酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(53)思いがけない提案

 思いがけなく沙織と和洋の話を盗み聞きする羽目になった友之は、正彦に引きずられるようにして店を出た後、従姉妹夫婦を訪ねて柏木邸に押しかけた。


「……それで?」
 若夫婦用のリビングで、ソファーの向かい側にふんぞり返っている清人に促されて、この間居心地の悪い思いをしながら事情を説明していた正彦は、チラッと暗い顔で隣に座っている友之を見てから、恐る恐る申し出た。


「その……、この状態のまま友之を帰したら、叔父さんと叔母さんが心配する事が確実なので、清人さんと真澄さんに何とかして貰おうかと思いまして……」
 子供の頃からなんだかんだ言いながらも、トラブルや悩み事を解消してくれていた、面倒見の良い年長者二人に懇願すると、清人は呆れ顔で、真澄は困惑顔で応じた。


「正彦。こんな鬱陶しいのを、夜にいきなり連れて来るな。お前は馬鹿か? 相手の迷惑を考えろ」
「ええと……、友之? 確かに少しショックだったかもしれないけど、沙織さんは心配しているお父さんを安心させるために、ちょっときつく言っただけかもしれないし」
「そうだな。そこでキレて隣に乱入しなかったのは、誉めてやろうじゃないか」
 するとそこで友之が重苦しい空気を纏わせて俯いたまま、ぼそぼそと言い出す。


「正直に言えば……、『俺と仕事とどちらが大事だ!』と、怒鳴り込みかけましたが……」
「友之、それは働いている女性に対してのNGワードよ?」
「全くだ。放言していたら、間違い無く破局に向かって一直線だったな」
「だから、何とか踏みとどまりました。そう口にしたら最後、微塵も悩まず『仕事に決まってますよね』と、沙織に言い返されそうだったので」
 友之が淡々と述べると、それを聞いた二人が盛大な溜め息を吐く。


「友之……、それはそれで情けないと思うわ」
「お前……、もうこの際、綺麗さっぱり破局しろ」
「二人とも、友之を追い詰めないで、少しはフォローしてくださいよ!」
「そう言われても……」
「全く、面倒な……」
 すっかり不憫になった正彦が涙目で訴えると、二人は当惑顔を見合わせた。しかし清人がすぐに気を取り直し、真顔で尋ねる。


「友之。一応確認しておくが、お前はあの面倒くさい女と、今でも結婚する意思はあるのか?」
「あります」
「それなら、あの女が今の職場に留まりながらお前達が結婚するには、二つの方法がある」
「何ですか?」
「一番手っ取り早いのは、お前が松原工業を退職して、転職する事だ」
 それに対して友之が何か言う前に、真澄が嬉々として会話に割り込んだ。


「本当にそうね! それなら是非、柏木産業にいらっしゃい! 私の所は配属を希望する人が皆無だから、常に人手不足なのよ。友之だったら、いつでも大歓迎よ?」
「…………」
 にこにこと笑顔を振り撒く真澄の横で、清人が冷え切った視線を友之に向ける。そんな温度差が有り過ぎる夫婦を目の当たりにして友之は無表情で固まり、そんなカオスな状況に遭遇した正彦は、無意識に考えている事を口からだだ漏れさせた。


「再就職先が確保されているのは良いかもしれないが、もの凄い究極の二択っぽいな……。真澄さんが実際に職場で、どんな風に働いているのかは知らないが、《柏木の氷姫》の異名は外部にも伝わっているし、配属希望者が皆無って、どんなブラック部署なのか……。しかも、清人さんの嫉妬をまともに受けながら働くのって……。どんなに仕事に困っても、俺だったらパスだな」
「しっかり聞こえているぞ、正彦」
「……すみません。因みにもう一つの方法と言うのは、どんな事ですか?」
 殊勝に謝りながら、話題を変える必要性を感じた正彦が話を進めると、清人が事も無げに告げた。


「籍を入れずに、事実婚をすれば良い」
「え?」
 それを聞いて意外そうに目を見張った友之に、清人は逆に不思議そうに問い返した。


「そんなに驚く事か? ひと昔前ならいざ知らず、一般の認知度はそれなりに高くなっていると思うが。ただしお前達が事実婚をする上で、大きな問題が三つあるから、それを全てクリアしない事には話が進まないだろうが」
「問題が三つ?」
 真剣な表情で、僅かに身を乗り出した友之に対して、清人は冷静に話を続けた。


「ああ。まず相手の親兄弟が、その形で納得するかどうかだな」
「それはそうよね。保守的な親御さんだったら、それだけで激怒しそうだもの」
 すかさず真澄が相槌を打ち、清人が軽く頷き返してから話を続ける。


「それから、普通なら事実婚をしても、職場には報告するだろう。企業にもよるが、事実婚でもきちんと扶養家族扱いにしたり、各種手当ての対象にする場合があるからな。ただしこの場合、職場にも事実婚の報告はできない。その扱いをどうするかだ」
「確かにそうですよね。倉田運輸うちでも事実婚の社内規定とかはありますが……」
 正彦が考え込みながら独り言のように呟くと、清人が難しい顔になりながら話を進めた。


「それから、これが一番のネックだが……。お前、子供をどうする?」
 藪から棒にそんな事を言われて、さすがに友之は面食らった。


「はい? 何ですかいきなり。結婚云々で悩んでいるのに、子供の事まで考えられませんよ」
「阿呆。お前は一人息子だろうが。昨今は最初から子供を作る気がない夫婦も多いが、お前に子供がいなかったら松原家が絶える。それをお前の両親や祖父母が、どう考えるかと聞いているんだ」
「ですから、どうして俺達に子供がいないのが前提の話になるんですか?」
 次第に苛つきながら言い返した友之だったが、ここで真澄が口を挟んできた。


「でも……、確かに沙織さんが事実婚のまま、しかも社内には相手を内緒のまま子供を産んだら拙くない? 対外的には父親が不明になるし、父親が友之と申告しても、その時点で異動の対象になるわけでしょう?」
「なるほど、そういう事ですか」
「…………」
 彼女の指摘に正彦は納得して頷き、友之も口を閉ざして考え込んだ。そんな彼に向かって、清人が真顔で言い聞かせる。


「とにかく、お前が一人でうだうだ考えていても、どうにもならん事だけは理解しただろう。さっさと正気に戻って、今日のところは帰れ。そしてあの女を口説いた上で、『職場を異動するのが嫌だから結婚するのは御免だ』と面と向かってはっきり言われたら、その時は二人で納得できる打開策を考えれば良い」
 そのアドバイスを聞いた正彦は、安堵しながら友之に言い聞かせた。


「そうですよね。ほら、友之。清人さんも、まず本人の意向を確認するべきだって言ってるし」
「きちんとプロポーズしても、異動の有無に関わらず、結婚は嫌だと断られる可能性だってあるしな。その場合、考えた時間と労力が無駄になる」
 そんな容赦の無い清人のコメントに、正彦は再び涙目になって訴えた。


「清人さん! お願いですから、友之の神経を逆撫でするのは止めてください!」
「そう言われてもな……。とにかく当人同士で、きちんと直談判しろ。話はそれからだ」
「その通りですね。すみません、清人さん、真澄さん。夜分、お邪魔しました」
 そこで何かが吹っ切れたごとく立ち上がり、深々と頭を下げた友之を真澄は心配そうに、清人は横柄に追い払う真似をしながら見送った。


「それは構わないけど……」
「ああ、二人ともさっさと帰れ」
 そして二人が揃って柏木邸を出て行ってから、清人が真澄に釘を刺す。


「これはどう考えても、当事者二人の問題だ。部外者のお前が、余計な口を挟むなよ?」
「そう言われても……」
 言われた真澄は夫の主張を認めたものの、心配そうに友之が消えた方角を眺めた。




「ただいま」
 自宅に帰り着いた友之がリビングに顔を出すと、真由美が掛け時計で時間を確認しながら、不思議そうに声をかけてきた。


「お帰りなさい。正彦君とお店を何軒か回って来たの? てっきり、もう少し早く帰って来ると思っていたわ」
「食べた後で正彦と一緒に、清人さんの所に寄って来たんだ。それから、ちょっと遅いけど、父さんと母さんに話したい事があるんだが……」
 それを聞いた真由美が、益々怪訝な顔になる。


「私は構わないけど……。それなら義則さんが部屋に居るから、呼んできて頂戴」
「分かった。ちょっと呼んでくる」
 そこで友之は義則の書斎に出向き、話がある旨を告げて、父と二人で再びリビングへと戻った。
「それで、俺達に話と言うのは何だ?」
 ソファーに向かい合って座った義則が促してきた為、友之は平常心を保つように心がけながら口を開いた。


「実は、沙織と結婚しようと思ったんだが、思わぬ事から本人にその気が無い事が分かった」
 その友之の微妙な言い回しに、義則達は揃って要領を得ない顔つきになる。


「どういう事だ?」
「結婚を申し込んで、沙織さんに断られたという事では無いの?」
「違うんだ。取り敢えず、俺の話を黙って最後まで聞いてくれ」
 そう言ってから友之は、先刻正彦が柏木邸で説明した内容と同様の事を繰り返した上で、清人に言われた内容も包み隠さず伝えた。


「そういう訳で、最後は清人さんに、発破をかけられてきた」
「…………」
 大真面目にそう話を締めくくった息子を見て、義則と真由美は何とも言えない顔を見合わせた。そんな二人に、友之が声をかける。


「それで、二人の考えを聞きたいんだけど」
「そう言われてもな……」
「この場で即答して貰わなくても構わない。こういう事を考えている事だけは、理解しておいて欲しい」
 すると義則が、難しい顔で考え込みながら、確認を入れてきた。


「その場合、お前が転職する事も選択肢に入っているのか?」
「そうなるが」
「それは親の立場からすると、あまり勧められないな。結婚するのに無職とか転職したばかりと言うのは、生活基盤が不安定だ。それで結婚したいと言っても、相手の親御さんに対して失礼だろう」
「それは分かっているが」
 真っ当な指摘に、友之が反論しようとしたところで、義則が唐突に条件を出してくる。


「それから、もしお前達が事実婚を選択するつもりなら、俺から条件を二つ出させて貰う」
「条件? どんな内容かな」
「結婚するならお前が男で年上だから、お前が沙織さんを養う事になる。当然、彼女の人生に対する責任が生じるが、それ位は理解しているだろうな?」
「それは勿論」
 どうしてわざわざそんな事を念押しされないといけないのかと、友之は憮然としながら言い返したが、次の義則の台詞を聞いて呆気に取られた。


「それなら彼女を受取人にして、それなりの額の生命保険に入れ。もし万が一、お前が早死にしても、彼女が不自由しないようにな」
「……ちょっと待ってくれ。俺は早死にする気は無いんだが」
「早死にするつもりで生きている人間がいるわけ無いだろう。馬鹿者」
「…………」
 思わず言い返したものの、父親にあっさり切り捨てられた友之は口を噤んだ。そんな息子を凝視しながら、義則が話を続ける。


「それから事実婚を選択した場合、沙織さんは戸籍上はお前と赤の他人のままだから、そんな纏まった額の保険金を沙織さんが受け取ったら、保険金殺人かと彼女が疑われるかもしれん。自分が死んだ後にそんな事になったら、お前だって不本意だろう?」
「今、話を聞いているだけで、不本意なんだが……」
 友之が不機嫌そうに呻いたが、義則は構わずに続けた。


「だから、沙織さんがここに住民票を移して、私達と一緒に生活するのが条件だ。そうすれば保険金目当てにお前を殺したと疑われても、家族同然に暮らしていた事実婚関係だと弁明できるし、その後で改めて私達が彼女と養子縁組しても良い」
「だから、どうして俺が早死にする想定で話をするのかな!?」
「生きている間の事は、その都度考えれば良いだろうが。お前は『備えあれば憂いなし』と言う言葉を知らんのか?」
「……もう良い」
 声を荒げて抗議した友之だったが、全く動じない義則に、友之が肩を落として項垂れた。しかしそんな彼とは対照的に、これまで黙って議論の行方を見守っていた真由美が、嬉々として叫ぶ。


「素敵! それなら沙織さんと、ここで一緒に暮らせるのね!?」
「そうなるな。だが友之達は当面子供は作らない筈だし、ずっと孫はできないかもしれないぞ? お前はそれでも良いのか?」
 まだ難しい顔のまま義則が言い聞かせたが、真由美は平然と明るく笑いながら続けた。


「それは確かにちょっと残念だけど、沙織さんがいてくれたら良いわ。義娘むすめができるだけで、私は嬉しいもの。それに最近は子供がいない夫婦の事を、あちこちで見聞きするものね。友達や知り合いには、『友之は高望みし過ぎて婚期を逃した』と言えば、納得してくれるだろうし」
 それを聞いた友之は頭を抱え、義則は難しい顔になる。


「母さん……。あっさり切り捨て過ぎだ」
「ただ、お前はともかく、お義父さん達が何と言うか……」
「あ、お父さんとお母さんには、私から電話しておくわ。でもこの前こっちに来た時に、沙織さんに何回か付き合って貰って、二人とも彼女の事は随分気に入っていたし、問題無いと思うけど」
 軽く言ってのける真由美に対して、さすがに男二人が冷静に今後について語り合う。


「いや、さすがにそういうデリケートな問題は、きちんと意見を聞かないと駄目だろう」
「それは俺が、明日の夜にでもお祖父さんに直接電話をして、意見を聞くよ」
「その方が良いだろうな。だが今の話は、あくまで沙織さんがお前との結婚を了承した上で、事実婚を望む場合の話だから。とにかく、本人の意向を確認しない事には」
「それは重々承知しているから」
 そこで再び、真由美が口を挟んでくる。


「あら、それじゃあ今から沙織さんに聞きましょうよ! えっと、沙織さんの連絡先は」
「ちょっと待て、真由美!」
「母さん! 俺がちゃんと話をするから、口を出さないで貰えるかな!?」
 さっさと自分のスマホを取り上げ、沙織に連絡を取ろうとしている彼女を見て、義則と友之は慌てて制止した。しかし彼女は不満そうに言い返す。


「えぇ? 私が聞いたって良いじゃない?」
「当人同士で話をさせろ。最初から親がしゃしゃり出て口を出すな。沙織さんに鬱陶しがられても良いのか?」
「……分かりました」
 軽く睨み付けながら言い聞かせた義則は、彼女が不承不承頷いたのを見て、安堵しながら友之に向かって囁いた。


「友之。とにかく、お義父さん達の意向を聞くのと、沙織さんとの話し合いを、なるべく早く済ませろよ? ぐずぐずしていると真由美が先走って、沙織さんのご家族の連絡先を調べて、勝手に接触するかもしれん。事がこじれると面倒だ」
「分かった。そうするよ」
 端から見ても母親がうずうずしているのが見て取れた為、友之は義則の忠告に素直に頷き、そこでその話はお開きになった。


「この時間なら、もう寝ているだろうな……。とにかく、明日以降の話だな。今日はもう、さっさと寝よう」
 自室に引き上げた友之は、一応時刻を確かめて沙織に連絡するのを諦め、気持ちを切り替えるべく寝る支度を始めた。



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