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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(60)第1ラウンド

 仕事と夕食を済ませてから沙織のマンションに向かった友之は、お茶を一杯飲ませて貰って気持ちを落ち着かせてから、予め打ち合わせていた通り、沙織に実家へ電話をかけて貰った。


「あの……、お母さん? 沙織だけど。今、ちょっと時間を貰っても良い?」
「構わないわ。どうかしたの?」
「その、例の話だけど……」
「『例の話』って何?」
 そこでどう伝えれば良いかと言いよどんだ沙織だったが、電話越しに佳代子が淡々と言い当ててくる。


「ひょっとして、松原何やらと結婚する話の事?」
「ええと、実はそう」
「結婚!? 松原!? 母さん、何言ってるんだ! 沙織がそう言ってるのか!?」
 そのまま話を続けようと思った沙織だったが、驚愕した弟の声が響いてきた為、顔を僅かに引き攣らせながら尋ねた。


「薫が至近距離に居るの?」
「リビングでお茶を飲んでいたところだったもの」
「そう……」
 沙織が思わず遠い目をしていると、電話の向こうから親子が揉めている声が伝わる。


「母さん! ちょっと俺に代わってくれ!」
「私の話が終わっていないわ。おとなしく待っていなさい」
「大体、その松原って奴、沙織と年増女を二股かけていたゲス野郎で!」
「付き合う時期は前後したけど、二股かけられたりはしていないから!」
 薫に余計な事を吹き込まれたらたまらないと、沙織も慌てて叫んだが、佳代子はすこぶる冷静に両者を叱責した。


「二人とも五月蠅いわよ。黙りなさい。当事者と直に話をしたいから、電話を代わりなさい。側に居ないの?」
「居るけど……」
「薫。あなたは自分の姉がろくでなし野郎に誑かされる、間抜け女だとでも言うつもり?」
「それは……」
 そこで電話の向こうが静かになった為、沙織は若干心配そうに友之に声をかけた。


「友之さん。母が直接話したいそうなので、代わって貰えますか?」
「勿論。因みに相手の精神状態もしくは機嫌は、娘から見てどうなんだ?」
「怖い位、平常心です」
「逆に、それが崩れた時が怖いな」
 差し出されたスマホを神妙な面持ちで受け取った友之は、話し出す前に微かに聞こえてくる声に神経を集中させた。


「……で、……っと……、………んだ。……から、……」
(弟が憤怒の形相で、悪態を吐いているか。想定内だがな)
 そこで腹を括った友之は、落ち着いた口調で電話の向こうに語りかけた。


「初めてご挨拶をさせて貰います。沙織さんとお付き合いしている、松原友之と申します。今回はお時間を頂きまして、恐縮です」
 それにすかさず、冷静な声が返ってくる。


「沙織の母の、関本佳代子です。松原さんは娘の直属の上司に当たる方でもあると、息子から聞きました。娘が大変お世話になっております」
「こちらこそ沙織には、日々助けて貰っていまして」
「職場でも、そんな風に名前で呼んでいらっしゃるのかしら?」
 鋭く切り込んできた佳代子に、友之は一瞬顔を強張らせてから、神妙に弁解する。


「……いえ、職場では公私の区別はつけております」
「そうでしょうね」
(どこで切り込んでくるのか分からない怖さがあるな。さすが弁護士と言うべきか)
(電話の向こうで何を喋っているかは分からないけど、友之さんの全身から緊張感が滲み出ているような……。何だかこっちも胃の調子が)
 口調はいつも通りながら、無意識に表情が硬くなっている友之と、それを横から見てハラハラしていた沙織だったが、佳代子は淡々と話を続けた。


「それで、娘があなた結婚する予定と伺いましたが、それに間違いは無いですか?」
「はい。ただし入籍はせずに、事実婚での形になりますので、まずご家族の方々にご理解いただこうと思い、お電話した次第です」
 そう友之が口にした瞬間、佳代子の声のトーンが若干低くなる。


「……今、事実婚と仰いました?」
「はい」
「もう少し、詳細をお伺いしても?」
「勿論です」
「はぁ!? 事実婚!? 母さん! 何で冷静に話を聞いてるんだ!」
「黙りなさい!」
 喚きだした薫を佳代子は一喝し、友之は再度促されて順序立てて事情と経過を説明した。それを全て聞き終えても、佳代子の口調は変わらなかった。


「なるほど。それでそちらのご家族は、あなた達が入籍しない状態になる事は、既に了承済みなのですね?」
「はい。両親祖父母とも、了解して貰っています」
「そうですか……」
 そこで何やら佳代子が考え込んでいる気配を察した友之は、それを邪魔せずに自身も無言で相手の反応を待った。


(沈黙が重い……。確かに親からしてみれば、反発しか覚えないであろう内容なのは、重々承知しているが。寧ろ罵倒して貰った方が、精神的に楽かもしれない)
 そんな事を考えていると、佳代子から声をかけられる。


「申し訳ありませんが、娘に代わって貰えますか?」
「少々お待ちください」
 そこで沙織を振り返った友之は、スマホを彼女に差し出しながら告げた。


「沙織、出てくれ」
「母は何と言っていたんですか?」
「結婚に関しては何も。沙織に代わってくれとだけ言われた」
 難しい顔になってスマホを受け取った沙織は、何を言われるのかと内心で警戒しながら佳代子に呼びかけた。


「お母さん、代わったけど?」
「沙織。入籍しない事実婚を選択する場合には、どうしても妻としての権利に制限がかかったり、認められない事があるのだけど、そこの所は正確に理解できているのかしら?」
「そのつもりだけど」
「『つもり』なの?」
 若干冷気を感じるその声に、無意識に沙織の顔が引き攣った。


「……理解しています。その上での話です」
「それなら良いわ」
「母さん、正気か!?」
「黙りなさい、薫。私が話しているのよ。悪いけど、もう一度相手に代わって貰えるかしら」
「分かったわ」
 沙織は電話の向こうで薫が吼えたのを聞き流し、スマホを友之に差し出す。


「もう一度代わって欲しいそうです」
 それに無言で頷いた友之は、受け取ったスマホを再び耳に当てた。
「もしもし、代わりました」
「取り敢えず娘は納得済みのようだし、好きにしてみたら良いわ」
「母さん!」
「ありがとうございます。今後、色々とお手数をおかけしたり、教えていただく事があるかと思いますので、よろしくお願いします」
「そうですね……。今後、私のスキルが必要になる可能性もあるでしょうから。その場合はあなたに言われなくても娘の代理人になるから、心配しなくても結構よ」
 薫の怒りの声と佳代子の皮肉交じりの声を聞き、友之は安堵するどころか、逆に気を引き締めた。


「そういう意味でそちらのお手を煩わせる事が無いように努めますが、もし万が一、私どもに不手際がありましたら、ご指導ください」
「随分殊勝な物言いね。お互い深く愛し合っているから絶対に別れないとか、恥ずかしげも無く放言しないのは気に入ったわ」
「勿論、沙織と別れる気はさらさらありませんが、人生、何が起こるか分かりませんから」
「全くその通りね」
 ここで佳代子の声は微妙に笑いを含んだ物から、いつもの冷静沈着なそれに戻った。


「それでは、あなた達の結婚については了解しました。沙織に頑張るように伝えてください。他に何かお話はありますか?」
「いえ、現時点ではありません。式や披露宴も内輪だけで済ませようかと考えていますので、後程そちらについてのご意見を頂きたいとは、考えておりますが」
「分かりました。それでは失礼します」
「はい。お時間を頂き、ありがとうございました」
 電話の向こうの相手に深々と頭を下げた友之は、緊張した面持ちのまま通話を終わらせ、無言のままスマホを沙織に手渡した。


「大丈夫そうでした?」
「取り敢えずは。凄く緊張した。大口契約が纏まるか纏まらないかの、瀬戸際の時の比じゃ無いぞ」
「お疲れ様でした。それで、和洋さんの方はどうします?」
 疲労困憊状態の友之を見た沙織は、苦笑しながら確認を入れた。すると彼の口から、情けない声が漏れる。


「……頼む。ダブルヘッダーは勘弁してくれ」
「そうでしょうね。和洋さんは、もう少し後で良いですよ。絶対揉めるでしょうし。リラックスできるように、珈琲かハーブティーでも淹れますか」
 苦笑を深めながら立ち上がった沙織だったが、ここで友之が真顔になって彼女の手を捕らえた。


「沙織」
「何ですか?」
「お母さんに宣言したからでは無いんだが、俺はどんな形で一緒になるとしても、沙織と別れるつもりは無いからな?」
 念を押すように言われた沙織は、全く気負う事無く言葉を返す。


「私もそうですよ? 結婚してみても良いかなって思ったのは、友之さんだけですし」
「そうか」
「でもそっちこそ、本当に私で良いんですか? ベタベタのバカップルには、間違ってもなれそうに無いんですけど」
 その申し出に、友之は不思議そうに問い返した。


「それは俺もそうだが。何か気になる事でもあるのか?」
「この間、新婚家庭という物を脳内シミュレーションしてみたんですが……。何と言うか、色々と想像力の限界を越えてしまいました」
「ああ、口調とか雰囲気とか? 今更俺が、そんな事を気にすると思うのか? 寧ろ沙織が急に可愛い事をしたり言ったりしたら、具合が悪いのかと不安になるから止めてくれ」
 そんな事を大真面目に言われてしまった沙織は、思わず憮然とした顔つきになった。


「……なんだか、軽く侮辱された気がするのは、気のせいでしょうか?」
「別に丁寧な口調でも構わないし、家で変に馴れ馴れしい口調で話していたら職場でうっかり出そうで、それが少し不安なんだろう?」
「確かに、それもありますけど……」
「だから変に意識して、無理に変えなくて良い」
「そうですか?」
「両親は気にしていないし、態度が素っ気なくても沙織が結構可愛いのは、俺はちゃんと分かっているからな。それに、沙織は他の人間に対して無駄に愛想を振り撒くタイプじゃないから、俺は寧ろ安心できるが?」
「……そんなものですか?」
「そんなものだ」
 なんとなくすっきりしないまま沙織が呟くと、友之が苦笑しながらそれに応じる。


(言われ慣れていないような事を、面と向かって言わないで欲しい。それに向こうはしっかりプライベートと仕事で口調を使い分けているし、ちょっと……、ううん、結構負けた気分)
「まあ、そのうち、自然に変わるかもしれませんね」
「そうだな」
 憮然としながらも自分に言い聞かせるように沙織が口にすると、一連のやり取りでいつもの調子を取り戻したらしい友之が、笑顔で話題を変えた。


「ところで沙織。マリッジリングはどうする? 職場では結婚したのは当面秘密にするし、常に付けられ無いだろう? だからペアウォッチでも買おうかと考えていたんだが」
「その方が良いかも。どうせなら、普段使いができる物の方が欲しいです」
(見せびらかす必要は無いし、時計なら必需品だし、値段も手頃よね)
 沙織が同意して頷くと、友之は嬉々として持参した鞄の中からある物を取り出した。


「よし。そうと決まれば、ちょっと見てくれ」
「『見てくれ』って……、一体何を?」
「昨日と今日、帰りに幾つかの店舗に寄って、現物を見ながら考えてきた。デザインと機能性から考えると、こういう物とかはどうだ? 他にもネットで探す事はできるが」
「いきなりどうかと言われても、やっぱり一応現物を見てみない事には……」
 目の前のテーブルに、高級ブランドの商品パンフレットを複数並べらえた沙織は困惑したが、一応その中の一つを手に取って中を確認し始めた。しかしすぐに目を見開いて、悲鳴じみた声を上げる。


「は、はいぃ!? ちょっと待って! 何、この価格設定は!?」
「俺が来店した時に対応してくれた店員は、店頭で購入時には勉強してくれると言っていた」
「幾ら多少値引きするからって、この金額! 桁が一つ違いますよね!? こんな時計とは思えない値段の代物を付けて、仕事をしろと!?」
 激しく動揺した沙織だったが、友之は不思議そうに首を傾げた。


「何を怖じ気づいてるんだ? 沙織はこの額よりも高額な取引を、幾つも締結しているだろう?」
「それとこれとは、話が違うでしょうが!」
「ああ、費用の面なら心配するな。記念に揃えるから、俺が両方出す。やはり一生ものだから、良い物を揃えないとな」
「それなら良いですけど、いえ、良くは無いですよ!?」
「どっちなんだ。それから一緒に、エンゲージリングも見繕うからな。沙織はダイヤモンドが良いか? それとも誕生石とか、他の物でも良いが」
 そこで完全に自分を取り戻した友之はさっさと話を進め、それとは対照的に沙織の狼狽ぶりは悪化の一途を辿った。


「この金額を見せられた後で、指輪の話なんか怖くてできませんよ!」
「よし決まった。今度の週末のデートコースは、宝飾店巡りだな」
「人の話を聞け――っ!」
「沙織がここまで取り乱すのは、本当に珍しいよな」
 思わず友之の胸倉を両手で掴んで叱り付けた彼女を見て、友之は心底楽しそうに笑った。


(本気で楽しんでるし、どう見ても買う気満々よね。買ってくれるって言うんだから、ありがたく受け取るべきなんだろうけど。でも本当は婚約とか結婚の記念品って、お互いに贈り合う物じゃないの!?)
 色々と葛藤したり困惑したものの、結局は友之に押し切られる結果となった沙織は、翌朝、ぐったりしながら出社した。


「おはよう、沙織。どうしたのよ? 珍しく、今日は朝からどんよりした空気を醸し出して」
「ああ、うん。ちょっとね。我ながら、不器用で素直じゃない性格だと再認識したのと、愛が予想以上に重かった件について、しみじみ考えていたのよ」
 背後から声をかけ、並んで歩きながら不思議そうに尋ねてきた由良に、沙織は思わず真っ正直に答えてしまった。それを聞いた由良が、途端に変な顔になる。


「何なの? 沙織から『愛が重い』云々なんて台詞を聞いたのは初めてだと思うし、全然知らなかったけど、今現在付き合っている人がいたの?」
「そうじゃないんだけど……。今のは、器用にも歩きながら寝言を口走ったと思って頂戴」
「寝言って……。まさかとは思うけど、男日照りが続いた挙句に妄想をこじらせて、エア彼氏とか作ってるんじゃないでしょうね?」
「……それは無いから。安心して」
「本当に大丈夫?」
 苦しい誤魔化し方をした事で、沙織は真顔で由良に心配されてしまい、余計な精神的ダメージを負ってしまった。しかしそんな誤解を放置もできず、引き攣った笑顔で彼女を宥めながら、職場へと向かう羽目になった。



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