その華の名は

篠原皐月

(14)憤慨

 夜になって通常の仕事を終えたメイドのジェシカは、カモスタット伯爵邸内にある、使用人用の部屋で寛いでいた。しかし同僚から執事長が呼んでいると伝えられ、慌てて再度制服を身に着けて書斎へと向かった。


「執事長。お呼びと伺いましたか、何かご用ですか?」
 何事かと思いながら、ジェシカがカモスタット伯爵邸を取り仕切っているマイル時に声をかけると、机の前に立っていた彼が申し訳なさそうに言い出す。


「ああ、ジェシカ。部屋に引き上げていたのに、急に呼びつけてしまってすまない。実は、早急に片をつけないといけない事態になったものだから」
「はぁ……、どうかしましたか?」
「今度ダマール様の内々での婚約披露の場として、午餐会を行うのは知っているだろう?」
「はい。ガロア侯爵家ご令嬢との縁談が整ったとか。それでは、私がダマール様のお相手をしなくても良くなるのですよね?」
 殆ど確信している事について、期待しながら確認を入れたジェシカだったが、マイルズの話は全く予想外の方向に流れた。


「そうだな。それで、君には申し訳ないが、この屋敷を辞めて貰う事になった」
「え!? どうして私が辞めることになるんですか!?」
 望んでもいない愛人扱いから解放される目処がついたジェシカは、これからは普通に働く事ができると内心で喜んでいたが、いきなりの解雇通告に驚愕した。そんな彼女を、マイルズが同情する顔つきで宥めにかかる。


「これまでのように、ダマール様が独り身でおられた間ならともかく、奥様をお迎えするとなったら、さすがに同じ屋敷に愛人を住ませていたら外聞が悪すぎるだろう?」
「でも! 私は愛人でなくなるわけですよね!?」
「元愛人でも、それは同じだな。それに君は容姿が良いし気が利くから、接客や表立って動くパーラーメイドとして働いて貰っていたが、そんな元愛人が若奥様になるそのご令嬢の目につく所を歩き回っていては困るのだよ。それは分かるだろう?」
「そんな! それなら若奥様の目につかない場所で働きます! 元々私はキッチンメイドとして採用されましたし、キッチンメイドでもランドリーメイドとしてでも働きますから!」
 ジェシカは必死に訴えたが、マイルズは溜め息を吐いてから話を続けた。


「とにかく、これは旦那様と若様が決められたことだ。君を午餐会の日までに、屋敷から出せと言われている。せめてもの詫びの印に、今月分の給金の他、二ヶ月分を用意した。これを持って、来週までにこの屋敷を出ていって欲しい」
「そんな……」
 険しい表情のマイルズを見て、ジェシカはこれが交渉の余地が無い決定事項なのだと悟り、愕然とした。しかし事情があった彼女は、少しの間だけ考え込んでから控え目に申し出る。


「あの……。実家は伯爵領にありますし、当座の住む所を王都内で探す必要があります。すぐに住み込みで働ける所を紹介して頂けるなら、大変助かりますが。次の勤務先の紹介が無理なら、紹介状だけでも頂きたいのですが……」
 しかしジェシカのそのささやかな願いに対し、マイルズは益々困った顔になりながらも却下した。


「申し訳ないが、それはできないと旦那様達から厳命されている。カモスタット伯爵家との繋がりが明らかになると、君とダマール様の関係も蒸し返されかねないからな。それも含めた給料二ヶ月分の上乗せだ」
「あんまりです!! 私は好き好んで、ダマール様のお相手をしていたわけじゃありません! 拒んだら、この屋敷で働けなくなるって言われたから!」
「……それは事実だからな。ダマール様に睨まれて、働けるはずがなかろう」
「……っ!!」
 声を荒らげて非難したジェシカだったが、マイルズが苦々しい口調で応じただけなのを見て、悔しげに駆け出してドアの向こうに消えた。対するマイルズが重い溜め息を吐き、机に置いたままになっているジェシカの給金が入っていた袋を持ち上げ、引き出しに入れて鍵をかける。すると軽いノックの音に続いて、邸内のメイド達の管理を任されているラリサが、ドアから現れた。


「執事長。今、廊下でジェシカとすれ違いましたが、彼女の様子が尋常ではなかったので。彼女に例の話をしたのですか?」
 彼女から険しい視線を向けられたマイルズは、恐らくジェシカを泣かせてしまったのだろうと想像し、気が滅入りながら話を続けた。


「ああ。旦那様と若様に言われてな。しかし、若様の女癖の悪さは困ったものだ。さすがに奥様をお迎えになったら、落ち着いてくださるだろうが」
 そんな多分に願望が含まれた台詞を聞いて、ラリサが更に冷えきった目を向ける。
「そうですか? 奥様付きのメイドにまで、手を出すのではありませんか?」
「おいおい、それはさすがにないだろう」
 マイルズは穏やかに相手を宥めようとしたが、ここでラリサが激高した。


「冗談ではありません! これまで何人のメイドが若様に手を出されて、呆気なく捨てられたと思っているのですか!?」
「ラリサ、落ち着いてくれ。それは分かっているが」
「全然分かっておりません! それにこれまでダマール様のお手が付いてから、増長して屋敷内で横柄に振る舞ったり、高価な物を無心する不心得者もいましたが、彼女は変わらず真面目に働いてくれて、父親が早死にして困窮している実家にお給金を仕送りしている、健気な良い子ですよ!? それなのにはした金を掴ませただけで、情け容赦なく叩き出すなんて! 紹介状くらい用意するのが当然ですよね!?」
 鬼の形相で詰め寄られたマイルズは、相手の主張を認めて頷く。


「分かった分かった! 私から、旦那様にもう一度頼んでみる。私としても、どうにかしたいからな」
「よろしくお願いします。駄目なら、私も直談判してみます」
 ラリサは、それが受け入れられる可能性は低いと思いながらも、他に自分達ができる事などないのは重々承知しており、自分の無力さに苛立たしさを感じながら書斎をあとにした。



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