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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(98)事実婚の発覚

「沙織、大丈夫か?」
「課長、やはり意識はありませんね。あそこに頭をぶつけた拍子に、脳震盪を起こしただけなら良いのですが……。台座の角で裂傷ができたのか、出血していますし」
 一足先に沙織の様子を確認していた水原が、横にある胸像の台座の角を指さしながら説明すると、無意識にそこを見上げた友之は、僅かに血痕が付いているのを認めて無言で眉根を寄せた。そこで新たなサイレンと共に、正面玄関に救急車が到着する。


「通報を受けましたが、怪我人はどこですか?」
 ストレッチャーを引きながら声をかけてきた救急隊員に、水原が立ち上がりながら彼らを呼び寄せる。
「こちらです! 彼女をお願いします」
「了解しました。おい、急げ!」
 それから沙織の横までやって来た救急隊員は一度ストレッチャーの脚を畳み、高さを低くしてから沙織を慎重に移乗させた。そして元の高さに戻し、救急車に移動させる。


「搬送先は決まったな? よし、出るぞ!」 
 友之と水原も救急隊員と共に救急車まで同行し、ストレッチャーが乗せられ、隊員達が本部と連絡を取り合っているのを眺めていたが、隊員の一人が後部ドアを閉めようとしたところで、友之が声をかけた。


「すみません、俺も同行させてください」
 その声に彼が振り返り、友之に尋ねる。
「患者の同僚の方ですか?」
「いえ、夫です」
「分かりました。それでは奥様と一緒にどうぞ」
 隊員は当然の如く応じたが、それを耳にした水原の目が驚愕のあまり点になった。


「は?」
「水原、すまん! 皆に説明しておいてくれ!」
「あ、はい! 分かりました! ……じゃなくて、課長!? ちょっと待ってください!」
 救急車に乗り込みながらの切羽詰まった友之の叫びに、水原は反射的に了承したものの、慌てて詳細を問い質そうとした。しかしその前にドアが閉まり、サイレンを鳴らしながら救急車が走り始める。


「夫……、奥様? ええと……。一体、何がどうなっているんだ?」
 周囲の社員達の興味本位の視線を全身に浴びながら、全くわけが分からなかった水原は、呆然と救急車が走り去った後の幹線道路を眺めるのみだった。


「そういうわけで、課長は関本を搬送していく救急車に同乗して行ったので、状況報告に戻りました」
 沙織が搬送された後、いつまでも正面玄関で呆けている訳にはいかなかった水原は、取り敢えず営業二課に戻った。そして心配しながら待機していた係長の杉田に、自分が把握している範囲で経過を報告したが、その予想外すぎる内容に室内が静まり返る。そして彼が一通り語り終えた後、杉田が彼に確認を入れた。


「佐々木はどうしたんだ?」
「現場に残って、警察に状況説明をしています」
「それは構わないが、課長が関本の夫だと言うのは? 聞き間違いではないのか?」
 その場全員を代表して杉田が最大の疑問をぶつけたが、対する水原は困惑も露に弁解した。


「俺だけだったらそうかもしれませんが、近くにいた他の社員も聞いていますから……。実は俺、関本の兄と大学在学中からの友人なので、ここに戻る前に詳細について尋ねようと電話してみたのですが全く繋がらない状態なもので、詳細は不明です」
「…………」
 再び室内が静まり返ったが、ここで課長席の内線が鳴り響き、一番近くにいた杉田が慌てて受話器を上げて応答した。


「はい、営業二課です。……社長!? どうかされましたか? …………あ、いえ、それは違います。搬送されたのはうちの関本で、課長が付き添って行かれました。その折に、課長が関本の夫だと名乗ったそうなのですが……」
 そのやり取りを耳にした室内全員の視線が杉田に集まり様子を窺っていたが、その会話はすぐに終わった。


「……はい、分かりました。失礼します」
「係長。今の内線は、社長からですよね?」
 杉田が受話器を戻すと同時に水原が確認を入れると、彼は硬い表情で頷く。


「ああ。どうやら情報が錯綜したらしく、課長が怪我をして救急車で搬送されたと、社長に連絡があったらしい。それで確認の為、こちらに電話してきたんだ。それで先程の課長の発言についての説明に、今からこちらにいらっしゃるそうだ」
 その説明を聞いた途端、周囲がざわめく。


「社長が?」
「え? じゃあ本当なんですか?」
「さぁ……、それは分からんが。取り敢えず皆、仕事を再開しようか」
「そんな事、無理ですよ!」
「失礼します」
 そんなざわついている室内に、唐突に女性の声が割り込んだ。その声の主は書類片手に出入り口からまっすぐ課長席に進み、机上に持参した書類を乗せてから傍らにいた杉田に声をかける。


「総務課の者ですが、松原課長に確認していただきたい書類を持参しました。急ぎではありませんので、戻られたら目を通すように課長にお伝えください」
「はい、分かりました。ご苦労様でした」
「ところで、こちらに所属している関本沙織が、つい先程女に刃物で切りつけられ、救急車で搬送されたという話は事実でしょうか?」
「は?」
 事務連絡からいきなり話が飛んだ事で戸惑った杉田の代わりに、水原が由良の問いに答えた。


「ええと……、救急車で運ばれたのは確かだが、切りつけられたのではなく、女と揉み合った拍子に後頭部を初代社長胸像の台座にぶつけて、意識不明になったみたいだが」
「沙織ったら……。何、間抜けな事をやってるのよ!」
 そこで盛大に舌打ちして悪態を吐いた由良は、更に顔付きを険しくしながら水原に迫った。


「それで搬送の際に、松原課長が沙織の夫だと名乗って、救急車に同乗して行ったという話に関しての真偽は?」
「いや、それが……。俺達にも全くわけが分からなくて」
「分からないだぁ!? あんた達、二人の部下で同僚よね!? こっちはどうでも良い用件でっち上げて、公私混同して来てやってんのよ! 分からないで済むかっ!」
「ちょっと待て、落ち着け!」
「俺達も本当に、何がなんだかさっぱりなんだ!」
 いきなり激昂した由良が水原に組み付いて罵倒し始めた為、周りの者達が慌てて彼女を宥めて引き剥がそうとしたが、そこに義則がやって来て硬い表情で声をかけた。


「仕事中、失礼する」
「え?」
「あ、社長!?」
「この度は息子が騒ぎを起こして、申し訳ない。まずは本人に代わって詫びさせて貰う」
 真顔でそう告げてから深々と頭を下げた義則を見て、その場全員が動きを止めて口を閉ざした。そしてその場を代表して、杉田が慎重に問いを発する。


「いえ、社長が謝罪する必要は無いかと思いますが……。あの、それよりも課長と関本の関係が一体どういう事になっているのか、説明していただきたいのですが」
「息子と沙織さんは、去年の11月から私達と同居して事実婚をしている。その事を社内には、これまで公にしていなかったが」
 義則が冷静にその問いかけに答えた瞬間、室内に驚愕の叫びが満ちた。


「えぇぇっ! 11月!?」
「事実婚……、マジか……」
「七ヶ月以上経ってるよな?」
「全然、気付かなかったぞ」
 そんな社員達の中で、吉村が顔を青ざめさせながら、軽く片手を上げて義則に確認を入れた。


「あ、あの……、社長、すみません。そうすると、あの二人は俺が入社した時には、とっくに夫婦関係だったと……」
「ええと、君は確か吉村君だったね? 申し訳ないがその通りなんだ」
「最悪だ……。俺、夫の目の前で、妻にちょっかいを出していた事に……」
「…………」
 机に両手を付いて項垂れた吉村を、周りの者達が何とも言えない表情で見やる。その様子を見た義則はさすがに気の毒になり、彼に声をかけた。


「その……、吉村君。それに関しては、気にしないでくれ。友之も沙織さんも、『社内に秘密にしている以上、強く拒否できないのは仕方がない』と割り切っていたし、私と家内も『困った事だな』と先の愛人疑惑の話と合わせて、笑い話の一つにしていた位で……。あ、いや、本当に申し訳ない」
「…………」
 追い討ちをかけられた気分の吉村は前傾姿勢のまま椅子に座ったかと思ったら、無言のまま机に突っ伏した。そして自分の台詞が彼を更に落ち込ませてしまったと察した義則が気まずそうに謝罪し、周囲の者達は揃って吉村に憐れみの視線を向ける。そんな微妙な空気の中、由良は義則に冷静に尋ねた。


「それはともかく、どうして事実婚の形を取った上、それを対外的に秘密にしていたのか、できればその理由を聞かせていただきたいのですが」
「ええと、君は?」
「偶々居合わせた、通りすがりの総務課所属の新川由良です」
 戸惑った顔になった義則に由良が名乗ると、その名前に聞き覚えがあった彼は真顔で頷いた。


「ああ、沙織さんの友人だね。彼女から名前は聞いているよ。理由としては、沙織さんの所属問題だ。彼女は営業二課に骨を埋めるつもりだし、友之も戦力としての彼女を手放したくないという事でね」
 そう義則が口にした途端、由良を含んだ周囲から納得の溜め息が漏れる。


「ああ、なるほど……。そういう事でしたか」
「もの凄く納得した」
「如何にも関本が言いそうだよな」
「ですが社長。まさかこのまま、ずっと隠し通せるとは思われていませんでしたよね?」
 冷静に杉田が確認を入れると、義則は真剣な面持ちで応じた。


「ああ。実は今度の秋闘辺りで、同職場内での結婚後に配置転換を認めないと明文化するよう、労組から申し入れがされる予定になっている」
「労組から……」
「なるほど。そういう事ですか。良く分かりました。それでは早速、新見さん経由で本宮さんに連絡を取ります」
 予想外の話の流れに杉田は唖然としたが、由良は冷静にスマホを取り出した。その反応に、義則が当惑しながら問い返す。


「新川さん? どういう事かな?」
「今日の事件、もう凄い勢いで社内中に噂が広がっているんですよ? こんな全社員の注目を浴びる絶好の機会、あの抜け目の無い本宮さんが見逃す筈ありません」
「あの……、それが一体、何だと言うのかな?」
 由良は何やら納得して独り言のように呟きつつ、困惑する周囲を完全に無視しながら、どこかに電話をかけ始めた。


「あ、新見さん、お仕事中すみません。新川です。大至急本宮さんに連絡を取って貰えますか? 仕事中は他の人間ならシャットアウトでも、新見さんの連絡だったら受けてくれますよね? ……あの、のろけるのはまたの機会にお願いします。本当に緊急なので。事件の事は聞いてますよね? ええ、それで……」
 通話しながら由良は挨拶もせずにそのまま廊下に出て歩き去り、そんな彼女を周囲の男達は呆然としながら見送った。


「何なんだ、一体」
「さぁ?」
「今回はお騒がせした上、息子が仕事を放置して申し訳ない。皆さん、対応をよろしくお願いします」
 ここで義則が改めて頭を下げた為、営業二課の面々は恐縮し、一同を代表して杉田が言葉を返した。


「二人の事情は分かりました。後は営業二課の問題ですので、ご心配なく。社長はご自分の業務にお戻りください」
「ああ、失礼する」
 そして義則が立ち去ると同時に、静まり返っていた営業二課に普段の喧騒が戻ってくる。


「ほら、全員仕事を再開!」
「分かりました!」
「係長、今日は営業関係部署の、管理部会議があったのでは?」
「それは部長に説明して、俺が代理で出る。皆、至急課長に決済を貰う書類とかは無いな?」
「大丈夫です」
「あ、豊の野郎! 今頃連絡を寄越しやがって! ……おい、秘密にするのもいい加減にしろよ!? 課長と関本が夫婦って何なんだよ!? 勿論、お前は知ってたんだよな!?」
 一気に室内が騒がしくなったが、その中でも通話越しに相手を怒鳴り付けている水原の声が室内に響き渡り、それから営業二課はフル回転で業務をこなしていった。



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