酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(63)新しい家族

 住民票を異動してから引っ越しを済ませた沙織は、その当日、松原家の面々から盛大な歓迎を受けた。


「それでは、今日から新しく家族になった沙織さんに、乾杯!」
「乾杯」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
 荷物を片付けているうちに夕方になり、真由美が準備した心尽くしの手料理が並んだテーブルを囲んだ四人は、上機嫌な真由美の音頭で乾杯した。それが済むと早速彼女が、沙織に尋ねてくる。


「取り敢えず、大きな荷物は片付いたみたいね」
「はい、すぐ使う物は出して収納し終えましたし、大丈夫です」
「でも本当に、あの客間にしていた部屋を使う事にして良かったの? お父さん達が使っていた部屋の方が広いけど……」
 困惑気味に言われた内容に、沙織は笑顔で答えた。


「あの部屋は既に泊まり込ませて貰った事があって、慣れていますし。できれば、あちらの方を使わせて貰いたいです。使ってみて不都合があれば、部屋替えをお願いしますので」
「そう? 本当に大丈夫?」
 まだ幾分納得しかねる顔付きの妻を、義則はやんわりと窘めつつ、沙織に声をかける。


「真由美。本人がそう言っているから、無理強いしなくとも良いだろう。沙織さん、もしこれから部屋を替えたい時には、遠慮無く言ってくれ。それから、今日からは家族になったわけだし、今後は私も『沙織さん』と名前呼びして構わないかな?」
「はい、お義父とうさん。両方とも了解しました」
「それは良かった」
 そこで互いに笑顔で頷きあっていると、真由美が笑顔で食べるように促してきた。


「さあ、沙織さん。遠慮しないでどんどん食べてね! 今日は腕によりをかけて、頑張っちゃったの!」
 そんな彼女の成果を眺めながら、男二人が微妙な顔で苦言を呈す。


「頑張り過ぎだろう」
「確かに、少々作り過ぎたみたいだな」
(沙織がプレッシャーを感じたら、どうしてくれるんだ?)
(沙織さんが、嫌みに捉える事は無いと思うが……)
 質、量共に十分過ぎる料理の数々を見た友之と義則は、心配そうに沙織の顔色を窺ったが、当の本人は純粋に真由美の料理の腕前を褒め称えた。


「はい、とても美味しく頂いています。以前お世話になった時にも思いましたが、お義母さんは本当に料理を筆頭に、家事が完璧ですよね」
「あら、それほどでも無いわよ? 単にこういう事が好きなだけで」
「でも家に帰ったら、毎日綺麗に片付いた家で、美味しい料理を作って出迎えてくれるなんて、本当に嬉しいです。友之さんより、寧ろお義母さんと結婚したい気分です」
「おい、沙織!」
 妙にしみじみとした口調で感想を述べた沙織に、思わず友之が突っ込みを入れる。しかし彼女はそのまま義則に顔を向け、笑顔で同意を求めた。


「お義母さんのような女性と結婚したお義父さんは、本当に果報者ですよね?」
「……そうだな。常日頃、自分の幸運を噛み締めているよ」
「嫌だもう! 沙織さんったら誉め過ぎよ!」
「いえ、正直な感想ですから」
 そんな笑顔での女二人のやり取りに、友之は僅かに顔を引き攣らせ、義則は苦笑する事しかできなかった。


(本当にそう思って言ってるよな!? 夫としての、俺の立場が無いんだが!?)
(うん、まあ……、嫁姑間で変な隔意が無いのは、結構な事だな)
 そこで急に沙織が、神妙な顔つきで言い出す。


「この前電話で話した時に、休日とかには家事を分担しますとは言いましたけど、手間暇をかけた真由美さんの料理と比べたら、私が作る物は簡単な時短料理だと思いますので……」
「あら、そんな事気にしないで?」
(やっぱり引け目に思うだろうが)
(事前に少し、言っておくべきだったか……)
 それ見たことかと友之達は内心で心配したが、それは杞憂に終わった。


「ですからこの機会に、真由美さんに手の込んだ料理を教えて貰いたいのですが」
 その沙織の申し出に、真由美は一も二もなく嬉々として頷く。


「ええ、勿論よ! 一緒に作りましょうね! 実はお揃いのエプロンも作ってみたの! 後で渡すわね? 早速だけど、どんな料理が作りたい?」
「一般的な食事のメニューもそうですが、実は私、お菓子類を殆ど作った事が無いんです」
「あら、そうなの?」
「はい。母はそういう物を、手作りするタイプでは無かったので……。日常の食事は作っていて、私も基本的な所は教えて貰いましたが」
「お母様は人並み以上に働きながら、女手一つで子育てをなさっておられたから、お休みの日もそれなりに忙しかったんでしょうね……」
 沙織の話に、しんみりした口調で応じた真由美だったが、すぐに力強く請け負った。


「分かったわ。それなら今後のお休みには、お菓子作りをしましょう。食べたい物があれば、それに合わせて材料や器具は準備しておくわ」
「ありがとうございます。楽しみです」
 それからは再び和やかに会話しつつ、食べ進めていく彼女達を見ながら、男二人は無言で目と目を見交わした。


(色々言いたい事はあると思うが、女同士で話が纏まっているんだから、余計な口は挟むなよ?)
(それ位、分かっているさ。心配要らないから)
 それからは四人揃って笑顔で食べ進め、沙織はまるで以前から家族の一員のようにリラックスしながら、夕食のひと時を過ごした。


 夕飯後、真由美を手伝って後片付けを済ませてから、沙織は自室へと戻った。そして細々とした物を引き出しや収納スペースに片付けていると、控え目にドアがノックされて、友之が姿を現す。


「ちょっと入っていいか?」
「どうぞ。本当に粗方、片付きましたし」
「そうみたいだな」
 部屋を見回しながら入ってきた友之は、幾分躊躇う様子でベッドの縁に腰掛け、沙織はそんな彼を見て不審に思いつつその隣に座った。


「どうかしたんですか?」
「いや……、もの凄く今更な話だが、本当にこの家で、俺の両親と同居で良かったのかと思って」
「本当に、今更ですよね……」
 沙織が完全に呆れ顔になりながら隣に座る友之に応じると、彼は面目なさげに話を続けた。


「俺はなんとなくそうするものだと思っていたし、沙織もこれまで特に異議は唱えなかったから、深く考えていなかったのは迂闊だったなと、改めて思ったんだ」
「本当に友之さんは、仕事では全くと言っていいほど隙が無いのに、プライベートでは時々思わぬ所で残念っぷりを発揮していますよね」
「……悪かったな」
 多少拗ねたように自分から視線を逸らした彼を見て、沙織は失笑してしまった。


「良いんじゃないですか? 私も結構迂闊な所はありますし、これからはお互いフォローしていけば。夫婦になったんですし」
「そうだな。改めて宜しく頼む」
「こちらこそ」
 苦笑いの表情で軽く頭を下げてきた友之に、沙織も笑顔で応じてから話を続けた。


「それにこの事に関しては、本当にあまり抵抗はありませんよ? 偶々同居しても支障がない、十分な広さの家があるんですから。家賃に使わない分を、貯蓄に回せるじゃ無いですか」
「やっぱりドライだな……」
「真由美さんに生活費を入れる約束をしましたが、その額は一人暮らしで使っていた食費、光熱費、管理費、その他諸々に費やしていた総額より少ないですし。却って申し訳ない位です。ここは真由美さんのご厚意に甘えて、しっかり貯める事にします」
 そんな事を握り拳で力説された友之は、思わず溜め息を吐く。


「なんだか俺よりも、沙織の方が貯めていそうだ……。俺の、年上で男としての立場が、危ういかもしれない……」
「真顔で何をつまらない事を言ってるんですか。それに一度、ここで生活させて貰いましたから。そのおかげで同居に関しては、あまり抵抗は無いですし」
「そうすると、あの勘違いヒモ男に関しては今でも思い出すとムカつくが、少しは俺達の役に立ったな」
「本当にそうですね」
 そこで顔を見合わせて笑ってから、沙織が急に真顔になって言い出した。


「ところで友之さんの方こそ、私に不満は無いんですか?」
「不満? 何に関してだ?」
 咄嗟に何の事か分からなかった友之が本気で戸惑っていると、沙織が神妙な表情で話を続ける。


「付き合い始めた頃にも言ったかと思いますが、どうも砕けた口調とかは無理っぽくて。うっかり職場で出そうで、怖いですし」
「それこそ今更の話だぞ? 俺は別に丁寧な口調でも一向に構わないし、徐々に慣れていくなら夫婦として染まっていくみたいで嬉しいし、うっかり職場で口を滑らせて、慌てる沙織の姿をニヤニヤしながら見守る楽しみができたしな」
 最初は呆れ顔だったものの、次第にからかうような表情で言われて、沙織は憮然とした表情で言い返した。


「最後のは何ですか……。趣味悪いですよ?」
「まあまあ、そう言わずに。万が一そんな事があったら、ちゃんと俺がフォローして誤魔化すから」
「当然ですよ。全くもう」
「それじゃあ、取り敢えず話しておきたい内容は話し終えたから、これからは新婚の夫婦らしく過ごす事にするか」
「え? ……はい?」
 そこで友之がさり気なく前傾姿勢を取った次の瞬間、沙織の両膝の裏に右腕を差し込んで持ち上げた。更に脚を持ち上げられたせいで背後に倒れかけた彼女の背中を左腕で支えつつ、場所を少し移動させてベッドの中央寄りに仰向けの状態にする。
 更に友之が自身に覆い被さる体勢になった段階で、相手がこれから何をする気か分かっていた沙織は、若干困ったように彼に告げた。


「友之さん。ちょっと時期尚早だと思うんですけど?」
 その主張に友之は軽く上半身を起こし、多少気分を害しながら沙織を見下ろす。


「何が時期尚早だ。ちゃんと夫婦になったんだし、ベッドに妻を押し倒して何が悪い」
「言い方を間違いました。タイミングが悪いと言ってるんです」
「はぁ? タイミングって、何の事だ?」
「夕食を食べている時、真由美さんが言っていたじゃないですか。エプロ」
「沙織さん! さっき教えた、お揃いのエプロンはこれなの! 沙織さんは若いから、やっぱりピンクで……」
「…………」
 そこでノックも無しに勢い良くドアが押し開かれ、左手にピンクと若草色の布地を手にした真由美が、明るい笑顔で乱入してきた。そしてベッドの上の状況を目の当たりにした真由美が目を見開いて口を噤み、友之が絶句して固まる中、そんな彼を横に押しのけながら、沙織が上半身を起こしつつ声をかける。


「そうなると、色違いで若草色の方が、真由美さんの物ですか? どちらも可愛い色ですね。ありがとうございます」
 一方の当事者の沙織にすこぶる冷静に返された真由美は、すぐにいつもの調子を取り戻した。


「どういたしまして。ところで、お取り込み中にごめんなさいね?」
「いえ、お気遣いなく」
「若いって良いわねぇ。だけどこれからもこういう事があると困るから、この部屋と友之の部屋用のドアプレートを、急いで準備するわ」
「え? ドアプレートって、何ですか?」
 ベッドから床に降り立ち、真由美に歩み寄ってエプロンを受け取ったものの、意味不明な事を言われて沙織は戸惑った。すると真由美が、大真面目に説明してくる。


「ほら、ホテルとかで『起こさないで下さい』とか『掃除して下さい』とか書いてある物を、廊下側に掛けておくでしょう?」
「ああ……、あれの事ですか」
「ええ。だから私達に邪魔されたくない時には、『取り込み中』のプレートをドアノブに掛けておいて頂戴。義則さんにも私から言っておくわ」
「ええと……」
「…………」
 その頃には元通りベッドの縁に座っていた友之は、片手で顔を覆いながら無言で項垂れ、そんな彼を横目で見た沙織は、慎重に異論を口にした。


「そこまで準備しなくても、良いと思いますが……。それにちょっと、露骨過ぎるような……」
「それなら、『使用中』とか?」
「それだと、更衣室とかトイレみたいですし……」
「あ、シンプルに『立入禁止』でも良いわよね!」
 そう言って一人納得して頷いている真由美を見て、沙織は完全に説得を諦めた。


(否定しまくっていると、どんな風に話が転がるか見当が付かないから、もうここら辺で頷いておいた方が良さそうだわ)
 そう決断した彼女は、頷いて同意を示した。


「そうですね。それ辺りが一番無難でしょうか」
「じゃあすぐに用意しておくわ! 友之、もう邪魔しないから頑張ってね! おやすみなさい!」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
 朗らかに息子夫婦に挨拶をし、手を振ってから何事も無かったかのように彼女が部屋を出て行くのを見送ってから、沙織はしみじみとした口調で感想を口にした。


「前々から思っていましたけど……、お義母さんって本当に、天真爛漫な女性ひとですよね。ところでお義母さんに言われた通り、今から頑張ってみます?」
 その問いかけに、友之は盛大な溜め息で応じる。


「気が削がれた。と言うか、また母さんに踏み込んで来られそうで、落ち着かない」
「幾らお義母さんでも、さすがに地震や火事とか起きない限りは、もう踏み込んで来ないと思いますけど?」
「さすがに俺も、地震や火事の真っ最中にしようとは思わない。今日は引っ越しだったし、荷物は少なかったにしても疲れただろうから、引き上げる。ゆっくり休んでくれ」
 そう言いながら腰を上げた友之を、沙織も無理に引き止めようとはしなかった。


「じゃあそうしますね。おやすみなさい」
「ああ」
 そして軽く唇に触れるだけのキスをして、友之はあっさり部屋を出て行き、沙織はもう少し細々した物を整理整頓してから風呂に入って寝支度を済ませた。


「確かに疲れたけど、今日は気持ち良く眠れそう。やっぱり社長や真由美さんと同居していた事があったのが、大きかったよね」
 そんな事を呟きながら沙織はベッドに入り、全く不安を覚えたり緊張したりせず、引っ越し初日に熟睡したのだった。





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