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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(79)密談

「沙織、おはよう!」
 そろそろ職場に到着するというタイミングで、背後から駆け寄ってきた友人に声をかけられた沙織は、声で相手が分かった為驚かなかったものの、少々不思議そうに挨拶を返した。


「由良、おはよう。どうしたの? 随分機嫌が良いわね」
「だって念願の《愛でる会》会長の座を、漸く射止めたんだもの! これで私の恋愛運は、急上昇間違いなしよね!? 今年こそ、運命の出会いが待っている筈よ!」
 その気合いに満ちた表情と口調に、沙織は正直少し引いた。


「……凄く盛り上がっているわね」
「うん! お陰で仕事にもやる気が出ちゃって、毎日が楽しくて楽しくて仕方がないわ! それじゃあ、始業前に揃えておく書類があるからまたね!」
「そうね、今度またゆっくり……」
 目の前の社屋ビルに向かって突進していく由良を、沙織は引き攣った笑みで見送ってから、誰に言うともなく呟く。


「本当に、由良に出会いがあるのかしら? 本当にあったら、《愛でる会》会長の座が伝説になりそう……」
 そして溜め息を吐きながら、沙織はいつも通り社屋ビルのエントランスに足を踏み入れた。


 ※※※


「課長。今日は個人的に時間を割いて貰って、ありがとうございます」
 吉村に対しては色々と思うところがある友之だったが、間違っても業務中に私情を挟む事はせず、その日も彼の誘いを受け、仕事帰りに差し向かいで飲んでいた。そしてまず乾杯をしてから頭を下げた彼に、鷹揚に頷いてみせる。


「いや、入社して貰って三ヶ月が経過したから、そろそろ君と二人だけでじっくり話をしてみたいと思っていたんだ。今日は職場環境や業務内容について、君なりに気がついたところや改善点などあれば、遠慮なく言って欲しい」
「そうですか……。それでは改善点という程の事ではありませんが、幾つか提案があるのですが」
「ああ、言ってみてくれ」
 そこで吉村が真顔で語り出した内容に耳を傾けた友之は、話が一区切りついたところで納得して頷いた。


「なるほど……。やはりずっと松原工業にいると、却って気が付かない事もあるな。他に所属していたからこそ、気付く事もあるか。これからも何か気になる事があったら、遠慮なく指摘してくれ」
「はい、そうさせて貰います」
(確かに営業能力は申し分無いし、目の付け所も良いんだよな。これで田宮常務に繋がっていて、沙織に何やら含む所がなければ、手放しで良い部下ができたと喜ぶ所だが)
 どこか安堵した様子で吉村がグラスを傾け、友之も考え込みながら再び飲み始めると、少しして吉村が控え目に切り出してきた。


「ところで課長、関本の事ですが……」
 それを聞いた友之は、瞬時に気持ちを切り替えて警戒しながらも、傍目には何でもない様子で問い返す。


「うん? 関本がどうかしたのか?」
「何かの折りに誰かから聞いたと思いますが、確か彼女は子供の頃に父親を亡くしているとか」
「……そうらしいな。それが何か?」
「それで彼女はファザコンになって、同年輩の男には目もくれず、老け専なんですかね?」
「はぁあ?」
(こいつ、いきなり何を言ってるんだ? 冗談か?)
 思わず間抜けな声を上げ、まじまじと吉村を見返した友之だったが、相手がどう見ても真顔であった為、困惑しながら言葉を返した。


「ええと……、別に彼女は、これまで全く同年輩の男と付き合った事が無いというわけでは無いぞ? 以前に元カレがストーカー化して、勤務中に絡まれた事もあったし。課内の人間は全員知っている筈だが、その話は聞いていなかったか?」
「そう言う事があったんですか? それは驚きましたが、皆さんはそんなプライベートな事まで、ペラペラ喋る必要は無いと判断されたんですね。良識のある方々ばかりだと、再認識できました。本当にこちらに雇ってもらって幸運だったと思います」
「それなら良かった」
 にこやかに感想を述べた吉村に、友之も何とか笑顔で返したが、翔の事を思い出してしまった彼の機嫌は一気に下降した。


(不愉快な言動だけでなく、不愉快な事まで思い出させてくれるとは)
 しかしそれは八つ当たりだと自覚していた友之は、最後までひたすら平常心を保ち、吉村と笑顔で別れた。
  一方で吉村は何となく沙織に関する話が引っかかり、友之と別れてからその足で、予め住所録で調べておいた沙織の住所として登録してあるマンションに向かった。


「さて……、課長と別れた後、話を出した勢いで何となくここまで来てしまったが。いきなりこんな遅くに訪問しても、上げて貰える筈も無いしな」
  迷う事なく目的のマンションに到達し、吉村はエントランスまで入ってみたものの、時刻が時刻だけにインターオンで呼び出しなどせず、場所の確認だけ済ませる事にして集合ポストに目を向けた。


「確かに、関本の名前はあるな。しかしこのマンションの造りと部屋数から考えて、単身者向けの賃貸マンションでは無くて、ファミリー向けの分譲マンションだと思うが……。ここで聞いても、正直に答える筈もなし。今日は引き上げるか」
  即座に判断して踵を返した吉村だったが、そのままマンションから出て行こうとしたところで、入れ違いに入口の自動ドアから入って来た男性を認めて驚愕した。


(え!? 今の男、例のホテルで関本と抱き合ってた奴だよな! どうしてこんな所に!?)
  吉村は思わず足を止めたが、和洋は一瞬不審そうに彼を見やってから、何事も無かったようにその横をすり抜け、居住エリアに入る為の操作パネルの前に立った。そして吉村が唖然としていたのは一瞬だけで、すぐに頭の中で素早く考えを巡らせ、和洋に歩み寄って笑顔で声をかける。


「勝俣さん、こんな所でお会いできるとは奇遇ですね!! ご無沙汰しております!」
「はぁ?」
「お忘れですか? 去年便宜を図って頂いた、鹿取技工の白勢です! 勝俣さんには例の契約成立の折り、大変お世話になりました。改めてお礼申し上げます」
  もし後で問題になっても、散々煮え湯を飲まされた上司の名前を出しておけば良いだろうとまで計算し、吉村は営業マンらしい愛想を振りまいて深々と頭を下げたが、当然面識など無い和洋は困惑しながら言葉を返した。


「いや、私は君を知らないし、勝俣という名前でも無いが。君の勘違いだろう」
「は? いえ、そんな筈は」
「くどい!  私の名前は一之瀬だし、我が社は鹿取技工などとは取引なども無い。失礼する」
「申し訳ありません。こちらの勘違いで、大変失礼致しました」
  焦って頭を下げて謝罪する風を装いながら吉村が和洋の様子を窺うと、彼は当然のように誰かを呼び出して中から開けて貰うのではなく、持参した鍵と幾つかの番号を打ち込んで自ら自動ドアのロックを解除し、居住スペースに消えていった。


「へえぇ? 関本と同じマンションに、あのおっさんも住んでるのか? だが一之瀬なんて名前、郵便受けには無いよなぁ?」
  念の為にもう一度全世帯の名前を確認してみたが、やはりそこに一之瀬の表記は無かった為、吉村は皮肉げに顔を歪めた。
「これは本当に、ひょっとするとひょっとするかも。今夜はついてたな」
  そして吉村は、その日の収穫にすこぶる満足しながら自宅に帰って行った。


「全く。最近の若造は、取引先の人間の顔も覚えていないのか。そもそもこんな夜遅くに呼び止めるなど、礼儀を弁えん奴だ」
  対する和洋は、吉村にとんでもない誤解をさせたなど夢にも思わず、無礼な若者に対する文句をひとしきり口にしながらマンションに入った。しかしその不機嫌な状態は、沙織に電話をかけるまでだった。




「沙織ちゃん? お父さんだよ! 元気にしてるかい?」
  結構遅い時間にかかってきた電話に出た途端、ハイテンションの父親の声が耳に飛び込んできた沙織は、若干耳からスマホを離しながら冷静に言葉を返した。


「ええ、元気だし、問題ないから安心して」
「そうかそうか。取り敢えず今日は、沙織ちゃんのマンションに来てるんだ。明日は休みだから、ここを隅々まで掃除しておこうと思ってね!」
「いつの間に、私のマンションになったのよ……。そこは今でも和洋さんの名義でしょう?」
「気分的には、もう沙織ちゃんの物だからね!」
「……ウザい」
「え? 沙織ちゃん、何か言ったかな?」
  思わず本音が漏れたが、幸いな事に和洋には聞き取れなかったらしく、沙織は即座に誤魔化した。


「ううん、大したことじゃないわ。だけどせっかくの休みなんだから、掃除だけしていないでゆっくりしたら良いのにと思って」
「大丈夫! 沙織ちゃんが使ってくれると思うと、掃除がとっても楽しいから!」
「……だから、そうそう使わないって」
  うんざりしながら沙織が溜め息を漏らすと、和洋が不思議そうに聞き返してくる。


「うん? 沙織ちゃん、今何か言ったかな?」
「何でもないから。ちゃんと管理してくれて、どうもありがとう」
「どういたしまして。それじゃあ沙織ちゃん、おやすみ!」
「おやすみなさい。…………全く」
  何とか無難に通話を終わらせ、沙織が肩を落としていると、ドアから軽くノックする音に続いて友之が声をかけてきた。


「沙織、お義父さんとの話は終わったか?」
「あ、友之さん。ええ、大丈夫よ。ところで今日は吉村さんと、二人で飲んできたのよね? 何か問題でもあった?」
  沙織が慌てて振り返りながら、既に帰宅してスーツから私服に着替えていた友之に尋ねる。すると彼は、何とも言い難い顔をしながらベッドの端に腰掛け、自問自答するように言い出した。


「いや、目立った問題は無い。ただ……、相変わらず、あいつの思考回路が謎だ」
「どういう意味?」
「沙織が、ファザコンが高じた老け専かと聞かれた」
「…………はい?  なんですって?」
「だから、沙織は同世代の若造には見向きもしない、年寄り好きなのかと」
「私のどこがそう見えると?」
  一瞬、何か聞き間違えたかとすら思った沙織だったが、重ねて説明されて本気で呆れ返った。その気持ちを十分に理解できた友之は、深く頷く。


「全然意味が分からないだろう? 俺にもさっぱり分からん。取り敢えず、同年代の男と付き合った事はあるし、その時の男に付きまとわれて騒ぎになった事もあると話したら、それ以上は何も言わなかったが」
「本当に何なの? この前からハーレム話とか老け専とか、ちょっと頭がおかしくない?」
「仕事はできるのにな……。第一、それなら沙織の夫の俺は、そんな老け顔だとでも言いたいのかと、文句を言いそうになったぞ。勿論そんな事は、口にも顔にも出さなかったがな」
  友之が憮然としながら唐突にそんな事を口にした為、沙織は一瞬呆気に取られてから、我慢できずに噴き出した。


「……っ、老け顔っ……、ぶふっ……」
「こら、沙織。何を笑ってる?」
「だっ、だって! 老け顔って! だっ、大丈夫だから! 友之さんの顔は老けているわけじゃなくて、年に似合わず貫禄があるだけだから!」
「そう言う事にしておくか。取り敢えず、今夜の報告は以上だ」
「本当にお疲れ様」
 未だにくすくす笑っている沙織に友之も苦笑いで返したが、吉村がどんな誤解をしたのか知っていれば、笑っている場合ではなかったのだった。


 ※※※


 吉村が和洋と偶然遭遇してから、半月ほど経過したある日。吉村はある小料理屋の個室で田宮と待ち合わせ、この間に調べていた内容を報告した。


「常務。早速ですが、例の女が住んでいるマンションの名義を、法務局で登記事項証明書を申請して確認してみたら、やはり一之瀬社長名義になっていました」
「本当か……。あの実直そうな一之瀬さんに限って、まさかとは思っていたが。君から送信されてきた画像を見た時にも驚いたが、それ以上だよ……」
 危機管理担当役員でもある田宮は、当然CSCとのセキュリティ契約の場で社長である義則と同席し、和洋とは顔見知りであった。そして十分信頼のおける人物だと認識していただけに、その不倫現場と銘打った写真が送信されてきた事に対して衝撃を受けていた。


「常務が相手の身元をご存じで、調べる手間が省けて本当に助かりました。マンションの名義もそうですが、一之瀬社長が公表しているプロフィールは、妻に二男一女です。れっきとした妻子持ちの愛人をしながら、素知らぬ顔で会社勤めとは。いやはや、恐れ入った」
 沙織の弱みを押さえたと思い込んでいる吉村は、込み上げてくる笑いを堪えらえなかったが、そんな彼に田宮が困惑気味に指摘してくる。


「しかし吉村君。確かに倫理上は問題があるかもしれないが、彼女が社内で何か不正を行ったとか、明らかに社に対して損害を与えたというわけでは無い。勿論、彼女が枕営業をしたというわけでもないし、こういったプライベートの問題を明らかにしても、上司である松原課長には何のダメージにもならないのでは無いかな?」
「常務の仰る通り、普通だったら一個人の極めてプライベートな問題に関して、上司が管理責任を問われる事は無いでしょう。……普通でしたら」
「と言うと?」
 妙に含みを持たせる言い方をされて、田宮は反射的に問い返した。すると吉村は不敵な笑みを浮かべながら、田宮にお伺いを立ててくる。


「関本と課長は、特別に仲が良いみたいですからね。周りが騒いでも不問に伏すか、あからさまに庇う言動をすると俺は読んでいるんですよ。そういう振る舞いは、部下を管理する立場の人間としてはどうなんでしょうね?」
  それを聞いた田宮は、真顔で考え込んだ。


「なるほど……。周囲と部下の心証を悪くして、営業二課の信頼関係にひびを入れる絶好の機会か。上手くいけば、彼の管理責任を問える可能性も出てくる。それなら今回は、そちら方面から攻めると?」
「そういう事です。それに、それなりに騒ぎが大きくなればなるほど、他にも色々つつける場所が出てくるかもしれません」
「納得した。松原課長が動かないならそれで良し。動いたら儲け物というわけだな。早速方法を考えよう」
「それに関して、俺に一つ提案があるのですが」
「何かね? 言ってみたまえ」
  興味津々で尋ねてきた田宮に自分の考えを披露しつつ、吉村は心の中で歓喜の叫びを上げていた。


(ざまあみろ、関本!  俺をコケにしてくれた礼を、たっぷりお返ししてやるぞ!)
  それから吉村は、湧き上がってくる笑いを堪えつつ田宮との密談を続けた。



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