悪役令嬢の怠惰な溜め息

篠原皐月

(10)エドガーの受難

 色々言いたい事はあったにせよ、翌日の放課後、グラディクトにアリステアと美術室で引き合わされた時、エドガーは礼儀正しく彼女に接した。


「アリステア。これが君に絵の指導をする、エドガー・ヴァン・カールゼンだ」
「初めまして、アリステアさん」
「エドガー。彼女がこれからお前が指導する、アリステア・ヴァン・ミンティアだ。宜しく頼むぞ」
「エドガーさん、宜しくお願いします!」
「……畏まりました。それでは教授にお願いして、必要な物は一通り揃えておきましたので、まず絵の題材を決めたいと思いますが」
「あ、それは決まっているの!」
 満面の笑みで告げてくる二人に、エドガーが機械的に話を進めると、アリステアが上機嫌に彼の台詞を遮った。


「グラディクト様の顔を描くわ。だって校内で披露する絵だから、皆さんにグラディクト様の魅力をより多く知って貰いたいもの」
「殿下の絵……、ですか?」
 思わず顔を引き攣らせたエドガーだったが、それを聞いたグラディクトは嬉しそうに応じた。


「それは良いな。本当に描いてくれるのか?」
「ええ、勿論です! 頑張って、素敵に描いてみせますね?」
「それは楽しみだな」
 そんな能天気な会話を交わしている二人を眺めながら、エドガーは心の中で悪態を吐いた。


(おい、この女、本当に描けるのか? 殿下の顔なんか下手に描いたら、それだけでこの人は不機嫌になるだろうが)
 もう始める前からうんざりしてきたエドガーだったが、何とか気を取り直して二人に声をかけた。


「それでは、グラディクト殿下の肖像画を描く事に致しましょう。殿下。早速で申し訳ありませんが、モデルをお願いして宜しいですか?」
「ああ、構わない。始めてくれ」
 そこでエドガーはグラディクトを椅子に座らせ、既に設置してあったイーゼルとキャンバスの前に座ったアリステアに声をかけた。


「それではアリステアさん、下書きを始めましょう。美術の授業で、絵を描いた事はおありですよね?」
「はい、大丈夫です」
「それでは、軽く構図を取ってみて下さい。授業でも説明は受けたかも知れませんが、この時点で細かく書き込む必要はありませんので」
「はい、分かってます」
 一応確認を入れると、木炭を取り上げた彼女が力強く答え、少々気分を害したようなグラディクトの声が続いた。


「エドガー。一々、つまらない事を言うな。彼女の下書きが終わるまで、お前は黙って見ていろ」
「……失礼しました。それでは自由に書いてみて下さい」
「はい」
 グラディクトにも言われた為、エドガーは少し離れた所に椅子を運び、おとなしくアリステアが構図を取り終えるのを待つ事にした。


(まあ、授業でもやっているみたいだし、下書き位はできるだろう。どの程度手直しするかは、それを見てからだな)
 時折、グラディクトと楽しそうに雑談しながら描き進めたアリステアは、かなり日が傾いてから、僅かに顔を傾げつつ木炭を置いた。


「う~ん、こんな感じかしら?」
「できましたか? それでは拝見し……」
「どうですか?」
 まだイーゼルの前に座っている彼女の背後に回り込み、キャンバスを覗き込んだエドガーは、それを目にした瞬間、不自然に口を閉ざして固まった。そんな彼を見上げながらにこやかに尋ねてくるアリステアに、エドガーは一瞬目眩を覚える。


(こいつ……、臆面もなく意見を求めてくるって事は、これでまともに書けていると、本気で思っているんだよな? 俺をからかっているわけじゃ無いよな?)
 そして何とか自制心をかき集めたエドガーは、アリステアに向かって短く告げた。


「……書き直しをお願いします」
「え? どうして?」
 それに彼女が本気で困惑した声を上げると、グラディクトが憤然として立ち上がりながら文句を口にした。


「おい、エドガー! アリステアがどれだけの時間を費やして、デッサンしたと思っているんだ! 書き直せとは無礼だろうが!」
「ですが殿下。このままこれに絵の具を乗せると、殿下のお姿は、頭は肩幅よりも広く、更に顔の下半分に目、鼻、口が集まる、未だかつて目にした事の無い者の姿になってしまいますが」
「何だと? お前は一体何を……」
 怒りながら歩み寄って来た彼にエドガーが場所を譲ると、キャンバスを覗き込んだグラディクトも固まった。さすがにその反応を見て、アリステアが不安そうな表情になる。


「え? だ、駄目ですか?」
(駄目に決まってんだろうが! お前、目が腐ってんのか!? これはもうデッサンが下手とか、そういうレベルじゃ無いだろうが!?)
 エドガーは本気で罵倒しかけたが、仮にも女性に対する台詞では無いと自制し、心の中だけに収めた。そしてこれからどう収拾をつけるべきかと真剣に悩み始めたが、そんな彼に向かってグラディクトが怒声を浴びせる。


「エドガー! 貴様、どうしてこんなになるまで放置していた! 彼女がきちんとバランス良く書けるように指導するのが、お前の役目だろうが!」
 その理不尽過ぎる非難に、さすがにエドガーは声を荒げて反論しようとした。


「ですが、殿下! 彼女は下書きはした事があるし、分かっているから大丈夫だと、先程自分から」
「それに甘えて、貴様が教える労力を惜しんだせいで、私まで時間を浪費したぞ! 私は貴様ほど暇では無いのに、どうしてくれる!」
「……っ! そこまで仰るなら!!」
 嬉々として椅子に座り、無駄話をしながらモデルをしていた彼に言われて、エドガーが我を忘れて怒鳴りつけようとしたが、ここでアリステアがしおらしい口調で、二人の会話に割り込んだ。


「グラディクト様、エドガー様を怒らないで下さい。そもそも、私がきちんと描けなかったのが悪いんですから。それに、自分では割と良く書けたと思っていたので、エドガー様に一々聞かずに進めてしまったので……」
 するとグラディクトは彼女に向き直り、真顔になって告げる。


「何もアリステアが、引け目を感じる事は無い。君が初心者だと分かっていたのに、指導を怠ったあいつが悪いのだからな。……取り敢えず遅くなったし、今日はもう切り上げよう」
「そうですね。それではエドガーさん。また明日、宜しくお願いします!」
「明日はきちんとアリステアを指導しろよ? 私がまた、モデルになるのだからな」
 二人がチラッと窓の方を見てあっさりと話を纏め、何事も無かったかのように連れ立って美術室を出て行くのを、エドガーは唖然として見送った。そして、そのままのキャンバスや出したままの木炭を見て、漸く我に返る。


「後片付けもせずに帰るのかよ……」
 思わずそう呟いてから、彼は怒りに任せて叫んだ。
「ふざけるな! あんな素人以下のド下手くそなんぞに教えても、まともな絵なんか描けるかよ!!」
 そこで隣室に繋がるドアが開き、責任者の教授が姿を現す。


「エドガー君、そろそろ美術室を閉めたいのだが……」
「あ、タバーン教授。申し訳ありません。今すぐに、ここを片付けます!」
「いや、急がなくて良いが……。それが、例の彼女のデッサンかい? 彼女のクラスは他の教授が担当したから、私は彼女の技量を知らなくてね」
「……そうですか」
 慌てて片付けようとしたエドガーだったが、タバーンに尋ねられて動きを止めた。すると彼が手にしているキャンバスをしげしげと眺めたタバーンが、疑わしげに問いかけてくる。


「締め切り前に、彼女がまともに描けると思うかい?」
「……明らかに無理です」
「同感だ。それでは君はどうする?」
 更に問いを重ねたタバーンに、エドガーは些か自棄になりながら答えた。


「予め、殿下の肖像画を一枚、急いで描いておきます。どうせ期限までに間に合わないのがはっきり分かった時点で、殿下が『お前とアリステアの共同作品として出せ』とか言い出して、私が描いた絵に一筆か二筆彼女が絵の具を乗せた絵を、出す事になるでしょうから」
 それを聞いたタバーンは、彼に心底同情する目を向けた。


「君も大変だな……。暫く予備の鍵を預けておくから、ここは好きに使って構わないよ。大して金目の物は無いから」
「助かります。ありがとうございます」
「後片付けだけはしておいてくれ。それでは先に失礼する」
「はい、お疲れ様でした」
 タバーンからスペアキーを受け取ったエドガーは、深々と一礼して彼を見送ってから、その場の後片付けを再開した。





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