相棒(バディ)は黒猫(クロ)

篠原皐月

(5)ちょっとした疑念

 千尋は宣言通り少年達経由で裕貴の親から承諾を取り、都合の付く日は店に寄らせて、三十分程勉強を見る事を始めた。
 来店客の相手をしながらではあったが、元来素直な性格だった裕貴は千尋が会計をしている時は一人で静かに問題を解いており、少しずつ無理せずにこれまでの復習内容をこなしていった。


「それで、こっちの数字はこういう事だから、十の位と百の位は、こうするとどうなる?」
 ノートのスペースを広く取り、千尋が問題の周囲に解説を書き込みながら尋ねると、裕貴が嬉々として声を上げる。


「あ、書かなくても分かる! 8と2!」
「正解。だけど頭の中だけで計算すると、間違っても気付かない事があるから、きちんと途中の計算を書く癖をつけようね」
「うん、そうする」
「じゃあ、ここからここまで、今のやり方で計算してみて?」
「やってみる」
 なんとか解けそうで嬉しくなりながら裕貴が問題に取り組んでいると、ふと顔を上げた時、出入り口付近に立って店内を覗き込んでいる大人が目に入り、思わず首を傾げた。


(あれ? なんだろう?)
 そして裕貴の手が止まったのを見て、千尋が声をかける。


「裕貴君、分からない所がある?」
「ううん、そうじゃなくて、お客さんみたいだけど……」
「え?」
 千尋の肩越しに男を見ながら裕貴が控え目に指摘すると、反射的に振り向いた千尋が大崎の姿を認め、満面の笑みで椅子から立ち上がった。


「あ、大崎さん! そう言えば今日って、金曜日でしたね! どうぞ、入ってください」
「すみません、お邪魔します。あ、勝手に見ていますからお構いなく。その子の勉強を見ているところだったんですか? 千尋さんは本当に、面倒見が良い人ですね」
「いえ、大した事はありませんから」
 千尋が謙遜しながら手を振って世間話を始めたが、その間も真面目に問題を解いていた裕貴が、控え目に声をかけた。


「お姉さん、やってみたけど、これで大丈夫かな?」
「どれどれ? えっと……」
 そして受け取ったノートに目を通した千尋は、力強く頷きながら裕貴を誉める。


「うん、全部合ってる。これで今まで習った内容までおさらいして、授業内容に追いついたわね」
「やった! ありがとう!」
「安心するのはまだまだ早いわよ? これまでは、本当に基本の基本をさらっただけだから。明日からは今までの事を踏まえて、応用問題をやって貰う事にするわ。難しくなるけど、基本を押さえておけば大丈夫だから」
「うん、頑張る!」
 笑顔で頷いた彼を見て、千尋も満足げに笑った。


「大変よろしい。それじゃあ、遊びに行って良いわよ?」
「分かった。じゃあ、お兄ちゃん達が待ってるから行くね。お姉さん、ありがとう」
「どういたしまして」
 そして荷物を片付けた裕貴は、そのランドセルを背負ってガレージに出向き、それを見送ってから千尋は改めて大崎に向き直った。


「大崎さん、お待たせしました」
「いえ、この店の雰囲気が気に入っているので、つい見入っていましたから。何度来ても落ち着きますよね」
「そうですか? 単に小さくてごちゃごちゃしているだけだと思いますが」
 いつものように椅子を勧めながら応じると、大崎が苦笑しながら尋ねる。


「例え小さくとも、きちんと管理運営するとなったら、色々煩わしい事もあるのではないですか?」
「はい。単に上からの指示通りに動けばお金が貰えるバイトとはまた違った苦労があるのが、今回実感できました」
「そうですよね。そう考えると、お母さんは立派な一国一城の主ですね」
「留守番が頼りなくて、益々傾きそうですけど」
「それは無いでしょう」
 千尋達がそんな他愛も無い会話をしている頃、ガレージに移動した裕貴はいつも通りゲーム機を貸して貰ったものの、何故かゲームそっちのけで考え込んでいた。


「う~ん、なんだかなぁ~」
「裕貴、どうかしたのか?」
「せっかく宿題が終わったのに、どうして難しい顔で唸ってるんだよ?」
 周囲からそう問われた裕貴は、正直に思っていた事を口にしてみる。


「さっきお店に、かっこいいおじさんが来たんだけど、あの人、ちょっと変じゃないかな」
「裕貴から見ると、あの年代はおじさんか……」
「でも、変ってどこが?」
「こんなチンケな店に度々顔を出してる事自体、十分変だと思うぞ?」
「どうして何回も来てるのかな?」
 問いを重ねた裕貴に、少年達は彼以上に怪訝な顔になる。


「どうしてって……、駄菓子屋が好きだから?」
「可能性はかなり低いけど、あのお姉さんが好きだとか?」
「さっきお姉さんはあの人に背中を向けていて、僕の解いているノートを見てたから気が付いていなかったけど、あのおじさん、お姉さんの事を全然見て無かったよ? お店の中を見てた」
「じゃあ、やっぱり店が好きなのか?」
「でも……、好きって感じの顔じゃ無かった。ああいうのは、何て言うのかな……」
「好きじゃなかったら、嫌いとか?」
「そうじゃなくて……、難しい、でもないし……、睨んでる、とも違うし……」
 先程の様子をうまく言い表せなくて困っているらしい裕貴を見て、周りもそれらしい言葉を口にしてみる。


「単に眺めていただけとか?」
「そうじゃなくて、観察、でもなくて……」
「違うと思うけど、値踏みとか?」
「……それかもしれない」
 そこでボソッと裕貴が呟き、少年達の戸惑いが大きくなる。


「え?」
「それってどういう事だよ」
 そして怪訝な顔を見合わせた彼らはこっそりと店の方に移動し、店内の様子を窺い始めた。その頃、幾つかの世間話を済ませた千尋達の話題は、自然にこの場にいない尚子の事に移っていた。


「お母さんがお元気なうちは良いですし、今回は偶々田崎さんの身体が空いていたから良かったものの、やっぱり今後の事が心配ですよね?」
「それはまあ……、心配と言えば心配ですけど。あまり先の事を考えても、仕方がないですし」
 小さく肩を竦めた千尋に、大崎が突っ込んだ事を聞いてくる。


「失礼かもしれませんが、田崎さんのご両親は離婚されて、田崎さんは父方に引き取られたんですよね? 今現在のご家族は、お父さんだけですか?」
「いえ、父が再婚したので、義理の母と腹違いの妹と弟がいます。それが何か?」
 どうしてそんな事を聞くのかと千尋が不思議に思っていると、それを聞いた大崎が、何やら神妙な面持ちで言い出す。


「そうですか……。それなら尚更、前妻にあたる田崎さんのお母さんのお世話をする事で、家庭内で風当たりが厳しくなったりしませんか?」
「それは……、理恵さんはそういう事で、嫌な顔をするような人ではありませんから」
「それなら良かったです。根ほり葉ほりプライベートに関わる事を尋ねた上に、変な気を回してしまってすみません」
「いえいえ、赤の他人の大崎さんに、母やこのお店の事をそんなに心配して貰って、却って恐縮です」
 本心からそう言いながら宥めると、大崎が冷静に述べる。


「でも本当に何かあった時、一人暮らしだと不安ですよね。少なくともバリアフリーのマンションとかだったら、転倒とかの危険性はかなり減ると思いますが。エレベーターも使えるでしょうし」
「そうですよね……。春に持ち上がったマンションの話、受ければ良いのにお母さんったら、私の話なんか全然聞かないんだから」
 思わず千尋が愚痴っぽく呟いたのを耳にして、大崎は慎重に言葉を継いだ。


「離れて暮らしている娘さんに、余計な心配をかけたくない気持ちは、なんとなく分かりますね」
「そうですか?」
「ええ。千尋さん以外に誰か、お母さんに意見できるような方がいれば、その方からさり気なくお話しして貰っても良いかと思いますが」
「それはそうかもしれませんね……。子供にああしろこうしろと指図されたら、親としては面白くないかも。そうなると行き来もあるし、やっぱり伯母さん辺りかな……」
 千尋が独り言っぽくそう口にした瞬間、大崎の目が鋭く光る。


「それなら千尋さんの方から、伯母さんにこういう話があると、伝えてみても良いかもしれませんね」
「そうですね。お店自体の売り上げは微々たる物ですし、外で働いたらそれ以上は稼げる筈だし。家賃はかからないし、生活費に不安は無い筈だもの。伯母さんから言ってくれたら、案外素直に聞いてくれるかもしれないわ」
 そう言って納得したように頷いている千尋を見て、大崎は彼女には気付かれないように、一瞬だけほくそ笑んだ。


「それでは失礼します」
「お気をつけて」
 その後、幾つかの話をしてから大崎は腰を上げ、千尋は店の外に出て彼が立ち去るのを見送った。
(全く面識が無いお母さんの事を、あれだけ親身に考えてくれるなんて、大崎さんは本当に親切な人よね)
 千尋がそんな事をしみじみと考えていると、背後から声をかけられた。


「お姉さん」
「あら、あんた達、どうしたの?」
 いつの間にかガレージから出て来た四人の子供に彼女が怪訝な顔をすると、彼らは微妙な顔を見合わせてから控え目に言い出した。


「さっきのイケメン、何かおかしくないか?」
「おかしいって、どこが?」
「どこか得体が知れないって言うか、何を考えているか分からないと言うか」
「この前からあの男が来ると、クロが姿を消してるし」
「クロもあいつの事、警戒してるんじゃないのか?」
 しかし子供達の懸念を、千尋は明るく笑い飛ばした。


「猫に何が分かるって言うのよ。第一、風来坊のネコが、偶々どこぞに行ってるだけじゃない。それにあの大崎さんの趣のある佇まいは、『得体が知れない』じゃなくて、『ミステリアス』と言うのよ。あの大人の魅力が分からないなんて、やっぱりお子様よねぇ」
 そしてコロコロと笑いながら店内に戻っていく千尋を見て、少年達は揃って溜め息を吐いた。


「駄目だな。聞く耳持たないぞ」
「大丈夫かな?」
「まあ、まるっきり変な人間では無さそうだし」
「なぅ~ん」
 そこでいきなり足元から上がった声に、少年達は慌てて視線を落とした。


「あ、クロ! お前いつの間に、どこに行ってたんだよ?」
「にゃうっ」
「なんだかなぁ……」
 短く一声鳴いて、何事も無かったかのように店の中に入っていくクロを見送りながら、少年達は何とも言い難い顔を見合わせた。





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