酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(108)兄夫婦の事情

 友之と義則が、まだ帰宅していない時間帯。先に夕食を食べ終えて真由美と共にリビングに移動した沙織は、お茶を飲みながら考え込んでいた。


(何だかね……。この何日か友之さんの様子が変って言うか、何か物言いたげにしていると言うか。挙動不審まではいかないにしろ、何となくすっきりしないのよね。仕事上では、特に問題は無いみたいだけど)
 この何日かの友之の様子を思い返しながら沙織が無意識に眉間に皺を寄せていると、向かい側のソファーに座っている真由美が、不思議そうに声をかけてくる。


「沙織さん、随分難しい顔をしてどうしたの?」
「あ……、いえ、何でもありません。そう言えば、明日の夕食は要らない事は、伝えておきましたよね?」
 問いかけで我に返った沙織は、慌てて明日の予定を持ち出して話題を逸らした。それに真由美が素直に頷く。


「ええ、聞いているわ。沙織さんの結婚祝いの会なのよね? でも友之は、祝って貰えないのよね? この前義則さんにぶちぶち文句を言っていて、思わず笑ってしまったわ」
 そう言ってからその時の様子を思い出したのかクスクスと笑い出した真由美を見て、沙織は苦笑いの表情になった。


「はぁ……。まあ確かに、世間一般の結婚祝いの席とは、趣が異なる事は確かですね」
「良いじゃないの。お祝いの席を設けると言ってくれているのだし、お友達と楽しんできて頂戴」
「ありがとうございます。……っと、ちょっと失礼します」
「ええ」
 スラックスのポケットに入れていたスマホが無音のまま振動を伝えてきた為、沙織は真由美に断りを入れてからそれを取り出し、その内容を確認し始めた。しかし豊からの連絡だった事を確認した沙織は、如何にもうんざりした口調で独りごちる。


「うわ……。豊ったら、何をやってるのよ……」
 反射的にそう呟いてから、沙織は即座にディスプレイ上で指を滑らせ、即行で豊に返信した。そして再び、しみじみとした口調で愚痴めいた呟きを漏らす。


「はぁ……、限度とか節度とかいう言葉の意味を知っているかどうか疑わしい身内を持つと、本当に頭が痛いわ……」
「沙織さん、お兄さんがどうかしたの? 何か緊急の用だったら、私に遠慮せずに連絡を取ったり出掛けて良いのよ?」
 この間、黙って沙織の様子を観察していた真由美が真顔で申し出たが、沙織はあっさり首を振った。


「それは大丈夫です。急を知らせる内容ではありませんでしたから。兄から送られてきたメッセージが、いつものそれとは雲泥の差の頭のネジが何本も抜け落ちたような、あまりにも馬鹿っぽい内容だったので。取り敢えず文面で叱っておきました」
 それを聞いた真由美が、意外そうな顔になって問い返す。


「あらまあ……。以前お会いした時は冷静沈着な方に見えたけど、何かあったの?」
「義姉の柚希さんに子供ができて、今、八週目だそうです」
 沙織が極めて事務的に報告すると、真由美は明るい笑顔になりながら感想を述べた。


「まあ! それはおめでたいこと! お兄さんは、よほど嬉しかったみたいね。良い父親になるんじゃない?」
 それに沙織が溜め息で応じる。
「嬉しいのは分かりますが、浮かれて騒ぐにも程がありますよ……。絶対に騒ぎすぎて、柚希さんに迷惑をかけたり嫌がられていると思いますので、少ししたら直接電話で柚希さんと話してみます」
「妹としては、兄の不始末のフォローしておかないといけないのね?」
「そういう事です。愛想を尽かされたら困りますので」
 そこで女二人は顔を見合わせ、楽しげに笑い合った。それから少ししてリビングから自分の部屋に引き上げた沙織は、早速柚希に電話をかけた。


「柚希さん、今、お時間は大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。沙織さん、どうかしたの?」
「さっき豊から、柚希さんに子供ができたって内容のうっざいメールが届いていて。まずは、妊娠おめでとうございます」
 沙織が大真面目に祝いの言葉を口にすると、苦笑気味の声が返ってくる。


「ありがとう。やっぱりあの調子で、沙織さんにも連絡したのね」
「豊には、返信で浮かれすぎるなと叱っておきましたが、方々にあの調子で連絡したんですか……。柚希さんに色々とご迷惑おかけしたというか、おかけしそうだなと思ったもので」
「大丈夫よ。豊はもうすっかりおとなしくなったから」
 神妙に詫びを入れたものの予想外の展開だった事で、沙織は不思議に思いながら尋ね返した。


「え? 『おとなしくなった』って……。柚希さんが一喝して黙らせたんですか?」
「違うの。お義父さん、厳密に言えば、社長の鶴の一声の結果よ」
「すみません。益々意味が分からないんですが……。和洋さんが、何か言うかするかしたんですか?」
 困惑を深めた沙織に対し、柚希が笑いを含んだ声で詳細について語り出す。


「お義父さんにもあの調子で、私の妊娠の事を報告したのよ。そうしたらお義父さんが、さっき豊に電話をかけてきてね。『それなら柚希さんが産休育休中の監査課課長業務は、直属の上司であるシステム部部長のお前が代行だな』と言い渡したの」
 それを聞いた沙織は、思わず遠い目をしながら納得した。


「あぁ……、その判断は、妥当と言えば妥当なんでしょうね……。例の愛人疑惑勃発の時に話を聞きましたが、柚希さんの職場はかなり特殊みたいですし……」
「そうなのよね。業務量としては他部の課長と比べると少ないけれど、配属社員が真っ当な事務処理の為に出社するような人達じゃないから」
「その人達に、柚希さんの代行をお願いするのは無理、と。当然、同じシステム部の中の他の課長さんとか、将来の昇進を見越して有能な一般の社員さんにお願いするという選択肢は……」
「依頼した瞬間に、その人から退職願が提出されると思うわ」
「……ですよね。あの時、『システム部全体から恐怖の対象になっている』とかなんとか、言っていた気がしますし」
 沙織の口から思わず乾いた笑いが出たところで、柚希が溜め息まじりに言い出す。


「だけどお義父さんにそう指示された瞬間、豊ったらスマホを取り落として。フラフラと夢遊病者のように寝室に入ってから、一向に出てこないのよ。室内は静まり返っているし」
 呆れ返った口調で話された沙織は、さすがに兄を不憫に思った。


「しばらくそのままにしておいてあげて下さい。気持ちが落ち着いたら、出てくると思いますから。あとはそのまま寝て、明日の朝には気持ちを切り替えて出社するとか。豊は昔から、ネガティブな感情は長く引きずらない性格なので」
「そうね。本当に豊ったら、いざとなったら皆を平気でこき使うくせに、普段は腰が引けているんだから……。ところで沙織さん。退院後、体調はどう? 豊がまだ結構心配していて、今度様子を見に行こうかと言っていたのよ」
 この機会に聞いておこうと思ったのか柚希が話題を変えてきた事で、沙織も瞬時に意識を切り替える。


「あの時はお騒がせして、本当にすみませんでした。勿論、異常も体調不良もありませんし、わざわざ様子を見に来る必要もありませんので、豊にそう伝えておいて貰えますか?」
「それなら良かったけど……。あの時、豊が友之さんを踏みつけたりしたでしょう? 沙織さんの事も心配だったけど、友之さんの方も変なトラウマとかになっていないか心配だったの」
 そんな事を義姉から申し訳なさそうに言われてしまった沙織は、その時のとんでもない兄のキレっぷりを思い出してがっくりと項垂れた。


「柚希さんが謝る筋合いの事では無いので、本当にお気遣いなく。何か問題があったら豊に責任を取らせますが、友之さんに特にこれといって変わった事は……」
 そこで沙織が不自然に言葉を濁して口を閉ざした事で、柚希は不思議そうに電話越しに声をかけてきた。


「沙織さん、大丈夫? どうかしたの?」
「ええと……、急に黙ってしまってすみません。最近友之さんに関して、ちょっと変だなと思っていた事を思い出しまして。あ、勿論、例の豊と揉めた事は無関係の筈ですよ? 日にちが経ちすぎていますし」
「そうなの? 因みにどんな事? 仕事に関する事かしら?」
「仕事の話をしている時の事ですが、どうも仕事の内容に関わる事では無いみたいなので」
「どういう事?」
 心底不思議そうに尋ねられた沙織は、特に秘密にしなければならない必要性を感じなかった為、吉村との会食からの帰り道での会話から始まる、この何日かのや友之とのやり取りを柚希に語って聞かせた。


「あぁ~、なるほど。何となく、分かったかもしれないわ。今現在の私の状況と、重なる部分もあるし」
「え? 柚希さん、今の話だけで本当に? どういう事ですか?」
 一通り話し終えるとすぐに柚希が口にした内容を聞いて、沙織は驚いて問い返した。すると柚希が、慎重に確認を入れてくる。


「言って良いのかどうか、微妙だけど……。沙織さん。友之さんと、子供についての話をしている? もっと踏み込んで言うと、いつ頃欲しいとか何人位欲しいとか、出産後は育児分担をどうするかとか」
「……はい?」
 予想外の事を次々言われた沙織は目を丸くして絶句したが、柚希が口を閉ざして自分の反応を窺っている為、何とか気を取り直してその問いに答えた。


「いえ……、そこら辺は全然、話し合ってもいません。何と言っても先月まで、社内には内密の事実婚状態でしたので」
「やっぱりね。そうだろうとは思ったけど」
「確かに今年中には労使間で、同部署所属者同士での結婚でも、本人が希望しない配置転換はさせない取り決めがされる予定ですが、結婚の事実を公表するのは、その後にすると決めていた位です」
「それなのに例の襲撃事件で、なしくずし的に公表する事になったでしょう? それなら取り敢えず、出産を控える理由の一つは無くなったわけよね? 他の理由は、依然として幾つかあるけど」
「他の理由? 何でしょうか?」
「沙織さんの考えとか、沙織さんの仕事とかよ」
 咄嗟に思い浮かばずに首を傾げた沙織だったが、柚希の説明を聞いて深く納得した。


「……ああ、そういう事ですか。色々と腑に落ちました。どうしても妊娠、出産となったら、一定期間現場から離れる事になりますね」
「友之さんもね……。どう切り出せば良いのか悩んで躊躇う気持ちは分かるけど、変に煮え切らない態度を取ることで沙織さんに不審に思われたり、余計に怒らせかねないと思わなかったのかしら」
 電話越しに柚希が溜め息を吐く気配が伝わってきた為、沙織は一応友之を庇ってみた。


「まあ、友之さんが慎重になっていた心情は、何となく分かります。少し前まで、当面は子供の事を考えないと言っていた手前、前言撤回するみたいでばつが悪いんでしょう。それに子供ができたら、仕事に支障が出るのは私だけですし、それに対する負い目もあるんじゃないですか?」
 するとここで、柚希が意外そうに問い返してくる。


「あら? 沙織さんだけ?」
「え? 私だけってどういう意味ですか?」
「沙織さんが出産するとなったら、友之さんも育児休暇を取得するんじゃない?」
「はぁ!? どうしてそうなるんですか!?」
 思わず声を裏返らせた沙織だったが、柚希は冷静に話を続けた。


「そんなに変な事を言ったかしら? 何となく、そんなタイプかなと思ったんだけど」
「想像できない……。友之さんが育児休暇取得? ありえない……」
「でも社長令息で課長職にある人が率先して育児休業を取得したら、社内での意識改革が一気に進まない?」
「この前、色々な意味で散々話題になったのに、別の意味でも話題になりそうです」
「それはそうでしょうね」
 そこで柚希から笑いの気配が伝わってきたが、すぐに真摯な口調で言い聞かせてくる。


「私の推測が的外れだったらそれはそれで良いのだけど、この機会に子供について二人で話し合ってみたらどう?」
 そこで一瞬黙り込んだ沙織だったが、その意見に素直に頷いた。


「……そうですね。少し時間をおいて、自分自身の考えをまとめてから友之さんと話し合ってみます。今の状態だと、色々感情的な物言いになりそうなので」
「確かにその方が良いかもね」
「それじゃあ、そろそろ失礼します。豊によろしく」
「ええ、お休みなさい」
 そこで通話を終わらせた沙織は、思わず溜め息を吐いた。


「子供かぁ……。一年前は結婚も出産も、殆ど意識してなかったんだけどね……」
 その事自体に拒否感があるわけでは無かったが、その時の沙織の表情には、ありありと困惑の色が浮かんでいた。



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