酸いも甘いも噛み分けて
(65)ちょっとした波乱の週末
事実婚後も友之と沙織は職場では通常通り勤務を続け、当初はさすがに緊張した沙織も、金曜には完全に平常心で勤務を終えて帰宅した。
「お義母さん。今夜のご飯も、とても美味しいです」
「ありがとう。そう言って貰えると作り甲斐があるし、嬉しいわ」
「本当に……、友之さんと結婚して良かった……。家に帰ると何もしなくても、温かくて美味しいご飯が待ってるなんて……。働き始めて、今が一番充実しているかも」
「そうなの? それは良かったわ」
一家全員が顔を揃えた夕食の席で、沙織が実にしみじみとした口調で語る内容に、真由美はおかしそうに笑いながら応じ、友之は軽く俯きながらボソッと呟く。
「……俺は母さんの添え物か」
「拗ねるな、友之」
妻同様、笑いを堪えながら息子を宥めてから、義則は視線を沙織に向けた。
「そう言えば沙織さん。結婚してから最初の週が終わったが、職場では何か困った事や、心配になった事は無かったのかな?」
この間、何も言っていなかったので大丈夫だろうがと思いながら問いかけた義則だったが、予想通り沙織は冷静に返してきた。
「そう言った事は、特にありませんでした。今のところ友之さんとの関係は、誰にも気付かれていない筈ですし」
「それなら良いんだがな」
それで二人の会話が終わったと判断した真由美が、笑顔で沙織に提案してきた。
「沙織さん。例のお菓子作りの件だけど、早速、明日か明後日の午後にやってみる? 仕事の疲れが溜まっているなら、来週以降でも構わないけど」
それに沙織が笑顔で頷く。
「今週は外回りは少なかったですし、出張も無かったので大して疲れていませんから。大丈夫ですよ?」
「良かった。じゃあアップルパイでも作ろうかと思っていたの」
「是非、お願いします」
そんな風に笑顔で会話している彼女達を、義則は勿論友之も、微笑ましく見守ったいた。
「うふふ……。明日は沙織さんと一緒に、お菓子作りよ」
夕食を食べ終えると、友之と沙織が部屋へと引き上げた為、真由美と義則はリビングへと移動してお茶を飲んでいた。そして向かい側に座って嬉しそうに予定を口にしている妻を見て、義則がおかしそうに笑う。
「随分とご機嫌だな」
「ええ。だって嬉しいし、楽しみだもの」
「それは良かったな。しかし今後、どうしたものかな……」
「あなた?」
急に真顔で考え込み始めた夫に、真由美が訝しげに尋ねる。それを受けて義則が、懸念事項を口にした。
「その……、取り敢えず本人達が納得しているのだから、事実婚もそれを周囲に公表しない事も、周りがどうこう言う筋合いは無いんだが……。やはり、後々の事を考えるとな」
「それは確かにそうだけど……」
「とはいえ『社長が身内の為に、人事に関わりかねない話を持ち出した』という形になると、さすがに公私混同と言われかねない。別に、職場結婚自体を禁じているわけでは無いしな……。結婚前にも友之達と少し議論した事だが、そこら辺を少し本気で考えてみようと思う」
「お願いね、あなた」
「ああ」
真剣な顔つきで述べた義則を真由美は頼もしく見やり、その視線を受けた彼は少々照れ臭そうに頷いて応じた。
「沙織、入って良いか?」
「良いですよ?」
入浴も済ませ、パジャマ姿でベッドで寛いでいた沙織は、ドアをノックする音と呼びかける声に、すぐに了承の返事をした。しかし友之がドアを開けて入ってくるまでに、若干のタイムロスが生じた為、不思議に思いながら尋ねる。
「何をごそごそやっていたんですか?」
「ドアのプレートを『在室中』から『立入禁止』に変えてきた」
それを聞いた沙織は、思わずベッドに突っ伏して呻いた。
「本当に……、先週あの話を聞いた時には、半分位はからかうネタか冗談だと思っていたのに……。お義母さんから現物を見せられた時には、ちょっと現実逃避したくなりました」
それを聞いた友之は、ベッドに腰を下ろしながら同意しつつ謝る。
「俺も全く同じ心境だった。すまない。本当に、母さんには悪気は無いんだ」
「それは分かっていますから、本当にもう良いです」
「さて、それじゃあプレートを有効活用するべく、夫婦らしい時間を過ごすとするか」
「あ、ちょっと待ってください。忘れないうちに、タイマーをセットしておかないと」
そこで沙織に向き直った友之だったが、ここで彼女は素早く跳ね起きて、枕元のアラームに手を伸ばした。それを見た友之が、些か不満そうに問いかける。
「明日は休みだし、特に出かける予定も無いだろう? どうしてタイマーをセットす必要があるんだ?」
「平日は毎日、朝も夕も食事の支度をして貰っているので、休みの日位、朝食の支度を任せて欲しいと、お義母さんに言ってあるんです」
「……まあ確かに、それ位はな」
軽く頷き、傍目には同意を示した友之だったが、そのアラームに向けられた視線には良い悪戯を思い付いたという子供のような光が混ざっていた。
翌朝、義則と真由美が夫婦揃って朝食を食べ終え、ダイニングテーブルに着いたままお茶を飲みつつ談笑していると、そこに友之が現れて少々ばつが悪そうに挨拶をしてきた。
「おはよう」
「おはよう、友之」
「沙織さんは?」
真由美が尋ねると、友之は母親から微妙に視線を逸らしながら、自分の椅子に座る。
「ああ……、うん。まだ寝てるんじゃないか? 沙織の部屋を出る時に、アラームをオフにしておいたし」
その台詞を聞いて、すぐに事情を悟ってしまった義則は呆れ顔で息子を窘め、真由美は笑顔で立ち上がって息子の為に朝食を暖め直す。
「友之……。お前、沙織さんに怒られるぞ?」
「あ、やっぱりそうだったのね。沙織さんが『いつも朝食を作って貰っているので、休みの日位準備しますから』と言われていたんだけど、何となく起きられなくなりそうな気がしたから、普通に起きてちゃんと朝ご飯を準備しておいたから大丈夫よ」
「……どうもありがとう」
すっか母親に見抜かれていた事実に友之は居心地が悪い思いをしたが、そんな息子の姿を見た真由美は、益々笑みを深めた。
「どういたしまして。沙織さんは起こさなくて良いから、友之だけ先に食べてしまいなさい。お腹が空いてるでしょう? 大盛にしてあげたから、しっかり食べてね」
「いただきます」
両親から生温かい目を向けられながら朝食を食べ終えた友之は、リビングに移動してからも真由美にからかい倒される事になった。
「沙織さん、何時頃に起きてくるかしらね?」
「さぁ……、どうだろうな」
「お昼ご飯はあっさり目にしようかと思っていたけど、朝昼兼用でボリュームのある物にした方が良いかしら?」
「いや……、普通で良いと思うから」
(沙織さんも気の毒に。相当、気まずい思いをするだろうな)
離してくれる気配の無い母親に、辟易しながらも辛抱強く付き合っている友之を眺めながら、義則はこの場には居ない沙織に深く同情した。するとそこで、廊下の方から物音が伝わってくる。
「あら?」
「ああ、起きたみたいだな」
義則が苦笑いしたのとほぼ同時に、リビングのドアが勢い良く押し開かれ、怒りと羞恥で顔を真っ赤に染めた沙織が姿を現した。
「居た! 友之さん!」
「ああ、おはよう、沙織。良く眠れたか?」
全く弁解する気配も無く、ソファーに座ったまま爽やかに挨拶してきた友之に向かって沙織は突進し、両手でその胸倉を掴みながら怒鳴りつけた。
「眠れたか? じゃないわよっ!! 何やらかしてくれてんの!! 私のアラームを解除したわね!? ごまかそうとしても無駄よっ!!」
しかしその非難の声に、友之は悪びれずに答える。
「セットした時刻を見たら、随分早かったからな。あれだと睡眠時間が足りないだろう」
「もっと早く寝ようと思っていたのに、友之がしつこかったせいでしょうがっ!! 大体、今日は休みだし、私が朝食を作るってお義母さんと約束してるって言ったわよねっ!?」
「ああ、聞いた。だから母さんには、ちゃんと俺から謝っておいたから安心しろ」
「あっ、謝っておいたってねぇぇっ!!」
「沙織さん、本当に気にしないでね? 多分、そうなるんじゃないかなと思っていたから、私がちゃんと準備しておいたから大丈夫よ」
ここでのんびりとした口調で真由美が会話に混ざってきた為、沙織は幾分狼狽しながら彼女に向き直った。
「それは本当に申し訳ない上に、大変ありがたく……、いえ、そういう問題では無くてですね」
「いやぁ、初めて見たなぁ……」
「はい? お義父さん、何がですか?」
更に義則が、妙にしみじみとした口調で呟いたのを聞いた沙織が反射的に顔を向けると、彼はそのままの口調で指摘してくる。
「沙織さんが友之を呼び捨てにして、罵倒している姿。うん、凄く新鮮だ」
「……あら、そう言えばそうね。でもいつもより夫婦っぽいわよね」
「…………」
うんうんと真由美が頷く中、沙織は無言で顔を引き攣らせ、友之は笑いながら提案する。
「じゃあ時々は本気で怒らせて、理性を吹っ飛ばさせてみるか? そのうちに慣れて、いつでもタメ口になるかもしれないし」
「こんの馬鹿友之――っ!! 少しは反省しろ――っ!!」
憤怒の表情の沙織は、再び両手で激しく友之を揺さぶり始めたが、彼はされるがままの状態でおかしそうに笑い続け、両親は呆れた表情を隠そうともせずに短く忠告した。
「友之。本当に離婚されるから、次は止めておけ」
「そうよ。洒落にならないから、今度からはアラーム時刻を、一時間遅らせるだけにしなさいね?」
「そういう問題じゃないですよ……」
大真面目に真由美が口にした内容を耳にした沙織はがっくりと項垂れ、友之から手を離してリビングの床に座り込んだ。そんな彼女を気の毒に思いつつ、友之達は総出で彼女を宥めながら、遅い朝食を食べさせる事になった。
「全くお前と言う奴は……。あんなに真っ赤になって、沙織さんが気の毒だろうが」
「そろそろ起こしに行こうとは、思ってはいたんだがな」
「今日と明日で、ちゃんとご機嫌を取っておけよ?」
「分かってるよ」
気まずい思いをしながら食べ続ける嫁を見ながら、義則は息子に言い聞かせ、友之は素直に頷いて、取り敢えず平穏無事にその土日は過ぎていった。
※※※
「佐々木君。お願いだから私の話を良く聞いて。そして素直に聞き分けてくれたら、もの凄く嬉しいわ」
朝の始業時間前。職場の片隅で佐々木と向かいあっていた沙織が真顔で告げると、彼も大真面目に答える。
「勿論、先輩がそこまで仰るからには、後輩として素直に指示に従うつもりです」
「ありがとう。それでさっきの申し入れに関してだけど、佐々木君の気持ちは分かるし、ありがたいとは思ってはいるけど、断らせて貰うわ」
あっさりと結論付けた沙織に対し、佐々木は納得しかねる声を上げた。
「先輩、どうしてですか!? 俺の力量では先輩の人生を預かるには、不満だと思っているんですか!?」
「そうじゃないから。佐々木君位目端が利いてそつが無くて、気配りもできる人が言ってくれた事なら、大抵の人なら喜んで頷くと思うけど」
「酷いです、先輩! 俺は仕事ならともかく、プライベートでは年下だから頼り無いと言うんですか!? 一度、ちゃんと試してみてください! きっと先輩を満足させてみせますから!」
「だから、満足させるさせないの問題じゃなくてね」
沙織が内心でうんざりしながら、どうやって相手を納得させようかと思案していると、ここで周囲から呆れ気味の声がかけられた。
「おい、お前ら。朝っぱらから職場で、何を話しているんだ?」
「プライベートな話ですから、始業時間前に話しているんですよ、朝永さん」
「話だけ聞くと、関本が後輩を弄んだ挙げ句に袖にしている、痴話喧嘩にしか聞こえないぞ」
「人聞き悪過ぎます、田淵さん。合コンへの参加を、丁重に断っているだけじゃないですか」
憮然としながら弁解した沙織だったが、そんな彼女の両肩を掴みながら、佐々木が真摯な表情で訴えてくる。
「先輩! 諦めるのは早いです! 先輩の人生は、まだまだこれからじゃないですか! 本気で人生を切り拓きましょう!」
「うん、本気で私の人生を心配してくれるのは嬉しいんだけどね? 全然人生を諦めていないし、ちょっと……、いえ、かなり余計なお世話だから」
「先輩……」
沙織が思わず本音を漏らした途端、佐々木が涙目になる。それを見た周囲から、複数の溜め息が漏れた。
「関本、後輩を泣かせるなよ……」
「合コンに出る位、良いじゃないか」
「皆さん、他人事だと思って……」
思わず渋面になった沙織は、既に出社している友之が居る、課長席を見やった。
(本当に頭が痛い。こんな事を続けていると、友之さんが勤務評定に私情を挟みかねないから、佐々木君の将来に傷を付けない為にも、きちんと言い聞かせないといけないのに)
そして始業時間になる事を理由に、佐々木と共に自分の机に戻りながら、沙織は事態が悪化しないように切に願った。
(勿論、そういう公私混同はしないと、友之さんを信じてますけどね? 信じて良いわよね!?)
帰宅したらもう一度念を押しておこうと決意しながら、沙織は気持ちを切り替えてその日の仕事に取りかかった。
「お義母さん。今夜のご飯も、とても美味しいです」
「ありがとう。そう言って貰えると作り甲斐があるし、嬉しいわ」
「本当に……、友之さんと結婚して良かった……。家に帰ると何もしなくても、温かくて美味しいご飯が待ってるなんて……。働き始めて、今が一番充実しているかも」
「そうなの? それは良かったわ」
一家全員が顔を揃えた夕食の席で、沙織が実にしみじみとした口調で語る内容に、真由美はおかしそうに笑いながら応じ、友之は軽く俯きながらボソッと呟く。
「……俺は母さんの添え物か」
「拗ねるな、友之」
妻同様、笑いを堪えながら息子を宥めてから、義則は視線を沙織に向けた。
「そう言えば沙織さん。結婚してから最初の週が終わったが、職場では何か困った事や、心配になった事は無かったのかな?」
この間、何も言っていなかったので大丈夫だろうがと思いながら問いかけた義則だったが、予想通り沙織は冷静に返してきた。
「そう言った事は、特にありませんでした。今のところ友之さんとの関係は、誰にも気付かれていない筈ですし」
「それなら良いんだがな」
それで二人の会話が終わったと判断した真由美が、笑顔で沙織に提案してきた。
「沙織さん。例のお菓子作りの件だけど、早速、明日か明後日の午後にやってみる? 仕事の疲れが溜まっているなら、来週以降でも構わないけど」
それに沙織が笑顔で頷く。
「今週は外回りは少なかったですし、出張も無かったので大して疲れていませんから。大丈夫ですよ?」
「良かった。じゃあアップルパイでも作ろうかと思っていたの」
「是非、お願いします」
そんな風に笑顔で会話している彼女達を、義則は勿論友之も、微笑ましく見守ったいた。
「うふふ……。明日は沙織さんと一緒に、お菓子作りよ」
夕食を食べ終えると、友之と沙織が部屋へと引き上げた為、真由美と義則はリビングへと移動してお茶を飲んでいた。そして向かい側に座って嬉しそうに予定を口にしている妻を見て、義則がおかしそうに笑う。
「随分とご機嫌だな」
「ええ。だって嬉しいし、楽しみだもの」
「それは良かったな。しかし今後、どうしたものかな……」
「あなた?」
急に真顔で考え込み始めた夫に、真由美が訝しげに尋ねる。それを受けて義則が、懸念事項を口にした。
「その……、取り敢えず本人達が納得しているのだから、事実婚もそれを周囲に公表しない事も、周りがどうこう言う筋合いは無いんだが……。やはり、後々の事を考えるとな」
「それは確かにそうだけど……」
「とはいえ『社長が身内の為に、人事に関わりかねない話を持ち出した』という形になると、さすがに公私混同と言われかねない。別に、職場結婚自体を禁じているわけでは無いしな……。結婚前にも友之達と少し議論した事だが、そこら辺を少し本気で考えてみようと思う」
「お願いね、あなた」
「ああ」
真剣な顔つきで述べた義則を真由美は頼もしく見やり、その視線を受けた彼は少々照れ臭そうに頷いて応じた。
「沙織、入って良いか?」
「良いですよ?」
入浴も済ませ、パジャマ姿でベッドで寛いでいた沙織は、ドアをノックする音と呼びかける声に、すぐに了承の返事をした。しかし友之がドアを開けて入ってくるまでに、若干のタイムロスが生じた為、不思議に思いながら尋ねる。
「何をごそごそやっていたんですか?」
「ドアのプレートを『在室中』から『立入禁止』に変えてきた」
それを聞いた沙織は、思わずベッドに突っ伏して呻いた。
「本当に……、先週あの話を聞いた時には、半分位はからかうネタか冗談だと思っていたのに……。お義母さんから現物を見せられた時には、ちょっと現実逃避したくなりました」
それを聞いた友之は、ベッドに腰を下ろしながら同意しつつ謝る。
「俺も全く同じ心境だった。すまない。本当に、母さんには悪気は無いんだ」
「それは分かっていますから、本当にもう良いです」
「さて、それじゃあプレートを有効活用するべく、夫婦らしい時間を過ごすとするか」
「あ、ちょっと待ってください。忘れないうちに、タイマーをセットしておかないと」
そこで沙織に向き直った友之だったが、ここで彼女は素早く跳ね起きて、枕元のアラームに手を伸ばした。それを見た友之が、些か不満そうに問いかける。
「明日は休みだし、特に出かける予定も無いだろう? どうしてタイマーをセットす必要があるんだ?」
「平日は毎日、朝も夕も食事の支度をして貰っているので、休みの日位、朝食の支度を任せて欲しいと、お義母さんに言ってあるんです」
「……まあ確かに、それ位はな」
軽く頷き、傍目には同意を示した友之だったが、そのアラームに向けられた視線には良い悪戯を思い付いたという子供のような光が混ざっていた。
翌朝、義則と真由美が夫婦揃って朝食を食べ終え、ダイニングテーブルに着いたままお茶を飲みつつ談笑していると、そこに友之が現れて少々ばつが悪そうに挨拶をしてきた。
「おはよう」
「おはよう、友之」
「沙織さんは?」
真由美が尋ねると、友之は母親から微妙に視線を逸らしながら、自分の椅子に座る。
「ああ……、うん。まだ寝てるんじゃないか? 沙織の部屋を出る時に、アラームをオフにしておいたし」
その台詞を聞いて、すぐに事情を悟ってしまった義則は呆れ顔で息子を窘め、真由美は笑顔で立ち上がって息子の為に朝食を暖め直す。
「友之……。お前、沙織さんに怒られるぞ?」
「あ、やっぱりそうだったのね。沙織さんが『いつも朝食を作って貰っているので、休みの日位準備しますから』と言われていたんだけど、何となく起きられなくなりそうな気がしたから、普通に起きてちゃんと朝ご飯を準備しておいたから大丈夫よ」
「……どうもありがとう」
すっか母親に見抜かれていた事実に友之は居心地が悪い思いをしたが、そんな息子の姿を見た真由美は、益々笑みを深めた。
「どういたしまして。沙織さんは起こさなくて良いから、友之だけ先に食べてしまいなさい。お腹が空いてるでしょう? 大盛にしてあげたから、しっかり食べてね」
「いただきます」
両親から生温かい目を向けられながら朝食を食べ終えた友之は、リビングに移動してからも真由美にからかい倒される事になった。
「沙織さん、何時頃に起きてくるかしらね?」
「さぁ……、どうだろうな」
「お昼ご飯はあっさり目にしようかと思っていたけど、朝昼兼用でボリュームのある物にした方が良いかしら?」
「いや……、普通で良いと思うから」
(沙織さんも気の毒に。相当、気まずい思いをするだろうな)
離してくれる気配の無い母親に、辟易しながらも辛抱強く付き合っている友之を眺めながら、義則はこの場には居ない沙織に深く同情した。するとそこで、廊下の方から物音が伝わってくる。
「あら?」
「ああ、起きたみたいだな」
義則が苦笑いしたのとほぼ同時に、リビングのドアが勢い良く押し開かれ、怒りと羞恥で顔を真っ赤に染めた沙織が姿を現した。
「居た! 友之さん!」
「ああ、おはよう、沙織。良く眠れたか?」
全く弁解する気配も無く、ソファーに座ったまま爽やかに挨拶してきた友之に向かって沙織は突進し、両手でその胸倉を掴みながら怒鳴りつけた。
「眠れたか? じゃないわよっ!! 何やらかしてくれてんの!! 私のアラームを解除したわね!? ごまかそうとしても無駄よっ!!」
しかしその非難の声に、友之は悪びれずに答える。
「セットした時刻を見たら、随分早かったからな。あれだと睡眠時間が足りないだろう」
「もっと早く寝ようと思っていたのに、友之がしつこかったせいでしょうがっ!! 大体、今日は休みだし、私が朝食を作るってお義母さんと約束してるって言ったわよねっ!?」
「ああ、聞いた。だから母さんには、ちゃんと俺から謝っておいたから安心しろ」
「あっ、謝っておいたってねぇぇっ!!」
「沙織さん、本当に気にしないでね? 多分、そうなるんじゃないかなと思っていたから、私がちゃんと準備しておいたから大丈夫よ」
ここでのんびりとした口調で真由美が会話に混ざってきた為、沙織は幾分狼狽しながら彼女に向き直った。
「それは本当に申し訳ない上に、大変ありがたく……、いえ、そういう問題では無くてですね」
「いやぁ、初めて見たなぁ……」
「はい? お義父さん、何がですか?」
更に義則が、妙にしみじみとした口調で呟いたのを聞いた沙織が反射的に顔を向けると、彼はそのままの口調で指摘してくる。
「沙織さんが友之を呼び捨てにして、罵倒している姿。うん、凄く新鮮だ」
「……あら、そう言えばそうね。でもいつもより夫婦っぽいわよね」
「…………」
うんうんと真由美が頷く中、沙織は無言で顔を引き攣らせ、友之は笑いながら提案する。
「じゃあ時々は本気で怒らせて、理性を吹っ飛ばさせてみるか? そのうちに慣れて、いつでもタメ口になるかもしれないし」
「こんの馬鹿友之――っ!! 少しは反省しろ――っ!!」
憤怒の表情の沙織は、再び両手で激しく友之を揺さぶり始めたが、彼はされるがままの状態でおかしそうに笑い続け、両親は呆れた表情を隠そうともせずに短く忠告した。
「友之。本当に離婚されるから、次は止めておけ」
「そうよ。洒落にならないから、今度からはアラーム時刻を、一時間遅らせるだけにしなさいね?」
「そういう問題じゃないですよ……」
大真面目に真由美が口にした内容を耳にした沙織はがっくりと項垂れ、友之から手を離してリビングの床に座り込んだ。そんな彼女を気の毒に思いつつ、友之達は総出で彼女を宥めながら、遅い朝食を食べさせる事になった。
「全くお前と言う奴は……。あんなに真っ赤になって、沙織さんが気の毒だろうが」
「そろそろ起こしに行こうとは、思ってはいたんだがな」
「今日と明日で、ちゃんとご機嫌を取っておけよ?」
「分かってるよ」
気まずい思いをしながら食べ続ける嫁を見ながら、義則は息子に言い聞かせ、友之は素直に頷いて、取り敢えず平穏無事にその土日は過ぎていった。
※※※
「佐々木君。お願いだから私の話を良く聞いて。そして素直に聞き分けてくれたら、もの凄く嬉しいわ」
朝の始業時間前。職場の片隅で佐々木と向かいあっていた沙織が真顔で告げると、彼も大真面目に答える。
「勿論、先輩がそこまで仰るからには、後輩として素直に指示に従うつもりです」
「ありがとう。それでさっきの申し入れに関してだけど、佐々木君の気持ちは分かるし、ありがたいとは思ってはいるけど、断らせて貰うわ」
あっさりと結論付けた沙織に対し、佐々木は納得しかねる声を上げた。
「先輩、どうしてですか!? 俺の力量では先輩の人生を預かるには、不満だと思っているんですか!?」
「そうじゃないから。佐々木君位目端が利いてそつが無くて、気配りもできる人が言ってくれた事なら、大抵の人なら喜んで頷くと思うけど」
「酷いです、先輩! 俺は仕事ならともかく、プライベートでは年下だから頼り無いと言うんですか!? 一度、ちゃんと試してみてください! きっと先輩を満足させてみせますから!」
「だから、満足させるさせないの問題じゃなくてね」
沙織が内心でうんざりしながら、どうやって相手を納得させようかと思案していると、ここで周囲から呆れ気味の声がかけられた。
「おい、お前ら。朝っぱらから職場で、何を話しているんだ?」
「プライベートな話ですから、始業時間前に話しているんですよ、朝永さん」
「話だけ聞くと、関本が後輩を弄んだ挙げ句に袖にしている、痴話喧嘩にしか聞こえないぞ」
「人聞き悪過ぎます、田淵さん。合コンへの参加を、丁重に断っているだけじゃないですか」
憮然としながら弁解した沙織だったが、そんな彼女の両肩を掴みながら、佐々木が真摯な表情で訴えてくる。
「先輩! 諦めるのは早いです! 先輩の人生は、まだまだこれからじゃないですか! 本気で人生を切り拓きましょう!」
「うん、本気で私の人生を心配してくれるのは嬉しいんだけどね? 全然人生を諦めていないし、ちょっと……、いえ、かなり余計なお世話だから」
「先輩……」
沙織が思わず本音を漏らした途端、佐々木が涙目になる。それを見た周囲から、複数の溜め息が漏れた。
「関本、後輩を泣かせるなよ……」
「合コンに出る位、良いじゃないか」
「皆さん、他人事だと思って……」
思わず渋面になった沙織は、既に出社している友之が居る、課長席を見やった。
(本当に頭が痛い。こんな事を続けていると、友之さんが勤務評定に私情を挟みかねないから、佐々木君の将来に傷を付けない為にも、きちんと言い聞かせないといけないのに)
そして始業時間になる事を理由に、佐々木と共に自分の机に戻りながら、沙織は事態が悪化しないように切に願った。
(勿論、そういう公私混同はしないと、友之さんを信じてますけどね? 信じて良いわよね!?)
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