせた為、阿南が同様の人の悪い笑みを浮かべながら後を引き取った。


「『佐藤真紀』ではなく『菅沼真紀』の名前で、実家があると聞いていた山梨ではなく、埼玉に転居していたわけか。それは奴でなくても、混乱するだろうな」
「ですが埼玉の住所を当たってみても、彼女らしき人物が出入りしている様子を掴めない。そうこうしているうちに、興信所の調査員が『菅沼道場の娘さんが、桜査警公社の防犯警備部門で働いているらしい』と言う噂話を聞きつけまして」
「それで今度は、調査対象をここに変えたのか?」
「はっきり言って、時間とお金の無駄遣いですよね?」
 ここで二人揃って苦笑いしてから、裕美が説明を再開した。


「それで全く調査の進展が得られない事に業を煮やした北郷氏が、あの自作自演爆弾騒ぎを引き起こした訳です」
「自分からはっきりそう口にしたのか?」
 その裕美の断定口調に、それを明かしたらこの依頼が成り立たなくなるだろうと思いながら阿南が確認を入れると、彼女は笑って推論を述べた。


「いえ、直接口にしてはいませんが、父親かその秘書辺りから、うちが政治家御用達だと聞かされて、物騒な騒ぎを起こせば警護を依頼すると踏んだんでしょう。不審がられずに上手く誘導できたみたいですから、底無しの馬鹿では無さそうですが」
「辛辣だな。しかし飯島を派遣した時の騒ぎは何だ?」
「公社から女性を派遣して貰う為の、苦肉の策ですよ。首尾良く女性に替えて貰っても、私や彼女じゃ無かったら、どうするつもりだったんでしょうね?」
 そう言って肩を竦めて見せた裕美に、阿南も呆れ気味の表情で応じる。


「捨て身の作戦の割には、詰めが甘いな。それで例の件の時、面識があったお前は、奴に何と言ったんだ?」
「私の顔を見て驚愕した後、すぐにこれまで彼女の消息を調べていた事を告げてから、『あなたと真紀が、何故か桜査警公社の社員になっている事は分かりましたが、どういう事ですか?』と尋ねられましたが、『その質問に答える義理はありませんし、この仕事に関する内容でもありませんので、答える必要性を感じません』と突っぱねました」
 当然の如く報告した裕美に、阿南は苦笑せざるを得なかった。


「それで、相手が納得するわけ無いよな?」
「執念深く、五年近くかけて調べた結果ですからね」
「取り敢えずここまでたどり着けたのなら、誉めてやるべきかな? それで?」
 そう言って阿南が話の続きを促してきた為、裕美が冷静に説明を続けた。


「『確かに社内に真紀と言う名前の後輩はいますが、あなたとの接点は無い筈ですが?』と散々いたぶってから、『それにお話ではあなたの知り合いは『佐藤真紀さん』みたいですが、私の後輩の名前は『菅沼真紀』なので、どうして名字が変わっていると聞かれても、何の事やら。聞きたいのはこちらの方です』とすっとぼけてやりました」
「容赦ないな」
 思わず阿南が口を挟んだが、裕美は平然と話を続けた。


「それで挙げ句の果て、『彼女に謝罪したいので、引き合わせてくれ』とか恥ずかしげも無くぬかしやがったので、『別に菅原には、あなたに謝罪して頂くいわれは全くありませんが? まあ『菅沼真紀』を私の後任にする手配をして欲しいと言うなら、二百万で手を打ちますが』と申し出たら、あっさり払ってくれました。ちっ……、あんなに素直に払うなら、五百万位ふっかければ良かった」
 ここで盛大に舌打ちして、忌々しげに告げた裕美を、阿南が呆れ返った口調で窘めた。


「おいおい、岸田。お前陰で、何をやっているんだ」
「この事はちゃんと部長と副社長に報告して、了承して貰っています」
「……そうか」
 淡々と告げられた事実に、阿南は思わず遠い目をしてしまったが、裕美の容赦の無い話はそのまま続行された。


「それに『私にとってそれは、あくまでも後輩の『菅沼真紀』を後任にするべく骨を折った正当な対価です。あなたがお尋ねの『佐藤真紀』と彼女が同一人物で無くても、私に一切の責任はありませんので、そこはご了承下さい。勿論本人にこの取引の事も言いませんし、あなたも口外しないで下さい。私情で担当者を変えさせたなどと分かったら、公社はすぐに手を引いて護衛任務から引き上げさせますし、そんなストーカー紛いの言いがかりを付けられて指名されたと分かったら、彼女はこちらの仕事を拒否しますから』と暗に脅しをかけておきました」
 それを聞いた阿南は、素で感心した顔付きになった。


「なるほどな。だから奴は『君に会いたかったから岸田さんに頼んで後任にして貰った』とか、菅沼に向かって迂闊な事を言えなかったわけだ」
「まあ、それ以前に、あれは絶対『実際に顔を合わせれば、相手だって自分の事を分かってくれる筈。罵倒されるのは覚悟の上。彼女の気が済むまで謝罪してやり直そう』とか、自分に都合が良くて感動的な出会いを想像していましたね」
「で? 実際のところはどうだったんだ? その《感動の再会の場面》に、居合わせたんだろう?」
 当時のやり取りを思い出したのか、鼻で笑った裕美を見て、彼にしては珍しく、阿南が興味津々の表情で尋ねた。それに彼女が笑いを堪えながら詳細を告げる。


「ええ。彼女は全くの平常運転で『菅沼真紀です。宜しくお願いします』とやりましたよ。そしたら奴は、眼鏡で判別が付かなかったとでも思ったのか、さり気なくそれを外していましたが、それでも彼女が無表情だったので、呆然としていましたね。もう、あの間抜け面を間近で見て、笑いを堪えるのが本当に大変で」
 そこまで報告してから、堪えて切れなくなったのか「ぶはははははっ!」と豪快に笑い出した彼女を見て、阿南も失笑した。


「……それで奴は、“彼女”が菅沼と同一人物だと断定しかねて、余計に混乱していると言うわけか」
「加えてこの前、例の時に彼女が現金と一緒にかすめ取られた、祖母の形見のブローチの複製品を、これ見よがしに付けて行かせましたからね。思い当たる節がありありの奴は、さぞかし動揺して混乱したでしょうよ。その時の顔が見てみたかったです」
「本当にうちの上層部は、容赦ないな」
 もう笑うしか無い阿南に、裕美が真顔で確認を入れる。


「上は彼女に裏事情を伏せたまま、この際徹底的に奴で遊ぶつもりですよね?」
「その腹積もりだろうが、菅沼も別な意味で容赦ないな」
 様々な要因が重なった上での事だが、過去に因縁のあった人物との再会に、未だに微塵も気が付いていない部下について阿南が言及すると、裕美が茶化す様に言い出す。


「それはまあ、なにしろ彼女はこの五年の間に、自称『クールビューティー』に変貌を遂げましたし?」
 それを聞いた阿南は一瞬何を言われたのか分からない顔付きになってから、微妙に頬を引き攣らせて応じた。


「……岸田。顔が笑っているぞ?」
「阿南主任こそ、苦み走った端正なお顔が、緩んでいらっしゃいますよ?」
 そこでとうとう笑いを堪えるのが限界に達した二人は、人気のない室内で、揃って楽しげな笑い声を上げた。


 上司と先輩にそんな笑い話のネタにされているなど、夢にも思っていない真紀は、先程阿南と別れてから社屋ビルの地下三階までエレベーターで下り、いつも通りエレベーターの扉と連絡通路の扉を指紋と光彩認証で通って、一度も外部に出ることなく隣接しているマンションへと到達した。
 棟内丸ごと公社社員の寮と化しているそこで、真紀は自分の部屋では無く、夕飯を作ってくれていると言う兄の部屋に直行する。


「お疲れ、真紀。さっさと上がって食え」
「ありがと、涼。今度は私が作るから」
 すぐにドアを開けてくれた涼に礼を言いながら上がり込んだ真紀は、手際良く自分の前に並べられていく料理を見ながら首を傾げる。


「それで? 食べながら聞けと言われたけど、そんな片手間で良い報告なの?」
「確かに、その程度の報告だからな」
 苦笑いした同僚兼兄に、手振りで食べる様に促され、真紀はそれに従いながら食べ始めた。


「例の車が盗難車だって事は、もう聞いているだろう?」
「うん、運転中に。解析班って本当に仕事が速いわね」
「それで乗っていた二人組だが、顔は警察のデータベースに無かった」
 その端的な報告を聞いて、真紀は箸の動きを止めて考え込む。


「すると前科が無いし、指名手配されている容疑者でも無い、目立った組織の構成員でも無い、チンピラ風情?」
「推定年齢二十代半ばだしな。金で雇われていると考えれば納得なんだが……」
「逆に、背後関係は追いにくい?」
「そういう事だ」
 あっさり頷いた兄を見て、真紀は僅かに顔を顰めた。


「う~ん、やっぱりあそこで捕まえて、吐かせておくべきだったかしら?」
「それをやってる間に、仲間を呼ばれる可能性があるだろう? 俺達は警護対象者の安全確保が第一だ。捜査は警察の、調査は信用調査部門の仕事だ。そこを忘れるな?」
「分かってるわよ」
 そこで軽く涼が窘めたが、妹が一応口にしてみただけだと分かっていた為、それ以上は言わなかった。その代わりに、微妙に話題を変える。


「と言うわけで、明日から俺も北郷氏の護衛任務に就く事になったから」
「はい? 何で?」
 本気で戸惑った表情になった真紀に、涼が平然と言い聞かせる。


「単なる嫌がらせや脅しじゃない、れっきとした襲撃事件が今日起きたんだから、警備を増強するのは自然な流れだろう?」
「だってそれにしたって、普通はまず同じ課内で人員を補充する筈でしょう?」
「確かにお前は一課だから、普通だったら特務二課所属の俺の名前が、補充要員として真っ先に上がる事は無い。現時点で手が空いているのは確かだが、他にちょっとした理由がある」
「どんな理由よ?」
「俺が菅原姓で、口が達者だからだ」
 至極当然の事を言われて、真紀は本気で面食らった。


「……はい? だから何?」
「だから色々な意味で効果的だろうとの、上層部の判断だ」
「だからどうして、涼が護衛に就くのが効果的なの?」
「上層部から『奴の神経をゴリゴリこそぎ落とせ』との厳命が下った」
 話が通じている様で通じていない様にしか思えなかった真紀は、軽く兄を睨み付ける。


「全く意味不明。涼の毒舌っぷりは私が一番理解しているけど、勤務中に余計な事は御法度の筈でしょう?」
「大丈夫だ。そこの所は上手くやる」
「ふぅん? まあ、こっちの仕事の邪魔をしないなら構わないけど」
 思わせぶりな物言いに、少々腹を立てたものの、頑として明確な所を語らない兄をそれ以上追及せず、真紀は憮然としたまま食事を食べ終えた。それから幾つかの情報を自分から提供してから、彼女は同じ棟内の自分の部屋へと戻った。





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