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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(36)女王と悪魔のお誘い

 三月も半ば過ぎて仕事に忙殺されながらも、沙織は時折薫の事を思い出しては、不安を覚えていた。


(あれ以来、薫が何も言って来ないのが、不気味過ぎる……。一体、何をやってるのかしら? もう本当に勘弁してよね。年度末でただでさえ、忙しい思いをしているのに)
 ここ暫くの間では珍しく、定時に上がった沙織が、心の中で悪態を吐きながら最寄り駅に向かっていると、斜め前方から声をかけられた。


「関本沙織さんかしら?」
「はい、どちら様ですか?」
 反射的に足を止めて声の主に目を向けると、三十代半ばに見える背の高い美人が、好意的な微笑みを向けながら名刺を差し出してくる。


「初めまして。柏木真澄と言います。あなたの上司の松原友之とは、従姉弟同士の関係になります」
「はぁ……、どうも」
 反射的に受け取った名刺に目を走らせた沙織は、そこに《柏木産業 企画推進部第二課課長 柏木真澄》の記載を認めて、無言で考え込んだ。


(いきなり何なの、この人? 確かに柏木産業の創業家は、社長の実家の筈だけど。そうなると本当にこの女性が、以前真由美さんが言っていた『華やか女王様』なのかしら?)
 顔を上げて目の前の女性を改めて観察していると、彼女は笑顔のまま話を続けた。


「実は友之には内緒で、あなたに少し話があるの。急で申し訳ないけど、こちらに乗って貰えるかしら?」
 そう言いながら、傍らに停車してある黒塗りの車を手で示された沙織は、微塵も迷わずにその要求をはねつけた。


「お断りします。それでは失礼します」
「……え? あの、ちょっと待って!」
「何でしょう?」
 横をすり抜けて駅に向かおうとした沙織を、真澄が慌てて呼び止めた。それに応じて面倒くさそうに振り返った沙織に、彼女が焦ったように言い募る。


「そちらの都合を考えずに、不躾に申し出たのは悪かったわ。だけど、少々事情があるものだから。今日これから予定があるなら、改めて都合の良い日を」
「課長とは従姉弟だと名乗りながら、その課長には内緒と言っている段階で、怪しさ満点です。それに名刺なんてどうにでも作れますし、自己申告を鵜呑みにする程、馬鹿じゃありません。あまり見くびらないで貰えますか?」
「……さすがは友之の彼女。なかなか手強いわね」
 問答無用で切り捨てた沙織を見て、攻めあぐねた真澄が難しい顔になる。それを冷静に観察しながら、沙織はスマホを取り出した。


(見た感じは本物っぽいけど。直接確認すれば早いわよね? 取り敢えず、騙りかそうでないかは分かるし)
 そこで沙織は真澄に視線を向けたまま、まだ職場に残っている筈の友之に電話をかけた。


「課長、残業中にすみません。少々お尋ねしたい事があるのですが」
「何だ?」
「課長の従姉妹さんの柏木真澄さんは、運転手付きのベントレーを足代わりにする、顔は一見完璧にカバーしていますが、首筋と手首の皮膚の状態から推察するに36±2歳の、ヒールを考慮すると身長169から173cmの、威圧感のある美人でしょうか?」
 その問いかけに、電話の向こうと真正面で、驚きの声が上がった。


「は? あ、いや、確かにそうだが……、どうしてそんな事を?」
「え? ちょっとまさか、本当に友之に電話してるの!?」
 しかし一応、本人には内緒でと言われた事に配慮して、友之に対しては嘘八百を並べ立てる。


「会社を出た所で、すれ違いざまにぶつかって転んで、お互いに名乗りまして。本当にそうなのか、ちょっと確認を取ってみただけです。それではお邪魔しました、失礼します」
「おい、さ、関本! ちょっと待て!」
 あまりにも胡散臭い話に、「沙織」と叫びかけて踏みとどまったらしい、友之の声を無視して通話を終わらせ、ついでに五月蝿くないようにスマホの電源を落とした沙織は、真澄に向かって軽く一礼した。


「どうやら本当に課長の従姉妹さんのようですが、課長は全くこの遭遇について関与していないみたいですし、失礼します」
「ちょっと待って! え? ああ、もう! ……もしもし、友之? ……いいえ、本当に何でも無いの! 偶々歩いていてぶつかっただけで!」
(何なのかしら? まあ、私には関係ないけど)
 どうやら沙織のスマホが繋がらない事に業を煮やした友之が、真澄の方に電話してきたらしく、彼女が狼狽しながらスマホを取り出して応答しているのを横目で見てから、沙織は再び歩き出そうとした。しかし何歩か歩いたところで、背後から聞き覚えのある声が響いてくる。


「まだ用は済んでいない。あいつから聞いていた話以上に、掴み所の無い女だな」
 翔に纏わり付かれていた時に遭遇した時は、相手はサングラスをかけていたが、それが無い位で見間違える筈もなく、沙織はうんざりしながら友之の義理の従兄である柏木清人に向き直った。


「……お久しぶりです。いらっしゃったんですか」
「ああ。妻が『女同士の方が警戒心を抱かせないから、まず私が声をかける』と言うので、車の中で待っていたんだがな」
「やはり基本的な所は、お嬢様っぽいですね。誘拐犯の共犯者に、女性がいるわけ無いとでも思っているんでしょうか? そこら辺を一度きちんと、奥様に言い聞かせた方が良いと思います」
 真顔で意見を述べた沙織に、清人は苦笑してから、顔付きを改めて乗って来た車を指し示した。


「忠告は素直に、受け入れるべきだろうな……。それはともかく、友之には内密にお前に話がある。さっさと乗れ」
「嫌です」
「一応、お前の耳に入れておいた方が良い話だと思うが?」
「例えそうだとしても、見ず知らずの人間の車に乗せられて、どこへ連れて行かれるか分からない状況なのに、『はい、分かりました』と頷く人間がいるとは思えません」
「用心深いのは結構だが、時と場合に寄るな」
「あなたがなかなかの危険人物だという事は、既に存じ上げています」
 双方一歩も譲らず数秒が経過し、呆れ顔になった清人が妥協案を口にした。


「それなら勝手に来い。場所は《くらた》だ。貸切にしてある。友之と一緒に顔を出した事があるよな?」
「はい。それでは現地集合と言うことで。そちらは奥様を回収して、優雅に車でどうぞ。お先に失礼します」
 沙織はそれ以上抵抗しても状況がこじれるだけだと察し、了承した後、一礼してその場を去った。


「あいつ、女の趣味が変わったな。その分、相当面白いが」
 そんな事を呟きながら清人が苦笑いしていると、漸く友之との通話を終えた真澄が、夫の元にやって来る。


「もう! どうしてあの場面で、いきなり電話をかけるわけ?」 
「友之に相当不審がられたか? 彼女からも、結構辛辣な意見を貰ったぞ?」
「笑っている場合? 彼女、帰ってしまったじゃない!」
「安心しろ。それなりに道理は弁えている女らしい。《くらた》で現地集合だ」
 淡々と告げた清人に、真澄が訝しげな視線を向ける。


「……本当に来るの?」
「俺達を敵に回して良いかどうか、判別できる程度の頭はある女だと思う。ほら、早く乗れ。ホスト側としては先に着いて、きちんとお出迎えしないとな」
 そして清人は笑いを堪える表情で真澄を促して後部座席に乗り込み、当初の予定通り《くらた》へと向かった。


 かなり意地になって同乗を拒み、地下鉄を使って目的地までやって来た沙織は、「支度中」の札がかかった入口の前で佇み、盛大に溜め息を吐いた。
(どう考えても、下手に敵に回したら厄介な人だと思ったから、ここまで来ちゃったけど……。ただでさえ薫の事で頭が痛いのに、面倒事は勘弁して欲しい)
 切実にそんな事を考えながら、沙織は恐る恐るその引き戸を開けた。


「……失礼します」
「いらっしゃいませ! どうぞお入りください」
 着物姿の女性が明るく声をかけてきた向こうに、テーブルに並んで座って自分を待ち構えていた夫婦を認めて、沙織は早くもうんざりしてしまった。


「やあ、言われた通りおとなしく来たな。誉めてやるぞ」
「ここの支払いは私達がするから、遠慮無く好きな物を飲んで食べて頂戴」
「はぁ……、それでは遠慮無く、ご馳走になります」
 皮肉っぽい笑顔と満面の笑みで出迎えられた沙織は、大人しく二人の前に座り、早速お品書きを手に注文を繰り出す。


「すみません。取り敢えずここからここまでを全部一つずつ、できた物から出して下さい。お酒は穂香舞を冷やでお願いします」
「は、はぁ……。畏まりました」
「それで話と言うのは、一体何でしょうか?」
 完全に事務的に話を進めるつもりの沙織に、清人は苦笑いしながら切り出した。


「乾杯もせずに、本題に入るか……。友之に関する話だとは分かるよな?」
「それ以外に何があると? ですが課長とは先月既に、別れていますが。認識の齟齬がありませんか?」
 素っ気なく言い返した沙織だったが、清人は穏当な言い回しに変えながら話を続けた。


「そのお前との付き合いを、あいつが一時的に棚上げした理由、ちゃんと聞いているか?」
「本人の口からは、全く聞いていません」
「そうだろうな。実は」
「大学生の頃に恩師の奥さんの火遊び相手になった挙げ句、単に摘まみ食いされただけで、彼女が他の男と駆け落ちしてあっさり捨てられたのに、最近舞い戻ったその奥さんが、恩師とよりを戻して入籍したのに、また言い寄っているのは知っていますが。それが理由じゃないんですか? 因みに恩師の方は余命幾ばくもないそうで、端から見たら保険金殺人を狙っているとも考えられますが」
 清人の話を遮りながら、サクッと纏めて沙織が告げると、カウンターの中で食器が派手に落ちて割れる音と、狼狽した叫び声が上がった。


「ひっ、火遊びって!? まさか不倫⁉︎」
「保険金殺人って、何ですかそれはっ!?」
「え? 課長の若気の至り話って、親戚筋では知られた話では無いんですか?」
 失敗したかもと思いながら、カウンターの中と正面を交互に眺めた沙織を見て、清人が唸るように確認を入れた。


「そこら辺は適当にぼかして、説明しておこうかと思ったのに……。お前、それを誰から聞いた?」
「過去の話は、課長本人からです。現在の話は、弟が興信所で調べて分かった事です」
「友之……」
「どうしてここで、お前の弟が絡んでくる?」
 沙織の話を聞いた真澄はがっくりと肩を落とし、清人が訝しげな顔になった。


「私のマンションで偶然鉢合わせして以来、何だか課長を敵視していまして。知らない間に調べさせていました」
「ほう? それはそれは……」
「シスコンだわ」
「シスコンだな」
 そこで沙織の説明を聞いた清人が面白そうな顔つきになり、カウンターの中から囁き声が聞こえてくる。それを無視しながら、沙織はここに来るまでの間に、漠然と考えていた事を口にした。


「この際、ちょっとお願いしたい事があるんですが」
「何だ?」
「弟が、課長が私からその女性に乗り換えたと言って、もの凄く憤慨しているんです」
「確かに、傍目にはそうとしか見えないだろうな」
「何とか公にさせるのは思いとどまらせたのですが、何やら課長への報復を企んでいる可能性があります。私には手に負えませんので、申し訳ありませんが何とかして貰えないでしょうか?」
 その懇願を聞いた清人は、からかうように問い返してくる。


「……へえ? それはまた、随分とお優しい事で。理由も言わずに自分を切り捨てた男に、配慮してくれるわけだ?」
「一応……、直属の上司でもありますので……」
 微妙に相手から視線を逸らしながら答えると、再びカウンターの中から囁き声が聞こえてくる。


「全く脈無しって事でも無いんじゃない?」
「そうだよな」
 そこで清人が真顔になり、問いを発した。


「因みに、弟の職業と勤務先と現住所は?」
「弁護士で名古屋在住で、勤務先も市内の弁護士事務所です」
「弁護士……、名古屋……」
 そこで顎に手をやって何やら考え込んだ清人は、少ししてから落ち着き払って沙織に告げた。


「分かった。運が良かったな。そっち方面には知り合いがいる。弟には事を荒立てないように、穏便に言い聞かせて貰おう」
「『そっち』と言うのは、名古屋にですか? 法曹界にですか?」
「両方だ」
 ニヤリと不穏な笑みを向けてきた清人に肝を冷やしながら、沙織は頭を下げた。


「……くれぐれも、弟の心身とキャリアに傷が付かない程度にお願いします」
「任せておけ。それにそもそも友之のやらかした事の後始末だからな。これに関しては、無償で引き受けてやる」
「ありがとうございます」
(もの凄く不安だけど、背に腹は変えられない……。人の話を聞かない、あんたが悪いんだからね!?)
 一応礼を述べながらも、沙織は心の中で薫を叱り付けつつ、目の前の人物を頼った事を早くも後悔し始めていた。





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