酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(81)実は兄も、かなりのシスコンだった件

「夜分、恐れ入ります。夕方お電話しました一之瀬です」
「お待ちしておりました。どうぞお入りください」
 二十時を二分程過ぎてからインターフォンの呼び出し音がリビングに響き、即座に対応した真由美が、操作パネルで門の施錠を解除してから困惑気味に振り返った。


「沙織さん、お兄さんとお姉さんがいらしたわ」
「え? 柚希さんもですか? どうしてかしら?」
「さあ……、何も仰っていなかったけど」
 披露宴で面識がある真由美が見間違える筈もなく、沙織は勿論、友之と義則も豊達を出迎えるべく怪訝な顔で立ち上がった。


「松原さん、遅くに失礼します。今回は妹の事で、色々とご迷惑おかけしています」
 玄関で挨拶に引き続き豊達が頭を下げたのを見て、義則は真顔で二人を宥めた。


「豊さん、こちらに謝罪する必要はありません。沙織さんはもう私どもの家族の一員ですからな」
「それならば良いのですが……」
「ところで豊、社内の騒ぎをどうして知ったの? 私も友之さんも知らせていないのに」
「あぁ~、うん。それはだな……」
「何?」
 メールを受けてからずっと気になっていた事を沙織が尋ねると、何故か豊は視線を逸らしながら口ごもる。それを見た沙織は無言で眉根を寄せ、その場を取りなすように義則が周囲に声をかけた。


「取り敢えず、お二人に上がって貰おう。真由美、人数分のお茶をリビングに頼む」
「分かりました」
 それから皆が義則の指示に従ってリビングに移動し、二人掛けのソファーに向かい合う形で沙織と豊が夫婦で座り、横の一人掛けのソファーに義則が座る。そして戻った真由美が全員にお茶を配り、義則の横に持ってきた椅子に座ったところで、豊が重い口を開いた。


「その……、沙織。今までお前には黙っていたが、実は俺の大学の同期の友人が松原工業に入社して、営業二課に配属になっている」
「え? 豊さんの同期と言う事は……」
「私より、三年早く入社……」
 一瞬考え込んだ友之と沙織だったが、すぐにそれに該当する人物を導き出した。


「水原が、豊さんの友人だったんですか? 世間って本当に、広いようで狭いですね……」
「水原先輩が情報源ですって!? ちょっと待って! それは聞き捨てならないわ! まさか今まで私の情報を、水原先輩が散々豊に垂れ流していたわけじゃ無いでしょうね!?」
「俺じゃなくて親父にだ」
「……あのね」
 盛大に顔を引き攣らせた沙織だったが、一度話し始めると、豊はすこぶる饒舌だった。


「お前が松原工業に入社して営業二課に配属になった後、どこかで聞いた名前だなと思っていたら、水原の勤務先と全く同じで本当に驚いたぞ。それを親父の前でポロッと漏らしたら、俺が知らないうちに親父が水原に接触していた」
「結局、悪いのは豊じゃない!」
「沙織、落ち着け。話が進まないから」
 本気で怒りだした沙織を、友之が横から宥める。しかし豊は淡々と説明を続けた。


「それで親父は俺の父親と自己紹介した後、離婚後は子供達がお袋に引き取られて会うのもままならなかった事情を説明し、それにすっかり同情した水原が、月一の頻度でこっそり職場でのお前の状況を知らせていたわけだ。親父はその都度、謝礼代わりに結構良い店で奢っていた」
「水原……、後輩の面倒を良く見るタイプだとは思っていたが……」
「そう……、水原先輩がね……」
「だが水原のお陰で、助かった事もあるんだぞ? ほら、沙織が押し倒されて、親父と友之さんが殴り合った事があっただろう?」
「…………」
「何で今頃、それを蒸し返すのよ……」
 半ば忘れていた過去の汚点を聞かされた友之は無言で項垂れ、沙織はその時の騒動を思い出して心底うんざりした。


「あの時、親父が友之さんについて『セクハラパワハラ常習者では?』と事情を伏せて尋ねたんだ。そうしたら水原が『間違ってもそんな事は有り得ません』と笑顔で太鼓判を押したから、それまでの付き合いで水原の人柄と判断力を認めていた親父が、『水原君がそこまで言うなら大丈夫だろう』と矛を収めたんだぞ? それが無かったら、確実に親父は松原工業に怒鳴り込んでいた」
「そうでしたか……」
 自分が知らないところでの水原のフォローに対して、今度何か理由をつけて奢ろうと、友之は密かに決意した。ここで沙織が、気になった事を尋ねてみる。


「先輩には、私達の事は伝えてあるの?」
「事実婚の事は、職場にも秘密だろう? だから親父も俺も、水原には知らせていない。だが親父とお前がれっきとした父娘だと知っている水原が、例の社内報を見て仰天して、こっそり俺に知らせてきたんだ。『一之瀬社長と関本が父娘だと、公表した方が良くないか』とな。その時の狼狽っぷりは電話越しでもはっきり分かって、気の毒な位だった」
 しみじみとそう語ってから、豊は深々と溜め息を吐いた。


「仕事中は、そんな風には見えなかったが……。流石だな」
「そう言えばさりげなく、『お前ら騒いでいないで仕事をしろ』とかなんとか言っていたような……」
 沙織達が職場での水原の様子を思い出しながら話していると、これまで無言を貫いていた柚希が、唐突に口を開いた。


「それで、水原さんに当面お義父さんと沙織さんの関係を黙っていて欲しいと伝えたのは、こちらの作戦の邪魔をして欲しくないからなの。お義父さんは福岡に出張中で、明日帰る予定だから。今日知らせたら確実に仕事を放り出して帰京して、松原工業に怒鳴り込むのは確実だもの」
「作戦?」
「和洋さんが、何の関係があるんですか?」
 友之と沙織は怪訝な顔になったが、豊がそんな二人に向かって冷静に話を続けた。


「水原からの一報を受けてすぐに、柚希に松原工業のシステムを調べさせた。それで社内報の管理システムにアクセスして、例の画像とコメントを入れたのが田宮某という奴だと突き止め、更にそいつの社内ネットワーク及び個人端末の記録を調べて、やり取りのあった人物をピックアップし、更にデータ内容を調べて吉村某とつるんでいるのを突き止めた。ついでに吉村某が前の勤務先を依願退職に追い込まれた経緯も調べ上げたが、まあそれはこの際、どうでも良い事で」
「豊、ちょっと待って!」
「何だ沙織。他人の話の腰を折るな」
 立て板に水のごとく喋り続ける豊を、沙織は慌てて強い口調で制止した。それに豊が不満そうな顔を見せたが、沙織は顔を強張らせながら訴える。


「だって! 色々おかしいでしょう? どうしてそんなに簡単に松原工業のシステムを調べられるのよ! それに個人の端末なんて、もっと調べるのは不可能でしょうが!?」
「あの……、松原工業のシステムに関しては、わが社がCSCのセキュリティシステムを導入しているので、契約内容に反しますが調べようとすれば調べられるかもしれませんが、個人の端末に関しては明らかに犯罪行為ではないでしょうか?」
 沙織に続き、友之も控え目に指摘してみたが、その途端豊が、目だけが全く笑っていない不気味な笑みを向けてくる。


「友之さん? 今、何か仰いましたか?」
「いえ……、独り言ですのでお気になさらず……」
「そうですか」
 男二人の間で微妙な緊張感が漂ったが、ここで柚希があっさりと沙織に告げた。


「沙織さん、別に不可能じゃ無いわよ? 現にさっき豊が言った内容を、一時間かからずに粗方調べ終えたもの」
 そんな事を言われた沙織は、呆気に取られながら問いを重ねた。


「柚希さん……、実は警察に太いパイプがあって通信会社に情報提供させたとか、アクセスするのを認めさせたんですか?」
「いいえ。だってCSCが誇るシステム部。その中で燦然と輝くアグレッサーファイブの紅一点、ファーストYUZUとは私の事だもの」
「……はい?」
 全く理解不能な単語の羅列に、沙織は本気で首を傾げた。それは真由美も同様だったらしく、横に座っている義則の袖を軽く引きながら尋ねる。


「あなた、『アグレッサー』って何の事?」
「え、ええと……、侵略者? いや、違うよな……」
 義則も困ったように考え込んだが、友之は少し考え込んでから豊に確認を入れた。


「CSCの業務内容から考えると、この場合、セキュリティシステムの性能を確認したり弱点を探り出す為の、仮想敵役を担う社員の総称ではないですか?」
「はい。我が社が考案、構築したシステムにサイバーアタックをかけ、技術者達のプライドとメンタルをへし折る、システム部監査課五人組の別称です。社内で、特にシステム部開発課及び運用課全員の、恐怖の対象となっています」
「…………」
 相変わらずにこやかに微笑んでいる柚希の隣で、真剣そのものの顔付きで解説する豊。彼が口にした内容に誇張も嘘偽りも皆無だと悟った沙織と友之は、思わず無言になった。しかし、まだ今一つ分かっていなかった真由美が、再度義則に尋ねる。


「要するに、どういう事?」
「つまり、柚希さんが非合法に複数のシステムに侵入し、秘密裏に田宮さんと吉村君の個人情報を、集めまくったという事だな」
「凄いわね! スパイ小説みたい!」
「あまり楽しい話では無い筈だがな……」
 途端に目を輝かせた真由美を見て、義則は思わず溜め息を吐いた。そこで何とか気を取り直した沙織が、あまり核心に触れたくなかった為、微妙に話題を逸らしてみる。


「豊。さっき柚希さんは『ファーストYUZU』とか言ってなかった? レディーファーストだから?」
「違う。単に、柚希がシステム部監査課課長だから『ファースト』だ」
「……え? 課長? 聞いてないけど」
 沙織は内心で(そんなえげつない事をしている人達の親玉?)と戦慄したが、それは微妙に表情に出ていたらしく、柚希が困ったように弁解してきた。


「あ、沙織さん、誤解しないでね? 私は最年少で、力量としては良くても四番手なの。だけど私以外に、毎日スーツを来て出社する人がいなくて、課長職を押し付けられちゃったのよ」
 その主張に、横で豊が深く頷きながら付け加える。


「以前は社長直属で、仕事は二の次三の次の野放図集団だったからな……。妻子をこよなく愛する専業主夫と、全国の記念列車運行に合わせて旅する鉄オタと、女装好きが高じたゲイバーのママと、ラーメン食べ歩きでガイドブック出してる食レポ野郎を、親父が『社員の肩書きをやるから、暇な時にちょっと働いてくれ』と口説いたんだ。そして本当に暇な時にラフな格好でフラッと出社してくるか、どこからか片手間に侵入してきて、システムをいじりまくって人知れず去っていく……」
「あ、でも二年近く前にちゃんと課として確立して私が課長に就任してからは、『最年少の私に面倒な事務処理を押し付けて、申し訳ないと思わないんですか? せめて四半期毎の社内システム一斉臨検日位は、ビシッとスーツで出社してください』とお願いしたら、『世間に通用する肩書きを貰っているんだから、それ位の義理は果たすか』と納得してくれて、三ヶ月に一度は全員揃うようになったのよ?」
「……その日、社内の有給休暇申請率が物凄い事になっているがな」
「そんなに怖がらなくても良いのに。話し込むと超絶に面白いわよ? 皆、独特の価値観を持っている人ばかりだし。第一、お義父さんが『次期社長修行の一環だ』と言って、皆さんの管理を含めたシステム部の部長職を三十そこそこの豊に任せたのに。未だにまともに会話が成立しないって、正直どうかと思うわ」
「あの連中と会話が成立するのなんて、柚希位だ。もう本当に、部長職をお前に譲りたい……」
「えぇ~、嫌よ。そんな面倒な事。課長だけでも面倒なのに」
 心底うんざりした様子で頭を抱えている豊の横で、すました顔でお茶を飲んでいる柚希を見て、友之と沙織は豊に深く同情した。


(きっと社内でも、憐憫の眼差しを向けられているんだろうな)
(そんなに敬遠される部長職って……。だいたい和洋さんも、そんな人達をどこでどうやって見つけてスカウトしたのやら)
 しかし呻いたのは少しの間で、豊はすぐに気を取り直し、沙織を見据えながら訴えた。


「話を戻すぞ。柚希があちこちに潜りまくってさっきの内容を調べ上げたが、報復措置として吉村とやらの個人情報をばらまいても意味が無いし、沙織側からのリークだと判断されて泥沼化だ。それに沙織の愛人疑惑を否定しても、拡散してしまった情報を完全に消し去る事は無理だろう。中途半端に耳に入れた連中から、何年も経ってから無責任に蒸し返される可能性もある」
「確かにそうですね……」
「それならどうしろと? まさか事実だけ公表して、泣き寝入りしろとは言わないわよね?」
 難しい顔になって友之が同意したが、沙織は憤然として言い返した。すると豊が、予想外の事を言い出す。


「完全に消し去れないのなら、よりインパクトのある噂を流して、それを上書きすれば良いだけの話だ」
「はぁ?」
「それでこの際、親父には盛大に泣いてもらう事にした。だが今回沙織との父娘関係を公にできる上、沙織の為に泣くなら親父だって本望だろう。しかも沙織の名誉回復に一枚も二枚も噛む事ができるんだから、これは完全に親孝行だ。俺はなんて孝行息子だと、親父から絶賛されてもおかしくはない。親父が言う筈は無いがな」
「…………」
 そんな事を大真面目に言われて、沙織と友之は思わず顔を見合わせた。盛大に泣いてもらうなどと、どう考えても穏便に収まる気配の無い話に、沙織が恐る恐る確認を入れる。


「豊……、何か結構容赦が無い事を考えていない?」
「親父は主演男優で、松原さんと友之さんには助演男優をやってもらうが、真の主演女優はあくまでお前だ。気合いを入れて頑張れ」
「私だけじゃなくて、友之さんやお義父さんにまで何をさせる気よ!?」
 他人事のように淡々と告げる豊に、沙織は思わず声を荒げた。するとここで柚希が、友之に向かって話しかける。


「確かにこのやり方だと、今後沙織さんの社内での評判が微妙な事になるかもしれないけど、そうなると間違っても社内で沙織が口説かれる心配は無くなるから、友之さんが安心できてお勧めの話だと思うの」
「そうなんですか?」
「友之さん! 何言ってるの!」
「だが沙織。一応、話を聞くだけ聞いてみよう」
 結構乗り気になった友之が沙織を宥め、そんな二人に豊はすこぶる冷静に、順序立てて説明を始めた。その話が進むにつれて二人の顔が強張っていっても、豊は妹達に全く口を挟む余地を与えず、最後まで話し終える。それから豊は妹夫妻の反論や反対を強引にねじ伏せつつ打ち合わせを終え、腰を上げた。


「今日は遅くまで、お邪魔いたしました」
「それでは失礼します。沙織さん、頑張ってね?」
「はぁ……、頑張ります」
 礼儀正しく挨拶をして豊は柚希を連れて自宅に戻って行き、それを玄関先で見送ってから、友之が沙織に尋ねる。


「なあ、沙織」
「何?」
「豊さんは傍目にはそうは見えないが、沙織に愛人疑惑が持ち上がって、かなり怒っているんだよな?」
 その問いかけに、沙織は小さく肩を竦めながら答えた。


「相当怒っているわね。昔から淡々としているようで、一旦本気で怒ると本当に報復が容赦なかったわ。子供の頃、私が喧嘩で怪我をした時とか」
「そうか……。さすがは沙織の兄だな。本気で怒らせないように、今後一層気を付けよう」
「どういう意味よ!?」
 そんな風に完全にむくれてしまった沙織を友之が宥める横で、真由美が「田宮さんの反応を、実際に見られないのが残念。後でちゃんと教えてね?」と義則に頼み込んでいた。



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