箱庭の光景

篠原皐月

(3)筋の通し方

 翌日も普通に仕事がある為、榊家の面々に名残惜しそうに見送られながらタクシーに乗り込んだ貴子だったが、走り出すと同時に目を閉じた。


「疲れたか?」
「少しね。でも嫌な疲れ方じゃないから、心配しないで」
「そうか」
 背もたれに背中を預けている貴子が目を閉じたまま答えると、隆也もそれ以上踏み込んだりはしなかった。しかし無言のまま数分が経過した所で、貴子が目を開けて徐に言い出す。


「……隆也」
「どうした?」
「今の今まですっかり忘れていたけど、両親が離婚するまでの間、私、ちゃんと母に育てられていたわ」
 その感慨深げな響きに、隆也は思わず彼女の方に顔を向けながら応じた。


「……そうだったな。お前が一歳の時だったか? お義母さんが宇田川と離婚したのは」
「ええ。それから小学校に入学するまで、あの男の姉の嫁ぎ先で育てられていたんだけど、どうしてだかあまりその頃の記憶が無いのよ」
「……そうか」
「楽しかったり嬉しかったりした記憶は無いけど、どうしてだか不思議と悲しかったり悔しかったりした記憶も無いのよね……。宇田川の家に引き取られてからは、ムカつく事ばかりだったけど」
「…………」
 暗い話になるのかと思いきや、貴子が心底不思議そうに首を傾げているのを見て、隆也も虚を衝かれて黙り込んだ。すると独り言のように、貴子がしみじみとした口調で語り出す。


「当時はとても想像したり出来なかったけど、伯母さんにしてみれば迷惑だったわよね。幾ら養育費を貰ってたって、普段殆ど行き来の無い、実家の弟が押し付けてきた姪なんて。病気だってしたと思うし」
 意外な事を聞かされた隆也は、そこで思わず口を挟んだ。


「ちょっと待て。その伯母と宇田川の仲が良かったから、お前を預けたんじゃないのか?」
「いいえ、殆ど交流は無かった筈よ? 伯母の家にいた頃も、宇田川の家にいた頃も、二人が顔を合わせているのを見たのは数える位だし。伯母の結婚相手も警察官僚じゃなくて、普通のサラリーマンだったもの」
「何なんだ、それは……」
 予想外だった事実を知って隆也は唖然としたが、貴子は困惑気味に話を続けた。


「だから伯母はどうして、普段疎遠な弟が押し付けた姪を、取り敢えず普通に育ててくれたのかなぁって、遅ればせながら思ったの」
「取り敢えずあの男とは違って、一般的な社会常識の持ち主だったんだろう?」
 隆也としてはそうとしか言えなかったのだが、貴子は続けてお伺いを立ててきた。


「だからこの間伯母に対して、かなり不義理をしていたなと思って。この機会に一言感謝の言葉を添えて、結婚の報告をしようかと思ったの。……構わない?」
 その少々心配そうな顔を見て、隆也はうんざりとしながら言い返した。


「あのな……。あの男とは別人格の伯母に手紙を書く位で、一々俺にお伺いを立てるな。まるで俺が専制君主のようだ」
「だって現にそうじゃない」
「どこがだ」
 そこで軽く睨み合ってから、どちらからともなく笑い出した二人は、笑いを収めてから再び前方を向いた。それから少しして、貴子が妙にすっきりした表情と口調で、静かに語り出す。


「確かに……、子供を産んだだけで立派な母親とは言えないし、かと言って、こういう母親が最高って言う、決まった指標も無いのよね。人なんて、千差万別だし」
「それは同じ事が、父親にも言えると思うが?」
「確かにそうね……」
 そこで苦笑いした貴子は、顔だけを隆也に向けて声をかけた。


「ねぇ?」
「何だ?」
「満点は無理でも……、平均点位は子供から貰いたいわ」
 それを聞いた隆也は軽く目を見開いてから、おかしそうに問い返す。


「平均の指標も無いと思うが?」
「取り敢えず、子供から笑顔で『大好き』って言って貰える事を、目標にすれば良い?」
「なるほど……、それは妥当かもな」
「でしょう?」
 そう言って貴子は小さく笑ったが、隆也は内心で(だがそれなら、十分満点の指標になりそうだがな)などと考えながら、落ち着き払った彼女の笑顔を眺めていた。




 ※※※




 二月も下旬に入ってから、帰宅して夕食を食べ終えた隆也に、貴子がお茶を出しながら予想外の話を切り出した。


「隆也、覚えている? この前、伯母に結婚の報告をするって言ったでしょう?」
「ああ、確かに先週、そんな事を言っていたな。手紙を出したのか?」
「手紙を出して、今日返事が来たのよ」
 さらりと返された言葉に、隆也は妙に感心しながらコメントした。


「……お前も伯母も、随分素早いな」
「取り敢えず、目を通してくれる?」
「それは構わないが……」
 すると貴子は立ち上がり、机の引き出しから何かを取り出してソファーに戻った。そして折り畳まれた便箋を差し出す。


「これよ」
「ああ、見せてもらうぞ」
 受け取ったそれにざっと目を通した隆也だったが、すぐに眉間にシワを寄せながら貴子に問いかけた。
「おい、『大した世話をした覚えはないし、どう考えてもあなたが兄を招待するとは思えないから、こちらの立場もあるし結構よ。後々面倒だから、離婚だけはしないようにしなさい』って、何だこれは?」
 一部を読み上げながら困惑の声を上げた隆也に、貴子は説明を加えた。


「手紙に『もし宜しければ、披露宴の招待状をお送りしたいのですが』って書いて送ったら、現金書留でこれと一緒に届いたのよ」
 そう言いながら貴子は続けて、御祝儀袋を隆也に向かって差し出した。眉間のシワを更に一本増やしながら、隆也はそれを受け取って中身を確認する。すると一万円札が一枚入っており、それを取り出して眺めた彼は、かなり微妙な心境に陥った。


(どうやらこの女性は当時もそれ以後も、それなりに貴子の事を心配してくれていたらしいな。貴子の話だと父親の所に引き取られてからは没交渉だったみたいだが、引き取った以上はその家の中で解決するべきだと、判断して割り切っていたか。自分も家庭がある手前、下手に他人の家の事に軽々しく口を挟めなかっただろうしな)
 そして改めて一万円札を凝視した隆也は、その折り目の付いていない真新しいお札を見て、自然に笑いが込み上げてくる。


(即座にこれを送り返してきたのは、彼女なりの誠意の表れなんだろうな。少なくとも弟よりは、はるかに常識的な人間らしい)
 そして一万円札を入れた御祝儀袋と、元通り畳んだ便箋を貴子に返しながら、隆也はおかしそうに感想を述べた。


「この微妙なひねくれ具合と、それでも筋を通す所と、はっきりした性格は、さすがはお前と血の繋がった伯母だな」
「何よそれ。誉めてるの? 貶してるの?」
「両方だ」
 多少拗ねたように問い返した貴子に笑い返し、隆也はそのままの表情で提案した。


「それなら披露宴には招待しなくても良いが、写真と礼状を付けて披露宴後に内祝いを贈るんだな。それからこの人なら、年に一回年賀状を出す位はしても、支障はないだろう」
「そうするわ」
 どうやらそのつもりだったらしい貴子が笑顔で頷き、それを見た隆也も満足そうに頷いたのだった。





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