悪役令嬢の怠惰な溜め息

篠原皐月

(36)兄妹の意外な一面

 夕食を済ませて私室に戻ったエセリアが、ルーナと共に間近に迫った夜会の衣装や装飾品の確認をしていると、ドアがノックされてナジェークが現れた。


「エセリア、ちょっとお邪魔しても良いかな?」
「はい、お兄様。どうかしましたか?」
「これを渡しに来たんだ。今後、マリーリカが来て歌の練習をする時にこれを使えば、ルーナが庭との往復をしなくて済むだろう?」
 ナジェークが差し出したのは、赤一色と黒一色の正方形の布を、ルーナの腕の長さ程の棒に二ヶ所でくくりつけた旗状の物であった。それで夕方に玄関ホールで聞いた話を思い出したエセリアは、納得して深く頷く。


「なるほど。赤い旗を上げて振ったら聴こえた、黒い旗を上げて振ったら聴こえないとかの合図にするのですね?」
「ああ。玄関ホールから部屋に戻って、オリガに例の話をしたら『気がついていたなら、エセリア様にすぐに教えて差し上げてください!』と怒られてね。私達が食堂で食事をしている間に作っていたらしく、『さっさと持っていってください』と押し付けられて、部屋を追い出されたんだ」
「あらあら……、お兄様はオリガに全然敵わないのですね」
「否定はしないよ」
(オリガさん! 勤務の合間に作ってくださって、本当にありがとうございます! 今日は、皆さんの心遣いが身に染みるわ……。なんだか泣きそうよ)
 兄妹が苦笑している傍で、ルーナは感激して落涙しそうになったが、気合いを入れてなんとかそれを堪えた。


「お兄様。オリガにお礼を言っておいてくれますか? マリーリカが来たら、早速使わせて貰いますね。この大きさだったら、庭に出てもきちんと見えるはずですし」
「分かった。伝えておくよ」
「本当に、今回は盲点だったわ。それにしても、この旗……」
 ナジェークから笑顔で旗を受け取ったエセリアだったが、何やら急に真顔で手元の旗を凝視し始めた。そんな彼女に、ナジェークとルーナが怪訝な顔で声をかける。


「エセリア?」
「エセリア様、その旗がどうかしましたか?」
 するとエセリアは再び笑顔になり、ルーナに向かって旗を差し出した。


「今、面白いことを思いついたわ。ルーナ、この旗を両手に持ってくれる?」
「はい。こうですか?」
 ルーナはわけが分からないまま素直に受け取り、右手に赤い旗、左手に黒い旗の棒を握る。


「ええ。そして最初は手を自然に下ろしておいて。旗の先端は、ギリギリ床にはつかないわね」
「はぁ……、大丈夫みたいですね」
(またエセリア様は、いきなり何を言い出すのかしら)
 指示通り両手の旗を下に向けたルーナは困惑したが、エセリアの意味不明な指示は更に続いた。


「ルーナ。今から私が指示を出すから、旗を上げたり下ろしたりするように言ったら、その通りに真っ直ぐ天井に向かって上げるか、床に向かって下げて欲しいの。勢い良くよ」
「……はい?」
「それから、指示は赤か黒で続けざまに出すから、それに遅れないようにすぐに手を動かして。考え込んだりしたら駄目よ?」
「………はぁ、分かりました」
(なんだかわけが分からない指示だけど、取り敢えずエセリア様の言う通りにすれば良いのよね?)
 困惑顔になったものの、ルーナは両手に旗を持ってエセリアの指示を待った。すると先程の宣言通り、エセリアが矢継ぎ早に指示を出してくる。


「それじゃあルーナ、いくわよ! 赤上げて! 黒上げて! 黒下げないで、赤下げる! 黒上げないで、赤上げない! 赤上げて、赤下げないで、黒下げないで、黒下げる!」
「…………」
(エセリア様は『面白いことを思い付いた』とか言っていたけど……、これ、何がどう面白いのかしら……)
 ルーナは言われた通り、微塵も迷うことなく即座に旗を上げ下げし、エセリアの指示が止まったところで自らの動きも止めた。不思議に思いながらもルーナが次の指示を待っていると、エセリアが何故か痛恨の表情で言い出す。


「……ルーナ、思っていた以上に、反射神経が良いのね」
「はぁ……、お褒めに与り、光栄です」
 褒め言葉の筈なのになぜかエセリアの表情と口調が微妙に異なることで、ルーナは益々困惑した。するとエセリアが、勢い良くナジェークに向き直って懇願してくる。


「お兄様! 今度は是非、お兄様にお付き合いいただきたいわ!」
「え? どうしてだい?」
「ルーナは反射神経が良すぎて全く戸惑わないので、このスリルと醍醐味が実感できていないのよ! お兄様だったら、この旗揚げゲームにはまってくれる筈よ!」
 その主張に、ナジェークは困惑しながら応じる。


「私も人並みに運動神経はあると思うが……。それに、旗揚げゲームとはなんだい?」
「読んで字のごとく、他人の指示通りに旗を上げ下げするゲームです。さあ、用意は宜しいですか?」
「強引だな……。まあ、良いか。ルーナ、ちょっと借りるよ?」
「あ、はい。ナジェーク様、どうぞ」
 促されたルーナは、素直にナジェークに旗を手渡した。そしてナジェークが両手に旗を持ったのを確認したエセリアが、先程と同様に指示を出し始める。


「黒上げて! 赤上げて! 赤下げないで、黒下げない! 黒下げて、赤上げないで、黒下げないで、黒下げる! 赤下げないで、赤上げて! 黒上げて、黒下げないで、赤下げる! お兄様! 動きにキレがありませんわよ!? ルーナと比較すると、一目瞭然ですわね!」
 続けざまに指示を出しながらナジェークの動きを見ていたエセリアは、一息ついたところで笑顔で断言した。それを聞いたナジェークが、悔しそうに言い返す。 


「くっ……、思っていたより難しいな。だが、エセリアもルーナ並みに、咄嗟に判断できるのか?」
「それなら、私もやってみせますわ! 貸してください!」
「ああ。それなら指示は私が出すよ?」
「ええ、いつでもどうぞ!」
 ナジェークが差し出した旗を両手に握ったエセリアは、やる気満々で頷いた。それを見たナジェークが、
不敵に笑いながら口を開く。


「それではいくぞ! 黒上げて、赤上げて、黒下げて、黒上げないで、赤下げない! 赤下げて、黒上げないで、赤上げないで、黒下げないで、黒上げる! 赤上げないで、赤上げて、赤下げないで、黒下げない! エセリア、どうかしたのか? 何やら腕がぴくぴく震えて、かなり迷っているようだったが?」
 少々意地悪い笑みを浮かべながらナジェークが指摘すると、エセリアは僅かに顔を引き攣らせ、むきになりながら言い返した。


「いいえ、まだまだこれからです!」
「そうか。私も段々コツが掴めてきた気がするよ。さっきより、上手くできると思う」
「それなら、またお兄様にやっていただきましょうか! 間違っても口先だけなどという、情けないことにはならないでしょうね!?」
「当然だよ。さあ、旗を貸してくれ」
「それではいきますよ? 赤上げて、黒上げて、赤上げないで、黒下げないで、黒下げる。赤上げないで、黒上げて、赤下げないで、黒下げない!」
(ええと……、だから、旗を上げ下げする行為が、どうして面白いのかしら? お二人ともむきになって続けているし……)
 エセリアとナジェークが、対抗心を露わにしながら相対しているのを、ルーナは困惑しながら見守った。するとドアが小さくノックされ、オリガが控え目にドアを開けながらお伺いを立ててくる。


「失礼します。こちらにナジェーク様はいらっしゃいますか?」
 その声に、ルーナはドアを振り返って応じた。


「あ、オリガさん。はい、ナジェーク様ならあそこにいらっしゃいます。どうかしましたか」
「公爵様から頼まれた領地の報告書の精査を、寝るまでに済ませるからすぐに戻るとナジェーク様が言っていたのに、全然戻られないから様子を見に来たの。お二人で何をしているの?」
「その……、旗揚げゲームだそうです。お互いに指示を出して、それに従うとか」
「え? 何、それ?」
 見慣れない光景にオリガが戸惑っていると、突如としてエセリアの勝ち誇った笑い声が響く。


「あらあらお兄様! 思いきり引っ掛かってくれましたわね!? 先程より却って動きが鈍くなっておられませんか?」
「ちょっと油断しただけだ! これでもエセリアよりは、素早く動かせているからな!」
「そこまで仰るなら、私がお手本を見せて差し上げますわ!」
「それなら見せて貰おうか!」
「さあ、いつでも良いですわよ!」
「それではいくぞ! 赤上げて、黒上げないで、赤下げないで、黒上げて、黒下げない!」
 完全にむきになった二人が、普段の冷静沈着さをかなぐり捨ててゲームに取り組んでいる様子を見て、ルーナとオリガは呆気に取られた。


「……珍しいわね。あんな風に子供みたいに、何かに夢中になっているお二人の姿」
「確かに、いつものお二人の姿からは想像できませんね」
「ある意味、微笑ましいけれど……。どこかで止めないと駄目でしょうね」
「疲れたら、自然に止めるのではありませんか?」
「ルーナ。あの二人の性格だと、止めなければ一晩中続ける気がして仕方がないのよ」
「……確かにそうですね。今、止めましょう」
 真顔で頷き合ったルーナとオリガは、そのまま白熱した勝負に割って入り、二人の旗揚げゲームを止めさせることに成功したのだった。



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