酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(84)騒動の終結

 友之が慌てて一階エントランスに向かう十分程前。佐々木と外回りに出ていた沙織は、社屋ビル付近まで戻って来たところで、和洋からのメールを受け取った。


(はいはい、左様でございますか。万事予定通り、田宮常務にガンつけて、吉村さんを恫喝してきましたか……。この、文面を見るだけで上機嫌と分かるメールって、相当危ないと思うわ)
 内心でうんざりしながら、スマホを元通りしまった沙織に、並んで歩いている佐々木が嬉しそうに話しかける。


「午後に二社を回る予定でしたから、もう少し時間がかかるかと心配していましたが、何とか定時過ぎの時間に戻って来れて良かったですね!」
「そうね……。直帰できれば良かったけど、三鈴金属からの申し入れ文書は、大至急開発部に回さないといけないし……。本当に、もう少し押すかと思ったのに、最後はほぼ予定通りに終わるなんて……」
 最後は愚痴っぽくなってしまった呟きに、佐々木が不思議そうに問い返す。


「先輩? 予定通りに終わったのに、嬉しく無いんですか?」
「嬉しいわよ? 嬉しいんだけど……。間が悪いと言うか、寧ろタイミングばっちりなのが、どうしてくれようかと言うか」
「先輩? 良く意味が分かりませんが」
「独り言みたいなものだから気にしないで」
「そうですか?」
 かなり強引に沙織が話を終わらせると、佐々木もそれ以上食い下がったりせず、揃って社屋ビルに入って行った。
 既に定時を過ぎており、退社する社員の流れに逆らうように二人がエントランスに入ると、幾らも歩かないうちに待ち構えていたように和洋が駆け寄ってくる。


「沙織!」
「え?」
「……来た」
 佐々木がキョトンした顔になり、沙織がボソッと呟く間に彼は距離を詰め、勢い良く彼女に抱き付きながら歓喜の声を上げた。


「沙織ちゃあぁ~ん! 会いたかったよぉうぅ~!」
「和洋さん、どうしてここにいるのよ?」
「今日は松原工業との契約更新に来たんだよ!」
「……そう。社長自ら足を運ぶなんて、和洋さんも大変ね」
「一之瀬社長!? 何でこんな所に、いきなり出てくるんですか!?」
 そこで二人が芝居を始めると同時に驚きで固まった佐々木が、遅れて驚愕の叫びを上げる。


(うん、佐々木君、ナイス突っ込み。しかもサッカーで鍛えた肺活量のせいか、声がエントランスの隅々まで良く通ること)
 確実に社員達の流れが止まり、自分達の回りに十重二十重に人垣ができつつあるのを沙織は察した。それは和洋も同様で、わざと周囲に聞こえるように普段より大きめの声で話し出す。


「何だね、君は。失礼だな。それに誰の許可を得て、俺の沙織と一緒にいるんだ?」
「佐々木君は、組んで仕事をしている後輩よ。絡まないで頂戴」
「『俺の沙織』って……。え? やっぱり先輩は、この人の愛人なんですか?」
 混乱した佐々木がそんな事を思わず口走った途端、和洋は鬼の形相になって彼を叱りつけた。


「何だと、失敬な!! 沙織と私はれっきとした親子だ!! 娘の事を俺の娘と言って何が悪い!!」
「はあぁあ!? 関本先輩が一之瀬社長の娘!? 名前が違うのに、どういう事ですか!!」
 予想もしていなかった事を言われた佐々木は動揺して声を張り上げ、両者のやり取りを耳した周囲も、困惑した顔を見合わせる。


「何だ、どうした?」
「ほら、一昨日から噂になってる、あれだよ」
「だけど親子とか言ってるぜ?」
「えぇ? どういう事?」
(ギャラリーは十分か……。全く誰かさんのせいで、こんなくだらない小芝居をする羽目になるなんて……)
 沙織はさりげなく周囲を見回し、内心の憂鬱さを押し隠しながら佐々木に解説した。


「佐々木君、和洋さんと私の名字が違うのは当然よ。両親が離婚してからは、母方の名字を名乗っているから」
「ですが、先輩の父親は亡くなっていると聞きましたが!? それに『和洋さん』とか、この人を名前で呼んでいるじゃありませんか!?」
「子供の頃、母から『もうあいつは沙織の父親でもパパでもないから、名前で呼びなさい』と厳命されて、名前呼びの癖がついたのよ。別に他人に迷惑をかけるわけじゃないし、構わないわよね?」
「構わないかもしれませんけど、紛らわしいですよ! それならそうと、どうしてさっさとその事実を公表しないんですか!? そのせいで先輩は実の父親の愛人だなんて、不名誉極まりない噂を立てられているんですよ!?」
「そんな馬鹿な噂を真に受けるのは、馬鹿な人間だけよ。相手にするだけ馬鹿馬鹿しいわ」
「先輩! 確固たる信念を持っているのは美点だと思いますが、時と場合によると思います!」
 相変わらず淡々とした口調の沙織と、徐々に声を荒げる佐々木のやり取りを聞いて、周囲の社員達は驚きつつも納得し、退社する人の流れが緩やかに生じ始める。


「何だ……、実の親子だって?」
「つまらんオチだったな」
「誰だよ、そんなガセネタ流したの」
 しかしここで和洋の声高な叫びがエントランス中に響き渡り、社員達は再びその足を止めた。


「君の言う通りだ! 沙織の名誉を傷つけられて、黙っていて良いものだろうか? いや、良いはずがない!! だから俺はここの社内でつまらん噂を流した奴等を突き止め、さっき宣戦布告してきた!! 沙織! お前の名誉はお父さんが守ってあげるから、安心しろ!!」
「はい?」
「ちょっと待って。宣戦布告してきたって、一体何をしてきたの?」
 わけがわからずに佐々木は首を傾げたが、沙織は予定通り慌てた様子を装いながら詳細について尋ねた。それに和洋が、得意満面で答える。


「犯人どもに証拠を掴んでいる事を告げた上で、訴訟を起こす事を宣言してきた。名誉毀損で訴えて、慰謝料をふんだくった上で松原工業から放逐して、ありとあらゆる手段を使って再就職を妨害して、路頭に迷わせてやるからな!! お父さんに任せておけ!」
 言い放った後は「うわはははは」と高笑いしている和洋を見て、佐々木は「訴える……、放逐って……」と、さすがに動揺したが、沙織はシナリオ通り相手を叱りつけた。


「訴訟ですって!? 何勝手に、頼んでもいない事をしてるの! 冗談じゃないわ!」
「え?」
「先輩?」
 彼女の叫びに男二人は困惑したが、和洋はすぐに沙織に向かって訴えた。


「だって沙織ちゃん! 社内で陰口を叩かれたり、有ること無いこと吹聴されたりして、肩身の狭い思いをしているんだろう!? そんなのお父さんは我慢できないんだ!」
「ふざけないで! 自分の父親が勤務先の社員相手に訴訟なんか起こしたら、今後の私の経歴にどれだけ傷を付けると思ってるのよ!? それと比べたら今回の噂なんて、どうでもいい代物だわ! 放っておけばすぐに消えるわよ!」
「そんな! 沙織ちゃん!」
「良く考えてみなさい! あんな根も葉もない与太話を頭から信じるなんて、相当頭の軽い人間よ! それとも何? 和洋さんは松原工業の社員が、そんな馬鹿揃いだとでも言うつもり? 松原工業に対する侮辱だわ!」
「…………」
 本気で怒り狂っているようにしか見えない沙織の叫びに、噂が広がってから面白おかしく取りざたしていた社員達は、後ろめたさを感じて微妙に沙織達から視線を逸らす。自分達の周りを囲んでいる殆どの者がそんな反応を見せた事で、佐々木は無言で渋面になったが、沙織の訴えはまだまだ続いた。


「大体ね! あのマンションだって、好き好んで住んでいるわけじゃないのよ? 『遊ばせておくのは勿体ないから住んでくれ』って頭を下げて頼まれたから、住んであげているんじゃない。一人で3LDKに住むなんて、広くて持て余すわよ。掃除するのも手間がかかるのよ? その挙げ句、贅沢な所に住んでいるから愛人とか? 今回の騒ぎで、アホらしくて完全に住む気が失せたわ。さっさと出るから、賃貸にでも出しなさいよ!」
「だっ、だけど沙織ちゃん! あそこは家族全員で住んでいた頃の、愛の思い出が詰まっているんだよ! 他の誰一人として、あそこに入れたく無いんだ! だから沙織ちゃんにあげるから、沙織ちゃんが将来愛のある家庭をそこで築いてくれたら、俺はそれだけで満足」
「はぁ!? 愛のある家庭!? どの口がそれを言うわけ!? お母さんが妊娠中、里帰り出産で留守にしていた時、あそこに浮気相手を引っ張り込んだ挙げ句、お母さんと私に現場を目撃されたくせに。あんな縁起の悪いところ、寧ろ結婚が決まったと同時に出るに決まってるでしょうが!!」
「そんな……。沙織ちゃん……」
 吐き捨てるように言われた和洋はショックを受けたように沙織の前で床に崩れ落ち、両手をついて項垂れた。それを見た周囲のそこかしこから、囁き声が伝わってくる。


「うわぁ、何だか凄い話だな」
「一人で3LDK暮らし? 羨ましいぃ~」
「あの父親、随分甘やかしてるよな」
「しかし見た目まともなのに、とんでもないゲス親父だぞ」
「だけど娘の方も、相当キツいぞ?」
「気持ちは分かるけどな……」
 それを耳にして微妙に苛つきながら和洋の前で仁王立ちになった沙織は、彼を見下ろしながら横柄に言い放った。


「小さな子どもがお弁当を忘れたわけじゃあるまいし、自活している娘の職場に乗り込んで喚き立てる行為が、どれだけ娘の立場を悪くするか分からないわけ? 分かったら裁判沙汰なんてふざけた考えはすっぱり捨てて、とっとと帰って。仕事の邪魔よ」
 しかしここで、本当に精神的ダメージを受けてしまったらしい和洋が、涙ぐみながら両手で沙織の右足首と脛を掴み、悲痛な叫びを上げた。


「だけど沙織ちゃん! 俺は本当に、沙織ちゃんの事が心配で心配で!」
「くどいしウザい! いい加減にして!!」
「……っ!」
「あ……」
 どこまでこの茶番を続けなければいけないのかと、本気で苛立ってきた沙織が、掴んでいる和洋の手を剥がそうと右足を軽く振ろうとしたが、予想以上に動きが大きくなってしまい、彼の右肩に足先が当たってしまった。それに加えて和洋が中腰での前傾姿勢になっていた事で、呆気なく仰向けになりながら左側に転がる。


「おいっ!」
「きゃあっ!」
 途端に周囲から短い悲鳴が上がり、一斉に非難を込めた視線が沙織に突き刺さる。そして呆然自失状態の和洋がのろのろと上半身を起こし、再び床に座り込むのと同時に、佐々木がしゃがみこんで彼に声をかけた。


「先輩! 何をやってるんですか!? お父さん、大丈夫ですか?」
「さ、さおり、ちゃ……、ふぅえぇっ……、おっ、おれはぁ、あっ……」
(振り払っただけのつもりが、まともに転がっちゃった……。だって和洋さんが、足にすがり付いたりするから!)
 狼狽する佐々木の前で和洋はうずくまり、哀れっぽくしくしくと本気で泣き出してしまった。さすがにやり過ぎたと思ったものの、今さら芝居を止められない沙織が内心で狼狽していると、周囲からぼそぼそと自分を咎める囁き声が伝わってきた事で、彼女の機嫌が急速に悪化する。


「何かあのおっさん、泣き出したぞ?」
「どうするんだよ、あれ……」
「うわぁ、幾らなんでも、お父さんが気の毒すぎる」
「そうよね。何も足蹴にしなくても……」
「気に入らないのは分かるけど、物事には限度って物があるだろ」
「ひっどい女だよな」
 刻一刻とその場の空気が悪くなる中、そこで佐々木の反対側に膝を付きながら、一人の初老の男性が和洋に向かってハンカチを差し出しつつ、彼に優しく声をかけた。


「失礼します、一之瀬社長。宜しかったらこれをお使いください」
「え?」
 反射的に涙に濡れた顔を上げた和洋に、彼は重ねて穏やかに言い聞かせる。
「余計なお世話かもしれませんが、仮にも上場企業のトップであられる方が、他企業の社屋内で醜態を曝すのは控えた方が宜しいかと。まずは少しだけ、心を落ち着かせましょう」
 それで瞬時に自制心を取り戻した和洋は、軽く頭を下げてハンカチを受け取った。


「……確かに。申し訳ない。使わせていただきます」
 そして顔にハンカチを当てながらゆっくりと立ち上がった和洋を、その人物が支えるようにしながらエントランスの隅に誘導していく。


「向こうに座る場所がありますので、どうぞそちらに。スーツについた埃なども払い落としますから」
「面目ない。お恥ずかしい所をお目にかけました」
「いえ、一昨日からの騒ぎは、私も小耳に挟んでおりました。父親であれば、娘の立場を案じるのは当然の事。心中お察しします」
「本当に私事でお騒がせして、こちらにご迷惑を」
「お気になさらず。そちらの胸中を穏やかならぬものにしてしまった松原工業の一員として、また面白おかしく騒ぎ立てる部下を制止できなかった管理職の一人としても、そちらにお詫びしなければならない立場ですから」
 穏やかな口調で語り合う二人の動きに合わせて、人垣が即座に左右に割れ、通りすぎると同時に再び人波にその姿がかき消される。それと同時に周囲にざわめきが戻り、退社する社員が一斉に動き出してエントランスはいつも以上の混雑ぶりになったが、二人を半ば呆然と見送った佐々木は、沙織に確認を入れた。


「さっきの人は……、確か総務部の富野部長でしたよね?」
「そうね。社内でも一、二を争う人格者として有名だし、和洋さんを適当に宥めて帰してくれそう。本当に助かったわ、後でお礼を言わないと」
 本気で胸を撫で下ろした沙織だったが、そんな彼女に佐々木は再び猛然と抗議した。


「そういう問題じゃ無いですよね!? 先輩、お父さんの扱いが酷すぎませんか!?」
「どうして私が、文句を言われなくちゃならないのよ!」
「関本! 一之瀬さんはどうした!?」
「課長?」
「一体、どうしたんですか?」
 そこで人波をかき分けて現れた友之にいきなり尋ねられ、二人は本気で面食らった。


「どうもこうも……。受付から、関本が今にも相手に掴みかかりそうな勢いで、一之瀬さんを罵倒していると連絡を貰ったものだから、関本を止めに来たんだが……」
 周囲に和洋の姿が見当たらない事を訝しく思いながら尋ねてきた友之に、佐々木が心底残念そうに首を振った。


「課長……、一足遅かったです。既に先輩がお父さんを足蹴にして、蹴り転がした後です」
「は? おい、それは本当か!?」
 打ち合わせではそこまで酷い事にはならない筈であり、一体何があったかと友之が慌てて問い質したが、沙織はそれを無視して佐々木に怒鳴り返した。


「そんなわけないでしょう! 佐々木君、人聞き悪すぎるわよ!」
「何を言ってるんですか! 誰がどう見てもそうでしたよ!」
「冗談じゃないわ! 頭にきた! 開発部に申し入れ書を出したら、その足で帰らせて貰うから! 今日の仕事はそれで終わりだしね!」
「ちょっと待ってください!」
「それじゃあ、お疲れ様!」
「先輩!」
 本気で腹を立てた沙織が捨て台詞を残し、佐々木が引き止める声を無視して猛然と歩き出した。


「……佐々木。取り敢えず二課に戻って、ここで何があったのか聞かせて貰う」
「分かりました」
 沙織の剣幕を見て、微妙に顔を引き攣らせた友之に促され、佐々木は納得しかねる顔付きのまま職場に戻った。そして何事が生じたのかと心配していた二課の面々の前で、怒りを露にしながら一部始終をぶちまけ、沙織の非情ぶりを訴えた。


「そんなわけで、富野部長に宥められた一之瀬さんが、いつの間にか部長と一緒にエントランスからいなくなっていたんですけど……。先輩の、一之瀬社長に対する態度は酷すぎますよね!? あの人は鬼か!? 仕事はできても、プライベートはダメンズ好きのグダグタだとは思っていましたが、親子関係まで絶対零度だとは思っていませんでしたよ!!」
「佐々木……。気持ちは分かるが、ちょっと落ち着け」
「どこが『美人である以上に心根が優しい』んだよ……」
「親の欲目って、ある意味凄いよな」
「課長。そんな騒動が生じてしまって、一之瀬社長の心証が益々悪化しないでしょうか? 関本に罵倒されたのが、吉村達のせいだと逆恨みしたりとか」
「…………」
 杉田が難しい顔になりながら口にした懸念を聞いて、吉村の顔色が悪くなったが、彼が何か言う前に友之が先回りして強い口調で言い聞かせた。


「吉村。気持ちは分かるが、関本と一之瀬社長、今日はどちらにも電話はするな。勿論、自宅に押しかけるなどもっての他だ」
「ですが課長!」
「二人とも、今日は冷静とは言い難い。そんな時に何を言っても無駄だ。事態を悪化させる事はあっても、改善させる事など無理だ」
「しかし!」
「課長の言う通りだ。君も今夜は頭を冷やすんだな。今日はもう帰って、おとなしくしていろ。明日、仕切り直しだからな」
「……分かりました」
 友之と杉田に二人がかりで言い聞かされ、吉村は肩を落として退社していった。
 その後、興奮している佐々木を何とか宥めてから帰した友之は、重い溜め息を吐きながら残っていた仕事を片付け、あまり遅くならないうちに帰宅した。


「母さん、沙織は部屋かな?」
「ええ。夕食を食べ終えてから、ずっと部屋にいるわ」
「やはり機嫌が悪そうだったがな」
「……そうだろうな。今日は筋書き以上の展開だったし」
「何があった?」
「食べてから説明する」
 リビングにいた両親に挨拶し、夕食の後で簡単に事情を説明した友之は二階に上がり、気合を入れて沙織の部屋のドアをノックした。


「沙織、入っても良いか?」
「……どうぞ」
 一瞬の静寂の後、短く返事が返って来たのを受けて、友之は静かに部屋に入った。すると沙織はベッドの上に仰向けに転がり、目の前に持ち上げたスマホを何やら操作していた。入って来た自分に目を向けず、相変わらずスマホを見続けている彼女に、友之は小さく溜め息を吐きながら歩み寄る。


「その……、今日は色々大変だったな」
「……お気遣いなく」
 声をかけてから友之は、沙織の足元の方でベッドの端に座り、真顔で申し出た。


「沙織、取り敢えず今、俺にして欲しい事は無いか?」
「はぁ? いきなり何?」
「気が済むなら、殴っても構わないが」
「誰が殴るか」
 漸く視線を向けてきたものの、如何にも不機嫌そうに応じられた友之は、思わず弁解じみた台詞を口にした。


「ああ、うん。今のは一応、言葉のあやなんだが……。周りにお義父さんを蹴り倒したとか言われてしまった日に、殴る蹴るとかするとは思えないし」
「…………」
 そこで沙織は更に顔を顰めながらゆっくりと起き上がり、膝立ちのままベッドの上をにじり寄って来た。その不穏な気配に、友之は内心で肝を冷やす。


(これは本気でしくじったか? 二、三発本気で殴られるかもしれんな)
 微動だにしないまま、友之がそんな覚悟を決めていると、沙織は益々面白く無さそうな顔付きになりながら、些か乱暴に彼の膝の上に頭を乗せつつゴロンと横になった。そして友之ではなく向かい側の壁に顔を向けながら、何やらブツブツと悪態らしいものを呟く。その状況に、咄嗟に反応に困った友之は、動く事もできずに固まった。


「あ、その……、沙織?」
「何よ。何か文句あるの?」
「いや、このパターンは初めてだなと……」
「それで? あれだけ騒いで、吉村の奴をおとなしくさせられなかったら、承知しないわよ?」
 顔を合わせないまま言われたその一言で、友之は瞬時に真顔になって断言した。


「それは大丈夫だ。あいつは相当肝を冷やしたし、本当に反省している。父さんの話では、田宮さんも相当顔色を無くしていたそうだ」
「当然よ。今回の事で私の愛人疑惑は吹っ飛んだでしょうけど、社内で地も涙もない冷血女のレッテルが貼られたでしょうね」
「沙織、そこまで悪し様に言う人間は」
「どうせ佐々木君も、それ位言ってたでしょう?」
「いや……、もう少し穏当な表現だったと思うが……」
 宥めようとして失敗した友之は、口ごもって沙織の側頭部から視線を逸らした。そこで沙織が盛大に舌打ちし、腹立たし気に言い出す。


「全く! そもそもあのホテルで、和洋さんが私に抱き付いてきたのが悪いんじゃない! あんな写真を吉村に撮られたりするから!」
「確かにそうかもしれないがな……。やはりお義父さんは沙織の事が、今でも可愛くて仕方がないし」
「もっと言えば、友之さんが待ち合わせ場所をあっさり漏らして、いなくなっていたのが原因よね!?」
「全面的に俺のせいだな。すまない」
「……もういいわよ。言っても仕方ないし」
 ここで(言ってるよな)などと言おうものなら十倍になって言葉が返ってくる事が分かっていた友之は、これ以上余計な事は言わなかった。しかし微妙に怒った状態から拗ねている状態に移行したと察した友之は、努めて冷静に、かつ穏やかに声をかける。


「だがこれで、沙織の不名誉な噂は自然消滅するだろうからな。ついでに『部下の個人情報を厳守する理解のある上司』の肩書を周囲から貰えそうな俺は、すっかりご立腹な奥様にお詫びの意味を込めて、明後日の土曜日にドライブ付きの温泉に一泊二日でご招待したいんだが、ご都合は?」
 それを聞いた沙織が、ピクリと身じろぎする。


「……温泉?」
「箱根の強羅、館内設備にエステサロンやプール、部屋には露天風呂あり。二食とも部屋食、特選料理対応」
「良く取れたわね」
「父さんに伝手を頼って貰った。どうだ?」
「特に予定は無いし、お義父さんの手まで煩わせて、断るのは申し訳ないでしょうが。二日前ならキャンセル料だってかかるだろうし」
 ぼそぼそと沙織がそう呟くのを聞いた友之は、苦笑しながら軽く彼女の頭を撫でつつ、話を続けた。


「よし、それなら決まりだ。それから何か欲しい物があったら買ってやるから、この際、遠慮なく言って良いぞ?」
「いつも、自分のお給料で買ってるけど」
「偶には良いだろう。それに今後、この事を持ち出して幾らでも強請って構わないからな」
「しないわよ、そんな事」
「そうか? 因みに母さんは、若い頃に夫婦喧嘩した時の事を持ち出して、時々高い物を父さんに強請ってるぞ?」
「お義父さん……、一体どんなネタをお義母さんに掴まれたのよ」
「それは俺も知らない。知らない方が良い気もするし」
 そこまでふくれっ面だった沙織はここで思わずくすくすと笑い出し、友之も笑みを深めてその話を終わらせ、騒動は一応の収束を迎えた。



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