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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(100)労働組合の陰の支配者

「何だ皆、今日は随分遅くまで残っているんだな」
 営業二課に戻った友之が、既に二十時を過ぎているにも関わらず、十人近くの社員が残っていた事で、意外そうに声をかけた。その途端、室内にいた全員が一斉に振り返りながら立ち上がり、血相を変えて友之に詰め寄る。


「課長! 戻っていらしたんですか!?」
「『何だ』じゃありませんよ!」
「病院から、直帰したかと思っていました」
「それで、関本は大丈夫だったのか?」
 どうやら沙織の事を心配して残っていた全員を代表するように杉田に問われた友之は、深々と頭を下げながら年上で先輩でもある部下に報告した。


「ご心配おかけしました。傷は負いましたが、後遺症などは心配要らないそうで、経過が良ければ明後日にも退院できます」
 その知らせに一同は揃って安堵した表情になり、杉田が考え込みながらちょっとした提案をする。


「それは良かった。明後日だと木曜か……。いっその事、念の為に金曜は有休にして、週明けから復帰するようにしてはどうかな?」
「そのつもりです。その方が社内の状況も、色々落ち着いていると思いますし。それから……、沙織との事をこれまで内密にしていて、申し訳ありませんでした」
 そう言って再び頭を下げた友之だったが、周囲は彼を非難するどころか、顔を見合わせながら盛大に笑い出した。


「いやぁ、今回の事では、すっかり課長と関本にしてやられたよなぁ」
「全くだ。あれで夫婦だって? あり得ないだろ」
「そうですよね。あれで夫婦なら、課長と係長だって夫婦で通りますよ」
「気色悪い事を言うな! 課長と係長に失礼だろうが!」
「確かに驚きましたけど、別に俺達、被害を被ったわけではありませんし。職場内で新婚空気を醸し出されていたら、独身の連中はやさぐれていたかもしれませんが」
「強いて言えば、吉村が被害者か? いい面の皮だよな?」
「勘弁してくださいよ、水原さん」
 口々にそんな事を言い合いながら陽気に笑い飛ばしている部下達を見て、友之は彼らに感謝した。そして、これなら沙織が復帰しても職場で変な気を遣わせなくて済みそうだと密かに安堵していると、朝永が思い出したように告げてくる。


「課長。経理部の本宮課長が直に話をしたいとの事で、帰社したら連絡を欲しいと一時間程前に言われていました。課長がこちらに来た時点で本宮課長に連絡したので、そのうち内線がかかってくると思います」
「何の用事か、聞いてはいないんだな?」
「はい。特に伝言はありませんでした」
「分かった。ありがとう」
 普段それほど接点が無い相手からの連絡に、友之が首を傾げながらも自分の机に向かって中断していた仕事に取りかかろうとしたその時、つい先程話題に出た人物が現れた。


「失礼。松原課長は戻っているな?」
「本宮課長、部下から連絡は受けています。何か、緊急の用件でしょうか?」
 部屋に入るなり、まっすぐに自分の机に向かってきた本宮を、友之は椅子から立ち上がって出迎えた。すると机越しに友之の正面に立った本宮は、若干神経質そうにかけてある眼鏡のつるを手で軽く押さえ直してから、唐突に脈絡が無さそうな事を言い出す。


「あんたは抗がん剤治療者や透析患者の発生率、精神疾患の種類と有病率、LGBTを含む性的マイノリティの、全人口に対する割合を知っているか?」
「……いきなり何ですか?」
 面食らった友之が無意識に尋ね返したが、本宮は平然と話し続けた。


「長年の労使交渉の末、労働者側が勝ち取って来た権利は多い。産休育休は既に法整備されているし、介護休暇や必要な休職期間の設定や手当保証など充実してはきたが、これから突入する少子高齢者時代に向けていかに優秀な人材を確保し、その人物に長期間いかに能力を発揮して貰えるか否かが、各企業が成長し続ける上での至上命題になるだろう。違うか?」
「いえ、あの……。それは全くその通りだと思いますが、それが何か?」
 そこではっきりと不愉快そうな顔になった本宮が、声を低めて友之に問いを重ねた。


「ここまで言っても、まだ俺がここに来た理由か分からないのか?」
「……申し訳ありません」
「労働組合で明日から、社内でこの要求に対する賛同署名を集める事になった」
 本宮がそう言いながら持参したファイルの中から一枚の用紙を取り出し、机の上に置いた。それに視線を落とした友之が、無意識に呟く。


「これは……、『各社員が最大限に能力を発揮できる職場環境の充実、及び制度確立を求める請願署名』?」
「ああ。本社内は勿論、国内全ての支社と各営業所に向けて、署名を呼びかける」
 淡々と子細を告げる本宮に、友之はまだ彼がここに来た理由が掴めないまま、内容に目を通した。


「急な上に、大事ですね。ええと要旨は……、『各種個人の諸事情、特に精神疾患や治療困難な難病への罹患の届け出、性的マイノリティである事の公表、同一職場内での結婚などにおける職場での偏見を無くし、配置転換などの不利益や精神的苦痛を回避し、各個人が自分らしく最大限の能力を発揮できる職場環境を要求し、以下の十項目を提起する……』」
 急に自分達に係わりがある内容が出てきた事で友之は口をつぐみ、その代わりに本宮が重々しい口調で言い出した。


「前々から本人が希望しない、やむを得ない事情での不本意な離職や配置転換を、少しでも軽減すべきだとの議論が労組本部でされていた。それに対する対策や制度充実の叩き台もできていたが、これまで組合員に向けての意識調査をしてみても、議論が盛り上がらなくてな。大抵の人間は、自分に関係ない事には大して関心を持たない。個別に難病患者や性的マイノリティに関する要求を通そうと思っても、『それがどうした。自分達には関係が無い』と一蹴する人間が殆どだ。あんたもそうじゃないのか?」
「それは……、さすがに一蹴はしないと思いますが、確かに身近な問題として考えにくいかもしれません」
 慎重に、しかし正直に友之が答えると、本宮は当然のように頷いた。


「それはそうだろう。だからこの際、個別で関心を得れないなら、各事例を一括りにして要求する事にした。同一職場内での結婚で暗に配置転換を迫られるなど、他の事例に比べたら深刻度と人権侵害度が甚だ軽くて同列に位置づけするのは馬鹿馬鹿しいにも程があるが、社長令息と親を親とも思わない冷血娘のカップルが当事者とあってはインパクト十分で、社員の殆どが関心を持ってくれるだろう」
 半ば貶された友之だったが、確かに他の事例と比べると些少な問題だと認め、顔が強張りそうになるのを堪えながら軽く頭を下げた。


「それはどうも……。他の方々の問題と比べると、軽過ぎる悩みで申し訳ありません」
「しかも警察沙汰にまでなって、あんた達の話題が今、社内で持ちきりだからな。その上、《愛でる会》がフル回転してくれると確約してくれた」
「どうしてそこで、《愛でる会》が出て来るんですか?」
 どう考えても関係性が分からなかった友之が反射的に尋ねると、本宮が予想外の事を言い出した。


「お前達の職場結婚を認めさせる為、何か方策を練っているなら全面的に協力すると会長から連絡を貰ったのでな。この署名活動の話をしたら、入会希望者に『社員署名を二百人集めたら、無審査で入会を認める』と告知を出したそうだ。何でも最近は入会希望者が多くて、会員内での選抜審査が行われていたらしい。それで弾かれていたそれなりの人数の女子社員に、一斉送信をしたと言っていた」
「新川さん……、何をやってるんだ」
 本気で脱力した友之が両手を机に付いて項垂れ、これまでの経過を黙って見守っていた部下達が彼に同情する視線を送っていると、本宮がほくそ笑みながら誰に言うともなく呟く。


「週明けまでには、かなりの数の署名が集まるだろう。数は力。早速経営陣に申し入れをして、来週火曜に労使協議の場を設定した。この際、上にとことん要求を飲ませてやろうじゃないか。出席予定の執行委員長と副委員長に、今週中にしっかりレクチャーしておかないとな。今から腕が鳴るぞ」
「…………」
 その不敵な笑みを目の当たりにした友之以下、営業二課の面々は、彼が労働組合の影のボスだとの噂は本当らしいと肝を冷やした。すると彼は唐突に笑いを消し、話を元に戻す。


「だから署名活動を始める前に、一応当事者に断りを入れておこうと思ってな。それからこれは、奥さんの入院見舞いだ」
 そこで本宮が、「御見舞」の文字と彼の名が表記された赤い帯入りののし袋を背広の内ポケットからさり気なく取り出し、友之に差し出した。対する友之は彼の如才の無さと意外過ぎる展開に呆気に取られたもののすぐに気を取り直し、それをありがたく受け取って頭を下げる。


「それは……。ご丁寧に、どうもありがとうございます」
「快気祝いは不要だ。今回名前を出させて貰う、礼も兼ねているのでな。それでは失礼する」
 そして署名用紙を残して本宮は立ち去り、それと同時に友之の周りに部下達が集まって来た。そして署名用紙を囲んで眺めながら嘆息する。


「本当に、とんでもないやり手だな……」
「個別で関心が得られないなら、纏めてしまえなんて」
「しかし尤もらしく、体裁は整っているんだよな……」
「でも何だか……。これを読むと課長達の事って、付け足しっぽくないですか?」
「ああ。完全に、社員に関心を持って貰う為の、ダシになっている気が……」
「もうダシでも口実でもなんでもいい。無理筋から要求を突き付けられる上層部が、気の毒になってきた」
 最大に迷惑を被るのが父親である事が分かりきっていた友之が呻いたが、ここで水原が容赦のない指摘をする。


「でも二人は同年配ですし、課長が将来社長になった時に本宮さんが労働組合の中央執行委員長に就任していたら、直接対応するのは課長ですよね?」
 それを聞いた途端友之の表情が固まり、周囲も静まり返った。そして少しの沈黙の後、友之が疲れきった声で言い出す。


「俺は万年課長でも良い気がしてきた。皆、もう俺に構わず、追い越して行ってくれ」
 精神的な疲労がピークに達していたが故の、そんならしくない友之の愚痴を耳にした周囲は、苦笑いしながら彼を宥めた。


「まあまあ課長、そう言わずに」
「若手の出世頭なんですから、頑張ってくださいよ」
「それにそんな事を言ってると、関本に踏み台にされますよ?」
「そんな事になったら、家庭内の威厳が崩壊しかねませんから」
「洒落にならん事を言うな」
 そんな周囲に友之も苦笑するしかなく、少しの間笑い合ってから皆、各自の机に戻り、次々に仕事に区切りを付けて退社して行った。



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