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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(72)嵐の前の静けさ

 配属当初は懸念していたものの、吉村は傍目には問題なく二課に受け入れられ、仕事ぶりも順調だった。一月も下旬になると、友之も彼に対しては特に隔意を抱かないようになっていたが、それとは別の懸念が生じていた。


「来月はバレンタインだな。今年はどうしたものか……」
 家族全員で食事中、独り言のように友之が呟いた台詞を聞いて、沙織が不思議そうに尋ねた。


「『どうする』って、何がですか?」
「結婚したんだし、これまで通りにチョコを貰うわけにはいかないだろうが」
「ああ……、そういう事ですか。別に私は気にしませんけど?」
「俺は気にするんだ」
「そうですか?」
「…………」
 難しい顔になっている友之とは対照的に沙織は平然と言葉を返し、そんな二人を眺めながら真由美が息子を宥めた。


「他の女性からチョコを貰っても、嫉妬しない奥さんなんだから、ここは喜ぶ所じゃないの?」
「確かにそうだな。これまで毎年、結構な数を貰っているし。そもそも沙織さんは、それを全部知っているんだろう?」
「勿論です。それに実際問題、周囲に結婚している事を秘密にしていますから、急にチョコは受け取れないと言ったら不審に思われませんか?」
「だから悩んでいるんだろうが」
 両親に加えて沙織にも指摘された友之は、益々渋面になった。しかし義則は、そんな息子の悩みをあっさりと片付ける。


「それなら虫歯を治療中だから、それが終了するまで甘い物を控える事にしているとでも言えば良いんじゃないか?」
「虫歯……」
「なるほど」
「あなた、さすがだわ!」
「いや、大した事では無いさ」
 妻に誉められてまんざらでもない父親を見ながら、友之は深い溜め息を吐いた。


「そうだな。取り敢えず、今年はそれでいくか」
「それなら早速明日にでも、愛でる会に情報を流しますね。早々と準備する人がいないとも限りませんし」
「ああ、頼む」
「本音を言えば、色々な期間限定厳選チョコが食べられなくて、少し残念ですけど」
「沙織、あのな」
 つい自分の願望を漏らした沙織に、友之が苦虫を噛み潰したような顔になると、真由美が笑いながら頷く。


「そうなのよね。毎年、友之が貰って来た物は美味しくいただいているけど、バレンタイン限定品とかを探して、あれにしようかこれにしようかと悩むのも楽しいわよね」
「お義母さんはお義父さんに、毎年渡しているんですか?」
「ええ、そうよ。沙織さん、今年は一緒に買いに行かない?」
「そうですね。行きましょうか。友之さん用の他に、自分用も買いたいですし。あ、お義母さんにも贈りましょうか?」
「あら、嬉しい! 是非欲しいわ!」
 それからは色々なチョコの話で沙織達は盛り上がり、その様子を友之達は微笑ましそうに見守った。
  その夜は気分良く過ごしたものの、翌日友之は不愉快な話を聞かされる事になった。


「課長、今少し良いですか?」
「ああ、構わない。どうかしたのか?」
  自分の机までやって来た朝永が声をかけてきた為、友之は仕事の手を止めて彼に視線を向けた。すると朝永は近くの席が無人である事を確認した上で、声を潜めながら慎重に告げてくる。


「その……、吉村の事ですが……」
「彼に何か問題でも?」
「仕事上では、問題ありません。元々営業職ですし、もううちの課で取り扱っている製品ラインナップを頭に入れて、仕様も大方は把握しているようです」
「そうか。それなら数ヶ月以内に、個別担当を持たせても良いレベルか?」
「はい。それは良かったんですが……」
「さっきも言っていたが、仕事以外の事で何か?」
  普段の彼らしく無いどうにも煮え切らない口調に、友之が話の先を促してみると、朝永は困惑しきった表情で報告してくる。


「あ、いえ、仕事に関係すると言えば、関係しているんですが……。やたらと課長と関本に関する事について聞かれるので、ちょっとどうなのかと思いまして……」
  それを聞いた友之の頬が僅かに引き攣ったが、表面上は平然と話を続けた。


「俺と関本に関する事と言うと、具体的には?」
「家族構成とか、交友関係とかですね。勿論、俺を初めとして、課内全員が把握している程度の内容ですが。最初はうちに馴染むために、世間話のきっかけになるようなネタでも収集しているのかと思っていたんですが……」
「そうか。だが俺には別に知られて困るような事は無いし、関本も同様だろう。それは気にしなくて良い。これからも聞かれたら、知っている範囲で話して構わない」
「分かりました。話はそれだけです。失礼しました」
  友之が鷹揚に頷き、朝永も安堵した表情で席に戻ったが、それから友之は密かに考え込んでいた。


(この間仕事上の事で会話はしたが、特にプライベートな話をする機会は無かったがな)
  これまでの吉村とのやり取りを思い返し、自分達の個人的な情報など特に必要無いだろうと結論付けた友之は、その日の夜、早速対策を取る事にした。


「父さん、ちょっと頼みがあるんだが」
「どうした?」
 書斎に入って来た友之に、いきなりそんな事を言われた義則は、面食らいながらも椅子ごと息子に向き直った。対する友之は、時間を無駄にせず本題に入る。


「急がないが機会があれば、人事部に探りを入れて欲しい事がある」
「理由を言ってみろ」
 下手をすると公私混同と言われかねない要求に、義則が冷静に仔細を尋ね、友之は簡潔にこの間の吉村の言動に関して報告した。それを聞いた義則が、真顔で考え込む。  


「なるほど……。それは確かに気になるな。それなら、何か用事があって人事部長と顔を合わせた時にでも、『即戦力を配置してくれて、息子がとても喜んでいる。誰か彼を紹介してくれた人がいたなら、私からも一言礼を言いたいが』とでも、さり気なく聞いてみるか」
「そうしてくれたら助かる。それと興信所に、吉村の経歴調査を依頼する。特に鹿取技工を辞めた前後を中心に。一応、父さんの了解を取っておこうと思っていた」
 その申し出に、義則は深く頷いた。


「仕方あるまい。お前に対してもそうだが、沙織さんの事まで色々聞き込んでいるとなると、放置もできん。お前達が結婚している事を、疑われているのか?」
「他の課員には疑われている気配は無いし、その可能性は低いとは思うが……」
 首を傾げた友之だったが、次に義則が口にした台詞を耳にして、瞬時に真顔になった。


「その吉村とやらはお前達と直接の面識は無いそうだが、お前達に恨みを持っている人物の関係者や、縁故者という可能性は無いか?」
「……あの女関係だと?」
「言ってみただけだ。とにかく、注意をしておくに越した事は無いだろう。人事部の方は任せておけ」
「宜しく」
 自分が言外にほのめかした内容を正確に察知し、冷えきった視線を向けてきた息子を、義則は冷静に宥めた。対する友之も父親相手に愚痴をこぼす気にはならず、おとなしく引き下がる。


(まさか本当に、吉村があの女の関係者ではないだろうな? それなら俺に対して、色々と思うところがあっても、不思議では無いが。すっかり忘れていたのに、どこまで祟るつもりだ)
 忌々しい気持ちで一杯になりながら廊下を歩いて階段を下りようとした所で、友之は上がって来た沙織と遭遇した。


「あ、友之さん。どこに行ってたんですか。一緒にケーキを食べながら、珈琲でも飲みません?」
「ちょっと父さんの所にな。俺も飲むから、準備してくれるか?」
「分かりました」
 不思議そうに見上げてきた沙織に笑って誤魔化し、友之はリビングに向かった。そしてソファーに落ち着いて少ししてから、沙織が二人分のケーキと珈琲を運んで来る。


「お待たせしました。今日のシフォンケーキは、お義母さんの力作だそうですよ?  美味しそうですよね」
「母さんは?」
「二人で食べるなら、邪魔はしないからと言って、さっき入れ違いに二階に上がって行きましたけど」
「……そうか」
  難しい顔で食べ始めた友之を、沙織は慎重に観察してみた。


(何だろう?  確かに友之さんは、仕事の愚痴を零すタイプではないけど、変に溜め込まないで即断即決の人だと思っていたんだけど……)
  そんな事を考えていると、友之が徐に口を開いた。


「沙織……、ちょっと確認したいんだが」
「なんですか?」
「この間吉村と、個人的な話をした事があるか?」
「吉村さんと?  仕事上の事ならともかく、個人的な事……。記憶に無いですけど」
「だろうな。それなら良いんだ」
  そこであっさり話を終わらせ、黙々とケーキと珈琲を喉に流し込んでいる風情の友之を見て、沙織は僅かに顔をしかめた。


(せっかくのお義母さんのケーキと、淹れてあげた珈琲を、そんなありがたみが無いような感じで飲み食いしなくとも……。何を考え込んでいるのか知らないけど、意識をこっちに向けてやろうじゃない)
  腹を立てるのとはまた別の苛立ちを覚えた沙織は、さりげなく話題を切り出した。


「友之さん、今度のバレンタインに関してお義母さんと相談したんですけど、チョコケーキを作る事になったんです」
  それに友之が、不思議そうな顔で反応する。
「ケーキ?  チョコを買いに行くとか言ってなかったか?」
「勿論、自分達で食べる分は、二人で買いに行きますよ?」
「あまり意味が分からないが……」
「それともやっぱり、市販のチョコの方が良いですか?  それもいつかのように、冷やした物の方がよいというなら、腕によりをかけてキンキンに冷やして」
  沙織がそこまで言ったところで友之が勢い良く向き直り、真顔で訴えた。


「ちょっと待て、それは勘弁してくれ。あれは正直、歯が欠けるかと思った」
「そんなに血相を変えて、懇願するような事じゃ無いでしょう」
  思わず失笑した沙織だったが、友之の切迫した表情での訴えは続いた。


「笑い事じゃ無いから。結婚して初めてのバレンタインであんな物を出されたら、本当に歯だけではなくて心も折れる」
「はいはい、リクエストは確かに承りました。甘くて柔いケーキにしましょう」
「頼むからロシアンルーレット的な、中に何か仕込んで複数準備するのも無しで頼む」
「どこまで被害妄想が酷いんですか。そんな事までしませんよ!」
 とうとう本気で笑い出した沙織を見て、友之も自分の情けない言動に苦笑するしかなく、それからは嫌な事は忘れて二人でのひと時を過ごした。そんな友之は知る由も無かったが、最近の憂いの原因の一人でもある吉村は、同じ頃、とある料亭の個室で松原工業の幹部の一人と向き合っていた。


「田宮さん、お疲れ様です」
  酌をしてきた吉村に鷹揚に頷き、グラスを差し出しながら田宮は相手に近況を尋ねた。


「ああ、お疲れ。どうかな? 仕事にはだいぶ慣れたかな?」
「はい。従来取り扱っていた物と、同様の製品ですから。勿論、松原工業の取り扱い商品の方が質が良いですし、ラインナップも豊富ですが」
「それはどうも」
「ところで、田宮さんから頼まれている事ですが、まだはっきりとした事は掴めていません。申し訳ありません」
 大吟醸の小瓶を座卓に置き、面目無さげに頭を下げた吉村だったが、田宮はそんな彼を苦笑気味に宥めた。


「いや、それは構わない。配属されて一ヶ月もしないうちに掴めるようなら、とっくに社内の噂になっているだろう。焦らず探ってくれれば良い」
「分かりました」
「それで……、君の目から見て、松原課長はどうかな?」
 田宮が探るような視線で尋ねると、吉村はまるで認めたくは無さそうな口調で答える。


「……仕事は、できるみたいですね」
「まあ、そうだろう。目的の為には、手段を選ばないタイプだな。前例もある」
「そうですか……」
 苦虫を噛み潰したような顔で同意した田宮に、吉村も憮然とした表情で相槌を打つ。しかし流石に田宮は即座に気持ちを切り替え、いつも通りの顔で吉村に指示を出した。


「引き続き、よろしく頼むよ。なまじ仕事ができるだけに、色々と厄介でね。今後の事を考えると、おとなしくさせるネタがあれば、それを掴んでおくに越した事は無い」
「お任せください。こちらで拾って貰った恩は返します」
「君には色々な意味で、期待しているよ」
 そこで含み笑いの表情を浮かべた二人は、それからは社内の情報交換をしつつ、機嫌良く飲み進めた。



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