その華の名は
(4)未知との遭遇
隠し部屋で本についての話題を出し、それにナジェークが不審な反応を返してから、半月程経過した休日。カテリーナは実家には戻らず、簡素な私服で街中へ出かけた。
クレランス学園の敷地は王都内でも外延部に近い位置に存在していたが、それ故に貴族の屋敷が立ち並ぶ区域より商業地域の方が近く、最近話題の店舗にも十分徒歩で出向く事が可能な距離であった。
(一人で外出なんて、家に居たらそうそうできないもの。寮生活に感謝だわ。それに漸く領地からお兄様達が戻って来たと、お母様が手紙で知らせてきたし。入れ替わりにお母様達が領地に行っている屋敷に、誰が好き好んで戻るものですか。)
実際、兄夫婦が「今度の休日に顔を見せに来い」と一方的に言ってきた事など、彼女ははなから無視して外出していた。
(お父様に武芸一般は仕込んで貰ったから、護衛を引き連れていなくても大して不安は無いし。寧ろ着飾って、集団で歩いている方が危ないわよ。それにしても……、あれ以来、気になっているのよね。彼があそこまで動揺する本って、どんな内容なのかしら?)
その日の目的は本探しであり、カテリーナはこれまでに何度か出向いた事がある、ワーレス商会書庫分店を目指した。そして何事もなく店に到達した彼女は目指す本棚に歩み寄り、整然と並べられている背表紙を眺める。
しかし《マール・ハナー》作品が取り揃えられている一角を見ても、該当するタイトルを見つけられなかった彼女は、周囲を見回しながら考え込んでしまった。
(マール・ハナーの作品はこの棚に全部揃っている筈なのに、《紅の乱舞》という作品は見当たらないわね。在庫が無いのかしら? 探して貰うにしても、万が一私の聞き間違いだったら、店員の手を煩わせる事になるのは申し訳ないし……。今日は久しぶりに来店したし、取り敢えず新作を一冊だけ買って帰ろうかしら?)
彼女がそんな風に思案していると、横から控え目に声をかけられた。
「あの……、カテリーナ様ではございません? こんな所で奇遇ですわね」
その声に顔を向けたカテリーナは、相手と同様に少々驚きながら挨拶を返した。
「まあ……、マリーア様。ごきげんよう」
「先程からこの辺りにおられますが、何かお探しですの?」
「ええ、マール・ハナーの作品を探していたのですが見当たらなかったので、新作だけ購入して帰ろうかと思案していたところです」
「そうでしたか。カテリーナ様もマール・ハナー作品をお気に召しておられるようで、嬉しいですわ。私も初期の頃からの愛読者ですの」
「私達の年代では、読んでいない方の方が少ないかもしれませんわね」
「本当にそうですわね」
お互いに笑顔で会話をかわしている相手に対して、カテリーナは素直に好感を覚えた。
(ちょっと驚いたわ。勿論お顔は見知っていたけど、パーシバル公爵家は王太子派だから家同士の付き合いは無いに等しいし、マリーア様とは同学年でもクラスは異なるし。でも私が何か困っていると思われて、わざわざ声をかけてくださったのね。優しい方だわ)
そこでマリーアが、何気ない口調で尋ねてきた。
「ところでカテリーナ様。お目当ての本のタイトルは、何と仰いますの?」
「《紅の乱舞》です。でもやはり、こちらにはございませんね」
カテリーナが再度棚を見回しながらそう口にした瞬間、マリーアの表情から綺麗さっぱり笑みが消えた。
「……それを、どちらでお聞きになりましたの?」
急に真剣そのものの顔付きで静かに追及してきた彼女に、カテリーナは訝しく思いつつ答える。
「とある知り合いからですが……。あの、それが何か……」
「そのお知り合いの方……、通ですわね」
「え?」
低く唸るような呟きの意味を捉えかねたカテリーナは本気で困惑したが、マリーアはすぐに気を取り直したらしく、話は意外な展開を見せた。
「カテリーナ様。生憎その本は、こちらの棚で求める事はできないのです」
「まあ、そうなのですか? 存じ上げませんでした。それではどちらで購入できるのでしょうか?」
「案内して差し上げますわ。私に付いていらして」
「はぁ……」
(どういう事かしら? この店で購入できないと言う事では無いの?)
悠然と店の奥に向かったマリーアの後に付いて歩き出しながら、全く意味が分からなかったカテリーナは首を傾げた。するとカウンターに到達したマリーアが、ポケットから取り出したハンカチを店員に見せながら声をかける。
「失礼いたします。こちらは私の連れですわ」
「分かりました。それではお二方とも、お通りください」
「ありがとう。お邪魔します」
何やら図案が刺繍されたハンカチを確認した店員がカウンター後ろの扉に歩み寄り、それを開けながらマリーアに声をかける。それに会釈で応じた彼女に付いて、カテリーナも扉の奥へと移動した。
(え? 何? この奥に、まだ店があったの?)
そして通路を十数歩歩いた先にあったドアを開け、カテリーナに道を譲りながら、マリーアが誇らしげに宣言した。
「さあ、カテリーナ様! 遠慮せずにお入りになって! こちらが紫蘭会会員限定、『紫の間』ですわ!」
「……はい?」
先程の店舗よりも広さは無いものの、同様に壁際に本棚が整然と並べられている空間に足を踏み入れたカテリーナは、本気で首を傾げた。しかし彼女の戸惑いなど物ともせず、マリーアが一直線に本棚の一つへと向かう。そして勝手知ったる場所だったらしいそこで、彼女はお目当ての本を本棚から抜き出し、訝し気に後を付いて来たカテリーナに、それを手渡した。
「それでは、こちらがお探しの《紅の乱舞》です。こちらでは試し読みもできますので、遠慮無くそちらのソファーにお座りになって読んでみてくださいませ。私は他を眺めておりますので、失礼いたします。退出する時は、好きな時に出られますのでご心配なく」
「はぁ……」
満面の笑顔で説明したマリーアは、カテリーナが引き攣った笑顔で頷いたのを見てから、嬉々として本棚に戻って行った。それを見送ってから彼女が改めて室内を見回すと、中央部に複数設置してある一人掛けのソファーには、確かに何人かの読書中の女性が存在しており、カテリーナは半ば呆れながら考え込んだ。
(何というか……、不思議な空間ね。あまり本は置いていないのに、ソファーが上質。というか、商談用や接客用ならともかく、店舗に試し読み用のソファーを置くなんて聞いた事が無いわ。でも考えてみたら、そもそも本専門の店舗は、このワーレス商会書庫分店が初めてなのよね。だからソファーを置こうが何をしようが、普通と比べてどうとは言えないわ。画期的、と言えば良いのかしら。せっかく教えていただいたのだし、取り敢えずざっと読んでみましょう)
マリーアの言動も含め、意味が分からなかったカテリーナだったが、すぐに気を取り直し、ソファーに座って手元の本に目を通し始めた。しかしそれを十数ページを斜め読みした段階で、早くも違和感を覚える。
(ええと、これって……。いえ、内容もそうだけど、この登場人物の描写に、何となく引っかかりを覚えるのだけど……)
困惑と疑念を深めながらも読み進め、カテリーナがある事を確信してから、斜め前方から落ち着き払った声がかけられた。
クレランス学園の敷地は王都内でも外延部に近い位置に存在していたが、それ故に貴族の屋敷が立ち並ぶ区域より商業地域の方が近く、最近話題の店舗にも十分徒歩で出向く事が可能な距離であった。
(一人で外出なんて、家に居たらそうそうできないもの。寮生活に感謝だわ。それに漸く領地からお兄様達が戻って来たと、お母様が手紙で知らせてきたし。入れ替わりにお母様達が領地に行っている屋敷に、誰が好き好んで戻るものですか。)
実際、兄夫婦が「今度の休日に顔を見せに来い」と一方的に言ってきた事など、彼女ははなから無視して外出していた。
(お父様に武芸一般は仕込んで貰ったから、護衛を引き連れていなくても大して不安は無いし。寧ろ着飾って、集団で歩いている方が危ないわよ。それにしても……、あれ以来、気になっているのよね。彼があそこまで動揺する本って、どんな内容なのかしら?)
その日の目的は本探しであり、カテリーナはこれまでに何度か出向いた事がある、ワーレス商会書庫分店を目指した。そして何事もなく店に到達した彼女は目指す本棚に歩み寄り、整然と並べられている背表紙を眺める。
しかし《マール・ハナー》作品が取り揃えられている一角を見ても、該当するタイトルを見つけられなかった彼女は、周囲を見回しながら考え込んでしまった。
(マール・ハナーの作品はこの棚に全部揃っている筈なのに、《紅の乱舞》という作品は見当たらないわね。在庫が無いのかしら? 探して貰うにしても、万が一私の聞き間違いだったら、店員の手を煩わせる事になるのは申し訳ないし……。今日は久しぶりに来店したし、取り敢えず新作を一冊だけ買って帰ろうかしら?)
彼女がそんな風に思案していると、横から控え目に声をかけられた。
「あの……、カテリーナ様ではございません? こんな所で奇遇ですわね」
その声に顔を向けたカテリーナは、相手と同様に少々驚きながら挨拶を返した。
「まあ……、マリーア様。ごきげんよう」
「先程からこの辺りにおられますが、何かお探しですの?」
「ええ、マール・ハナーの作品を探していたのですが見当たらなかったので、新作だけ購入して帰ろうかと思案していたところです」
「そうでしたか。カテリーナ様もマール・ハナー作品をお気に召しておられるようで、嬉しいですわ。私も初期の頃からの愛読者ですの」
「私達の年代では、読んでいない方の方が少ないかもしれませんわね」
「本当にそうですわね」
お互いに笑顔で会話をかわしている相手に対して、カテリーナは素直に好感を覚えた。
(ちょっと驚いたわ。勿論お顔は見知っていたけど、パーシバル公爵家は王太子派だから家同士の付き合いは無いに等しいし、マリーア様とは同学年でもクラスは異なるし。でも私が何か困っていると思われて、わざわざ声をかけてくださったのね。優しい方だわ)
そこでマリーアが、何気ない口調で尋ねてきた。
「ところでカテリーナ様。お目当ての本のタイトルは、何と仰いますの?」
「《紅の乱舞》です。でもやはり、こちらにはございませんね」
カテリーナが再度棚を見回しながらそう口にした瞬間、マリーアの表情から綺麗さっぱり笑みが消えた。
「……それを、どちらでお聞きになりましたの?」
急に真剣そのものの顔付きで静かに追及してきた彼女に、カテリーナは訝しく思いつつ答える。
「とある知り合いからですが……。あの、それが何か……」
「そのお知り合いの方……、通ですわね」
「え?」
低く唸るような呟きの意味を捉えかねたカテリーナは本気で困惑したが、マリーアはすぐに気を取り直したらしく、話は意外な展開を見せた。
「カテリーナ様。生憎その本は、こちらの棚で求める事はできないのです」
「まあ、そうなのですか? 存じ上げませんでした。それではどちらで購入できるのでしょうか?」
「案内して差し上げますわ。私に付いていらして」
「はぁ……」
(どういう事かしら? この店で購入できないと言う事では無いの?)
悠然と店の奥に向かったマリーアの後に付いて歩き出しながら、全く意味が分からなかったカテリーナは首を傾げた。するとカウンターに到達したマリーアが、ポケットから取り出したハンカチを店員に見せながら声をかける。
「失礼いたします。こちらは私の連れですわ」
「分かりました。それではお二方とも、お通りください」
「ありがとう。お邪魔します」
何やら図案が刺繍されたハンカチを確認した店員がカウンター後ろの扉に歩み寄り、それを開けながらマリーアに声をかける。それに会釈で応じた彼女に付いて、カテリーナも扉の奥へと移動した。
(え? 何? この奥に、まだ店があったの?)
そして通路を十数歩歩いた先にあったドアを開け、カテリーナに道を譲りながら、マリーアが誇らしげに宣言した。
「さあ、カテリーナ様! 遠慮せずにお入りになって! こちらが紫蘭会会員限定、『紫の間』ですわ!」
「……はい?」
先程の店舗よりも広さは無いものの、同様に壁際に本棚が整然と並べられている空間に足を踏み入れたカテリーナは、本気で首を傾げた。しかし彼女の戸惑いなど物ともせず、マリーアが一直線に本棚の一つへと向かう。そして勝手知ったる場所だったらしいそこで、彼女はお目当ての本を本棚から抜き出し、訝し気に後を付いて来たカテリーナに、それを手渡した。
「それでは、こちらがお探しの《紅の乱舞》です。こちらでは試し読みもできますので、遠慮無くそちらのソファーにお座りになって読んでみてくださいませ。私は他を眺めておりますので、失礼いたします。退出する時は、好きな時に出られますのでご心配なく」
「はぁ……」
満面の笑顔で説明したマリーアは、カテリーナが引き攣った笑顔で頷いたのを見てから、嬉々として本棚に戻って行った。それを見送ってから彼女が改めて室内を見回すと、中央部に複数設置してある一人掛けのソファーには、確かに何人かの読書中の女性が存在しており、カテリーナは半ば呆れながら考え込んだ。
(何というか……、不思議な空間ね。あまり本は置いていないのに、ソファーが上質。というか、商談用や接客用ならともかく、店舗に試し読み用のソファーを置くなんて聞いた事が無いわ。でも考えてみたら、そもそも本専門の店舗は、このワーレス商会書庫分店が初めてなのよね。だからソファーを置こうが何をしようが、普通と比べてどうとは言えないわ。画期的、と言えば良いのかしら。せっかく教えていただいたのだし、取り敢えずざっと読んでみましょう)
マリーアの言動も含め、意味が分からなかったカテリーナだったが、すぐに気を取り直し、ソファーに座って手元の本に目を通し始めた。しかしそれを十数ページを斜め読みした段階で、早くも違和感を覚える。
(ええと、これって……。いえ、内容もそうだけど、この登場人物の描写に、何となく引っかかりを覚えるのだけど……)
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