箱庭の光景

篠原皐月

(2)義妹の評価

「外科に正式に配属される前に、全科を回って短期間の研修を受けたんだけど、小児科の時に指導役をしてくれた先生が言ってたのよ。『最近の母親は、前後を見ないで左右ばかり気にする人間が多い』って」
「益々意味が分からん。分かるように説明しろ」
 完全な仏頂面になった隆也に、眞紀子が苦笑いで話を続ける。


「ちょっと比喩的過ぎたかな? つまり、自分と同世代の母親とか同じ月齢の子供と比較して、物事を判断する事が多いって事。それに、子供がいる事でどうしても同世代の人間より生活が制限を受けるのに、それを根本的に理解していないって事ね」
「それが『左右』って事か。そうなると『前後』って言うのは?」
 そこまで聞いて納得したものの、新たな疑問が生じた隆也は素直に問いを重ね、眞紀子もそれに応じる。


「時系列的な意味合いね。程度や進度の差こそあれ、子供は日々成長してるのよ? 傍目には昨日と全く同じにように見えても、盛んに細胞分裂してるんだから」
「まあ……、確かにそうだろうな」
「それに、誰だって自分が何も出来なかった頃、他の人から手をかけて貰って育ってるのよ。それをきちんと認識して、改めて親とかに感謝しろって事でもあるんだけど」
「…………」
 そこで眞紀子は、この間黙って話を聞いていた貴子にチラッと視線を向けてから、冷静に話を続けた。


「その桐谷先生の持論が『基本的に子育てをする事で、同時に親も育つ。子供が生まれたら生物学上では自動的に親になるが、精神的には瞬時に立派な親になるわけではない』なの。『最初から完璧な親なんかいないのに、最近の風潮なのか熱心過ぎたり、妙に気にし過ぎな母親が多くて困る』って零されてたわ」
「それはあるかもね」
 何やら心当たりがあるのか、妙に納得した様子で香苗が頷き、眞紀子は困ったように話を続ける。


「それで『母親として満点なんか取る必要は無いから、平均点を取る位の気持ちでいなさい』とか先生が諭しても、すぐに『それなら平均点を取るにはどうしたら良いですか』って尋ねられるとも、当時愚痴られたのよ」
「それは……、双方の言い分は、分からないでもないがな……」
 亮輔も当惑気味に口を挟むと、眞紀子が半ば腹を立てながら話を締めくくった。


「それとは逆に、精神的に全く成長していない、子供に無関心な駄目親も多くてね。今日遭遇したのが、その典型。全く、腹が立つったらありゃしないわ」
 そう言って、気まずい空気もなんのその。眞紀子が平然と食べるのを再開したが、そこで貴子が恐縮気味に尋ねた。


「……あの、眞紀子さん。ちょっとお聞きしても良いですか?」
「何? 貴子さん」
「その火傷した子は、どうなるんですか?」
 その問いかけに、眞紀子は一瞬考え込んでから、事も無げに答える。
「う~ん、退院したら、そのまま施設で保護されるんじゃないかな? はっきりした事は、まだ未定の筈だけど」
「そうですか……」
 眞紀子とは裏腹に、沈鬱な表情で小さく頷いた貴子を見て、隆也は妹を本気で殴り倒したくなった。


(どこまで不愉快な話題を引っ張るつもりだ。それに正直に答える奴があるか!)
 しかし兄のそんな心境など全く分かっていない風情で、眞紀子が淡々と話を続ける。


「近くに親でもいたら、また違ってたんでしょうけどね。夫婦と子供の核家族だったし。でも兄さん達は、心配要らないんじゃない?」
「はぁ? 何がだ?」
「だって春から、ここで父さん母さんと同居するわけでしょう? 兄さんはともかく、私を立派に育てた親としての先達がいるんだから、色々参考にしたり教えて貰えば良いじゃない」
「…………」
 そこで真顔で何やら考え込んでいる貴子の顔を見てから、隆也は忌々しげに吐き捨てた。


「確かに父さん達が甘やかして、お前のような人間を育てた所は、反面教師にしなければいけないだろうがな」
「何言ってんのよ! 放任主義が、兄さんのような傍若無人な人間を形成したんでしょうが!」
「二人とも、いい加減にしろ」
「本当に騒々しくてごめんなさいね」
「いえ、大丈夫ですから」
 忽ち盛大な兄妹喧嘩が勃発した為、亮輔と香苗が呆れながら窘めつつ、貴子に申し訳無さそうに頭を下げた。彼女がそれに慌てて手を振っていると、唐突に眞紀子が話の矛先を彼女に向ける。


「あ、そうだ。思い出した。この機会に是非、貴子さんに改めて欲しい事があるんだけど」
 その物言いに、隆也が益々険しい表情になり、貴子が素直に尋ね返す。


「何だと? お前はともかく、貴子に改める所なんてあるわけ無いだろうが!」
「眞紀子さん、何でしょうか?」
「それよ!」
「はぁ?」
「え?」
 いきなり箸先を向けられた貴子と、それを見た隆也は呆気に取られたが、そんな兄夫婦に構わず、眞紀子は真顔で主張し始めた。


「この前、初めて兄さんに引き合わされた時から思ってたんだけど、どうして義理の妹の私がタメ口で、貴子さんが敬語を使ってるわけ? 端から見たらまるで傍若無人な小姑が、兄嫁いびりをしているみたいじゃない。他から理不尽な言いがかりを付けられそうで嫌だわ」
「ええと……、あの、でも」
 そんな言いがかりにも近い指摘を受けた貴子は目に見えて狼狽え、隆也は心底腹立たしく思いながら言い返した。


「正にその通りだろうが。きちんと自覚しているなら、お前が貴子に対して気を使えば良いだけの話だ」
「傍若無人な兄さんに合わせていたら、いつの間にかこうなっちゃったんだから、仕方がないじゃない」
「確かにそうかもな」
「貴子の言い分にも、一理あるわね」
「二人とも、どっちの味方だ!?」
 思わずと言った感じで頷いた両親に隆也が声を荒げ、眞紀子が平然と要求を繰り出した。


「だからこれからは貴子さんが、私にビシッと上から目線で、物を言うようにすれば良いのよ」
「どうしてそうなる!? お前はまず、自分の態度を改めろ!」
「え、えぇ!? そう言われても……」
 その無茶ぶりに隆也は本気で怒り出し、貴子はそんな夫と眞紀子を交互に見ながら狼狽したが、眞紀子は再び箸先を義姉に向けながら言い聞かせた。


「そういう訳だから、貴子さん。義妹の私に向かって、遠慮無くタメ口でビシッと一言、さあ、どうぞ!」
「あの、でも……、急にそんな……。何をどう言えば……」
「何事も最初が肝腎よ! さあ、1、2の、3、はい!」
 かなり強引に押し切られながら、取り敢えず無視もできないと、貴子は咄嗟に思い付いた事を口にした。


「眞紀子! 人に箸を向けるのは止めなさい!」
「…………」
 それを聞いた眞紀子はキョトンとして固まり、他の者も微妙な顔で黙り込んだ為、貴子は控え目に弁解してみる。


「え、ええと……、あからさまに人を指差すのもどうかと思うけど、食事の最中に箸で指し示すのは、明らかにマナー違反ではないかと……」
 するとそれを聞いた眞紀子は、口元をひくつかせつつ箸置きに箸を置いてから、お腹を抱えて爆笑し始めた。


「……っぷ! あはははははっ!! 貴子さんったらおねえを通り越して、すっかりおかんだわ!! あははははっ! ウケるぅぅっ!」
「え? だ、駄目だった?」
「ほっとけ。こいつの頭がおかしいだけだ」
 眞紀子がそのまま笑い続けた為、貴子は狼狽しながら夫に顔を向けたが、隆也は心底呆れた表情を妹に向けただけだった。そんな子供達を見た亮輔達が、苦笑しながら貴子に声をかけてくる。


「確かに箸を振り回すのは、マナー違反だな」
「ごめんなさいね? 無作法な娘で。気にしないでね?」
「はぁ……」
 それで一連の話題は終わりになり、それからは普通の世間話などをしながら、全員楽しく夕食を食べ終えたのだった。


「入るぞ」
 食後のお茶を飲み終えるなり二階に上がり、自室に籠もった妹の様子を見に行った隆也だったが、ドアを開けながら声をかけると、不機嫌そうな声が何倍にもなって返ってきた。


「部屋に入る前に、断りを入れるべきよね? 相変わらずの俺様野郎なんだから。部屋を明け渡す前の荷造り中なんだから、邪魔しないでよ。ところで、貴子さんは下?」
「ああ、父さん達と話してる」
「そう。兄さんが彼女を一人で放置してるって事は、さほど隔意無く話せているみたいね。良かったじゃない」
 素っ気なく言いながら本棚の中身を仕分けし、今住んでいるマンションに持っていく物をダンボール箱に詰めていた眞紀子に向かって、隆也がボソッと謝罪の言葉を口にした。


「……悪かったな」
「何? 部屋の事?」
 作業の手を止め、不思議そうに振り向いた妹に、隆也は言葉を継いだ。


「確かにそれもあるが、余計な気を遣わせたかと思ってな。父さんか母さんから、連絡が行っていたか?」
「連絡って、何について? 母さんからは、今日兄さん達が来る事は聞いていたけど?」
「……そうか」
 どうやら本当に話は聞いていなかったらしいと察した隆也を見て、眞紀子は完全に作業の手を止めて立ち上がり、真正面から兄と向き合った。


「あのさぁ……、警察官が普段接する人間って、犯罪者や犯罪者予備軍や被害者が大半で、普通一般の善良な市民と接する機会って少ないじゃない? 防犯活動面では、それなりにあるとは思うけど」
「色々異論が出そうだが、大筋では間違ってはいないだろうな。それが?」
「だけどさぁ……、老若男女善人悪人に関わらず、人は病気にかかるし怪我をするわけよ。しかも症状が酷ければ酷いほど、その人本来の人間性が露わになる傾向があるわけ。お分かり?」
「……だから?」
 何となく妹が言いたい事を察した隆也だったが、そのまま話の先を促すと、眞紀子は苦笑しながら結論を述べた。


「兄さんと比べても、私、結構人を見る目は肥えていると思うのよね。あそこで咄嗟におかん台詞が口から出てくる、貴子さんみたいな人って、私好きだわ」
「そうか……」
「まあ、そんなに心配しなくても良いんじゃない? 正直に言えば、やっぱり二十代のうちは叔母さんにはなりたくないけど」
「まだ言うか。いい加減にしろ」
 澄まし顔で言われた内容に心底呆れてから、隆也は不敵に笑いつつ、眞紀子に横柄な態度で言いつけた。


「それじゃあ気合いを入れて、さっさとこの部屋の荷物を片付けろよ? 今月末から業者に入って貰うそうだからな」
 そう言われた眞紀子が、盛大に舌打ちする。


「ったく、腹が立つわね。兄さん達のダブルベッドを入れる為に、この壁をぶち抜いて一部屋にするなんて。そこまでして離婚なんかしたら許さないわよ?」
「安心しろ。そんなヘマはしない」
「どうだか。邪魔だから出てってくれる?」
「ああ、それじゃあまたな」
 そうして妹に手振りで退出を促された隆也は、苦笑しながらおとなしくその部屋を出て行った。





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