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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(90)勘違いと思い煩い

「それでは行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
 土曜日の朝。朝食を済ませて少ししてから、身支度を整えた沙織を玄関で見送った真由美は、怪訝な顔の義則から声をかけられた。


「真由美、友之の姿が見えないが、知らないか?」
「沙織さんが出る少し前に、出て行ったわよ?」
「そうなのか?」
「家の近くで待ち伏せして、沙織さんを尾行するつもりかしらね?」
 くすくす笑いながらそんな事を言われてしまった義則は、呆れ顔になって言葉を返した。


「そんな風に、楽しそうに言う事では無いだろう……。何が楽しくて、妻の尾行をする必要があるんだ」
「本当にね。友之ったら、浮気でもしているんじゃないでしょうね?」
「……どうしてそうなる?」
 さり気なく言われた言葉に反応し、顔を強張らせながら問いかけた夫に、真由美は事も無げに尋ね返した。


「だって自分にやましい所があるから、相手の一挙一動が気になって、埒もない疑いを持ってしまうのじゃないの?」
「いや……、幾らなんでも、それは考えすぎだと思うぞ?」
「そうかしら?」
 一瞬不思議そうな顔になったものの、大して気にしていなかったらしい真由美は、そこで会話を切り上げて何事も無かったかのようにその場を離れた。


(一瞬、肝が冷えたぞ……。例の見合い話が、バレているのかと思った。真由美は妙に鋭い時があるからな)
 義則は妻の背中を見送りながら密かに胸を撫で下ろしたが、当の友之は真由美の予想通り家から出てきた沙織を待ち構え、少し離れて後をつけていた。 


(診察日と受付時間はホームページで確認しておいたし、妊婦健診以外は診察予約も事前にしなくて大丈夫だと書いてあったし、そろそろ見えてくる筈……。あ、あれだわ)
 一方、家を出た沙織は、スマホで表示されている地図と周囲の様子を見比べながら、普段通勤で歩いている方とは反対側の歩道を慎重に進んで行ったが、最寄り駅まであと二・三分という所で、曲がり角に建っている三階建てのビルの前で足を止めた。


(普段目の前を通っているのに、関心が無かったから素通りしていて、これまで全然記憶に無かったのよね……。思っていた以上に近い所にあって助かったわ。保険証は持っているし、よし、入りましょうか)
 ビルに大きく表示されている看板の内容を再確認した沙織は、気合を入れて中に入って行ったが、その一部始終を少し離れていた所から観察していた友之は、沙織が建物の中に入ると同時にその玄関前に狼狽気味に駆け寄り、看板の《清野レディースクリニック》の表示を見上げた。そのまま少しの間茫然としていた彼は、そこに出入りする女性達から不審そうな目を向けられて我に返り、慌てて一旦その場から離れた。
 その後、二時間以上経過してから沙織がクリニックから出てきたが、その表情は誰がどう見ても、いつもの彼女とは比較にならない位に沈鬱なものだった。


(何やってるんだろ、私……。間抜け過ぎるにも程があるわよ。やっぱり、誰にも言わずに来て正解だったわ。それにしても……)
 軽い自己嫌悪に浸りつつ歩道を歩き出した沙織だったが、いきなり右腕を掴まれて本気で肝を潰した。


「沙織!」
「え、誰っ!? って、友之さん!? びっくりした。いきなりどうしたの?」
 鋭く呼び掛けられて驚いたものの、すぐに相手が分かった沙織は安堵したが、友之は逆に怖いくらい真剣な顔で問い質してくる。


「どうしたもこうしたも、一体何の病気だ!?」
「はい? 病気?」
 咄嗟に意味が分からなかった沙織が困惑しながら問い返すと、友之は声を荒げながら言い募った。


「手術に家族の同意が必要なら、俺が今すぐ説明を聞いてサインしてやる! 入院が必要なら、すぐに有給休暇申請をするから! それに診断内容に不安があるなら、他の医者にかかって再度意見を聞いてみるか? それならすぐに清人さんに、信頼できる医者を紹介して貰うから」
「ちょっと待って、医者を紹介って」
「大丈夫だ。清人さんは性格に激しく問題はあるが、人を見る目と人脈は確かだ。そこだけは安心してくれ」
「柏木さんに紹介を依頼するのは激しく不安だし、それ以前に、これ以上医者にかかる必要は無いから!」
「は? どうしてだ?」
 自分を置き去りにして話がどんどん大きくなる為、沙織はたまらず悲鳴じみた声を上げて友之を制止した。そして戸惑う彼に対して、慎重に尋ねてみる。


「そもそも、どうして私がこのクリニックから出てきただけで、病気云々の話になるの?」
 そんな事を大真面目に問われた友之は、どうやら自分が想像した内容とは異なるらしい事を察しつつ、困惑気味に事情を告げた。


「いや、その……。沙織が行き先を告げずに産婦人科のクリニックにこそこそ入っていったと思ったら、後から入った女性達がかなり出て来てもまだ出て来ないし。診断や検査が、よほど難しかったのかと思って……」
「確かに遅くなったけど、それは会計が終わってからも待合室の椅子が空いていたから、そこで少し考え事をしていただけよ。それにしても……、良く私の後に入って来た女性の顔を、何人も覚えていたわね」
「別に、女性の顔を覚えるのが得意とかいうわけじゃ無いからな!」
「……そんな邪推はしていません」
 慌てて弁解した友之に沙織が溜め息で応じてから、友之は逸れかけた話を元に戻した。


「そもそも妊娠検査薬で妊娠の可能性が出て調べて貰ったのなら、診断にそれほど時間はかからないと思ったんだ。それなのにかなり時間がかかった上、いつになく暗い顔で出てくるから、診察時に何か難しい病気でも見付かったのかと思ったんだが……。本当に違うのか?」
 困惑しきった顔でのそんな説明を聞いた沙織は、漸く以前に聞いていた話を思い出した。


(そう言えば、お義母さんは友之さんの妹に当たる子供を妊娠中に病気が見つかって、妹さんを諦める事になったんだわ。今の今まで、すっかり忘れていたけど)
 相手に余計な心配をかけてしまったのだと理解できた沙織は、そこで素直に頭を下げた。


「ええと……、二重の意味でごめんなさい。確かに生理が予定より遅れていたから、ここを受診したの。世の中に妊娠検査薬という物が存在しているのを、すっかり失念していて」
「うん、それは構わないが、できれば受診前に、俺には一言言って欲しかったな」
「それで診断結果を先に言うと、妊娠はしていません。特に病気とかも見付からなかったから、ストレスとかでホルモンバランスが崩れて、遅れているんじゃないかと。来月まで様子を見て生理がこなかったら、改めて薬物治療を検討する事になったから」
「あ、ああ……。そうか。それはひとまず良かった。確かに結婚してから春先にかけて、色々あったからな……」
「そうね。自分ではあまり意識して無かったけど、結構ストレスが溜まっていたのかもね……」
 極秘結婚してからのあれこれを思い返した二人は、揃って遠い目をしてしまったが、いつまでもそんな事をしていられないと、沙織は気を取り直して話を続けた。


「それで産婦人科を受診する事を事前に友之さんに言わなかったのと、間違ってもおめでたくは見えない様子でここから出てきた理由だけど、ちょっと一言では言いにくくて」
「それは分かった。取り敢えず、ここから移動しよう。場所が場所だけに、さっきから人目を引いているのが気になって仕方が無い」
「え? あ……、そうね。どうしよう。駅前のカフェにでも行く?」
 第三者からすると、自分達が産婦人科の出入り口付近で揉めているようにしか見えず、どんな修羅場か醜聞かと道行く人達から興味津々な視線を向けられている事に漸く思い至った沙織は、戸惑いながら提案した。しかし友之は既に決めていたらしく、沙織の左手を握って問答無用で歩き出す。


「人目を気にせずに突っ込んだ話がしたいから、家まで戻るぞ。良いな?」
「分かったわ」
 そのまま無言で自宅への道を歩き続ける友之に、沙織は少々戸惑いながら声をかけてみた。


「あの……、友之さん。手を」
「手がどうかしたか?」
「……何でもないから」
「そうか」
 別に手を繋がなくても良いのではないかと言いかけた沙織だったが、前を向いたまま半歩先を歩く友之が淡々と問い返した事で、余計な事は言わずに口を噤んだ。


(怒っている感じでは無いけど、こっちが思っている以上に心配かけてしまったみたい。本当に悪かったわ)
 自分の方に非があると感じた彼女は、神妙に手を引かれながら自宅へと戻った。




「頭を冷やしがてら茶を淹れてくるから、先に座っていてくれ」
「分かったわ」
(微妙に気まずい……。『頭を冷やす』だなんて、向こうもまだ多少動揺しているみたいだし)
 リビングのソファーに落ち着いた沙織が、再度反省しながら溜め息を吐いていると、少ししてお盆を手にした友之がやって来た。


「母さんや沙織が淹れた時よりは、劣ると思うが」
「そんな事は無いから。いただきます」
「どうぞ」
「物音が全然しないけど、お義父さん達は出かけたのかしら?」
「そうみたいだな。ちょうど良かった」
 目の前に置かれた湯飲みに手を伸ばし、早速沙織はお茶を飲み始めた。そして互いに無言のまま、半分ほど飲んで気持ちを落ち着けてから、沙織が話を切り出す。


「さっきの話だけど……」
「ああ」
「最初、妊娠したのかもしれないと思った時、多少は動揺したけど、全く予想外だとは思わなかったのよ? 避妊したつもりでいても妊娠する可能性があるのは理解しているし、もし妊娠していたら産むつもりだったし」
 頭の中で順序立てて話し始めた沙織だったが、友之はそこで少々驚いたような表情になった。


「……そうなのか?」
「どうしてそんなに、意外そうな顔になるわけ?」
 納得しかねた沙織が思わず問い返すと、友之は微妙に言いにくそうに理由を説明する。


「その……、クリニックから出てきた時、どう見ても嬉しそうでは無かったし。ひょっとしたら俺の子供は、産みたくないのかと思ったものだから」
 そんな見当違いにも程がある推測を聞いた沙織は、半ば呆れながら至極当然の口調で答えた。
「他の男の人ならともかく、友之さんの子供は産みたいけど?」
「そうか……」
 しかしそれを聞いた友之が軽く頷いただけで口を閉ざした上、自分から微妙に視線を逸らしながらお茶を飲んでいるのを見て、沙織は僅かに首を傾げながら声をかけてみた。


「友之さん?」
「……何だ?」
「何となく顔とか耳とかが赤い気がするけど、ひょっとして照れてるの? どうして?」
 不審そうに尋ねてきた沙織を、ちょっと恨みがましい顔になりながら見返した友之は、溜め息を吐いてから彼女に言葉を返した。


「いきなり面と向かって、予想もしていない事を言われたら驚くし、普段言われないような事をいきなり言われたら、恥ずかしいに決まっている」
「そう? そんなに恥ずかしい事を言ったつもりではなかったんだけど……」
「それならどうして、あんな暗い顔をしてあそこから出て来たんだ?」
 ここで何とか気を取り直した友之が話を戻すと、沙織が冷静に話を続けた。


「あのね、私これまで『自分が母親になる』想定を、全くしてこなかったの」
「そうだろうな……」
「あ、別に子供や赤ん坊が嫌いと言うわけではないのよ? 未知の存在である事は確かだけど」
「うん、それは分かっているつもりだ」
 慌てて弁解気味に付け足してきた沙織に、友之が真顔で頷く。それを見た沙織は、安堵しながら話を続行した。


「それで、改めて子供を産む事について考えてみたけど、私がちゃんと母親らしい事をできるかどうかは勿論だけど、妊娠の事実を公表した時、職場の空気がどうなるのかなと思ったのよ」
「え? 職場?」
「営業二課は今時珍しい男所帯で、これまで産休取得者は皆無よね?」
 予想外の言葉が出てきた事で友之は本気で困惑したものの、考え込みながら慎重に答える。


「ええと……、確かに過去に女性社員が在籍していた記録はあるが、産休を取る前に退職したり他部署に移籍している筈だな。元々、女性比率が極端に低い職場だし」
「そうよね。他の営業系の部署では例があっただろうけど、偶々二課では前例が無かったから。私が産休育休を取得予定だと言ったら、周囲がどんな反応を示すのかと少し心配になって」
 沙織がそこまで口にすると、友之は僅かに顔色を変えながら彼女に言い聞かせた。


「沙織、ちょっと待て。二課うちの連中は沙織が産休や育休を取得すると言っても、あからさまに嫌な顔をしたり、迷惑がったりはしないと思うぞ?」
「うん、それはそうだろうとは思うけど……。それとは別に、今自分が担当している商談先を誰に任せる事になるのかとか、せっかく新規開拓した顧客を他人に任せるのは正直嫌だとか、そもそも産休明けにこれまで通りに仕事ができるのかとか、下手すれば現状復帰が難しいんじゃないかとか」
「だから沙織、ちょっと待て! 幾らなんでも、それは先走り過ぎだ!」
 半ば呆れながら話を遮ってきた友之に、沙織は困り顔で溜め息を一つ吐いてから話を続けた。


「……そうなのよ。自分自身でも、結局妊娠していなかったのに、今の段階で何をゴチャゴチャと考えているんだろうと思ったわ。だけど診察後に考え始めたら堂々巡りが止まらなくなって、『ご気分が悪いですか?』と看護師さんに心配そうに声をかけられるまで、待合室の椅子に座ってたのよ」
 そこまで話してから沙織が再び溜め息を吐くと、何とも言えない顔を見合わせた友之の、それが続いた。


「うん……、沙織が険しい表情でクリニックを出てきた事情は、今の話で良く分かった。俺の認識も甘かったのが、良く分かった」
「友之さんの認識?」
 今度は沙織が意表を衝かれた顔になる中、友之は苦笑いしながら語り出した。


「事実婚にして職場に公表しなかったのは、今にして思えば良い選択だったなと思った」
「どうして?」
「暫くは公表しない事にしていたから、その間は子供は作らない事は暗黙の了解だったし。迂闊な事に、これまでそこら辺をきちんと話し合っていなかったなと、改めて思ったんだ。妊娠出産となると、圧倒的に負担になるのは沙織の方だから、せめて仕事に関してのフォローは俺の方がきちんと考えておくべきだろう」
「でもそれは、実際に妊娠が分かってからでも遅くは無いわよね?」
 そんに気合いの入った表情で言う必要は無いのにと思いながら沙織が首を傾げると、友之が大真面目に応じる。


「実務上は確かにそうだろうが、心のどこかで『案ずるより産むが易しと言うし、どうにでもなるだろう』と楽観視していたと思う。妊娠していない段階で沙織がそこまで悩むとは、正直想定して無かった。結婚の事実を明らかにしていたら、あまり考えずにさっさと子供を作っていたかもしれない」
「そうね……。友之さんは一人っ子だし、基本的に子供が好きよね」
「確かに偶に顔を合わせると、従弟妹いとこ達を構い倒していたな」
 これまで二人で出掛けた先で子供連れの夫婦に遭遇した場合、友之が小さな子供と目が合うと無意識に笑いかけ、例え子供が泣き叫んでいようが決して迷惑そうな顔をせず、寧ろ心配そうに見守っていたのを見ていた沙織は、納得しながら頷いた。そこで苦笑を深めた友之が、一気に緊張が解れたようにソファーの背もたれに背中を預けながら告げる。


「決めた。結婚の事実を明らかにするのはもう少し先にしても、産休時の業務引継ぎや復帰プログラムについて、社内規定をきちんと確認しておく。他の部署での運用規定も調べて、きちんと頭に入れておくからな」
「そんな、今からむきになって調べなくても……」
 困ったように反論しかけた沙織に、友之が笑いながら問い返す。


「俺が察するに、沙織だって今から調べるつもりなんだろう? さっき『母親になる想定を、全くしてこなかった』と言及していたという事は、それについて反省をしているわけで、仕事の事に加えてそれらについての心構えをしておこうとか、きちんと産後や育児状況を把握しておこうとか思っているよな?」
「……何か、考えている事が全て見透かされているみたいで、ちょっと不愉快なんだけど」
「怒るな。だからお互い様だと言いたいだけだ」
「確かにお互い妊活の前に、やる事や考えなくちゃいけない事は色々あるでしょうね」
「そうだな」
 難しい顔で溜め息を吐いた沙織だったが、友之は妙に清々しい顔で立ち上がった。


「よし、色々すっきりして気分が良いから、今日の昼飯は俺が作る。沙織はのんびりしていろ。さて、何か食材はあったかな……」
 そう呟きながらリビングから出て行った友之を、沙織は呆気に取られて見送ってから我に返り、慌てて彼の後を追った。


「ちょっと待って。どうしていきなり? お義母さんがいない時は、私が作る事にしているし」
「それは母さんと沙織の間での取り決めであって、俺との取り決めじゃないよな? 安心しろ、これまでも母さんがいない時は、俺や父さんが自分達で作って食べていたから」
「料理を作れることは分かったけど、どうしていきなりお昼ご飯に話が飛ぶわけ?」
「これから家事育児も俺が分担する事になるだろうし、勘を鈍らせないように時々やっておかないといけないだろうが」
「だから絶対、話が飛び過ぎだと思う!」
 沙織は多少食い下がったが友之はそれをあっさりいなし、結局二人で昼食を作って食べ終えてから、外出していた義則と真由美を、揃って笑顔で出迎えた。



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