その華の名は

篠原皐月

(16)下準備は順調

 カモスタット伯爵邸に、不審者が侵入した翌日。昼近くに主不在の書斎で書類を整理していたマイルズは、ノックの音でドアに目を向けた。


「構わない、入りなさい」
「……失礼します」
「ジェシカ、どうかしたのか?」
「今朝から体調不良だとは聞いていたけど、起きていて大丈夫なの?」
 申し訳程度に断りを入れてジェシカが入室してきたが、その顔色が蒼白だったことでマイルズは驚き、思わず問い返した。偶々その場に居合わせたラリサも同様であり、慌てて彼女に駆け寄りながら尋ねる。そんな彼女に対して、ジェシカは深々と頭を下げた。


「ラリサさん、今日は体調不良で急に休んでしまって、申し訳ありませんでした」
「良いのよ。それより、まだ顔色が悪いわ。今日は無理をしないで、1日寝ていなさい。お医者様を呼びましょうか?」
「大丈夫です。お金もかかりますし、朝よりだいぶ楽になりました。万が一明日になっても働けそうになかったら、先生に診て貰うことにします」
「そうなの? 無理しては駄目よ?」
「はい。お気遣い、ありがとうございます。それでマイルズさん。昨日のお話ですが、午餐会前に辞めて屋敷内から退去することにしますので、ご安心ください。次の勤務先の紹介や、紹介状を頂かなくても結構です。私の事で、マイルズさんの手を煩わせたくはありません」
 自分に向き直って神妙に告げたジェシカに、マイルズは安堵の表情で頷いた。


「そうか……。分かって貰えて嬉しいよ」
「ジェシカ! そこまで言いなりになることはありませんよ!?」
「その代わりと言ってはなんですが、次の仕事先を見つけるまで、臨時で私を雇っていただけないでしょうか?」
「え?」
 ここで声を荒らげたラリサと同様にマイルズは怪訝な顔になったが、ジェシカは控え目に要求を繰り出す。


「幾ら給金を2ヶ月分を余分に頂いたとしても、紹介状が無ければ次の就職先を探すまでに時間がかかるでしょうから、その間に生活費として使い果たすかもしれません。年の離れた弟妹もいますので、実家への仕送りも続けたいのです。次の仕事先が見つかるまでの繋ぎとして、忙しいであろう午餐会の前後だけでも構いません。よろしくお願いします」
「そうね。お金は少しでも、手元に残しておいた方が良いわ。マイルズさん。短期間臨時で雇う分には、旦那様達の承認は必要ありませんよね?」
 ラリサも深く頷き、暗に(それ位配慮してあげても、構わないですよね?)と目線で訴えると、マイルズは溜め息を吐いてから了承した。


「分かった。確かに午餐会の準備で人手がいるから、前日と当日にキッチンで働いて貰おう。給金も、私の自由になる範囲で適正に支払う。その代わり」
「勿論、人前には出ませんし、旦那様達の目につかないように、キッチン内でのみ働かせて貰います。ありがとうございます」
「それではそれまでに一度、屋敷を引き払ってくれるね?」
「はい。マイルズさんに迷惑はかけません」
 真顔で頷いたジェシカを見て、マイルズは彼女を信用して穏やかな口調で告げた。


「分かった。それでは今日は1日休んでくれて構わないし、体調が良くなったら荷物を纏めてくれれば良い」
「分かりました。それでは失礼します」
 お互いに安心した様子で話を終わらせ、ジェシカは書斎を出て行った。するとラリサの物言いたげな視線を受けたマイルズが、憮然としながら口を開く。


「何かな? その意外そうな顔は。私にも罪悪感はある。これくらい、融通を利かせても良いだろう」
「そうですね。私の方でも、臨時雇いの件は旦那様達の耳に入らないようにしておきます」
「そうしてくれると助かるよ」
 少々冷たい物言いながらも、ラリサが賛同してくれたのが分かったマイルズは、それから余計な事は言わずに中断していた仕事を再開した。






「来たわね。夜間もきちんと警備している筈なのに、ここまでどうやって潜り込んでいるのやら。あなたの腕が良いの? それとも、この屋敷の騎士達の目が揃いも揃って節穴なの?」
 前日とほぼ同時刻に窓を叩かれたジェシカは、半ば呆れながら窓を開けた。


「両方かな? それはともかく、君の返事を聞かせて貰いたいが」
 苦笑しながら前夜同様に窓枠を乗り越えてきたアルトーに、ジェシカは日中密かに揃え、クローゼットの中に隠しておいた物を披露する。


「昨夜指示されていた内容のうち、これが屋敷内の詳細な見取り図、出入りの仕立て屋の店舗名、分かる範囲の裏門の警備シフト、無断拝借してきた予備のメイド服一式2着分よ。それから前日と当日、キッチンメイドとして臨時で雇って貰う段取りもつけたわ」
 小さなテーブルに積み重ねながらの淡々とした報告を聞いて、アルトーは一瞬呆気に取られてから嬉しそうに微笑んだ。


「……仕事が早くて助かるな。それではこちらも、手付金としてこれを渡しておくよ。君の給金の、ざっと6ヶ月分はあるかと思う。次の勤務先の紹介は、無事に事が終了してからで良いね?」
 アルトーが懐から出した布袋を受け取り、中身を一瞥した彼女は、満足そうに頷いてみせる。


「勿論よ。取り敢えず、このお金だけで十分だわ。もっとお役に立ってみせようじゃない」
「期待しているよ。少なくとも俺の主人は、ここのろくでなしどもより金払いが良いことは確かだ。君の働き次第で上積みしてくれるだろう」
「それは嬉しいわ。だけどあなたのご主人、本当に容赦ないわね。確かに毒では無かったけど」
 その一言で、アルトーは昨夜から今朝にかけて、彼女の身に何が起こったのかを察し、笑いを堪える表情になった。


「さすがに暗殺の片棒を担がされないか心配で、あれを飲んでみたんだ……。だが本当に毒では無かっただろう? だけど御愁傷様」
「笑い事ではないのだけどね……」
 遠い目をしながら若干恨みがましく呟くジェシカを見て、アルトーはそれから少しの間、笑いの発作と戦う羽目になった。




「遅くなりました」
 ジェシカから必要な物を受け取り、改めて詳細な打ち合わせをしてから、アルトーはカモスタット伯爵邸を抜け出してシェーグレン公爵邸に戻った。そしてナジェークの私室に直行すると、その部屋の主と同僚から笑顔で声をかけられる。


「やあ、どうやら首尾良く話が進んだようだな」
「ご苦労だった」
「ギリギリ間に合って、安堵しましたよ。急な話だったものですから」
「だがこれで、明日の顔合わせで詳しい話ができるな。だがその女、信用できるのか?」
 ヴァイスの問いかけに、アルトーは真顔で頷く。


「実際にあれを飲んだ上で了解しているから、大丈夫だと思う。話が漏れている形跡もない。早速、手土産を貰ってきたしな」
「……確かに迂闊でも、口が軽いタイプでも無さそうだな」
 アルトーが持参した袋に色々詰め込まれているのを見たヴァイスが感心したように述べると、ナジェークが顔つきを改めて軽く頭を下げる。


「それでは二人とも、引き続きよろしく頼む」
「お任せください。暗殺以外の目処がついて、もの凄く気が楽になりましたよ」
「同感。絶対にこのプランを成功させましょう」
 固く決意しているらしい部下二人をナジェークは頼もしく思い、満足そうに眺めたのだった。



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