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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(107)吉村の受難

 負傷した沙織が職場復帰してから、半月程経過したある日。
 友之と沙織は連れ立って退社し、途中で待ち合わせていた吉村と合流した。そして予約時間の少し前に天ぷら専門店に入り、カウンター席に並んで座る。


「吉村。無理を言って、付き合って貰ってすまない。今日は遠慮なく食べてくれ」
 キャビアを添えたじゅんさいやオクラのジュレ、ベビーコーンやぼたん海老のお造りなどが彩り良く配置された先付けを前に、運ばれてきた冷酒の入ったガラス製の地炉利を持ち上げながら友之が促した。対する吉村も素直に江戸切子のグラスを持ち上げ、恐縮気味に酒を注いで貰う。


「課長には色々お世話になっていますし、何やら折り入って相談があるとの事ですから……。それで、そちらに関本が同席しているという事は、何か彼女絡みの事ですか?」
「お気遣いなく。私は勝手に食べていますので」
 友之を間に挟んで右端に座っている沙織は、男達の会話など気にも留めず、既に手酌で飲んでいた。そして無表情のまま、素っ気なく言い放つ。


「ほら、出されたものはすぐに食べる。せっかく最高の状態で提供して貰っているのに、写真を撮ったり話し込んでいるうちに温くなったり冷めさせるなんて、店の方に失礼ですよ?」
「……そうだな」
「いただきます」
 全く反論できなかった男二人は、それから言葉少なに食べ進めた。そして先付けに続いて鱧の葛うちの碗物まで平らげた時、友之が改まって吉村に申し出る。


「吉村、申し訳ない。今回は極めて個人的な頼み事になってしまうが……」
「課長、一体何事ですか?」
「申し訳ないと思うなら、頼まなければ良いじゃない。別に危険地帯に乗り込むわけじゃないのに」
 ここで如何にも不満げに口を挟んできた沙織に向き直り、友之は真剣な面持ちで訴えた。


「しかしだな、ある意味何をしでかすか分からない集団の中に、沙織を一人で出向かせるつもりは無いんだ」
「単なる飲み会よ、飲み会。それとも何? 結婚したら妻は、飲み会に夫かそれに代わる保護者同伴じゃないと参加できないとでも言うつもり?」
「そうは言ってないだろうが!」
「明らかに言っているわよね!? 吉村さん、どう思いますか!? 是非、第三者としての、忌憚の無い意見をお願いします!」
 次第にヒートアップしてくる夫婦の論争に対し、吉村は店の従業員と同様、下手に口を挟まず傍観者に徹していたが、沙織から険しい表情で意見を求められた為、控え目に申し出た。


「……すみません、課長。まずは俺がここに呼び出された理由を説明して貰えないでしょうか?」
「あ、ああ……。説明がまだだったな。すまない、沙織が途中で余計な口を挟んでくるから」
「私のせい!?」
「関本、取り敢えず課長の話を聞かせてくれ」
「……分かりました」
 声を荒らげた沙織だったが、疲れたような声音で吉村に懇願されて不承不承頷いた。しかしその時、目の前にお造りの皿が運ばれてくる。


「こちらは雲丹の泡醤油添えと、辛子醤油塗りのしめ鯖になります。こちらの泡は時間が経つと、元の液体に戻ります。塩とわさびも添えてありますので、お好みでお召し上がりください」
「うわぁ、これも美味しそう! お酒が進むわ! ほら、さっさと食べる!」
「…………」
 嬉々として箸を伸ばした沙織に逆らえる筈もなく、友之達はそれから少しの間だけ料理と酒を味わう事に専念した。


「その……、俺達が結婚している事が社内に周知されてから、《愛でる会》主催で《関本沙織の結婚を祝う会》が企画されたんだ」
 そんな風に友之が本題を切り出したのは、メインの天ぷらが出され始め、車海老の頭や身の天ぷらを食べ終わった時だった。


「はぁ……、あそこは団結力が半端じゃなさそうですから、トントン拍子に決まりそうですね……」
「それが来週に設定されて、沙織に出席要請がきた」
「え? まさか、関本だけですか? 結婚を祝う会と言うなら、普通は課長も出ますよね?」
「女性限定だそうだ」
 怪訝に思いながら吉村は問い返したが、友之の返事を聞いて、オクラと姫人参の天ぷらに伸ばしかけた箸を止める。


「…………何となく不穏な空気を感じるのは、俺の気のせいでしょうか?」
 僅かに顔を強張らせた吉村に、友之は真顔で同意を求めた。
「そう思うよな? 結婚を祝うのに、どうして夫婦で呼ばないんだ? しかも元々《愛でる会》は、俺の非公認ファンクラブじゃなかったのか?」
「課長……、それを俺に聞かないでください……」
 どんなコメントをすれば良いのか皆目見当がつかなかった吉村は、本気で頭を抱えたくなったが、そんな彼の前で夫婦間の論争が再び勃発しかけた。


「それに、現会長の新川さんも、少し前に顔を合わせた時に『関本沙織を吊るし上げる会』とか口走っていたし。万が一にも、殴る蹴るや刃傷沙汰に及んだりしたら」
「だからそれは、明らかに考えすぎだって言ってるでしょう!? 第一私、愛でる会の会員の殆どと、以前から友人付き合いをしているのよ!? 失礼だとは思わないの!?」
「すまない、関本。ちょっと良いか?」
「何ですか?」
 咄嗟に吉村が会話に割り込むと、沙織が不愉快そうに睨んでくる。しかしこれだけは言っておかないと駄目だろうと判断した吉村は、彼女に対して語気強く言い聞かせた。


「お前が社内で刃物女に素手で立ち向かって、意識不明になって病院に担ぎ込まれてから、まだ1ヶ月経過していないんだぞ? 怪我だけで後遺症もなくピンピンしているのは、本当に不幸中の幸いだ。この時期、お前一人で出歩く事に対して、課長が過剰に心配するのも無理はない」
「えぇ?」
 暗に非難された沙織は眉間に皺を寄せたが、吉村は引き続き正論を繰り出す。


「仮に、その祝いの席が何事も無く終わるにしても、行き帰りで不測の事態に遭遇するかもしれないだろうが。心配している課長に対して、頭から反発するのはどうかと思うぞ?」
「…………」
 真顔で言い聞かされた沙織は納得しかねる顔付きになったものの、その言い分は認めたのか反論はしなかった。その気まずい沈黙の中、新たな料理が差し出される。


「次はアワビと唐辛子になります」
「はぁ、どうも……」
 いつまでも仏頂面でいるわけにもいかず、沙織はそこで何とか機嫌を直して再び揚げたての天ぷらを味わい始めた。


「取り敢えず課長達が揉めている理由は分かりましたが、俺が呼ばれたのはどうしてでしょうか?」
 牛ヒレ肉やアスパラ、椎茸などを食べ進め、沙織を横目で窺って美味しいものを食べ続けた彼女の機嫌が良くなったのを確認してから吉村が尋ねると、友之がかなり言いにくそうに告げる。
「その……、俺の出席は認められないが、その場に吉村が顔を出す分には構わないらしい」
「どうしてですか?」
「《愛でる会》では各種会合の出席者の選定は、会長の選任事項だそうで」
 そこまで聞いた吉村は友之の話の途中にもかかわらず、微塵も躊躇わずに席を立った。


「すみません、お役に立てそうにありません。今日の俺の分の支払いは後から課長に渡しますので、これで失礼させて貰います」
「吉村、ちょっと待ってくれ!」
「吉村さん。夏の風物詩、鱧がまだですよ?」
 友之がすかさず吉村の右腕を捕らえ、沙織がのんびりと声をかけてくる。しかし突如発生した不安事項から逃れようと、吉村は必死の形相で言い返した。


「本当に勘弁してください! 何で女ばかりの集まりなのに、俺を指名してくるんですか!? よってたかって、俺への嫌がらせですか!?」
 狼狽しまくる吉村とは対照的に、沙織は独り言っぽく冷静に告げる。


「それは単に、由良が吉村さんと、より一層お近づきになりたいだけじゃないですか? 全く由良ったら、そんな事で会長権限を行使しなくても……。リコールされても知らないわよ?」
「俺は不用意に、あの女とこれ以上お近づきになんかなりたくないんだが!?」
「失礼ですね。そんな力一杯拒否しなくても。由良のどこが不満だと言うんですか?」
「関本と同じでどことなく得体が知れなくて、押しが強いのか弱いのか今一つ分からない所だ!」
 語気強く吉村が訴えてきた内容を聞いて、沙織は思わず確認を入れる。


「それならこれまで、由良とそれなりに接してはいるんですよね?」
「ああ、これまで何回か全く予定外のところで、殆ど予想外の事態に陥っているからな!」
「……これまでに、何があったんですか?」
「誰が言うか!」
「由良は何も言ってなかったけど……。今度聞いてみよう」
「とにかくそう言う訳だから、当日はよろしく頼む」
「課長……」
 怪訝な顔で呟く沙織のよそに、友之が再び真摯に頭を下げる。さすがに吉村も無下には断れない空気に困惑していると、話が一区切りついたと判断したのか、新たな料理が三人の前に出される。


「次は鱧の天ぷらになります」
「ほら、吉村さん。ちゃんと座って食べてください」
 素っ気なく沙織に促された吉村は、色々諦めて椅子に座り直した。そして自然に手を放した友之に向き直り、溜め息まじりに確認を入れる。


「分かりました。取り敢えず俺がその集まりに同席して、万が一不穏な気配が出てきた場合、関本を連れて引き上げれば良いんですよね?」
「ああ。本当に申し訳ない」
「いえ、俺は例の件で課長達にご迷惑をおかけしていますし。これ位、何でもありません」
 完全に腹を括った吉村は、それからは微塵も遠慮せずに残りの天ぷらや刺身を堪能し、ミニトマトの土鍋の炊き込みご飯や最後のシャンパンゼリーまで食べ尽くしてから、三人は腰を上げた。そして店外に出てから吉村は奢って貰った礼を述べ、満足顔で立ち去る。友之と沙織はそんな彼を見送ってから、別方向に歩き出した。


「本当に、私一人で大丈夫なのに大袈裟な……」
 まだ納得しかねる口調で呟く沙織に、友之は半ばうんざりしながら応じる。


「まだ言うのか……。だが、これで取り敢えず一安心だな」
「全く、私の交友関係を何だと思っているの。しかも同僚に過ぎない吉村さんを、課長権限で巻き込むなんて。公私混同で殆どパワハラよ?」
「その批判は甘んじて受ける」
「真顔で断言する自覚があるなら、踏み止まって欲しいかったわ。でも本当にあの襲撃事件が勃発した事で、状況が一変したわね。事実婚が発覚して、実際に入籍しちゃったし」
「沙織、それなんだが……」
「え? それって何の事?」
 何やら重々しく友之が言いかけた内容が咄嗟に判断できなかった沙織は、反射的に尋ね返した。しかし何故か友之は迷うような素振りを見せてから、慎重に言葉を継いでくる。


「あ、いや……。沙織は入籍後も仕事上では『関本』で通しているが、何か不都合な事は無いかと思っただけだ」
「仕事上では特に無いわよ? 収入は扶養限度額なんかとっくに越えているし、これまで通りよね? さすがに社内で幾つか手続きはあったけど」
「そうだな」
「寧ろ、プライベートで煩わしい事が盛り沢山で。免許証や通帳の登録名を変更するのに、平日に出向いて手続きをしないといけないじゃない?」
「……ああ、確かにな。それでだな、沙織」
「何?」
「その……、最近、仕事の方はどうだ?」
 その問いかけに対して沙織は呆れ返り、思わず足を止めて言い返した。


「はぁあ? 何を言ってるの? 私の仕事の進捗状況を、直属の上司である友之さんが知らないとでも言うつもり?」
「あ、いや……、そういう意味ではなくて……。最近は立て続けに沙織に新規の大きな取り引きを任せてきたし、負担になっていなかったかと思って」
「『大きな取り引き』って、柏倉工業やアドエアシステムズの事?」
「あ、ああ……。両社とも、無事に契約が締結しそうだよな?」
 微妙に狼狽しながら友之が応じると、沙織は不穏な気配を醸し出しながら、いつもより若干低い声で問い返す。


「……何だか私、ものすごく見くびられているのかしら? それとも今後は大きな仕事は任せられないと、見切りをつけられているわけ?」
「誰もそんな事は言っていないだろうが! 変な邪推をするな!」
「それならどういう事よ?」
「それは……」
 眼光鋭く睨み付けた沙織と対峙した友之だったが、すぐに彼女から視線を逸らして再び駅に向かって歩き出す。


「何でもない。帰るぞ」
「えぇ? 何でもないって、何よ?」
 納得できない沙織は文句を言いながら食い下がったが、友之は全く口を割らず、その話は中途半端な状態で終わってしまった。


(何でもないって顔じゃないんだけど? 何なのよ、急に訳のわからない事を言い出した挙げ句に、一人で不機嫌になるなんて)
 帰宅する間、時々隣の友之を盗み見ながら沙織は不思議に思ったが、その理由が判明するまで数日の時間を要した。





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