酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(62)結婚に向けての協議事項

「いらっしゃい。今日はまた、結構な荷物ですね」
 土曜日に自宅で友之を出迎えた沙織は、両手一杯に荷物を抱えていた彼に、呆れ気味の声をかけた。それに友之が苦笑しながら、色とりどりの花束を差し出す。


「よくよく考えてみたら、沙織にこれまできちんと花を贈っていなかった事に気が付いて、急遽花屋に寄って来た」
「何をやってるんですか」
「もうすぐ引っ越しするし、その前に色々きちんと手順を踏まえておきたいからな。今年はバタバタしているうちに、誕生日も過ぎてしまったし。これで勘弁してくれ」
 そんな事を言われながら花束を受け取った沙織は、苦笑を深めた。


「だからと言って、何も駆け込みで花を贈らなくても……。笑えますよ」
「おかしかったら笑って良いぞ?」
「とにかく、花を飾りますから。後から思い出し笑いさせて貰います。その間に、お酒やグラスを出しておいて貰えますか?」
「分かった。やっておく」
 そして沙織は花束を抱えて洗面台の方に消え、友之はその間に荷物を運び込み、勝手知ったるキッチンで必要な物は冷蔵庫にしまい、酒やグラスを手際良く取り出してテーブルに並べた。


「沙織。引っ越しは来週だが、荷造りは進んでいるのか? 有休も取らずに、普通に勤務しているし」
 乾杯した直後、些か心配そうにそう問われた沙織は、微妙な表情をしつつそれに答えた。


「それは大丈夫。と言うか……、和洋さんに『部屋を明け渡すから、遊ばせておくのは勿体ないし、誰かに貸したら?』と言ったら、『赤の他人をそのマンションに入れるのは、絶対に嫌だぁあぁぁっ!』と号泣されて……」
「ああ……、うん。一之瀬さんの気持ちは、分からないでも無いな……」
 少し前の、半狂乱状態の和洋の姿を思い出した友之は、遠い目をしながら頷く。


「豊は既に自宅マンションを購入していますし、仕方がないからクローゼットか物置代わりにして、普段使わない物はそのままにしておく事にしました。それで意外に荷物が少なくなって、引っ越しプランもらくらくシンプルパックで済んでしまったもので」
「お義父さんの気が済むのなら、それで良いさ。衣替えとか必要時には、取りに来れば良い」
「それなんですけど……」
「『それ』って、何の事だ?」
 何を示しているのか咄嗟に理解できなかった友之が、不思議そうに問い返すと、沙織は困惑気味に話を続けた。


「結婚したら、一応社長の事は『お義父とうさん』と呼ぶべきではないかと思ったので、一昨日真由美さんに電話した時、『同居後は、やはり真由美さんと社長の事は、お義母さんとお義父さんと呼ぶべきでしょうか?』と、それとなく聞いてみたんです」
「母さんなら嬉々として『そうしてくれ』と言ったよな? 父さんも快諾したと思うが」
「それが……、実は社長には、難色を示されました」
「は? どうしてだ?」
 全く予想外の答えを返され、友之の困惑が更に深まった。すると沙織が戸惑いながら、説明を加える。


「『聞くところによると、君はお母上の手前、一之瀬氏の事を名前で呼んでいるそうだね。確かに親の離婚で籍は抜けたかもしれないが、れっきとした父親である彼を差し置いて、赤の他人の私が『お義父さん』と呼ばれるのは、些か心理的抵抗があるのだが』と、如何にも困った口調で言われてしまいまして……」
 明らかに困り顔の沙織を見て、友之は父親に対して(余計な事を)と苛立ちを覚えた。しかし盛大に舌打ちしたい気持ちを抑えつつ、沙織を宥める事にする。


「気にするな。それはどうしようも無いだろう」
「それはそうなんですけど……」
「それより、今日はこれを渡しに来たのがメインだからな」
 かなり強引に話題を変える為、ここで友之は当初の予定よりも早く、隣の椅子に乗せておいた紙袋から綺麗にラッピングされた箱を取り出した。それを見て中身を察した沙織が、沈鬱な空気を一掃させて目を輝かせる。


「あ、例の時計、仕上がったんですか?」
「ああ。注文通り、裏に刻印して貰った。見てみるか?」
「勿論!」
 嬉々として受け取った沙織が、上機嫌に包装を解き始めたのを見て、友之は内心で安堵した。そんな彼の前で取り出した時計を早速装着してみた沙織が、満足そうに感想を述べる。


「う~ん、値段でかなり躊躇ったけど、やっぱり良いわ! この重厚感溢れるけど、洗練されたデザイン! それに手頃な重量! 文字盤も見易いし!」
「そうだな。それに確かにペアウォッチだが一見そうは見えないし、常に付けていられるからな」
 手を伸ばして箱の中から自分の分を取り出し、同様に着けてみた友之に、沙織が満面の笑みで礼を述べた。


「ありがとうございます。大事に使いますね」
「保証もしっかりしているから、多少荒っぽく使っても大丈夫だぞ?」
「腕時計を、どう荒っぽく使うって言うんですか」
「沙織の事だから、俺には予想も付かない使い方をするんじゃないか? 例えば武器代わりとか」
「しませんよ!」
 そこで二人は顔を見合わせて笑ったが、沙織が急に真顔になって話題を変えた。


「ところで友之さん」
「急に改まって、何だ?」
「この前、和洋さんに会った時に、豊が話に出した事ですけど」
 それを聞いた友之は、すぐに彼女が言わんとする事を察した。


「ああ、結婚式の事か?」
「ええ」
「実はあれから、俺も考えていた。年末年始にグアムに行って、二人きりで挙式して来ないか? ちゃんとしたハネムーンは、夏期休暇にでも行くようにするが」
「え? 年末年始?」
「もうプランを考えて、旅行代理店から見積もりも出して貰っている。食べてからそれを出すつもりだった」
「でももう11月半ばなのに、申し込みなんかできるんですか?」
 予想外の展開に沙織が目を丸くしながら尋ねると、友之は苦笑しながら事情を説明する。


「俺には妙に顔が広くて、必要な事には金と手間暇を惜しまない親戚がいるからな……。どうとでもねじ込んで貰えるそうだ」
 もはや誰の事を言っているのか分かりきっていた沙織は、思わず溜め息を吐いてしまった。


「……柏木さんですか。本当にあの人、存在自体が謎な作家さんですよね」
「それで、どうなんだ?」
「考えてみましたが、二人だけでという提案は案外良いかと思いました」
「よし、じゃあさくさく決めるぞ。宿泊するホテルや会場もそうだが、当日着るドレスもネットで選択できるらしい。閲覧先を教えるから、選んでおいてくれ」
「分かりました」
 それから少しの間、雑談をしつつ食べ進めてから、友之が思い出したように言い出した。


「それから俺達の事実婚の事を、部長と人事部長には内々に話しておいた」
 それを聞いた沙織が、箸の動きを止めて頷く。


「そうですね……。全く誰にも話さず、というわけにはいかないでしょうし。それで、二人の反応はどうでしたか?」
「どちらも相当驚いていたが納得して貰って、他には内密にして貰った。そちらから、話が漏れる事は無いだろう」
「それなら大丈夫そうですね。機会があったら、個別に挨拶とお礼を言っておきます」
「そうしてくれ」
「職場と言えば……、当然出社と退社は別々になりますよね。時間差で出ましょう」
「…………」
 何気なく付け足した沙織だったが、友之が急に押し黙ったので、不思議そうに声をかけた。


「どうかしたんですか?」
「……ちょっと面白くない。せっかくの新婚なのに」
「何がですか。変な事に拘るんですね。職場には秘密なんですから、仕方が無いじゃありませんか」
 何故か拗ね気味の友之を、沙織は少々呆れ気味に宥めながら食べ進め、彼が機嫌を直してからは、これからの生活についての諸々を話し込んで、休日が過ぎていった。




「ただいま」
 日曜の夕方、友之が自宅に戻ると、リビングのソファーで父親と向かい合って座っていた母親から、皮肉まじりの声が返ってきた。


「あら、今夜も沙織さんの所に泊まって来て良かったのに。あなたの分の夕飯なんか無いわよ?」
「悪い。明日は朝から色々商談とか立て込んでいるから、着替えとか資料の準備をしないといけなかったから」
「冗談よ。ちゃんと友之の分も準備してあるわ。後は出すだけだから」
「ありがとう」
 くすくす笑いながら告げてきた母親に、友之が苦笑いで返していると、同様の表情で義則が尋ねてくる。


「お帰り。昨日と今日で、関本さんと色々話し合ってきたか?」
「ああ、式の事とか、結構具体的に詰めてきた」
「そうか。ところで一之瀬氏の事は、何か言っていなかったか?」
「確かに、言っていたが……。父さん? 何か知っているのか?」
 何やら関わっているらしい雰囲気を察した友之が、疑わしげに尋ねると、義則が事も無げに言い出した。


「実は先週、一之瀬さんから呼び出しを受けて、指定された料亭に出向いたんだ」
「本当か? 一体、何の用で?」
「別にお前達の結婚に対して、文句を言ってきたわけじゃないぞ? 顔を合わせるなり『娘の事を、くれぐれも宜しくお願いします』と懇願口調で土下座されたのは、少々驚いたがな」
 冷静に父親に説明された友之は、僅かに顔を引き攣らせながら尋ねる。


「……泣いていなかったかな?」
「最初から最後まで、むせび泣いていたぞ?」
「そうか……。悪い。迷惑をかけた」
 終始じめじめされたら堪らなかっただろうと、友之は心底申し訳なく思って父親に頭を下げたが、義則は何でもない事のように告げた。


「別に大した事は無かったし、娘が心配で仕方がない彼の心情は、分からないでも無いからな。これまで父親と娘としての交流があまりできなかった事も、それに拍車をかけているのだろうが」
「だから沙織に、あんな事を言ったのか?」
「あんな事?」
 裏事情が判明した友之が眉根を寄せながら非難がましく口にすると、義則は一瞬当惑してから思い当たったらしく、軽く頷いて話を続けた。


「ああ……、確かに『実父を差し置いて、お義父さんと呼ばれるのは気が引ける』とかは言ったな」
「おかげで沙織が、結構悩んでいたんだが?」
「悩む位だったら脈有りだな。時々は一之瀬さんの事も『お父さん』と呼ぶようになるんじゃないか?」
(確かに、わざわざ口に出した位だからな)
 微笑みながら感想を述べた父に、友之が心の中で同意すると、ここで真由美が会話に参加してきた。


「その時に一之瀬さんから、とても美味しい焼き菓子の詰め合わせを頂いたの。下戸な分、スイーツには相当詳しい方なのね。以前、あなたと殴り合いになった時に贈り返してきたチーズケーキも絶品だったし」
「そうかもな……」
 触れて欲しくない黒歴史を口にされた友之は項垂れ、それを目の当たりにした義則は必死に笑いを堪えたが、次の真由美の台詞で男二人は揃って動揺した。


「そういうわけだから、私も沙織さんのお母様にご挨拶しないといけないと思って、手土産持参で行って来たの」
「はぁ!? 『そういうわけ』って、どういうわけだ!? それに、ご挨拶っていつ!? 聞いてないぞ!」
「……それは俺も初耳だが?」
 声を荒げた息子と、茫然自失状態の夫に向かって、彼女は実に朗らかに言ってのけた。


「先方と連絡を取って、名古屋に日帰りで行って来たのよ。お仕事の合間に職場の近くに出向いて、『愚息の事を宜しくお願いします』と頭を下げてきたわ」
「勘弁してくれ……。職場の近くまで押しかけるとか、迷惑だろうが」
「自宅に押しかけるよりは良いんじゃない?」
「時と場合によると思うがな」
 友之は頭を抱え、義則も難しい顔になる中、真由美の笑顔での報告が続いた。


「それに心配しないで! 沙織さんから、お母さんが酒豪でお酒に五月蝿い方って聞いていたから、清人君に『お酒に詳しくて五月蝿い人なら、銘柄を聞いただけで唸るような、美味しくて希少価値のあるお酒を取り寄せて欲しいの』とお願いして、それを持参したの。包んでいた風呂敷を解いた時もお母様は無表情のままだったけど、ぴくっとここら辺が反応していたから大丈夫よ。友好関係樹立の第一歩としては、まずまずの反応よね?」
 自分の頬を指差しながら、自信満々で保証してきた母親を見た友之は、激しく脱力しながら呻いた。


「沙織はそれについて、何も言って無かったんだが……」
「お母さんが沙織さんに、伝えていないのだろうな。単に、わざわざ伝える事も無いと判断したのか、それとも……。本当に好感度が上がっていれば良いな」
「胃が……」
 難しい顔での父親の囁きを聞いて、友之は腹を押さえながら再度呻いた。しかし容赦なく、真由美の報告が続く。


「あ、それから沙織さんと三日前、生活費について電話で協議したの。それに関しては、話はついているから」
「は? ちょっと待って。生活費って、俺は前から出してるよな?」
 慌てて口を挟んだ友之に、彼女は呆れかえった目を向けた。


「何を言っているのよ。当然でしょう? その中に車を購入する時に、義則さんに立て替えて貰った分の返済金も入っているのに」
「沙織の分も、俺が纏めて出すつもりだったんだが? まだまだ十分出せるぞ?」
 しかし真由美は真顔で申し出た息子に向かって、盛大に溜め息を吐いてみせた。


「友之ったら、分かって無いわねぇ……。ついでに家事の分担の話も済ませたのよ。沙織さんは正社員だから拘束時間が長いし、勤務が不規則な場合もあるでしょう? どう考えても全面的に私が家事を担う方が効率的だし、気持ち良く働いて貰う為には、予めそこら辺をきちんとしておいた方が良いでしょうが」
「そうは言ってもだな!」
「お互い、腹を割って話をしたのよ? 沙織さんも家事の分担が、私の方が大きくなる事に引け目を感じていたみたいだし、そこは生活費を出す事で割り切ってと説得したわ。勿論、あなたから貰っている金額よりは少ないし、私が用事があるとか体調が優れない時にはお願いするという条件でお互い納得しているから、心配する事は無いわ」
 それを聞いて安心した反面、どうしても納得しかねる事があった友之は、恨みがましく言葉を継いだ。


「だから……、どうして俺の頭越しに、どんどん話を進めているのかな?」
「だってこれは私と沙織の間の問題で、友之には全然関係ないわよね?」
「関係大有りだろ!? 俺は母さんの息子で、沙織の夫なんだが!?」
 納得しかねて声を荒げた友之だったが、そんな息子の肩を軽く叩きながら、義則が言い聞かせてくる。


「友之、何を言っても無駄だ。諦めろ。取り敢えず二人の仲が良好なのが再確認できて、良かったじゃないか」
「それはそうだが……」
「さすがに真由美も、夫婦間の事まで細かく口を挟むつもりは無いだろう。うちに入れる生活費の額は決まったみたいだから、夫婦での生活費や貯蓄に関して、纏めるのか個別にするのかを二人で相談しておきなさい」
「……分かった」
 尤もなアドバイスに友之が不承不承頷いていると、真由美が夕飯を出す為に立ち上がり、上機嫌にキッチンに向かって歩き出した。


「うふふふ……。沙織さんがここに引っ越してくるまで、もうすぐね。当日はご馳走を作らないと。何が良いかしらね?」
 そんな呟きを耳にした男二人は、苦笑しながら無言で顔を見合わせたのだった。





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