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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(91)夫婦喧嘩の鉄板台詞

 営業二課にその人が姿を見せた時、友之以外の社員達は訝しく思ったものの、直後にちょっとした事件が勃発するなど全く想像できなかった。


「田宮専務?」
「どうしてここに来てるんだ?」
「珍しいな」
 多少は気にしながらも仕事を続行している社員達の机の間を進み、田宮は笑顔で友之の前に立つ。


「やあ、松原課長。仕事中に悪いね。今少々、時間を貰っても良いかな?」
「それは構いませんが、どんなご用でしょうか?」
(まさかこんな所で、あの見合い話の返事を聞きたいとかいうわけじゃあるまいな!?)
 彼の姿を認めた瞬間から嫌な予感を覚えた友之だったが、残念な事にその予感は的中してしまった。


「いや、大した事では無いんだが、この前渡した見合い写真のお嬢さん達の中で、気に入った女性がいないかと思って。気になる女性がいたならすぐにでも双方のスケジュールを擦り合わせて、セッティングしようと思ってね」
 にこやかに田宮がそんな事を口にした途端室内が静まり返り、友之に好奇心に満ちた視線が集まる。


(最悪だ……。せめて午前中に来たのなら、沙織が外に出ていたのに……)
(へぇ? 『見合い写真』に『お嬢さん達』ねぇ……。初耳だけど)
 友之が辛うじて動揺を面に出さないまま、さりげなく仕事中の沙織の様子を窺うと、彼女からは冷めきった視線が返ってきた。それに顔が引き攣りそうになるのを必死に抑えつつ、友之は控え目に事態の収拾を図る。


「田宮専務。お気持ちは大変ありがたいのですが、自分には勿体ないお話ばかりなので」
「そうか。目移りして、一人に絞れないのか。それならそれで、じっくり選んでくれて構わないから」
(そうは言ってないだろ! 何を曲解してやがるんだ、この耄碌親父がっ!)
(ふぅん? 『勿体ないお話』かぁ……。田宮専務も自信ありげだし、どんなお相手なのかしらね?)
 訳知り顔でおうように頷く田宮を、友之は怒鳴り付けたくなったが、ここで何故か話の矛先が沙織に向かった。


「ああ、そうそう。君は、関本さんだったね?」
「はい、関本沙織です。専務、何かご用でしょうか?」
 室内を見回してから、スタスタと自分に歩み寄りながら声をかけてきた田宮に沙織は困惑しながら立ち上がり、友之ははっきりと顔色を変えた。


(え? どうしてこの流れで、私にお鉢が回ってくるの?)
(おい、ちょっと待て! この上、沙織に何を言う気だ!?)
 沙織の困惑と友之の動揺など全く意に介さない田宮は、笑顔のまま彼女に語りかけた。


「君の父上の一之瀬社長とは、最近業務内容を離れて、親しく語らう機会を得てね。大変意気投合したんだ」
「そうでしたか。父が専務に、失礼な事を申していなければ良いのですが……」
(『業務内容を離れて、親しく語らう機会』って……。要はこの前私の噂を流してから親子関係が分かって、頭を下げに行った時の事よね。でも自分の背後にいたのが田宮専務だと、吉村さんが口を閉ざして社内には公になっていないし、そこら辺は流しておきましょうか)
 どことなく顔色の悪い吉村一瞬視線を向けて、何食わぬ顔で応じた沙織に、田宮が愛笑いを振り撒きながら話を続ける。


「とんでもない! 彼は懐の深い立志伝中の人物で、心の底から尊敬しているよ。それでお近づきの印に、『お嬢さんの縁談を自分に任せて貰えないか』とお願いしたのだが、『娘には我が社の有望社員との縁談を模索している最中なので。お気持ちだけありがたく頂戴します』と固辞されてしまってね」
「そんな事があったとは、全く存じませんでした……」
 本人抜きで何を話しているのやらと呆れながらも、沙織は傍目には冷静に応じる。


「いやぁ、一之瀬さんは君の事が本当に心配で、CSCに入社して欲しかったらしい。だがそうなっていたら、我が社は優秀な営業部員を一人獲得できなかったわけだし、仕方が無いな! それでせめて結婚相手は自分の部下と、と言うわけだ。いやぁ、いじらしい親心だ!」
(友之さんに加えて、私にも縁談を……。何をどうしたら、そんな荒唐無稽な話になるのよ! 和洋さんも体の良い断り文句では無くて、まさか本当にそんな事を考えていたわけでは無いでしょうね!?)
 公表していないにしても、結婚している夫婦それぞれに縁談を持ちかけるとはどういう了見だと、能天気な田宮の様子も相まって沙織は憤慨したが、彼女はそれを綺麗に押し隠し、満面の笑みで言葉を返した。


「田宮専務。お気遣い、誠にありがとうございます。専務自ら普段付き合いの無い平社員の縁談を纏めようとしてくださるなんて恐縮ですし、それ以上に感激しました。父がどんな縁談を持ち込むつもりなのかは聞かされておりませんが、今後どんな方とご縁があっても、これまで通り仕事に邁進するつもりです」
 沙織がいつもの営業スマイルを超越した笑顔と、しおらしさを炸裂させてみせた事で、普段の彼女を知り抜いている同僚達は、思わず仕事の手を止めた。


「おう、それは頼もしい。さすがはあの一之瀬社長のご令嬢だ。これからの松原工業を背負って立つのは、君達のような若者達だ。期待しているよ?」
「専務の期待を裏切らないように、精一杯頑張ります。本当に、田宮専務のような松原工業を支えている方に気に留めて頂いていると思うだけで、日々の業務の励みになりますわ」
「いや、それほどでも。うわははは!」
 不自然さを感じない満面の笑みの沙織に煽てられ、高笑いしている田宮を見て友之は無言で顔を覆い、周囲の者達は囁き合った。


「うわぁ、関本の奴、120%営業スマイルだぜ」
「久々だなぁ……、あれを目の当たりにするのは」
「なんですか、それって?」
 しみじみとしたやり取りを耳にした吉村が尋ねると、朝永が真顔で解説してくる。


「吉村、教えておいてやる。関本があの笑顔を炸裂させたら、不用意に声をかけるな、近付くな」
「はい?」
 困惑顔になった吉村に、周囲から次々に声がかかる。


「滅多に見られないが、あれは関本の怒りが振り切れている状態なんだ」
「あいつの頭の中では今現在、凄まじい罵詈雑言が展開されているぞ」
「それは分かりましたが……。関本はどうしてそんなに腹を立てているんですか? 会社の重役が自分の縁談を持ちかけたのが、そんなに怒る事ですか? 確かに面倒そうですが、縁談を出す前に一之瀬社長に断られていますから、特に実害はありませんよね?」
 機嫌良く世間話を続けている二人を見やりながら吉村が確認を入れると、問われた周囲は揃って困惑した。


「……言われてみれば、そうだな」
「自分の頭越しに、父親に話を持っていったのが気に入らないとか?」
「それは違うだろう。父親が、自社の社員との縁談を目論んでいる事か?」
「さぁ……、わけが分からん」
 男達が首を傾げていると、腹立たしい茶番に内心で飽き飽きしていた沙織が、さりげなく相手を追い出しにかかった。


「ところで専務。お時間は大丈夫でしょうか? お忙しい専務をお引き留めして、業務に支障を来すわけにはいきませんのに、長々とお話ししてしまって申し訳ありませんでした」
(いつまでもダラダラつまらねえ話をして、他人の仕事の邪魔してんじゃねぇぞ!)
(「とっとと帰れ」という副音声が、聞こえる気がする)
 相変わらず笑顔のまま沙織は軽く頭を下げ、遠巻きにその様子を窺っていた同僚達は密かに肝を冷やした。しかしその空気を全く感じ取れなかった田宮は、笑顔で彼女を宥める。


「いやいや、関本さん、気にしないでくれ。こちらこそ急に押し掛けて、業務を妨げてしまって申し訳ない。これで失礼するよ。それでは松原課長、また返事を聞きにくるから」
「……はい、失礼いたします」
 少し離れた席の友之に呼び掛けてから、田宮は機嫌良く部屋から出て行った。
その姿がドアの向こうに消えた瞬間、沙織の押し殺した声での悪態が、いつもより静かな室内に響く。


「はっ! 一社員が結婚するかどうかなんて、普段役員室でふんぞり返っているあんたに何の関係があるってんだ。今時立派なセクハラで、一発アウトだろうが。頭にカビ生やしてんじゃねぇぞ」
「………………」
 吐き捨てるようなその物言いで、室内が完全に静まり返った。そして自席に座ろうとして振り向いた沙織と、どこか怯えた様子で彼女を見上げていた佐々木の視線がかち合う。


「佐々木君、どうかしたの?」
「いえ! 何でもありません!」
「そう」
 一見いつも通りの沙織に声をかけられた佐々木は、僅かに狼狽しながら中断していた仕事を再開し、それが合図だったかのように、他の者達も何事も無かったかのように仕事に取りかかった。


(まあね。友之さんがモテるのは前々から知っているし、松原家や松原工業と縁付きたいと考える方面から降るように持ち込まれる縁談を、お義父さん辺りがシャットアウトしているのは分かっていたつもりだったけど。加えて私が営業二課で仕事を続けたいから、謂わば私の我が儘で事実婚をしているんだけど!)
 沙織は内心でイラつきながらも傍目には冷静に仕事を続け、一時間程してそれに一区切りつけたところで勢い良く立ち上がった。そして悠然と課長席に歩み寄り、軽く頭を下げてから友之に申し出る。


「課長、申し訳ありません。体調不良につき、早退させて貰いたいのですが」
 いきなりそんな事を言われた友之は驚き、反射的に問い返した。
「どこか具合が悪いのか?」
「生理痛です」
 無表情の沙織に見下ろされながら端的に告げられた友之は、咄嗟に次の言葉が浮かばず、僅かに顔を引き攣らせながら了承した。


「………………お大事に」
「失礼します」
 友之に一礼して自分の机に戻り、てきぱきと帰り支度をしている沙織を眺めながら、上司と同様に度肝を抜かれた同僚達は、再度顔を寄せて囁き合った。


「完璧に怒ってるな、関本の奴」
「ああ、今まで生理痛だなんて、口にした事は皆無だし」
「それを理由に帰るって……。いつもの関本ならあり得ないぞ」
「課長も唖然としてたしな」
「そりゃあ、あの状態の関本に、帰るなとは言えないだろう……」
 その直後、彼らはさっさと部屋を出ていく沙織から視線を移し、まだ幾分呆然としている友之に同情の眼差しを送った。




「ただいま戻りました」
 まだ充分明るい時間帯に帰宅した沙織を見て、真由美は本気で驚いた。
「沙織さん? 今日は早く帰るなんて、言っていなかったわよね? どうしたの? まさか具合でも悪いの?」
「具合は悪くありません。入社以来、初めて仮病で早退してしまいました。生理痛が、仮病の範疇に入るのかどうかは分かりませんが」
「え? 生理痛?」
「だけどそんな事を公言して、退社するなんて……。今になって、自分自身に愛想が尽きました」
 沈鬱な表情で語ってから深い溜め息を吐いた沙織を見て、真由美が即座に指示を出す。


「今、お茶を淹れてくるから、沙織さんはソファーに座って待っていて。少し気持ちを落ち着かせてから、話を聞かせて頂戴」
「分かりました」
 それに反論する気力など全く無かった沙織はおとなしく従い、真由美は手早く二人分のお茶を淹れてリビングに戻った。


「それで? 一体どういう事なの?」
 自分達の前に湯飲みを置きながら真由美が促してみると、向かい合って座った沙織は湯飲みのお茶を一口飲んでから、徐に話し出した。


「事の起こりは、今日の午後の早い時間に、田宮専務が営業二課に出向いて来た事です」
「田宮さんが? また何か嫌がらせでもしにきたの?」
「ある意味、嫌がらせと言えなくもないですが、あの様子だと本人は善意のつもりですね。彼の話では先月友之さんに、大量の見合い話を持ちかけたそうです」
「なんですって!?」
 田宮の名前が出た途端、不愉快そうに眉間に皺を寄せた真由美だったが、沙織の口から詳細が語られるにつれ、怒りの表情を露にしていった。


「それで、相手はどう見ても善意からの行為だと思われますし、結婚している事実を隠しているこちらに非があるわけですから、何を言われても気にせずに流しておけば良いものを……。どうしてもイライラムカムカする気持ちを抑えられず、半ば友之さんに八つ当たりをして早退を」
「沙織さん!」
「はい。何でしょうか?」
 急に自分の話を遮りながら身を乗り出してきた姑に、沙織が怪訝な顔で尋ね返すと、真由美は憤慨した様子で断言した。


「それは妻として、八つ当たりして当然よ! 寧ろあっさり流されたりしたら、沙織さんが友之の事を大して愛していないのかと思ってショックだわ! 早退位、何だって言うのよ! 有給休暇は労働者の権利の筈よ!」
「はぁ……、それはそうですね」
「こうしてはいられないわ! 家捜ししないと! 証拠を押さえるわよ!」
「え? 家捜しって、お義母さん? あの、ちょっと待ってください!」
 そこで真由美は憤然としながら勢い良く立ち上がり、次いでリビングから駆け出して行った為、沙織は慌てて彼女を追いかけた。


「母親の勘を舐めないで! 五分で見つけてあげようじゃない!」
「お義母さん、ちょっと待ってください! 幾らなんでもそれはプライバシーの侵害ですよ!?」
「大丈夫よ、沙織さん。私一人で探すから、沙織さんは部屋に入らないで待っていて頂戴」
「いえ、妻は駄目で母親なら構わないとか、そういう問題では無いと思いますが!?」
 階段を駆け上がりながらの真由美の叫びに、沙織は狼狽しながら思い止まらせようとしたが、真由美はそのままの勢いで友之の部屋に突入した。


(うわ、本当にどうしよう。さすがにあちこち引っ掻き回したらまずいわよね?)
 友之とは部屋を分けている上に、互いの私物を漁るような真似はしていなかった沙織は、あちこちの引き出しや扉を開けまくる真由美をどうすれば良いか分からずひたすら狼狽していた。その間に真由美が先程の宣言通り、ものの五分とかからずにクローゼットの中から目的の物を引っ張り出す。


「あったわ! さあ沙織さん、一緒に見ましょう!」
「早過ぎます……。友之さんにあまり隠す気が無かったのか、お義母さんの嗅覚が鋭過ぎるのか……」
 真由美は早速床に座り込んで風呂敷包みを解き始め、沙織は半ば呆れながらも同様に床に座り、相手の手元を見守った。


「あらあら……。この束なら、一人や二人では無いとは思ったけど」
「田宮専務、それなりに頑張ったみたいですね。努力する方向はどうかと思いますが」
 上から順番に見合い写真や釣書の内容に目を通した真由美が、終わった物を沙織に手渡す。沙織が惰性的に受け取ったそれを眺めていると、一通り見終えた真由美が、幾分心配そうに声をかけてきた。
「沙織さん、怒っている?」
 それを聞いた沙織は、思わず失笑しそうになった。


「お義母さん。見合い写真を見せておいて、今更そんな事は聞かないでください。勿論、あまり良い気はしませんよ? 殆どの人は私より若くて美人ですし、なかなか良い家の方が揃っているみたいですし」
「あら、沙織さんだって顔立ちは整っているし、年の頃合いだってちょうど良いし、人並み以上に仕事ができるしっかりした人でないと友之を任せられないと思っているから、あなた以上のお嫁さんなんかいないわよ?」
「今のはお義母さんの贔屓目だと思いますが、ありがとうございます」
 本当にこの人には敵わないなと沙織が思っていると、渋面になった真由美が右手を組みながら、重々しく言い出す。


「でも、これは由々しき問題ね。義則さんも友之も、その場で拒絶してこないなんて。挙げ句にこんな物を隠し持っているなんて、沙織さんに対する重大な裏切り行為だわ」
 それを聞いた沙織は、さすがに少々義則達を気の毒に思い、彼らの立場で代弁した。


「それは確かに、その場できちんと断りを入れられなかったのは少々問題かと思いますが、何と言っても相手が我が社の役員ですし、お義父さんと友之さんにも色々と事情があるかと」
「だけど田宮さんが乗り込んで来た時に『色々言われて不愉快だった』と、さっき言っていたでしょう?」
「はあ……。少々、気分を害したのは確かですが……」
 控え目に沙織が肯定すると、真由美はそれで力を得たように語気強く断言した。


「だからここは夫婦喧嘩の鉄板台詞、『実家に帰らせていただきます』の出番だと思うの!」
「え?」
「沙織さん、男を甘やかしたら駄目よ。友之を猛省させるには、これしかないわ。経験者の私が言うんだから絶対よ!」
 大真面目に言われた内容が咄嗟に理解できなかった沙織は、怪訝な顔で真由美に問い返した。


「『経験者』って……。お義母さんは元々松原家の人間ですから、帰る実家とかはありませんよね?」
「そうね。私の場合は、ちょっとアレンジを加えたの。正確に言うと『あなたの実家に行かせていただきます』だったわ」
「はい?」
 益々わけが分からなくなった沙織だったが、頭の中で松原家の家系図を思い返してから、慎重に確認を入れた。


「あの……、それはまさか、柏木さんのお宅にお義母さんが出向いた、と言う事ですか?」
「ええ、そうよ。それで憤慨した内容を玲子お義姉さんに洗いざらいぶちまけたら、『それは義則さんが悪いわね。気がすむまでうちに逗留していらっしゃい』と快く受け入れてくださって、一ヶ月近くお邪魔させて貰ったの」
「ええと……。一応確認させて貰いますが、柏木さんのお宅はお義父さんのご実家で、ご当主はお義父さんの実のお兄さんですよね?」
「ええ、雄一郎お義兄さんよ」
「それで玲子さんは雄一郎さんの奥さんですから、お義母さんと血の繋がりは全くありませんよね?」
「その通りよ」
「それで、良く一ヶ月も滞在できましたね」
 半ば呆れ、半ば感心しながら沙織が本音を口にすると、真由美が全く悪びれずに笑顔を振り撒く。


「あの家は嫁の立場の玲子お義姉さんが、実権を握っているみたいなの。本当に、どうしてかしらね?」
「どちらもフリーダム過ぎて、凡人の私にはとても理解できない……」
 沙織は頭を抱えて項垂れたが、真由美の一般常識を超越した話は続いた。


「両親が、『他人様に迷惑をかけるな!』と血相を変えて私を連れ戻しに来たのだけど、『義則さんが私に土下座して謝るまで、絶対に帰らないから!』と宣言したら、お義姉さんがしっかり丁重に追い返してくれて。その後、義則さんが本当に土下座して謝ってきたから、矛を収める事にしたの。沙織さんもこれ位しなくちゃ駄目よ? 何事も、最初が肝心なんだから」
 自分の為を思って忠告してくれているのは理解できたが、さすがにその提案に乗る事はできないと、沙織は丁重に断りを入れようとした。


「いえ、でも……。私の場合、実家のある名古屋に帰ったりしたら、さすがに仕事に差し支えますから……」
 しかし真由美は、それを笑って否定する。


「あら、さすがに私も『名古屋から通勤しなさい』なんて無茶な事を言うつもりは無いわよ? 沙織さんには、ちゃんと都内に実家があるじゃない」
「以前住んでいたマンションの事ですか?」
「違うわ。あそこだと、友之が誰にも遠慮せずに押しかけてしまうじゃない。そうと決まれば不肖の息子の不始末だから、私がきちんとフォローしないとね。早速事情説明と、沙織さんの受け入れをお願いしましょう」
 そう言うや否や、風呂敷包みをそのままにして真由美はすっくと立ち上がり、再びリビングに向かった。それを見た沙織は余計に混乱しながら、慌てて彼女の後を追う。


「あのマンションじゃなくて『都内に実家』って……。まさか、豊の家の事を言っているんですか!? さすがに結婚して一年経たないところに、転がり込むような真似はできません!」
「大丈夫よ。お兄さんの所では無いから安心して」
「はい? それならどこの事を言っているんですか?」
「ちょっと待ってね」
 含み笑いで沙織を黙らせてから、真由美は固定電話の横に置いてある住所録から目的の番号を探し出し、早速受話器を上げて電話をかけ始めた。どこへかけているのかと沙織が不安に駆られる中、真由美が相手に向かって悠然と話し出す。


「ご無沙汰しております、一之瀬さん。松原真由美でございます。申し話ありませんが沙織さんの事で、緊急で大事なお話がありまして……。今少々お時間を頂いても、宜しいでしょうか?」
「まさか『実家』って、和洋さんの所ですか!? お義母さん!!」
 思わず口をついて出た沙織の叫びを真由美は笑顔で黙らせ、そのまま和洋と穏やかな口調で会話を続けた。


(本当にちょっと待って! 和洋さんに知られたりしたら、余計に面倒になるのが確実じゃない! 確かに和洋さんなら、狂喜乱舞して受け入れてくれるのは確実だけど!)
 しかし既に電話してしまった以上、ここで中断しても和洋から追及されるのは必至であり、沙織は本気で頭を抱える羽目になった。



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