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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(103)水面下での出来事

 帰宅してすぐにリビングに顔を出した友之は、ソファーに座って義則と談笑していた沙織を見て、安堵しながら声をかけた。
「ただいま。沙織、大丈夫か?」
 それに沙織が笑顔で応じる。


「ええ、ちゃんと先生からのお墨付きを貰ってきたわ」
「それなら良かった。退院手続きを全て母さんに任せてしまって、すまなかった」
「仕事があったし、大した事ではないから。寧ろお義母さんは、私の世話を焼けると喜んでいたわ。『こういう時って、男は本当に役に立たないんだから』と上機嫌に言いながら付き添いをしてくれたから」
「……否定はしないが」
「こちらも耳が痛いな」
 友之は憮然とした表情になり、義則が苦笑したところで、真由美がリビングにやって来た。


「友之、夕飯の準備ができたわ。早く食べなさい」
「分かった」
「それじゃあ、沙織さん。台所を片付けたら、一緒にお風呂に入りましょうね」
「はい、お願いします」
「は? どういう事だ?」
 素直に食堂に向かいかけた友之だったが、真由美の台詞を聞いて思わず足を止めて振り返った。そんな彼に、沙織が説明する。


「退院時の説明を受けた時、お風呂に入ったり、シャンプーを使って洗髪をしても構わないと言われたけど、さすがに縫合部を強く擦るのは避けて欲しいと言われたの。だけど自分では見えないし、ちょっと不安で……」
「だから私が、髪を洗ってあげる事にしたのよ。友之の出る幕はありませんからね」
「ああ……、うん。事情は分かった。よろしく頼むよ」
「あ、友之さん。後でちょっと話があるんだけど」
「分かった。後で頃合いを見て、部屋に行くから」
 微妙な顔付きになりながら、友之は了承の返事をしてリビングから食堂に向かった。


「全く、母さんは……。楽しんでいるようにしか見えないぞ」
 すっかり親子の看病イベントに突入しているとしか思えない母親の様子に、友之は呆れ気味に愚痴っぽく呟いた。
 その後、夕飯食べ終えてから、女二人で賑やかに風呂に向かったのを父親から聞いた友之は、時間を見計らって沙織の部屋に出向いた。


「沙織、今は大丈夫か?」
 声をかけながら室内に入ると、机に向かってスマホを操作していた沙織が、椅子ごと振り返る。
「ええ、髪も乾いたし。お義母さんに乾かして貰っちゃった」
「どう考えても、母さんは楽しんでいるとしか思えないんだが。ところで話って何だ? 勤務に関してか?」
 ベッドの端に座りながら友之が尋ねると、沙織は机の引き出しから一枚の髪を取り出しながら話を切り出す。


「確かに社内の状況や反応は聞きたいけど、まずはこっちね」
「婚姻届がどうかしたのか?」
 いきなり出されたそれに友之が戸惑う中、沙織は真顔で話を続けた。


「当面は事実婚のままで提出するつもりは無かったけど、一応準備だけはしておいたのよ。だけど今回、なし崩し的に事実婚の事を社内に公表してしまったし、この際正式に入籍しない?」
 その提案に、友之は少々驚きながら問い返した。


「良いのか?」
「別に婿を取る必要は無いし、色々訂正や変更手続きをする必要はあるけど、どうしても嫌だという訳でも無いし、社内では入籍後も旧姓で勤務ができるもの。それに今年中には労働組合から、同一所属内での結婚でも配置転換を求めない規定を提起する予定になっているのよね?」
 そこで友之は、事件発生後に怒濤の展開を見せた出来事を思い出した。


「すっかり説明するのを忘れていた。その事だが、前倒しで認められそうだ」
「え? どういう事?」
 目が点になった沙織に、友之が順を追って説明すると、彼女は思わず天井を仰いだ。


「由良……。だから『任せておけ』の一文メールだったのね……。さっき送信にも、なかなか返事が来ないと思ったけど……」
「吉村の話では膨大な数の署名が着々と集まっていて、今週中に全組合員数の八割の署名を集めると、本宮課長が豪語しているらしい。来週早々に、労使協議の場を設定済みだしな」
「うわぁ……、話が際限無く大きくなってる……。松原工業の社員数って、各支社や営業所や製造工場まで含めたら、どれだけの人数になると思ってるのよ……。本宮課長、本気なの?」
「本気だし、彼だったらやるだろうな……」
 完全に呆れ顔になった沙織に、友之が自棄気味に応じたが、ここで沙織がちょっとした疑問を口にした。


「それにしても、どうして吉村さんが署名の集約具合を知っているわけ?」
「新川さんが署名の取りまとめをして、重複者名をチェックしているそうた。吉村が今日彼女に差し入れした時に、進行状況を聞いたらしい。それに加えて、署名漏れの社員名を入会希望者に横流しして、数少ないパイ狙いで未署名者に女性社員達が殺到しているらしいな」
 その光景を脳裏に思い描いた沙織は、はっきり分かる程度に顔を強張らせる。


「それ……、問題にならないの? 下手したら女性社員が寄ってたかって、署名の強要をする事態になっているんじゃ……」
「組合が主導しているわけでは無いし、本宮課長はこれに関しては静観しているみたいだ」
「まさか『現場から苦情が出ている』と経営側から抗議されたら、労働組合側は『組合主導ではなく、一部社員が暴走しているだけ』と弁明するつもりとか?」
「恐らくは」
「凄い詭弁……。裏でしっかり糸を引いているくせに」
 そこで二人は顔を見合わせ、どちらからともなく溜め息を吐いたが、いち早く気を取り直した沙織が話を元に戻した。


「状況は分かったわ。それなら一応、社内規定が成立してから日を選んで、入籍する事にする?」
「そうだな……、そうするか。俺は特に、入籍日に対してのこだわりは無い」
「それじゃあこっちの欄に記入して、署名捺印しておいてくれる?」
「分かった。今書いておくから、ペンを借りるぞ」
 すかさず立ち上がった友之は沙織と位置を交換し、机に向かって所定の位置に記入を済ませた。


「よし、これで良いな。判子は後から押すから。ところで証人欄はどうする?」
「お義父さんとお義母さんで良いと思うけど、誰か頼みたい人でもいる?」
「いや、特にそういう人はいない。近々、父さん達に頼むか」
「そうね」
 そこで話が纏まったところで、友之はベッドに座っている沙織と向かい合い、真顔で口を開いた。


「沙織。今回結婚している事を公にしたし、この機会に相談したいと言うか、意見を聞きたい事があるんだが」
「何? 改まって」
「それは」
「沙織さん! あら、友之ったら、沙織さんの部屋で何をしているの。もう十時過ぎてるのよ?」
 ノックも無しにいきなり乱入してきたと思ったら、盛大に顔をしかめながら非難してきた母親に、友之は不服そうに言い返した。


「何って、ちょっとした話を。それにまだ十時だろう?」
「沙織さんは病み上がりなの! 傷が完治するまで栄養と睡眠はしっかり取らないといけないのに、何を夜更かしさせているの!」
「あの……、怪我の場合も、病み上がりって言うんでしょうか?」
「夜更かしって……、だからまだ十時なんだが」
「四の五の言わずにさっさと出る! 沙織さん、ゆっくり休んでね。おやすみなさい」
「はぁ……、おやすみなさい」
 有無を言わせぬ迫力で断言した真由美に、沙織は呆気に取られながら頷き、強引に腕を引かれて立たされた友之は、続けてぐいぐいと背中を押されて撤収させられる。


「友之?」
「分かった。ちゃんと休ませるから」
(本当に、母さんには敵わないな。まあ、いつでも話はできるか)
 苦笑しながら沙織に挨拶をして部屋を出た友之は、母親に追い立てられるように自分の部屋に戻って行った。


 ※※※


 豊が名古屋にいる弟からの電話を受けたのは金曜の午後であり、当然彼は職場での勤務中だった。しかしその時彼は部長室で部下の一人と対面中であり、豊は彼に断りを入れてから薫からの着信に応じた。
「やあ、薫。お前の方から連絡してくるとは、珍しいな」
「あのな……、一昨日俺が送ったデータを見たか?」
 挨拶抜きで用件を切り出した弟に、豊の笑みが若干深くなる。


「ああ。隅々まで、じっくりと目を通させて貰ったよ。概略は知っていたが、調べる手間が省けて助かった。礼を言うぞ」
 しかし薫はここで、微妙に豊の探るように問いかけてくる。


「……それだけか?」
「それだけと言うのは? もっと心が籠った感謝の言葉が欲しいのか? それとも金や物で謝礼が欲しいと言う意味か? それなら遠慮せずにはっきり言え。俺達はれっきとした兄弟だろうが」
「そうじゃなくて! 怒っていないのか?」
「はぁ? 俺が、誰の、何の行為に対して怒ると?」
 今にも高笑いしそうな場違いな顔付きになった豊を見て、正面に座っていた監査課所属の橘は無言のまま片眉を上げ、その声音にはっきりと危険な物を感じ取ったらしい薫は、怖じ気づいたように話を終わらせた。


「…………いや、怒っていないなら良い。礼も要らないから、それじゃあ」
「ああ」
 そこであっさり通話を終わらせた豊は、スマホを再びポケットにしまい込みながら独りごちる。


「あいつも相変わらずだな。つついて怖じ気づく位なら、最初から余計な電話なんかしなければ良いものを」
 その一部始終を目の当たりにした橘は、豊より遥かに年長者らしい貫禄を醸し出しながら、控え目に意見した。


「部長の殺気垂れ流しの声を聞かされたのなら、仕方が無いでしょう。弟さんに同情します。それから、ここに出向いたついでに監査課にお嬢の顔を見に行ったら、可哀想にすっかりビビっている様子でしたよ。あの子は貴重な俺の弟子なんですから、あまり苛めないで欲しいですね」
 彼にしては結構切実な要望だったのだが、豊はさほど感銘を受けた様子も無く、あっさり切って捨てた。


「別に、柚希を怖がらせたつもりはありません。それで?」
「物が物だけに、データを送信するのは憚られまして。どこから、誰に覗かれるか分かりませんからね。こちらに纏めて入れてきました」
 橘が溜め息を吐きながら、この二日の調査の成果であるSDを差し出すと、豊は満足そうに頷く。


「確かに世の中は広いですから、あなた方並みの能力保持者が存在していてもおかしくありませんね。用心深いのは結構な事です。今回は業務外の事で働いて貰った上、ご足労おかけして申し訳ありませんでした」
「今度はこちらが質問させて貰いますが……、これをどうするつもりですか?」
 目をすがめて相手の反応を見定めようとした橘だったが、豊は如何にも楽しげに笑っただけだった。


「どう、とは? 勿論、有効活用させて貰いますよ? あなた達に貴重な時間を割いて貰ったのですから、当然じゃありませんか」
「『有効活用』ですか……。そうですね。それでは失礼します」
「ご苦労様でした。皆にも個別に謝礼を出しますし、礼を言っておきます」
 一体どう活用するつもりなのか、詳細を聞く気にもなれなかった橘は、おとなしく立ち上がって退出した。そして不気味な笑顔の豊に見送られて廊下に出てから、深い溜め息を吐く。


(本当に、あの坊っちゃんもな……。普段の常識人っぽい時は、俺達の事を本当に苦手にしているくせに、いざとなったら平気で駒扱いするところがなんとも……。無意識の人畜無害な猫被りっぷりは、社長以上だよなぁ……)
 心の中でそんな事を盛大に愚痴ってから、橘は気を取り直して歩き出した。


「だが、逆よりは良いか。例の大量引き抜き騒動の時も、率先して陣頭指揮を執った上、裏切り者どもにきっちり制裁を下したしな。CSCも当面は安泰そうで、結構な事だ」
 橘がそんな独り言を漏らしていると、前方から驚愕と狼狽の囁き声が聞こえてくる。


「ひいっ!」
「何であの人がいるんだよっ!」
「今日、出社する予定なんかあったか!?」
「緊急監査か?」
「俺、何もへまをしてないよな!?」
 そんな囁きと共に、複数の社員が自分の進路を遮ったしないように廊下の壁にへばりついたり、自分の視界から逃れようと近くの部屋に駆け込んだりするのを目の当たりにした橘は、小さく舌打ちした。


(全く、ピーチクパーチクと五月蝿い奴等だ。俺の姿を見た位で、そこまで動揺するなよ。お嬢も苦労していそうだな)
 そこで軽く背後を振り返った橘は、軽く首を振ってから無言のままエレベーターに向かった。
 一方の豊は、それからは本来の業務そっちのけで橘が持参したデータに目を通していたが、二時間近くかけてそれらを精査し終えた。そしていつのまにか浮かべていた凄みのある笑顔のまま、友之に電話をかけ始める。


「友之さん、お仕事中すみません。一之瀬です。今、少々お時間を頂いてもよろしいですか?」
「え?」
 当然友之も就業時間中であり、何事かと思ったらしく一瞬反応が遅れたが、すぐに重要な用件だと判断したらしく了承してきた。


「構いません。どうかしましたか?」
「今回の事について、少々お話がありまして。明日は土曜日ですし、午後に特に予定が無ければ、私の自宅に出向いて貰えませんか? 折り入って、お話ししたい事がありまして」
「それは構いませんし、こちらからお詫びに伺うつもりでしたが、沙織は」
「お互い、沙織はいない方が良いでしょうね。勿論、こちらに来る事も、誤魔化しておいた方が良いかと思います」
 友之の台詞を些か乱暴に遮りながら言い聞かせると、さすがに緊迫感を感じさせる声になって応じてくる。


「……分かりました。一人で伺います。ご宅の住所は、以前聞いて控えてありますので大丈夫です」
「それでは十三時では?」
「結構です。その時間にお邪魔します」
「よろしく。それでは失礼します」
 そして首尾良く友之を呼び寄せる手筈を整えた豊は、再び目の前のディスプレイを凝視しながら忌々しげに呟く。


「全く……。こんな男が俺の義弟とはな。情けないにも程がある」
 その憤怒の形相を一般の社員達が目の当たりにしたならば、先程橘を目撃した時の比では無い位、血の気が引く事は確実だった。



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