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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(74)インフルエンザ騒動:後編

 薬が効いたのか翌日には熱は下がったものの、「潜伏期間中は寝ていなさい」と真由美に厳命された沙織は、我慢して三日を過ごした。そして医師と真由美からのお許しが出てから出勤し、更に二日程が過ぎてから、新たな騒動が勃発した。


「おはようございます」
「おはよう、沙織さん。今朝食を持って来るから、少し待っていてね」
「ありがとうございます」
 その日も出勤の支度を整えてから沙織が食堂に出向くと、義則が常とは違って自分より早く椅子に座って朝食を食べていた為、不思議に思いながら問いかけた。


「お義父さん、今朝は随分早いですね。特別な会議でもあるんですか?」
「いや、そうではなくて……。暫くの間、電車通勤をしようと思っているんだ」
 どこか言いにくそうに言われた内容に、沙織は本気で首を傾げる。


「役員以上は自家用車通勤が許可されているのに、どうしてわざわざそんな事をされるんですか?」
「その……、沙織さんの熱が下がって潜伏期間を過ぎても、真由美がインフルエンザを発症しなかっただろう? それで昨夜、『昔から滅多に風邪もひかなかったし、入院したのもあの時だけだった』と、真由美が結構落ち込んでいてね」
(それって多分、妊娠中に病気が分かった時の事よね。昨日、相当空気が重くなったのが想像できるわ)
 困り顔で打ち明けられた内容を聞いて、沙織は咄嗟に返答に困った。しかし相手に喋らせておいて黙り込む訳にもいかず、なるべく当たり障りのない表現を選んで言葉を返してみる。


「それは……、免疫系がしっかりしていて、宜しいのではないかと思いますが……」
「世間一般的にはそうだし、私もそう宥めたんだが……。それでここは一つ、電車通勤をしてみようと考えたんだ」
「あの……、すみません。今の流れで、どうして電車通勤云々の話になるのでしょうか?」
「それは……」
  ここで義則が何か言いかけたが、真由美が戻って来たのを見て口を噤んだ。


「沙織さん、お待たせ。病み上がりだし、しっかり食べて栄養を付けてね」
「はい、いただきます」
「それにしても、友之は遅いわね。まだ寝ているのかしら? 昨日までに、直接出張に行くとかも言っていなかったのに」
「そうですね。定時出社の筈ですから、ちょっと起こしてきます」
「私が起こしてくるわ。遅くなるから、沙織さんはそのまま食べていて」
「すみません、お願いします」
  反射的に腰を浮かしかけた沙織に、真由美が笑って言い聞かせる。それに甘えて食べるのを再開した沙織だったが、まだ話の途中だった事を思い出した。


「お義父さん。さっきの電車通勤の話ですが、結局どういう事ですか?」
「あ、ああ……、うん。ちょっと健康の為に歩こうかと……」
「え?」
(どうしたのかしら? 何か変な感じ。それにお義母さんがインフルエンザにかからなくて気落ちしている話から、どう繋がるのかが意味不明なんだけど……。いえ、ちょっと待って?)
 相手の歯切れの悪さと、意味の繋がらなさに沙織は本気で首を捻ったが、ここでふと思い至った考えに盛大に顔を引き攣らせながら、確認を入れた。


「あの……、まさかとは思いますが、お義父さん。電車通勤でインフルエンザに感染して看病して貰って、お義母さんに感染させようとか、馬鹿な事を考えていませんよね?」
(あ、お義父さんに面と向かって「馬鹿な事」とか言っちゃった。でも、そうとしか言えないわよね?)
  思わず遠慮なしに口にしてしまった沙織だったが、義則はそれに対して気分を害するどころか、益々後ろめたそうに話を続けた。


「その……、経営者としては、不摂生で病気になるなど許されない事だが、今はインフルエンザが流行しているし、同じ車両内に患者の一人や二人存在していてもおかしくないから、罹患するのは不可抗力だと思うのだが……」
「……お義父さんは、本当にお義母さんの事がお好きなんですね」
「いや、まあ……、そうかな?」
(うん。もう、何も言わないでおこう)
 照れまくっている義則を見て、呆れるやら感心するやら微妙な心境に陥った沙織は、心の中でそう結論付けた。そこで勢い良く食堂に飛び混んで来た真由美が、嬉々として夫に声をかける。


「あなた! 無理に電車通勤しなくて良いわ。疲れるだろうし、いつも通りゆっくり車で出勤して」
「どうかしたのか?」
「友之が、結構高い熱を出しているの。インフルエンザかもしれないわ!」
「え?」
「本当ですか?」
「午前中に、医者に連れて行くから! 友之は『一人で行く』と言っているけど、結構辛そうだしね!」
(あまり心配しているように見えんし、病院に行けば余計に感染し易いとか、考えているんだろうな……)
(三十過ぎの男に、母親の付き添い……。周囲からどんなマザコンだと、生温かい目で見られそう……)
 上機嫌で報告する真由美を見て、義則と沙織は一瞬遠い目をしてしまった。しかし沙織はすぐに気を取り直し、真由美に申し出る。


「あの、お義母さん。やっぱり私が、友之さんを病院に」
「あら、駄目よ。沙織さんは治ったばかりで、休んだ間の仕事もまだ溜まっているでしょう? それにA型とB型があるんだから、友之が沙織さんがかかったのと違うタイプに罹患していたら、また寝込む事になりかねないわ」
「それは、そうかもしれませんが」
「とにかく、今日から友之の部屋は、松原工業社員は立ち入り禁止だから。ドアプレートもそう直しておくし、そのつもりでね。さあ、忙しくなるわね!」
「あの、お義母さん!」
 言うだけ言ってパタパタと再び食堂から走り出ていった真由美を、沙織は慌てて追いかけようとしたが、ここで義則の冷静な声が割って入った。


「沙織さん……。色々言いたい事はあるかと思うが、真由美の気が済むようにさせて貰えないかな?」
「友之さんの看病を、全面的にお義母さんにお任せしろと?」
「平たく言えばそうだな」
 流石にそれはどうなのかと思ったものの、義則から無言のまま懇願の眼差しを受けた沙織は、少し迷ってから軽く頭を下げた。


「……申し訳ありませんが、そうさせて貰います」
「沙織さん。謝るのはこちらの方だから」
「いえ、お義父さんが謝る筋合いの事ではありませんので」 
 微妙な表情で頭を下げ合ってから、沙織は朝食を急いで平らげて松原工業に出勤した。




「皆、朝に松原課長が体調不良で休む事は伝えたが、たった今連絡があって、課長はインフルエンザだったそうだ。復帰まで何日か要するから、そのつもりで。至急の決済が必要な場合は、部長の指示を仰ぐように」
「分かりました」
「課長が病気で休むのって、珍しいよな」
「珍しいと言うか……、記憶に無いぞ」
「今年のインフルエンザは、本当にタチが悪いのかもな」
 昼前に係長の杉田が告げた内容を聞いて、課内が僅かにざわめく中、佐々木が沙織にしみじみとした口調で話しかけた。


「在籍年数が長い先輩方が、あんな風に言うなんて……。課長がインフルエンザに罹患したのが、先輩が回復して出社してからで良かったですね。先輩からうつっていないのは明白ですから」
「……そうね」
「先輩が病休中、先輩が俺にインフルエンザをうつしたとの不名誉な噂が立たないよう、徹底的に体調管理に努めました」
「うん……。常日頃から、体調管理は大事よね」
 力強く報告してきた佐々木に、沙織が引き攣った笑みを返していると、席の後ろを通り抜けようとしていたらしい吉村から、唐突に声をかけられた。


「関本さんは、課長のお見舞いに行くのかな?」
 それに沙織は、反射的に振り返りながら答える。
「はい? 長期療養中とか入院しているわけでも無いのに、どうしてわざわざ課長のお見舞いに行く必要があるんですか?」
「へえ? 仲が良さそうだから、心配かと思ったんだけど」
「一人暮らしならともかく、課長はご両親と同居されていますし、何も心配する事は無いと思いますが」
「意外に冷たいんだな」
「冷たくて結構。話がそれだけなら無駄口を叩いでいないで、さっさと仕事をして貰えませんか?」
「了解。邪魔したね」
 結構横柄に言い返したものの、吉村は軽く肩を竦めただけで、素直に引き下がっていった。そんな彼を佐々木が、胡散臭そうに見やる。


「何なんですか、あの人」
「構わなくて良いわよ。それより、例の改訂版の資料は揃っている?」
「はい、大丈夫です」
 そこで二人は仕事に集中し、他愛もない吉村とのやり取りなど、すぐに忘れ去ってしまった。


 それから数日後。帰宅した沙織が自分の部屋に向かおうとしたところで、パジャマ姿の友之と遭遇した。


「ああ、沙織。お帰り」
「友之さん、もう部屋から出て良いんですか?」
 自分の時と同様、友之も真由美の監視の下、トイレとお風呂しか室外に出るのを許して貰えなかった事を知っていた沙織は驚いたが、その問いかけに友之は苦笑気味に答えた。


「熱が下がって、潜伏期間も過ぎたから、明日から出社して良いとさ」
「今日の日中、病院を受診して来たんですか?」
「それプラス、母さんの指示だ」
「それは良かったですけど……、何だか結構やつれていますね。しっかり休んだ筈なのに」
 歩み寄った沙織が、しげしげと顔を見上げながら感想を述べると、友之は疲れきった表情で溜め息を吐いた。


「主に、精神的な疲労だな。熱が下がってからも『私に全く症状が出ないのに、そんな軟弱なウイルスに感染した挙げ句に休むだなんて、たるんでいるわよ!』と、何かにつけて母さんに怒られていた」
 その事実を聞いて、沙織も深い溜め息を吐く。


「お義母さん……、友之さんのお世話をしていても、結局最後まで罹患しませんでしたね。天晴れとしか言いようがありませんが……」
「父さんが、電車通勤するとか言い出しそうだな」
「友之さんが発症した時に、まさにそう仰っていました」
「そうか……。取り敢えず、馬鹿な事は止めろと言っておこう」
 そこで二人揃って溜め息を吐いてから、沙織が如何にも申し訳なさそうに言い出した。


「ええと……、ごめんなさい。友之さんが休んでいる間、全然看病しなかったのは、妻としてさすがにどうかと思うし……」
 そんな謝罪の言葉を口にした彼女を、友之が笑いながら宥める。


「そんな事は本当に気にするな。母さんが主張した通り感染した型が違っていたから、また沙織がかかる可能性があったしな。ところで、職場で何か不都合とか問題は生じていなかったか?」
「私が見聞きしている範囲では、特に差し迫った問題は生じていない筈だけど」
「それなら良かった。土日を挟んだし、不幸中の幸いだったな。明日から、滞った分を取り戻さないと」
「でも病み上がりだから、無理をしたら駄目ですよ? 今度の週末は、二人だけでマンションで過ごしましょうか」
 事務的な話をしてから沙織が提案すると、友之は少し考え込みながら答える。


「それは願ってもないが……。そう言えばまだ沙織の荷物が置いてあるし、やはり一之瀬さんはあそこを手放す気は無いみたいだな」
「そういう事。それじゃあ……、お疲れ様、と言うのも変だけど」
 ここで鞄を持ったまま沙織が友之の背中に両腕を回して軽く抱き付き、顔を上げて彼の唇に自分のそれを重ねた。滅多に自分の方からはしてこない彼女のその行動に、友之は一瞬驚いた表情になってから、破顔一笑する。


「沙織補給の前取りだな。うん、元気が出てきた。週末を楽しみに、頑張って働くか」
「それなら良かった。でも無理はしないでね」
「分かってる。それじゃあまずしっかり食べて、体力をつけないとな」
 その日、久しぶりに全員が顔を揃えた松原家の夕食の席は、いつも以上に笑顔が満ち溢れていた。



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