恋愛登山道一合目
第2話 想定内で予想外な顔合わせ
健介と宗則、それに裕美が微妙な緊張感を保ちながら過ごしている部屋に、ノックの音に続いて、事務所の古参スタッフが姿を現した。
「健介さん。新しい護衛の方が、お見えになりました」
「入って貰って下さい」
「どうぞ」
「失礼します」
ドアの向こうに姿を消したスタッフの代わりに、地味なパンツスーツ姿の真紀が入室し、まっすぐ窓際に進んだ。そして壁際に立つ裕美に会釈した彼女は、正面に座っている健介に向かって、軽く一礼してから挨拶をする。
「桜査警備公社から派遣されました、菅沼真紀です。岸田さんとの引き継ぎが済み次第、当面こちらを担当しますので、宜しくお願いします」
「…………」
しかし目の前の相手は訝しげな顔で黙ったまま、眼鏡を外して真正面から見返してきた。その反応を見た真紀は、僅かに眉間にしわを寄せながら、裕美に顔を向けて問いを発した。
「岸田さん。予め、資料で顔写真を確認していましたが、こちらが北郷健介氏ですよね? そちらの城島宗則氏と写真が入れ替わっていたとかは、ありませんよね?」
軽く二人の男を指さしながら確認を入れた真紀に、裕美が苦笑いで応じる。
「菅沼さん、大丈夫よ。それで間違っていないわ。北郷さんが無言で面白くなさそうにしているのは、あなたが嫌いな若い女性だからよ。気にしないで」
「はぁ!?」
それを聞いた健介は相変わらず無言のまま動揺し、健介とはL字型に机を置いている宗則が、上擦った声を上げたが、真紀は平然と答える。
「仮にも命を預かる相手に対して、その態度はどうかと思いますが、まあ常識が通じそうに無いので、仕方がありませんね。こちらが割り切ります」
「それが良いわね」
「いや、あのですね、健介は別にあなたが嫌いとか、そういう訳では無くてですね」
ここで宗則が焦って弁解しようとしたが、真紀は無表情で頷いた。
「はい、存じています。私個人がどうこうではなく、若い女性全般がお嫌いなのですよね? 重々承知しておりますので」
「だから、そうでは無くて!」
「岸田さん。早速引き継ぎと、これからのスケジュールを確認したいのですが」
「そうしましょうか。それでは北郷さん、城島さん。少しの間、彼女と奥の部屋を使わせて貰いますので」
「……ああ」
「失礼します」
女二人は宗則を無視して話を進め、一応健介に断りを入れて、部屋を出て行った。それとほぼ同時に、宗則が疑わしそうに、健介に声をかける。
「健介。本当に“あれ”が、例の“彼女”なのか? 何だか、お前から聞いていた話と、イメージが随分違うんだが」
「確かに当時の彼女とは、かなり違う感じだが……。岸田さんはしっかり俺の事を覚えていたし、彼女から俺の事を聞いて怒って、知らないふりをしているんじゃ無いかと……」
手にしていた眼鏡をかけ直しながら、健介が弁解気味に口にしたが、それを聞いた宗則は盛大に顔を顰めた。
「あれが演技だと? お前を真正面から見ても、全然反応しなかったぞ? とてもそうは思えないんだが。岸田さんも俺達が言わない限り、言うつもりは無いと言っていたし」
「当時とは、俺の髪の色も、髪形も違うし……」
「それで見分けが付かなくなる程度の付き合いなら、たかが知れていると思うが? 彼女にとってのお前って、その程度にどうでも良い男だったって事じゃないのか?」
「…………」
もの凄く疑わしげな口調で言われた健介は、机に両肘を付いたまま無言で項垂れた。
一方、奥の部屋に真紀と入るなり、裕美はほくそ笑んでいた。
「いい気味だわ。混乱している筈だし、今更、当たって砕ける度胸があるかしらね」
そんな彼女を、真紀が不思議そうに見やった。
「先輩? 今、何か仰いました?」
「ううん、独り言よ。それより、悪かったわね。急に専属を頼む事になって」
パイプ椅子を勧めながら裕美が詫びると、真紀は真顔で首を振った。
「大丈夫です。ちょうど先月末で、専属担当が解除されていましたから、暫く内勤と臨時応援だけでしたし」
「ああ……、そう言えば菅沼さん、あの我が儘奥様に付いていたのよね」
「はい。人を便利な荷物持ち程度にしか思っていなくて、いい加減うんざりしていましたので。冗談抜きで、両手に荷物を持っていたら、何かあった時に咄嗟に反応できません」
ここで初めて、僅かに怒りの表情を見せた真紀を見て、裕美が肩を竦めた。
「全くだわ。それを訴えて、解除して貰ったんでしょう?」
「丸一日、他の方に記録を取って貰って、部長の判断を仰ぎました」
「当然よ。それにそんな人間を、わざわざ金を払ってまで狙う奴は居ないでしょうしね」
そこで向かい合って座った裕美は、真顔になって事務的に話を進めた。
「それではあなたのこれからの任務内容になるけど、基本は北郷氏の勤務に合わせて、ここに八時半まで出向いて彼を迎えに行き、二十時まで詰めた後、彼を自宅まで送って終了よ」
「頂いた資料では、彼の自宅の場所はここの上層階でしたね?」
「ええ。このマンションは丸ごと、北郷議員が所有しているから」
「それは楽ですね」
彼女の口調には、明らかな嫌みが含まれていたが、裕美はそれはスルーした。
「一階と二階は北議員が事務所と会議室、資材置き場や倉庫として使っているけど、三階以上の居住スペースに上がるエレベーター前には管理人室があって、二十四時間常駐しているわ」
「警備するには、なかなか結構な環境ですね」
そこで裕美の話が一区切り付いたのを察して、真紀が尋ねた。
「ところで、飯島さんも岸田さんも単独で勤務を? 交代要員は付かなかったんですか?」
その疑問に、裕美は鼻で笑いながら答える。
「お坊ちゃまは、見慣れない人間が入れ替わり立ち替わり周囲に居ると、落ち着かないタチだそうよ。深窓育ちは神経が繊細らしいわね」
「……結構なご身分ですね」
「それから彼は私設秘書だから、議員会館とかに常駐では無くて、主に地元対応になるわね。だから永田町辺りへの行き来は、滅多にないわ」
「助かります。神奈川とは言っても、都に隣接した地域で。朝晩の移動が、比較的楽ですから」
微妙に顔を顰めながら、真紀が応じると、そんな彼女の顔を裕美が凝視した。
「…………」
「何か?」
その視線を感じた真紀が尋ねたが、真紀は真顔で首を振る。
「いえ、何でもないわ。今日からのスケジュールを確認してから、主だった事務所スタッフに紹介するから」
「お願いします」
それから二人は細かい情報の確認を済ませてから、他の部屋に詰めているスタッフの所に出向き、顔合わせを済ませた。
「失礼します」
「どうぞ」
再び二人で健介達が使用している部屋に戻ってから、裕美は神妙に頭を下げた。
「引き継ぎが終了しましたので、私は失礼させて頂きます。何かあれば、菅沼に申し付けて下さい」
「分かりました。短い間でしたが、ご苦労様でした」
「それでは私はこれから少し、事務所の内外の点検をして参りますので、席を外します」
「あの!」
裕美と同様に、ファイル片手に部屋を出て行こうとした真紀を、思わずと言った感じで健介が呼び止めた。それに真紀だけが足を止め、訝し気な表情で振り向く。
「何でしょう? 北郷さんは今日は一日、事務所に居るスケジュールだったと思いますが、これから他に移動するご予定でもありましたか?」
「いや、それは無いが……」
「それでは少々、席を外します」
素っ気なく一礼して真紀が部屋を出て行くと、どんよりした空気を纏わせている健介を鬱陶しそうに見やった宗則が、暫くしてから嫌々ながら立ち上がって部屋を出て行った。そして彼が廊下を歩いて真紀の姿を探してみると、彼女はエントランスで手にしたファイルと周囲を交互に見回しながら、防犯上のチェックを行っている所だった。
「カメラの位置は資料通りね。そうなると、死角はこの辺りになるけど……、この範囲なら、向こうのカメラの撮影範囲に入るから……」
「佐藤さん」
最初宗則は、彼女の死角になる壁の陰から、ギリギリ聞こえる位の大きさの声で呼びかけてみた。しかし真紀はそれが聞こえなかったのか、変わらず視線を動かしながらチェックを続ける。
「うん。十分、対応可能か。後は、これの管理状況の確認かな……。それと想定される侵入ルートはこれだから、押さえておく場所としては……」
「佐藤さん?」
さっきは声が小さかったかと、今度は普通に聞こえる位の声量で呼びかけてみた宗則だったが、真紀は変わらず無反応だった。
「それから、スタッフと業者の出入りと、郵便宅配物のチェックの場合に使う、スペースの確保を」
「佐藤さん!」
ここで更に声を大きくして呼びかけた宗則に、真紀は漸く反応し、渋面になって向き直った。
「五月蠅いですね。それに、さっきから私の名前を間違えて覚えて、三回も呼んでいらしたんですか? 私の名前は、菅沼なんですが?」
「聞こえていたんですか?」
驚いた様に返した彼に、真紀は呆れ顔で言い返す。
「当然です。誰に向かって声をかけているのかと思いながら、聞き流していましたが。一応あなたの同僚の護衛担当ですので、名前位は正確に覚えて頂きたいですね。覚える頭が無いのなら、それはそれで構いませんので、『護衛さん』でも『公社さん』でも、お好きな様に呼んで下さい。それで事足りますから。それでは二階のチェックに向かいますので、失礼します」
「おい! 話はまだ終わっては!」
そしてあっさり自分を無視して、階段で真紀が二階に上がっていくのを見送ってから、宗則は腹立たし気に部屋に戻った。
「何なんだ、あの女は? ちょっと顔と名前が似ている、別人なんじゃないか?」
部屋に入るなり喚いた宗則に、健介が自信なさげに応じる。
「そうは言っても、興信所の調査結果では……」
「だけど、おかしいだろ? 佐藤真紀って女は、今でも神林総合システムズに事務職として在籍している事になっているんだろう? それなのに、どうして菅原真紀って名前になって、桜査警公社に居るんだよ? しかも防犯警備部門所属で、住所も連絡先も未だに分からないし。しかもそこの詳細に関しては、興信所の報告書ではごっそり抜けてるし。あれで良く金を取ったな。お前も素直に払うなよ!」
腹立たし気にまくし立てた宗則に、健介が呻く様に告げる。
「確かにそうだが……、この五年で、あれが一番詳しかったんだ。駄目もとで女性を派遣させる様に仕向けてみたら、運良く岸田さんに当たったし……」
「あの捨て身の、野郎押し倒し事件な。目の前でそんな修羅場が展開されていた時の、俺の心境を少しは考慮して欲しかったぞ」
「それに関しては、本当に悪かったと思ってる」
思わず遠い目をした宗則に、健介は頭を下げた。それを見た宗則が、深い溜め息を吐く。
「全く……。それであの岸田って女の言動が、余計に分からないんだよな……。お前、岸田に騙されているんじゃないのか? 例の彼女にちょっと似た女を手配して、お前をいたぶろうっていう魂胆だとか」
「だが、やはり彼女は、真紀本人だと思うし……」
「お前に“無反応”な“真紀さん”だな。さっきもさり気なく『佐藤さん』と呼びかけて見ても、無反応だったし。普通、少しは反応するんじゃないか?」
「それは……、どういう事なのかは分からないが」
未だ煮え切らない様子の健介に、宗則は至極真っ当なアドバイスをする事にした。
「やっぱり直接、本人に聞いた方が良いんじゃないか? そうすればはっきりするだろう」
「……そうだな」
しかし真紀が部屋に戻って来てからも室内は殆ど無言で、しびれを切らした宗則が動く事になった。
「健介さん。新しい護衛の方が、お見えになりました」
「入って貰って下さい」
「どうぞ」
「失礼します」
ドアの向こうに姿を消したスタッフの代わりに、地味なパンツスーツ姿の真紀が入室し、まっすぐ窓際に進んだ。そして壁際に立つ裕美に会釈した彼女は、正面に座っている健介に向かって、軽く一礼してから挨拶をする。
「桜査警備公社から派遣されました、菅沼真紀です。岸田さんとの引き継ぎが済み次第、当面こちらを担当しますので、宜しくお願いします」
「…………」
しかし目の前の相手は訝しげな顔で黙ったまま、眼鏡を外して真正面から見返してきた。その反応を見た真紀は、僅かに眉間にしわを寄せながら、裕美に顔を向けて問いを発した。
「岸田さん。予め、資料で顔写真を確認していましたが、こちらが北郷健介氏ですよね? そちらの城島宗則氏と写真が入れ替わっていたとかは、ありませんよね?」
軽く二人の男を指さしながら確認を入れた真紀に、裕美が苦笑いで応じる。
「菅沼さん、大丈夫よ。それで間違っていないわ。北郷さんが無言で面白くなさそうにしているのは、あなたが嫌いな若い女性だからよ。気にしないで」
「はぁ!?」
それを聞いた健介は相変わらず無言のまま動揺し、健介とはL字型に机を置いている宗則が、上擦った声を上げたが、真紀は平然と答える。
「仮にも命を預かる相手に対して、その態度はどうかと思いますが、まあ常識が通じそうに無いので、仕方がありませんね。こちらが割り切ります」
「それが良いわね」
「いや、あのですね、健介は別にあなたが嫌いとか、そういう訳では無くてですね」
ここで宗則が焦って弁解しようとしたが、真紀は無表情で頷いた。
「はい、存じています。私個人がどうこうではなく、若い女性全般がお嫌いなのですよね? 重々承知しておりますので」
「だから、そうでは無くて!」
「岸田さん。早速引き継ぎと、これからのスケジュールを確認したいのですが」
「そうしましょうか。それでは北郷さん、城島さん。少しの間、彼女と奥の部屋を使わせて貰いますので」
「……ああ」
「失礼します」
女二人は宗則を無視して話を進め、一応健介に断りを入れて、部屋を出て行った。それとほぼ同時に、宗則が疑わしそうに、健介に声をかける。
「健介。本当に“あれ”が、例の“彼女”なのか? 何だか、お前から聞いていた話と、イメージが随分違うんだが」
「確かに当時の彼女とは、かなり違う感じだが……。岸田さんはしっかり俺の事を覚えていたし、彼女から俺の事を聞いて怒って、知らないふりをしているんじゃ無いかと……」
手にしていた眼鏡をかけ直しながら、健介が弁解気味に口にしたが、それを聞いた宗則は盛大に顔を顰めた。
「あれが演技だと? お前を真正面から見ても、全然反応しなかったぞ? とてもそうは思えないんだが。岸田さんも俺達が言わない限り、言うつもりは無いと言っていたし」
「当時とは、俺の髪の色も、髪形も違うし……」
「それで見分けが付かなくなる程度の付き合いなら、たかが知れていると思うが? 彼女にとってのお前って、その程度にどうでも良い男だったって事じゃないのか?」
「…………」
もの凄く疑わしげな口調で言われた健介は、机に両肘を付いたまま無言で項垂れた。
一方、奥の部屋に真紀と入るなり、裕美はほくそ笑んでいた。
「いい気味だわ。混乱している筈だし、今更、当たって砕ける度胸があるかしらね」
そんな彼女を、真紀が不思議そうに見やった。
「先輩? 今、何か仰いました?」
「ううん、独り言よ。それより、悪かったわね。急に専属を頼む事になって」
パイプ椅子を勧めながら裕美が詫びると、真紀は真顔で首を振った。
「大丈夫です。ちょうど先月末で、専属担当が解除されていましたから、暫く内勤と臨時応援だけでしたし」
「ああ……、そう言えば菅沼さん、あの我が儘奥様に付いていたのよね」
「はい。人を便利な荷物持ち程度にしか思っていなくて、いい加減うんざりしていましたので。冗談抜きで、両手に荷物を持っていたら、何かあった時に咄嗟に反応できません」
ここで初めて、僅かに怒りの表情を見せた真紀を見て、裕美が肩を竦めた。
「全くだわ。それを訴えて、解除して貰ったんでしょう?」
「丸一日、他の方に記録を取って貰って、部長の判断を仰ぎました」
「当然よ。それにそんな人間を、わざわざ金を払ってまで狙う奴は居ないでしょうしね」
そこで向かい合って座った裕美は、真顔になって事務的に話を進めた。
「それではあなたのこれからの任務内容になるけど、基本は北郷氏の勤務に合わせて、ここに八時半まで出向いて彼を迎えに行き、二十時まで詰めた後、彼を自宅まで送って終了よ」
「頂いた資料では、彼の自宅の場所はここの上層階でしたね?」
「ええ。このマンションは丸ごと、北郷議員が所有しているから」
「それは楽ですね」
彼女の口調には、明らかな嫌みが含まれていたが、裕美はそれはスルーした。
「一階と二階は北議員が事務所と会議室、資材置き場や倉庫として使っているけど、三階以上の居住スペースに上がるエレベーター前には管理人室があって、二十四時間常駐しているわ」
「警備するには、なかなか結構な環境ですね」
そこで裕美の話が一区切り付いたのを察して、真紀が尋ねた。
「ところで、飯島さんも岸田さんも単独で勤務を? 交代要員は付かなかったんですか?」
その疑問に、裕美は鼻で笑いながら答える。
「お坊ちゃまは、見慣れない人間が入れ替わり立ち替わり周囲に居ると、落ち着かないタチだそうよ。深窓育ちは神経が繊細らしいわね」
「……結構なご身分ですね」
「それから彼は私設秘書だから、議員会館とかに常駐では無くて、主に地元対応になるわね。だから永田町辺りへの行き来は、滅多にないわ」
「助かります。神奈川とは言っても、都に隣接した地域で。朝晩の移動が、比較的楽ですから」
微妙に顔を顰めながら、真紀が応じると、そんな彼女の顔を裕美が凝視した。
「…………」
「何か?」
その視線を感じた真紀が尋ねたが、真紀は真顔で首を振る。
「いえ、何でもないわ。今日からのスケジュールを確認してから、主だった事務所スタッフに紹介するから」
「お願いします」
それから二人は細かい情報の確認を済ませてから、他の部屋に詰めているスタッフの所に出向き、顔合わせを済ませた。
「失礼します」
「どうぞ」
再び二人で健介達が使用している部屋に戻ってから、裕美は神妙に頭を下げた。
「引き継ぎが終了しましたので、私は失礼させて頂きます。何かあれば、菅沼に申し付けて下さい」
「分かりました。短い間でしたが、ご苦労様でした」
「それでは私はこれから少し、事務所の内外の点検をして参りますので、席を外します」
「あの!」
裕美と同様に、ファイル片手に部屋を出て行こうとした真紀を、思わずと言った感じで健介が呼び止めた。それに真紀だけが足を止め、訝し気な表情で振り向く。
「何でしょう? 北郷さんは今日は一日、事務所に居るスケジュールだったと思いますが、これから他に移動するご予定でもありましたか?」
「いや、それは無いが……」
「それでは少々、席を外します」
素っ気なく一礼して真紀が部屋を出て行くと、どんよりした空気を纏わせている健介を鬱陶しそうに見やった宗則が、暫くしてから嫌々ながら立ち上がって部屋を出て行った。そして彼が廊下を歩いて真紀の姿を探してみると、彼女はエントランスで手にしたファイルと周囲を交互に見回しながら、防犯上のチェックを行っている所だった。
「カメラの位置は資料通りね。そうなると、死角はこの辺りになるけど……、この範囲なら、向こうのカメラの撮影範囲に入るから……」
「佐藤さん」
最初宗則は、彼女の死角になる壁の陰から、ギリギリ聞こえる位の大きさの声で呼びかけてみた。しかし真紀はそれが聞こえなかったのか、変わらず視線を動かしながらチェックを続ける。
「うん。十分、対応可能か。後は、これの管理状況の確認かな……。それと想定される侵入ルートはこれだから、押さえておく場所としては……」
「佐藤さん?」
さっきは声が小さかったかと、今度は普通に聞こえる位の声量で呼びかけてみた宗則だったが、真紀は変わらず無反応だった。
「それから、スタッフと業者の出入りと、郵便宅配物のチェックの場合に使う、スペースの確保を」
「佐藤さん!」
ここで更に声を大きくして呼びかけた宗則に、真紀は漸く反応し、渋面になって向き直った。
「五月蠅いですね。それに、さっきから私の名前を間違えて覚えて、三回も呼んでいらしたんですか? 私の名前は、菅沼なんですが?」
「聞こえていたんですか?」
驚いた様に返した彼に、真紀は呆れ顔で言い返す。
「当然です。誰に向かって声をかけているのかと思いながら、聞き流していましたが。一応あなたの同僚の護衛担当ですので、名前位は正確に覚えて頂きたいですね。覚える頭が無いのなら、それはそれで構いませんので、『護衛さん』でも『公社さん』でも、お好きな様に呼んで下さい。それで事足りますから。それでは二階のチェックに向かいますので、失礼します」
「おい! 話はまだ終わっては!」
そしてあっさり自分を無視して、階段で真紀が二階に上がっていくのを見送ってから、宗則は腹立たし気に部屋に戻った。
「何なんだ、あの女は? ちょっと顔と名前が似ている、別人なんじゃないか?」
部屋に入るなり喚いた宗則に、健介が自信なさげに応じる。
「そうは言っても、興信所の調査結果では……」
「だけど、おかしいだろ? 佐藤真紀って女は、今でも神林総合システムズに事務職として在籍している事になっているんだろう? それなのに、どうして菅原真紀って名前になって、桜査警公社に居るんだよ? しかも防犯警備部門所属で、住所も連絡先も未だに分からないし。しかもそこの詳細に関しては、興信所の報告書ではごっそり抜けてるし。あれで良く金を取ったな。お前も素直に払うなよ!」
腹立たし気にまくし立てた宗則に、健介が呻く様に告げる。
「確かにそうだが……、この五年で、あれが一番詳しかったんだ。駄目もとで女性を派遣させる様に仕向けてみたら、運良く岸田さんに当たったし……」
「あの捨て身の、野郎押し倒し事件な。目の前でそんな修羅場が展開されていた時の、俺の心境を少しは考慮して欲しかったぞ」
「それに関しては、本当に悪かったと思ってる」
思わず遠い目をした宗則に、健介は頭を下げた。それを見た宗則が、深い溜め息を吐く。
「全く……。それであの岸田って女の言動が、余計に分からないんだよな……。お前、岸田に騙されているんじゃないのか? 例の彼女にちょっと似た女を手配して、お前をいたぶろうっていう魂胆だとか」
「だが、やはり彼女は、真紀本人だと思うし……」
「お前に“無反応”な“真紀さん”だな。さっきもさり気なく『佐藤さん』と呼びかけて見ても、無反応だったし。普通、少しは反応するんじゃないか?」
「それは……、どういう事なのかは分からないが」
未だ煮え切らない様子の健介に、宗則は至極真っ当なアドバイスをする事にした。
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