酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(30)転機

「失礼します」
 仕事納めの翌日、電話で教えて貰った病院に出向いた友之は、念の為、受付で病室を確認してからそこに向かった。


「教授……」
 軽いノックの後、その個室に足を踏み入れた彼は、電話を受けてから想像していた以上に衰弱している、三年ぶりに再会した恩師の姿を認め、思わず絶句した。しかし彼の戸惑いを予想していた寺崎は、経鼻チューブや点滴の管を身体から伸ばしながら明るく笑う。


「久しぶりだな、松原君。元気そうで何よりだ。こっちは色々と、ガタがきてしまったが」
 室内には彼と同年輩の男性が一人と女性が二人存在し、彼らに促されて枕元に一番近い椅子に腰を下ろした友之は、何とか動揺を抑えながら恩師に話しかけた。


「教授が入院されている事を、妹さんから聞いて驚きました。いつからですか?」
「もう、半年位になるかな? 今回は、無理を言ってすまない。君の携帯番号の方は自宅のアドレス帳に控えてあったから、すぐに分かる自宅の方に連絡を入れて貰ったんだ。いきなり妹から自宅に電話が入って、当惑しただろう」
「確かに驚きましたが、教授が無駄な事をするとは思えません」
 真顔で友之が主張すると、ここで寺崎は少々茶化すように笑った。


「ところで松原君。私はもう教授ではなくて、元教授なんだが?」
「私にとって恩師と言う言葉に当てはまる方は、教授しかいらっしゃいませんので」
「相変わらず、変なところで融通が利かないな」
「ところでわざわざ連絡を下さったからには、私に何か至急か、もしくは重要な話があるのではありませんか?」
 苦笑した彼に、友之が探るように言い出すと、寺崎は笑いを消して歩く頷いてみせる。


「両方なのだが……、まずは皆を紹介しようか。そっちは妹二人で、右が貝田朝霞で、左が鳥栖弥生だ」
「初めまして」
 唐突に始まった紹介にも余計な口を挟まず、友之は女性達に向かって頭を下げた。彼女達も頷き返す中、友之とはベッドを挟んで反対側の椅子に座っている男性を、寺崎が紹介する。


「それから、私の長年の友人の、菅生幸信だ。弁護士をしている。実は彼は寧子とは遠縁で、彼に彼女と引き合わされたんだ」
「……そうでしたか」
 唐突に自身の汚点に繋がる名前が出てきた為、友之の心の中に苦い思いが沸き上がったが、彼は辛うじてそれを面に出さずに、紹介された相手に軽く頭を下げた。菅生も無言で頭を下げると、寺崎が取り成すように話を続ける。


「寧子が出て行ってからは彼女を親戚中で罵倒しまくって、私に合わせる顔がないから絶縁させて欲しいと言ってきたが、彼には全く責任は無いからな。あれ以降も、ずっと友人付き合いを続けている」
「だが私の妻が法事か何かの席で、彼が入院している事を不特定多数の人間に、喋ってしまったらしい。人伝に伝わって、あの最低女の耳にも入ったらしく、今頃になって寺崎に連絡を入れてきたんだ」
 盛大に顔を顰めながら菅生が言い出した内容を聞いて、友之も表情を険しくした。


「……彼女が? 何と言ってきたと?」
「恥知らずにも『彼とは別れた。あなたに酷い事をしたと、心から反省している。だからあなたのお世話をさせて欲しい』とか言ってきている」
「何を今更! あの後、教授がどれだけ学内で好奇の的になって、面目を潰したと思っている! ふざけるな!」
 寺崎の話を聞いて、思わず怒りに任せて吐き捨てた友之に、菅生は口調だけは穏やかに尋ねた。


「君が在学中の話で、大体の経緯を知っているそうだね」
「ええ、卒業を控えた時期に騒ぎを起こしてすまないと、教室の配属生徒全員に向かって、教授が頭を下げましたから。勿論、教授を責める人間など、誰一人としていませんでしたが」
 そこで寺崎が、唐突に口を挟んでくる。


「実は私は二ヶ月程前に、余命宣告を受けてね。あと半年ほどだと言われた。身体が駄目になっても、頭はしっかりしていて良かったよ。逆だったら目も当てられない」
「…………」
「それで、今まで清廉潔白に生きてきたつもりだから、最後の最後くらいちょっとした嫌がらせと意趣返しをしても、閻魔様はお目こぼししてくれるかと思うんだ」
「……教授?」
 いきなりの余命宣告にも驚いたが、寺崎が続けて微笑みながら口にした内容を聞いて、友之は困惑した表情になった。その反応が面白かったのか、寺崎が笑みを深めながら話を続ける。


「寧子と結婚していた当時、私が管理していた不動産は、介護老人保健施設に入っていた父の名義でね。七年前に父が亡くなった時、家を除く全てを妹達に相続させたんだ。私には妻子はいないから、その方が後々面倒が無いと思ってね。だが寧子は殆どを私が相続したと、勝手に思い込んでいるらしい。一度ここで顔を合わせた時、言葉の端々から『後の事は任せてくれ』と、色々滲み出ていたよ。私が長くない事も知っているみたいだから、尚更だな」
「ふざけるな……」
 怒りのあまり友之は歯ぎしりしたが、ここで菅生が予想外の事を言い出した。


「だが実際は、あの纏まった広さのある敷地の半分も、既に私が購入してそのままにしているだけだし、残りはリバースモーゲージ利用で、大学への纏まった寄付金の他、彼の生活費と治療費に充てているんだ」
「だから私が死んだ後、家や敷地を勝手に売却できない。借入金の返済に充てる現金も無いし、そのまま銀行に所有権が移る筈だ。私が君に手伝って欲しい事が、今の話だけで分かるかな?」
 まるで講義中に生徒に質問するような気軽さで、寺崎が問いかけると、友之が考えたのは一瞬だけで、すぐに不敵な笑みで応じた。


「なるほど……、そういう事ですか。お話は分かりました。それでは早急に、口が固くてこちらの意図を汲んでくれる、弁護士と司法書士を手配します。菅生さんは、妹さん側の代理人になって下さい。教授にはお子さんはいらっしゃいませんし、そうなると法定相続人は、配偶者の他は妹さん二人になりますよね?」
「ああ、そうなるな」
「いや、しかし松原君。君は何をする事になるか、本当に分かって言っているのか?」
 完全に自分の意を汲み取り、さくさくと話を進めた友之を見て、寺崎はできの良い生徒を褒めるように頷いたが、あっさり引き受ける返答をよこした彼に、菅生が狼狽気味に確認を入れた。しかし友之は、真剣な表情で頷く。


「勿論です。彼女に効率良く借金を背負わせる為に、どうしても誘導役が必要ですが、親戚筋でこれまで散々彼女を罵倒していたあなたが急に好意的に接したら、確実に疑念を抱かれます。それに下手をしたら法に抵触する可能性がある立ち回りを、弁護士のあなたにはさせられません」
「だが……、それを言ったら君も同じだろう。将来有望な若者に、危ない橋を渡らせるわけには……」
「教授を裏切って大恥をかかせた彼女に対して、未だに怒りを覚えているのは、あなた達だけではありません。私を信用して、諸々を任せて貰えませんか?」
 その真摯な訴えに菅生が反応する前に、これまで黙ってやり取りを聞いていた寺崎の妹達が、揃って友之に向かって頭を下げた。


「分かりました。松原さん、本来部外者のあなたにご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします」
「兄があなたなら、信用できると申しましたので。堅物の兄の最後の望みを叶える為に、お力を貸して下さい」
「勿論です。それでは連絡先の交換を。それから今後の方針が決まっているなら、教えて頂けますか?」
「ええ、構いません」
「それから、別れたとは口で言っていても、例の男とは籍を抜いただけで、実は今でも一緒にいるとか、それとは別の他の男が纏わりついて、入れ知恵している可能性も考えられます。そちらで特に調べていなければ、私の方で興信所に調査させますが」
 抜け目なく指摘してきた友之に、菅生も感嘆の表情を見せながら腹を括った。


「そこまでは、考えていなかったな……。私もまだまだ、考えが甘いらしい。分かった、宜しく頼むよ。そちらの費用は私が出すから、遠慮無く請求書を回してくれ」
「分かりました。すぐに手配します」
 そんな風に話が纏まった所で、寺崎が申し訳なさそうに声をかけてくる。


「すまないな、松原君。面倒をかけるが、君以上にあれと面識があって目端が利いて、秘密を厳守してくれそうな人間が思い当たらなくてね」
「先程も言いましたが、恩師と呼べるのは教授だけですから、声をかけて貰えて嬉しいです。後の事は任せて下さい」
「……ああ、宜しく頼むよ。やはり、こんな事を頼めるのは君だけだ」
 安堵の表情になった寺崎に友之も微笑み返し、それからは菅生と幾つかの事について意見を交わしてから、また見舞いに来る事を告げて、長居をせずに病室から辞去した。そして廊下を数歩歩いてから、何気無く友之が足を止め、今出て来たばかりの病室を振り返る。


「やはりあなたには、分かっていましたか?」
 何となく含みのある表情だった恩師の顔を思い出した友之は、無意識に呟いたが、すぐに気を取り直してその場を歩き去った。




「友之さん? ひょっとして、酢の物って駄目でした?」
「あ、ああ……、いや、大丈夫だ。食べられないとか、苦手な物は無いから。ちょっと考え事をしていただけで」
「そうですか?」
 病院を出たその足で、沙織のマンションにやって来た友之だったが、恩師の衰弱した様子が思った以上にショックだったのと、持ち掛けられた話に関して考え込むことがしばしばで、沙織の疑念を煽っていた。


(何だか、今日はもの凄く変。何なんだろう? いつになく考え込んでいるし、今日から休みなのに昼からおしかけて来なかったし)
 夕方近きになって手ぶらで現れたと思ったら、明らかに心ここにあらずといった感じの友之に、沙織ははっきりと異常を感じていた。夕食を出してからもその通りで、沙織は食べ終わってからきちんと追及する事を決意した。


「はい、どうぞ」
 友之が食後にソファーに座って寛いでいると、沙織が両手に同型のマグカップを持って現れ、片方を彼の前に置いた。
「ありがとう。……ああ、これだな。例のカップは」
「そうです。どうですか?」
 促されてそれを手にしてみた友之は、そのデザインに加えて、使い勝手の良さに満足する。


「本当に軽いし、持ち易いな。気に入ったよ」
「それは良かったです。ところで今日日中に、何があったんですか? 仕事関係じゃありませんよね? 昨日の仕事納めまでは、全く普通でしたし」
 さくっと斬り込まれた友之は、内心で軽く動揺しながらも、普通を装いながら答えた。


「久しぶりに連絡を貰って……、今日、大学時代の恩師の見舞いに行って来た」
「その方が、体調を崩されたんですか?」
「余命四ヶ月らしい」
「それは……」
 咄嗟に次にかける言葉が見つからなかった沙織が、不自然に口を閉ざすと、友之が神妙に謝ってきた。


「それでちょっと、色々考えていた。俺の様子が変で、気を遣わせたのなら悪かった」
「それは構いませんが……」
「何だ?」
「単に恩師の姿を目の当たりにして、神妙に生と死に関して考えたってだけでは無さそうですし、他に何かあるんですか?」
「…………」
 さらりと沙織が核心に触れてきた為、今度は友之が口を噤んだ。その反応を見て、沙織が僅かに首を傾げながら、問いを重ねる。


「他には漏らしませんよ?」
「……何でもない」
 あくまでもしらを切った友之を、沙織はそれ以上問い詰める真似はせずに、あっさりと話題を変えてしまった。


「それなら、そういう事にしておきましょうか。ところで明日の朝食は、ご飯とパン、どちらが良いですか?」
「朝食……」
「どうかしましたか?」
 些か茫然とした口調で呟いた彼を見て、沙織が怪訝な顔で声をかけると、友之は徐々に笑いを堪えるような表情になりながら答えた。


「いや、以前言っていただろう? 友達から『不動の安定感で落ち着く』と言われて、色々愚痴を聞かされたり、相談を持ちかけられたりするとか」
「ええ、そうですね。それが?」
「その通りだなと思って」
(何を言ってるんだか。でもおとなしく隠してる事を吐くタイプじゃないし、ここは一つ、景気付け位はしておいた方が良いのかな?)
 何やら一人で納得し、くすくすと笑い出した友之を見る限りいつもの状態に戻ったようで、沙織は一応安心した。そして続けて、ちょっとした提案を口にする。


「ところで、友之さん。私、実家には大晦日に帰って、三日に戻るつもりです」
「そうか。ゆっくりしてこい」
「ですから明日は丸一日空いてますから、景気付けにどこか行きませんか?」
「景気付け、か……」
「気分転換を兼ねて普段は行かないような、ちょっと変わった所に行ってみるとか、今まで行きそびれていた所に行ってみるとか」
 少し考え込む表情になった友之だったが、沙織がそう口にした途端、すかさず言い出した。


「それなら、沙織がこの前母さんと行った、ゴスロリコスプレの」
「却下!」
「ちょっとした冗談だから、そう怒るな。そうだな……、都内で行った事が無い所……」
 即座に怒りの形相で断ってきた沙織に思わず笑ってから、友之は真剣な顔で考え込んだ。


「友之さんなら、めぼしい観光名所とかデートスポットとか、漏れなく押さえていそうですけどね。因みに、スカイツリーとかには行きました?」
「ああ、行った」
「そうですよね……。年末でお寺も色々忙しいから、写経とかはさせて貰えなさそうだし……」
「どうしてここで写経になる。それはともかくスカイツリーで、行きそびれていた場所を思い出した」
「どこですか?」
「まだ東京タワーに行った事がない」
「…………はい?」
「どうかしたのか?」
 大真面目に言われた内容を聞いて、沙織は自分の耳を疑った。そして友之が、固まった彼女を見て不思議そうに問い返したが、それで我に返った沙織から、盛大に非難の声を浴びせられる。


「友之さん! あなた東京に生まれ育って何年ですか!? とっくに三十過ぎてるのに、今まで、一度も、東京タワーに行った事が無い!? ありえない!!」
「あ、いや……、近くを通った時に見た事はあるが」
「そりゃあ近くを通れば、誰だって見ますよね!? 小学生の頃、遠足とか社会見学とかで、あそこに行かなかったんですか?」
 そう問い詰められた友之は真剣に考え込んだが、答えは変わらなかった。


「……記憶が無いな。やっぱり、他の所に行っていると思う。公園とか横浜とか鎌倉とか」
「社長や真由美さんに、連れて行って貰ったりとかは」
「都内だから行こうと思えばいつでも行けるし、敢えて連れて行こうとは思わなかったのかもしれない」
「こんな生粋の都民とも思えない都民が居たなんて、信じられない……」
「悪かったな」
 まるで可哀想なものを見るような目つきで沙織にコメントされた友之は、憮然とした表情になった。しかし沙織はここで話を終わらせるつもりはさらさら無く、語気強く訴え始める。


「ええ、非常識ですよ! 東京タワーは文字通り、東京のシンボルタワーですよ! 高さと電波塔主送信所の役割をスカイツリーに譲っても、その存在意義と価値は、微塵も見劣りしたり色褪せません!」
「……何か東京タワーに、思い入れでもあるのか?」
「あれは日本の高度成長期当時の最先端技術と、職人の血と汗と涙の結晶! あの地面から力強くそそり立つ雄姿を見上げて、惚れ惚れしないんですか!?」
「いや……、技術の粋を集めた最高傑作なのは理解しているが、あまりそこまでは……」
 少々引きながら友之が応じると、沙織がそのままの勢いで言い募った。


「親が離婚して名古屋に行って、小学生の時に上京したついでに、初めて東京タワーに連れて行って貰った時の、あの感動! 思わず脚にすがり付いて撫で回したいと思って、コンクリートの台座に一直線に駆け出したら、豊に阻止されたんですよ! 全く、無粋なんだから! 子供だったら、大目に見て貰えたかもしれないのに! バカ豊!」
「あそこに乗るのは、幾ら何でも無理じゃないのか?」
「為せば成る」
 きっぱりと言い切った沙織を見て、友之は一瞬遠い目をしてしまった。


「目が怖いぞ。お兄さんは本当に、小さい頃から苦労が絶えなかったろうな……。それに『抱き付いてなで回したい』って、同じようなフレーズを以前聞いたが、俺と東京タワーの」
「東京タワーです。スケールが違い過ぎます。比べ物になりません」
「…………うん、そうだろうな。スケールが違い過ぎる。沙織は本当に、安定のブレなさだな」
 比較の対象にすらならないと、真顔で断言された友之は、溜め息を吐いて愚痴っぽい呟きを漏らした。そんな彼に、沙織が決意漲る表情で告げる。


「分かりました。それでは明日一日かけて、友之さんに東京タワーと付属施設の魅力を、隅々まで解説してあげましょう。きっと色々開眼できる事、請け合いですよ?」
「そうか……、じゃあ沙織に任せてみるか」
「お任せ下さい。関係者以外立ち入り禁止の場所以外、全て案内してあげます」
 自信満々の笑顔で請け負った沙織に、友之も笑いを誘われて素直に頷いた。


(生物としては猫に負けて、無機物まで含めたら東京タワーにも負けたか。俺は自分で思っているより、大して魅力が無いらしい)
 内心でそんな自嘲的な事を考えながらも、つい先程までの鬱屈した気持ちが綺麗に消え去ってしまった事を自覚した友之は、益々笑みを深めたのだった。





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